episode21 春眠、だから夢を見たのだ(弐)

 目が覚めて、目に入った天井に戸惑いながらユメノは飛び起きる。

「……そっか」

 ここは我が家ではなく、泊まりに来たホテルだ。天井に見覚えがなくても仕方がない。「起きたのか」と声をかけられて顔を上げると、タイラが苦笑しながらユメノの横あたりを指さしていた。

「足、どけてやれよ」

 気づけばユメノの足が、ノゾムの腹の上に乗っている。驚いて、逃げるように退けた。タイラは頭をかきながら立ち上がる。「お前らすやすや寝やがって、腹は減らないのかね」と言い、カツトシの頭を軽く叩いた。びくりと体を震わせたカツトシは、すぐに起き上がってきょろきょろと辺りを見る。

「あらぁ? おはよー、ユメノちゃーん」

「夜だよ、アイちゃん」

 呆れた顔をして、タイラが『そいつら起こせ』という手ぶりをしてみせた。ユメノとカツトシは、それぞれ仲間たちを起こす。都が目をこすりながら、「何時かしら」と寝ぼけて尋ねた。ベッドに飛び乗って腰を下ろしたタイラが、「もう夕飯の時間だよ、先生」なんてあっけらかんと言う。

「よるごはん、なんですか」とユウキはあくびをした。そうだな、とタイラが腕組みをして遠くを見る。

「このホテルにもレストランはあるが……外に食べに行くか?」

「何があるの」

「海の近くなんだから、なんでもあるだろ」

 仲間たちも、迷いながらなんとなく外を眺めた。彼らの総意が外食でまとまりかけたその時である。部屋の、電話のベルが鳴った。つかつかと歩いていき、タイラが電話をとる。しばらく黙って相手の話を聞いていたが、「ん? なんだ、それ」と言いながらいきなりクローゼットらしき戸を片手で開け放った。おろしたてのように綺麗なスーツとドレスが並んでいる。「余計なお世話だと言っておけ」と顔をしかめたタイラを見て、いきなりユメノが受話器を強奪する。

「おま、え……何してんだ馬鹿」

「もっしもーし! ねえ、この服なに?」

 電話の向こうで、戸惑いがちな『友坂様でしょうか』と簡単に確認された。「ユメノだけど」と答えれば、しばらく沈黙が続く。ユメノは慌てて「ま、友坂くんと友達だから良くない?」と取ってつける。

「うちの若松からのサービスでございます。そちらをお召しになって、レストランで食事をするといい……と。本日はマジックショーもっておりますので、ぜひ』

「えっ、やったあ! さすがオーナーさん太っ腹ぁ」

 ユメノは勝手に受話器を置き、仲間たちを振り返った。

「ドレス着てレストラン行こ! マジックショーやるってさ!」

 仲間たちは色めき立ち、一斉にクローゼットの前に立つ。タイラが少し不服そうに、「お前らそんなにマジックなんか見たかったのか? そんなもの、いつだって見せてやるのにな」と肩をすくめた。それから仲間たちをかき分けてクローゼットの中に身を乗り出し、「あー、オーナーの気持ち悪いところだ」と服を振り分け始める。

「あのおっさん、目測だけでおおよそのサイズがわかるし尚且つコーディネートだけが趣味のようなところあるもんな。ほら、着てみろよ、ぴったりすぎて気持ち悪いから」

 大喜びで服を脱ごうとしたユメノが、はたと気づいてタイラたちを見る。それから、腰に手を当ててその背中を強く押した。

 かくして服を持ったまま部屋の外に追い出された男たちは、呆然と部屋のドアを見つめる。やがてノゾムが指をさして、「こっちの部屋、オレらのですよね」と確認した。

「ああ……しかし、追い出されちまった、な?」

 言いながらタイラは、不意にうつむいて手で口元を隠す。ノゾムとカツトシがその顔を覗き込めば、タイラはただ笑っていた。「――――いや、理不尽も極めればなかなか」と言って一層笑う。

「なに笑ってんすか! 大体あんたらがユメノちゃんに甘いんですよ」

「いいのよ! あの自由なところがユメノちゃんのいいところなんだから! あんたこそいつもユメノちゃんに鼻の下伸ばしちゃって」

「お前らな、醜い争いはやめろ。どうせ惚れたほうが負けだぞ」

 カツトシが何か不満を言おうと口を開いて、しかしふと気づいたように周りを見る。「あれ、ユウキは?」という一言で、ノゾムもタイラも首をかしげながらまた部屋のドアに視線を移した。

 中から、「ひとりでぬげますよ!」とユウキの声が聞こえる。

「……小学生になりたい」

「ノゾム、思ったことを何でも口にしていいわけじゃねえんだぞ」




☮☮☮




 薄紅うすくれないのフリルドレスを着たユメノが、スーツ姿のタイラの前に立つ。どうだ、と言いたげな表情の少女の前で、タイラは真顔のまま柏手のようにポンと一つ手を叩いた。「よっ」といきなり声をあげる。そのまま両手を広げ、「馬子にも衣裳!」とユメノのほうを見もせずに言ってのけた。素早く、ユメノはその足を思いきり蹴る。

「いってえ、いってえ。褒めてやったんだろうが」

「なーにーが、まごにもいしょうだよ! この、スーツ似合わな男が」

「前から思ってたんだけど、お前のあだ名の付け方って一周回ってセンスあるよな」

 ふん、と思い切り背を向けたユメノがカツトシのほうへ走って行く。その様子を見届けて、タイラはちらりと都たちを見た。淡いグリーンのドレスに、白いカーディガンを羽織っている都と、やはり緑色のスカートをはいた実結である。

「素直じゃないのね?」と都は言った。「俺はいつでも素直だよ」とタイラが答える。目をそらしながら都と実結を指さして、「綺麗だ」とそっけなく付け足した。

 そんなタイラに近づいてきたノゾムが、「このスーツ買い取ってくださいよ」とタイラに囁く。

「ダメだよお前……金持ちが用意したスーツなんて何十万するかわかんねえよ。ユメノですら『このドレスほしい』とかなんとか言ってないんだから、お前は我慢しろ」

「ユウキも欲しいって言ってましたよ」

「あれは正直、買ってやってもいいとは思った」

「差別よくない」

 ユウキはといえば都たちに、まだ着られている感の否めないジャケットを嬉しそうに自慢していた。「あんたが欲しいのは服じゃなくて、あんな嬉しそうな顔してるユウキでしょ」とは言わないまま、それがどういう意味を持つのかもわからないまま、ノゾムはタイラに背を向ける。テーブルにはすでに、食事が載っているようだった。

 椅子にドカッと腰かけて、タイラが豪勢な料理を眺める。前方では、マジックショーが始まっていた。

 すでに、仲間たちは各々食事を始めている。ユメノとカツトシは以前荒木章から厳しく仕込まれたのだろう、作法にも特に困っている様子はなかった。ただノゾムとユウキが、困った顔をして周りを見ながら迷い迷い料理を口に運んでいる。その様子を、タイラはぼうっと見ていた。

「食べないの?」とユメノはタイラに尋ねる。

「……焼き鳥食いてえなぁ」とタイラがため息をついた。それから、観念したようにナイフとフォークを両手に持つ。不貞腐れたように黙々と食べるタイラの動きは、どこか機械のようにぎこちなかった。そんなタイラの様子と、ごく自然に綺麗な所作で食事をしている都を見比べ、カツトシが馬鹿にしたように笑う。

「育ちが出るわねー」

 タイラはふと手を止めて、「文化の違いだ。お前が一番解せよ」とカツトシを見た。キョトンとしたカツトシはやがてゆっくりとうなづいて「確かに、そうね」ときまり悪そうに言う。ほっと緊張を解いたのは、ノゾムとユウキだ。

 すぐに口元を緩めたタイラが、片肘をついてナイフを離した。フォークで思い切り肉を刺し、口に運ぶ。

「くだらねえ、飯を食うぐらいで……」

 すっと背筋を伸ばした都が、「お行儀が悪い」と小声でタイラを諫めた。タイラは眉をひそめて「なら手で食います、そういう文化なので」と同じく小声で言い返す。

「そう……では私は、料理をあなたの口元まで運んであげます。そういう文化なので」

「どこの文化だよ」

「はい、口を開けて。こぼれてしまうわ」

 そう言って都が、スプーンにスープをのせてタイラの口元に近づけた。それをじっと見てから、いきなりタイラは背筋を伸ばす。

「わかった、わかった。1つの文化に統一しよう、そうしよう。俺はなんとかこのフォークとナイフの二刀流で行儀よく飯を食う文化に挑戦してみるから、君も他人の食事に手出ししない文化に戻ってくれ」

「そうね、フォーマルも悪くないわ。お互いの妥協点としては」

 それから2人は顔を見合わせ、何かこらえきれなくなったように少し笑った。呆気にとられている仲間たちに気づき、タイラはマジックショーを指で示す。「見てねえのか、何のために来たんだよ」と言ってやれば、ユメノやユウキがハッとしてそちらを注視し始めた。

 こんなところでショウをやるだけあって、手際のいい手品師だ。初歩的なトランプマジックでも、客を上手く巻き込んで盛り上げている。普段そういったものを疑って見るノゾムでさえ、素直に上手いと思うほどだった。

「仕掛けはなんとなくわかりそうな感じですけど、見えないっすね」

「……そうだな」

 いつの間にか食事を終えているタイラは、腕組みしながら興味もなさそうに言う。その反応がなんだか面白くなくて、ノゾムはぐいっと顔を寄せた。

「そういえばさっき、『マジックなら俺が見せてやる』とかなんとか言ってましたよね。ほんとにできるんですか」

「手品ぐらいならできる。まあ手品ができるっていうのと、ああしてショウができるっていうのはまた別だろうけどな」

「むしろなぜできるのか」

 ちょっと首をかしげてタイラは、ノゾムを見る。「お前、手錠外せる?」といきなり尋ねた。ノゾムは首を横に振る。

「イリュージョン系のステージマジックで一番初歩的なもんが手錠外しと縄抜けだ」

「初歩的なんですか、それ」

「そうだ、それが出来なきゃ脱出ネタはほとんどできない。基本だ」

 そしてタイラはやわらかく笑い、「人生に行き詰まったら、なるべく派手な手品師に教えを乞え。今後の人生に必ず役立つ」と目を細めた。ノゾムは一瞬だけ虚を突かれて、それからなるほどと思う。

「あんまり役立たせたくないっすね」

「冗談だ、手品なんて仕込みをしない限り現実では生きないからな。ただ、まあ……器用にはなる」

 周囲からドッと拍手が沸いた。ノゾムが驚いて前を見れば、ショウが終わったらしい。マジシャンが胸を張ってお辞儀をし、引っ込んでいくところだった。見逃したな、とノゾムは少し残念に思う。ふと、いつからかユメノがじっとこちらを見ていることに気付いた。『こちら』というよりは、タイラのほうだ。

「見せてよ、マジック」とユメノは言う。どうやらずっと話を聞いていたらしい。タイラは意外そうな顔をして、しかしあっさりと「いいぞ」なんて肩をすくめる。

「お前、小銭とか持ってる?」

「持ってるけど」

 自然な仕草で手のひらを差し出したタイラに警戒しながら、ユメノが小銭を一つ渡した。それを確認もせずに、タイラは指で弾く。思いのほか高く飛んだコインに、全員が釘付けになった。何も言わずに空中でキャッチして見せて、タイラはそれをまたユメノに差し出す。「訳わかんないんだけど」と言いながら受け取ろうとしたユメノは、タイラの手のひらを見て「あれ、ない」と呟いた。先ほど確かにキャッチしていたように見えたコインが、タイラの手の上にはない。少し驚いたような顔をしていたユメノだったが、「掴み損ねたんでしょ」と少し怒って足元を見た。

「お前はいい客だな」と苦笑して、タイラは立ち上がる。

「は? どこ行くつもり?」

「面白いところがあるらしいからな、ちょっと見てくるだけだ。俺にだって遊ばせろ」

 言いながらタイラは背を向けた。そのままジャケットのポケットに両手を突っ込んで歩いて行ってしまう。去り際に「手品というよりは詐欺だったかな?」とひとりごちる声を、ノゾムは聞いた。「金返せ!」とその背中にユメノが叫ぶ。

 やがてユウキが、「ユメノちゃん」と言いながらユメノの服を引っ張った。ユメノは、ユウキが指さすものを見て思わず目を丸くする。

 空になった自分のグラスの中で、見覚えのあるコインが音もなく回転し続けていた。それからようやく、グラスに内側からぶつかりつつ音を立てて動きを止める。

 簡単な話だ。コインの行方を不透明にし、隙を見て丁寧にグラスの中で躍らせるだけ。種も、仕掛けもない。ただ『素早く騙した』だけだ。確かに詐欺に近い。それでもユメノは――――本人は決して認めないだろうが――――目を輝かせてコインを見つめていた。

 なるほど、タイラの言う通りなのだろう。『いい客』だ。




☮☮☮




「眠くない……」

 体を起こして、ユメノはため息をつく。厚いカーテンで閉ざされていて月の光がまぶしいはずもないが、何とはなしに窓のほうを見た。思えば、一番長く昼寝をしていたのはユメノだ。睡眠時間は足りている。隣のベッドで寝ている都と実結を起こさないように静かに、ユメノはベッドから降りた。

 外を散歩でもすれば気分も変わるだろうと、そのまま部屋を出る。せっかく海の近くに来たのだから、夜景としての海も堪能していこうという思いもあった。

 廊下は当たり前のように明るい。トイレに寄ってから、と思って遠回りをすると、昼間に使っていたエレベーターが見つからない。それどころか自分の部屋にもたどり着けないありさまだ。

(まあいっか、階段あるし)

 どこか不自然に暗い階段を、ユメノは降りていく。それはスタッフ専用の階段ではあったのだけれど、そんなことは気にもせず。

(3階、2階……あれ?)

 不意にユメノは首をかしげた。1階まで降りてきたつもりだったが、まだ階段は続いている。数え間違えたのだろうか、どこかに階数が表示されているプレートでもあると思ったのだが、暗くて見えない。狐につままれたような顔をして、ユメノはじっと行く末を見ていた。しかしすぐに、苦笑しながらも足を進める。自分が寝ぼけているものと疑わなかった。ユメノはこのホテルに、地下があることを知らなかったのだ。

 その階に足を踏み入れた瞬間に、自分が場違いな場所に出てしまったことを知った。軽やかな熱気、複数の音楽が入り混じった不協和音、時折上がる笑い声は全て大人のものだ。地下1階、ここはひとつの街。みな何かに酔いながら遊ぶ、カジノである。

 すぐに引き返そうとして、ユメノはまた階段に足を乗せた。と、いきなり「お客様」と呼びかけられて飛び上がる。

「そちらはスタッフオンリーでございます。お出口をお探しですか?」

 驚いて、ユメノは自分が下りてきた階段をまじまじと見た。どうりで、と納得する。

「ごめんなさい、すぐ帰りまっす」

 そそくさと立ち去るユメノに、それ以上スタッフも言ってはこなかった。帰ろうと前を向いたユメノの目に、よく知っている背中が飛び込んでくる。タイラだ。大きなルーレットを囲むようにして座っている集団の中に、タイラがいる。そーっと近づいて、ユメノはその背中からルーレットを見た。

 ひどく静かな低い声で、平和一が「赤」と呟く。みなそれぞれ好き勝手に賭ける声にかき消されそうなほど静かな声だ。ルーレットが回った。何人かがベットを変更する。タイラは何も言わない。ベルが2回鳴った。ボールが落ちた場所は、赤の18だ。

 それから2回、同じようにタイラは色の指定だけを行った。3回目に、隣の客が「あんたさっきから全部当たってるじゃないか」と他の客にも聞こえるように耳打ちする。タイラは肩をすくめて、「そういうのは言わない約束だぜ」とおどけた。

「でも2色当てだけじゃつまらんだろ、あんた初心者かい」

「田舎から出てきたもんでね」

「これも記念だ、もっと大きな賭けに出てみなよ、悪いことは言わないから」

 腕を組んだタイラが、冷ややかな顔をして持っていたチップをすべて黒の17に置く。周りの客が、少しざわついた。絡んだ客も、「いきなり1目とは極端な兄ちゃんだな」と目をむく。

「田舎者なもんで……あんたは賭けないのか?」

 言われた男は、ハッとして迷った末に赤の21にチップを置いた。自分から煽った手前、日和った賭け方はできなかったのだろう。タイラが満足そうな顔をしたのが、ユメノからは見えた。ルーレットは回る。どちらも当たりはしないだろうと周りの客は高をくくって、ただ自分の賭け金がどうなるかだけをまじまじと見ていた。

「変えるか」と問われたタイラが、「変えようと思っていたが今日はツイてる」なんてつぶやく。それから段々とボールの動きが鈍くなり、ベルが2度鳴った。止まった場所は――――

 思わず、ユメノは「うわっ……」と声に出す。止まった場所は、『黒の17』だ。驚きもせずに振り向いたタイラが、ユメノに向かって「いいカモ見つけちゃった」と嬉しそうに唇の動きだけで報告した。それからふと真顔になり、ユメノの額に手を伸ばして軽く弾く。

「何でここにいるんだよ、お前。早く部屋に戻れ。未成年だろ」

「いったぁ……来たくて来たんじゃないよ」

 椅子の上で半分胡坐をかいて、タイラは犬でも追い払うような仕草をした。腹が立ったが、ユメノも帰ろうとは思っていたのでぶうたれながらも背を向ける。そんなユメノに、「待ってろ」とタイラは声をかけた。「送ってやるから」と。しかしそんないつになるのかわからない約束を待っているわけにもいかなかったので、「一人で帰れるから」と言い残しユメノは歩き出した。

 待っていればよかったと後悔したのは、酒臭い男に話しかけられた時だ。はだけたシャツをこれ見よがしに広げて、男はグラスを片手に近づいてきた。

「飲んでる?」

 まず、ファーストコンタクトがそれだ。ユメノが面倒そうな顔をすると、「ダメだよ飲まなきゃ」と根拠なく断じてくる。勧められた酒をうっかりという体で落とすと、いきなり強引に肩を抱かれた。

「こういうところにせっかく来たんだからさ、飲まなきゃ。楽しくないよ」

「あっ、そういうのいいんで。ほんと、あんたみたいなの充分なんで」

「えー? どういうことかなぁ、それ」

 男は楽しげに、頬を寄せてくる。あまりの気持ち悪さに力が抜けた。「キモイ」と思わずつぶやけば、さすがに男も眉をひそめて「は?」と低い声を出す。

「いやだから、キモイって。言動すべてキモイ。離しておじさん」

「ああ……ああ、そういうこと言っちゃう子なわけか。最近の子って生意気だよねえ。そういう生意気な子のほうが夜は楽しいんだけどねえ」

 殴ってやってもよかった。しかしそれでは騒ぎになることは免れない。正直、ユメノとしてはこの場にいることがすでに後ろめたいのだ。できれば静かに帰りたかった。だからここは下手に出て、と思いながら男を上目遣いで見る。

「ねえわかったよ。大人しくしてるから、ついてってあげるから、とりあえず肩は離してくれる?」

 男が笑って離れた。その隙に、よーいどんとばかりに走り出す……つもりだった。

「ユメノちゃん!」

 自分を呼ぶ声に驚いて、ユメノは動きを止める。いきなりユメノの手を取ったのは、肩で息をするノゾムだった。呆気にとられたユメノだったが、すぐに我に返って「お前、どこから? っていうかなぜこのタイミングで?」と質問を重ねる。

「自分はそこから普通に入ってきただけっすよ……逆にユメノちゃん、どこから入ってきたんすか」

「いやどこから入ってきたのかとか関係なくない?」

「ユメノちゃんが聞いたんすよ」

 唐突に蚊帳の外に置かれた男が、苛ついたように距離を詰めた。誰だその男、とノゾムを指さす。ノゾムも男の存在を思い出したようで、「あんたこそ誰すか」と喧嘩腰で言った。

「大人に向かってなんだ、その言い方は」

「大人が女の子に手出しちゃいけないでしょ」

 相手の男は脅せば怯むと思っていたのだろう、少し鼻白んでノゾムを見る。当たり前だ、ノゾムだってユメノだって、もっと怖いものを知っているのだから。だが、それとこれとは別である。ユメノとしては、ここで騒ぎになったら困るだけだ。ノゾムの腕をつかんで、「いいから」と言おうとしたその時。

 音もなく後ろから歩いてきたタイラが、自然に男の肩に腕を回した。煙草の煙がゆっくりと天井に上る。タイラは煙草をそっと口から離して「おいおい、落ち着けよ。お前の声、フロア中に響いてたぞ」と男の耳元で囁いた。男は身を固め、いきなり静かになる。

 タイラは目を細めて、「そんなに女の子が好きならさ」と男の髪をなでた。

「女の子にしてやるよ……。な?」

 顔を青くした男が、震えながら「すみませんでした」とだけ口にする。いいよいいよ、と鷹揚にうなづいて見せたタイラは、しかし男の背中をバシバシ叩きながら奥の通路へ誘導し始めた。行先は、どうやら『VIP』と書かれた部屋だ。それを呆然と見るノゾムに、ユメノは一応「助けてくれてありがと」と言っておく。それからちょっと首をかしげて、「『女の子にする』ってどういう意味かな。女装でもさせるのかな」と尋ねれば、ノゾムはなぜか冷や汗をかきながら「さあ……?」とだけ答えた。




☮☮☮




 ノゾムが目を覚ますころには、もうタイラは起きてソファで新聞を読んでいた。この人はいつ寝ているんだろうと思いながら、何も言わずにノゾムもベッドから降りる。タイラが新聞から目を離さないまま、無言で手を上げた。傍らにはコーヒーカップが置いてある。カフェインの摂りすぎではないかと思った。

「先輩、」

「おはようノゾム」

「あのー……昨日の男の人って、結局……」

 どうなったのかと問いたかったが、タイラはといえば聞こえないふりのような無言を貫いている。やがて新聞をたたみながら、タイラは言った。

「あいつ、な。面白いこと教えてくれたよ」

「はあ……。いや、面白いことっていうか最終的にあの人の尻が無事なのか知りたいんすけど」

「もともと人間のケツは2つに割れてるだろ? 問題ねえよ」

「あれ、この人こんなに話が通じなかったっけな」

 そんな話をしているうちに、ユウキとカツトシがもぞもぞと動き出す。起きだしてきた2人に、タイラが「朝食はバイキングらしいぞ」と声をかけた。カツトシが寝ぼけながら「海賊バイキング?」と聞き返す。ユウキも目をこすり、「なんですか、料理の名前ですか?」と尋ねた。ふと、部屋のチャイムが鳴る。

「朝ごはん食べに行こうよー」

 ユメノの声だ。「いこうよー」と実結が真似して言うのも聞こえた。ということは、都も一緒に違いない。タイラ以外の男たちは顔を見合わせ、大急ぎで服を着替えた。

 昨日食事をしたレストランに行くと、すっかりバイキング形式に変わっていた。各々好きな料理を大皿に取り、勝手に食事を始める。

 四苦八苦しながらもナイフとフォークを駆使してローストビーフなど食べているユウキとノゾムを見て、都は静かに微笑した。

「ぼくはタイラよりもおぎょうぎがいいので!」とユウキは言う。

「あの人が上手くできないことなんて珍しすぎて、めちゃくちゃ超えるチャンスなので」とノゾムが難しい顔でナイフを見た。

 料理を持って戻ってきたタイラが、不思議そうな顔で「何の話だ?」と尋ねる。昨日のことなど忘れてしまったような顔だ。

 そんなことより、というようにユメノがタイラの皿を指さす。

「朝めっちゃ食べるタイプ?」

 確かにタイラの皿には、こんもりと肉やパンや魚や白米が載っていた。ちなみに5皿目である。正直、都も少し驚いていた。普段のタイラは人並みの食事しかとっていない。流石に小食というイメージはないが、かといってよく食べるイメージもなかった。

「そりゃあ……。夜食べてどうする、活動時間的にもったいないだろ。カロリーは朝摂って1日かけて消費するんだよ、考えればわかる」

 つまり彼にとって、昼食も夕食も間食であったのだ。そういえばタイラがあの酒場で朝食をとっているところを見たことがあるだろうか、と都は思い返す。食べていても、すぐに外に出たりしていた気はする。朝方不在のことが多いとは思っていたが、まさかいつも外でこれくらいの量を食べているのだろうか。確かにこの量を毎朝カツトシが用意していては、営業もままならないだろう。

 その清々しい食べっぷりに呆れ顔をしながら、ユメノが頬杖をついた。

「そんなにカロリーため込むってことは、何かするわけだ?」

「ん……そう、だな。それもそうだ、こんなに食う必要はなかった。つい、な」

 頭をかきながらも、タイラはパンを1欠片口に放り込む。ユメノは身を乗り出して、「じゃあプール行こ」と誘った。案外あっさりと、「いいぞ」とタイラが答える。『行くだけならな』が根底にある肯定だ。その返答を聞いて、ユメノはニヤリと笑う。

「じゃ、水着用意してるから! 早く来いよ!」

 言って、ユメノは立ち上がり走り出した。その様子をぼんやり見て、「プールにそこまで惹かれる要素があるのかね」とタイラがぽつり呟く。それからゆっくりと牛乳を飲み干して、「はしゃぎすぎないようにしろと言いたいところだが、明日には帰るからな。お前らもやりたいことはやっておけよ」と言い残して席を立った。




☮☮☮




 普段から週に3日は着ているようなミリタリージャケットを着込んで、タイラは仏頂面だ。その隣でノゾムが、浮き輪を膨らませている。

「なんで女性陣は来ないんだ」

「彼女らは色々やることがあるんでしょ」

「ユメノなんて誰よりも早く準備しに行ったんだぞ」

 騒がしいプールサイドに辟易としながら、タイラは腕を組んだ。遠くで、水着姿のカツトシが女の子に声を掛けられている。

「女の水着姿に対する反応の、正解がわからないんだよな」と、タイラは呟いた。カツトシの喋り方に、もはや男としては見られなくなった女の子たちを眺めながら。

「水着ってどう考えても下心を煽るコスチュームだろ。それを下心そのままに褒めると、あいつら怒るじゃんか。それならと思って、その美術的価値を評価して褒めると『あなたわかってないわ』とか拗ねるだろ。面倒なんだよな……いっそ貶すって手もあるか?」

 ないと思います、と言わないままノゾムは浮き輪を膨らまし続ける。ぜひ実践して嫌われてほしかった。そんなノゾムの様子を、タイラがじっと見ている。いつまで膨らませているんだ、という顔をしていたのがやがて無機質なものに変わっていった。

「ノゾム、お前なんで昨日あんな所にいたんだ?」

「自分は別に。面白そうだから見学してみただけっすよ」

「見学か……? いやな、ユメノはわかる。あいつは恐れを知らねえからな、そんでもって引きが強い・・・・・。むしろどこで出くわしてもまたかと思う。でもお前は」

 なんだかごまかしているのも馬鹿らしい気がして、ノゾムは真っすぐタイラを見ながら「あんたがいると思って」と言ってのける。タイラが瞬きをして、「お前は本当にタイラさんのことが好きだな」と苦笑した。

「別にそういうんじゃないっす。倒すためですよ、倒すため」

「何か収穫はあったか?」

「あんたの運の良さって、イカサマも入ってるんですかね」

「イカサマなんかするかよ、つまらなくなるだろ。俺は大抵運がいいんだ……まあルーレットは多少大人げなかったけどな。あれは見えるから」

 だから何も考えずに2色当てのほうが面白かったのになぁ、とタイラは嘆く。この人が遊んでいるだけで犠牲になる他人ひとは可哀想だな、とノゾムも心の中で嘆いた。

 ふと、タイラが顔を上げる。プールサイドを遠くから、ユメノが走ってくるところだった。スタッフから「走らないでくださーい」と言われ、ちょっと舌を出しながら「ごめんなさーい」と返している。ようやくタイラとノゾムの前に立って、「どうよ!」とユメノは笑った。

 柔らかな栗色の髪を一つに束ね、黒とピンクのフリルスカートをはいている。水着は桜色だ。大胆にへそを見せていて、昨日一度見ているはずのノゾムでさえ照れくさそうに目をそらした。

 頭から爪先まで眺めたタイラが、「フン」と鼻を鳴らす。先ほど言っていたことを本当に実践するつもりだろうかと、ノゾムは驚いて見た。冷ややかな表情のまま、タイラが口を開く。

「……………………。…………可愛い」

 全く表情とセリフが噛み合っていない。言いたかったことを、本音が飛び越してしまったような印象だ。ユメノが喜んで跳ねる。

「いっそ貶す作戦は?」とノゾムが小声で尋ねた。

「ちょっと貶すところがすぐに出てこなくて動揺してしまった」とタイラは真顔で答える。

 ユメノは不思議そうな顔をしながらも、「当たり前だろ、ユメノ様の水着姿にケチつけるやつなんて人間じゃないし!」と胸を張った。再度、思わずという風にタイラが「可愛い」と言った後で頭を抱える。面白がってノゾムは、「まだ頭を抱えるのは早いっすよ」と指さした。

 水着の上から大きめの白いTシャツを着た都が、人形のような白いワンピース姿の実結の手を引いて歩いてくるところだった。

「……ねえノゾムくん」

「はい」

「先生は昨日もあんな格好を?」

「Tシャツを着ることによってむしろイケナイ気持ちになるっていうあの格好ですか」

 あれはアウトだよな? とタイラがノゾムに耳打ちする。「いえ合法です」とノゾムは答えた。「あれがセーフなら俺の裸もセーフだよ」と血迷ったことを言いながらタイラは腕を組む。タイラが本当に裸にならないよう祈りながら、ノゾムは都に手を振って見せた。都は一瞬明るい表情をして、少し足を速める。

「ごめんなさい、遅くなってしまって」

「先生……その恰好は」

「売店で買ったのよ。ほら……この歳で水着姿を見られるのはやっぱり恥ずかしいから」

 言いながら都は、顔を赤くしてTシャツをぎゅっと掴んだ。なぜだかタイラはよろめいて、近くにいたユメノを後ろから抱きしめる形で体重をかける。「何すんだおっさん」と毒づくユメノに、「今日は天気がいいな」などと息も絶え絶えにコメントした。都が不安げに顔を寄せる。

「どうしたの、タイラ。もしかして気分が悪いの?」

「見てくれ先生、安心安定のユメノちゃんだ。可愛いだろ」

「……そうね?」

 当惑する都の後ろから、麦わら帽を被った実結がそっと顔を出した。ふふん、と胸を張ってタイラの前でくるくると回ってみせる。フリルのスカートがふんわりと揺れた。

 思わずという風に、タイラはノゾムにまた耳打ちをする。

「可愛いに可愛いをかけちゃいけないんだよ、って。言って」

「あんたがユメノちゃんから離れたら言ってあげますよ」

「じゃあお前が俺の前に立てよ」

「嫌だよなんであんたの精神的支柱にならなきゃいけないんだよ、折れろ」

「今日のノゾムくんは口が悪いな~」

 そう嘆いたふりをして、タイラはいきなりユメノの手を掴みノゾムに向かって振って見せた。「ノゾムぅ、機嫌直してぇ」と裏声で言う。ノゾムを苛立たせると同時にタイラは、ユメノに思い切り肘で脇腹を突かれた。

「何してんのよぉ、そんなところで」

 もうすでにひと泳ぎした様子のカツトシが、上ってきて手を振っている。「ごめんごめん」と言いながらユメノはプールに入った。

「なんであんた、水着じゃないのよ」

「なんでお前はそんな競泳用なの。どこで入手したの」

 腕を組みながら、「というかユウキはどうしたんだよ」と眉をひそめる。ユウキなら、とノゾムがなぜかにやりと笑った。それからプールの方を指さす。

「ユウキなら、そこで溺れてますよ」

「――――は」

 虚を突かれた様子のタイラが、表情を変えてプールサイドに駆け寄った。屈んで覗き込み、「なんだよ、冗談言うなよ」と苦笑する。ユウキは浮き輪にしがみつきながら、嬉しそうに笑っていた。不意にユウキが、タイラの腕を掴む。タイラは「濡れるだろ」と言いながらユウキの額を指で弾こうとした。その腕を、また誰かが掴む。水の中に潜っていた、ユメノだ。ユウキとユメノが、タイラの腕を全力で引っ張っている。タイラは驚いたようで、重心を後ろへうつそうとした。が、そんなタイラの後ろに立つ影があった。カツトシとノゾムだ。遠慮などはない。思い切り、タイラをプールに蹴り落した。

 派手な水音が響く。仲間たちが、けらけらと笑った。

「上手くいったねー」

「ゆだんはダメですよ、タイラ!」

 しばらく笑っていたが、やがてユメノが不安そうにうつむく。「なんで上がってこないの?」と、タイラの姿を水中に探し始めた。「泳げないんじゃないの」とカツトシも真顔になって降りてくる。一連の流れを呆気にとられて見ていた都が、緊張の面持ちで駆け寄ってきた。

「落ちた時、頭でも打ったんじゃ……」

 それを聞いて、仲間たちは固まる。不安げに、揺れる水間を見た。『いくら平和一が相手でも、浅いプールに突き落としてはいけなかったかもしれない』と後悔し始めた時である。

 いきなり水が盛り上がり、ちょうどユメノとユウキの間にタイラが立ち上がった。思わず、ユメノが悲鳴をあげる。タイラは濡れた髪をかき上げて、仲間たちを睨んだ。それから腰に手を当てて、ちょうど目の前にいたユメノを指さす。

「お前な、お前……」

 固まって一瞬うつむき、タイラは絞り出すように「いいケツしてんじゃねえか……」とだけ言った。ユメノが顔を真っ赤にしてフリルのスカートを両手で押さえる。タイラは黙って、プールの縁から上がって歩いて行ってしまった。仲間たちは顔を見合わせ、バツが悪そうに各々表情を曇らせる。都だけがぼんやりとその背中を見送っていた。

「――――笑っていたわ」

「えっ」

「タイラ、笑ってたわ。楽しそうに」

 仲間はきょとんとしてから、すぐに『なんだよ』という顔で肩をすくめて好きに行動を始める。でも、と都が慌てて声を上げた。「プールに人を落としてはいけないのよ、絶対よ」とちょっと怖い顔をしてみせる。真っ先にノゾムがピンと手を伸ばして、「はいっ」と言った。続けてカツトシとユメノも「イエスマム」と何度もうなづく。最後にユウキが控えめに「ごめんなさい……」と浮き輪にしがみついた。

 と、そんなしかめ面の都の横を一迅の風が吹く。ふわりとTシャツが揺れ、都が横を見た次の瞬間には激しい水音が響いていた。都も頭から水を被って、目を白黒させる。仲間たちも声すら出せずに、プールに飛び込んできた物体Aを見た。

「なんつう顔してんだ、お前ら」

 少年のように喉を鳴らして笑いながら、タイラが水面から顔を出す。都はなんとも言えない顔をして、「タイラ!」とたしなめた。

「飛び込みは禁止でしょう?」

「ん? そうか、悪い悪い。気を付けるよ先生。つい、な」

 手のひらを広げて見せて、タイラはまたクツクツ笑う。それからふと真顔になって、「ダメだな、うん。田舎もんがばれるってもんだな」とうなづいた。もともと彼らの住んでいる街も田舎ではないが、そういうことではないのだろう。

 というか、と唇を尖らせてユメノが言う。

「そのさ、水着はいいにしても羽織ってるダサいパーカーは何なの」

「売店で買ったんだよ、いいだろ」

「なんでそんな、ここでしか着られないようなビジネスロゴが入ったパーカーなんか買っちゃうのかな。そんでもってなんで蛍光色なのかな」

「お前らも欲しかったか?」

「やばい、言語が通じない」

 聞いているのかいないのか、タイラは腕を組んでどこか遠くを見ていた。そんなタイラに寄っていったユウキが、嬉しそうに「あれやりましょう」と指をさす。

「……なんだ、あれは。オブジェだと思っていたが」

「ウォータースライダーですよ!」

「あれが例の」

「『例の』って言っておけば簡単に知ったかぶりできると思ってんじゃないわよ」

 いいぞ、とタイラは安請け負いして、ユウキを抱き上げた。どうやらアトラクションの趣旨を理解していない様子だったが、特に誰も説明はしない。はしゃぐユウキと涼しい顔をしたタイラをぼんやり見送って、仲間たちはちょっと笑った。あの蛍光色のパーカーは、どこにいても目立つ。

 しばらく水中バレーなどして遊んでいると、実結が「ユーキくんとタイラだ」と言って指をさした。全員、何とはなしにそちらを見る。ウォータースライダーは思いのほか高い場所からの滑り台で、その速さは想像を超えていた。そこを滑っていくユウキは、どこか魂を抜かれたように呆然としている。ユウキを膝にのせているタイラでさえ、顔を引きつらせているようだった。

 仲間たちは手を止めて、一様に残念な顔をする。カメラを、持ってくればよかった。

 タイラとユウキは一気に滑り落ちて、ブレーキがかかることもなくそのままの速度で飛び、水面に突っ込む。次の瞬間にはタイラが起き上がり、水中でもがいていたユウキを両手で抱え上げた。

「……もう一回やろう、ユウキ!」

「えっ」

 問答無用で連れていかれるユウキを見て、ノゾムがぽつりと「なんかスイッチ入っちゃいましたよあの人」なんてため息をつく。

 何が気に入ったのかわからないが、タイラはまたせっせと階段を昇って行ってスタート地点に立った。ユウキを抱いて、迷いなく滑り出す。今度は楽しそうに目を輝かせて、ぐるんぐるんと曲がるコースに身を任せていた。そうしてまたプールに放り出される。ユウキは完全に目を回していた。

「もう一回……もう一回やろう」

 ユウキを小脇に抱えて歩き出そうとするタイラに、呆れてカツトシが声をかける。

「勘弁してやりなさいよ、ユウキがトラウマになるでしょ」

 そうか? と嘔吐えずきながらタイラは言った。「あんたの三半規管も限界じゃないの」とカツトシが苦笑する。

「後で付き合ってあげるから……ノゾムが。あんたちょっと向こうで休んだら?」

「えっ、オレすか?」

 いきなり名前を出されて思わず素の反応をするノゾムを無視して、カツトシはプールサイドのベンチを指さした。手の甲で口元を拭いながら、タイラがそれを見る。「なんだ、お前らが俺を呼んだんじゃないか」とほんの少しだけ不満そうに漏らしたが、素直に水から上がってベンチに腰掛けた。

 その隣に座った都が、そっとタイラの顔を覗き込む。

「あなたは、ジェットコースターも好き?」

「そうでもない。窮屈だ」

 言った後でタイラは、困ったような顔をした。

「あまり近寄らないでくれ。水着恐怖症なんだ」

「そう……」

 気を落とした様子の都に、頬杖をついたタイラが「そのTシャツ、濡れるとせっかく隠してた水着が透けて見えるぞ」と注意する。ハッとした都は顔を赤くして、「さっきあなたが水をかけたのよ」と恨みがましい目で見た。タイラがそっと目をそらしながら頭をかく。

「わかったわ、こんなおばさんの水着姿が見たくないってことね」

「……どっちだ? どっちが正解なんだ。下心で褒めたほうがいいのか、それとも完成度を褒めるべきか?」

 何かぶつぶつと言うタイラから、都は多少ムッとして顔を背けた。

 静かに息を吐いて、タイラが都の肩を軽く叩く。驚いて振り向けば、耳元でそっと囁かれた。「手を出さなきゃわからないのか?」と。目を丸くした都を尻目に、タイラは立ち上がってプールに向かって歩いて行ってしまった。

「……またそんなことを」

 プールの縁に腰を下ろしたタイラに、ノゾムが近づく。どうやら水泳勝負を挑んだようだった。タイラは苦笑して、「お前泳げたんだっけ」と確認している。

「泳げますよ。自由形(ビート板)っす」

「自由すぎるだろ、よくビート板で俺に挑もうと思ったな」

「もちろんハンデ戦っすよ。先輩はバタフライ一択です」

「やったことねえよバタフライ」

 どうやってやるんだっけ、と隣のユメノに確認するが、ユメノも首をかしげてクロールの動きをして見せた。カツトシが「こうじゃないの」とやっとバタフライらしき腕の動かし方をする。それだ、とタイラは神妙な顔をする。それからノゾムに向き合って、「いいぞ」と答えた。

「俺が勝ったら一緒にウォータースライダーだかんな」

「あはは、いいっすよ。さすがにやったこともないバタフライで勝てないっしょ、いくら先輩でも」

 10分後には、プールサイドで膝をついてうなだれているノゾムと、力強く右腕を天に突き上げたタイラがいた。

 ノゾムが噛みつくようにして「ほんとにバタフライでした!?」と確認する。

「バタフライだった」と面白くもなさそうにカツトシが証言した。

「すごくバタフライだった」とスマートフォンで模範的なバタフライの動画を見ながらユメノも重ねて言う。

 タイラが勝ち誇った顔で、ノゾムを担ぎ上げた。観念したように、ノゾムはされるがままになっている。一体何周するものか、と他人事のようにカツトシがウォータースライダーを眺めた。

 17時の音楽が鳴る。結局、1日のほとんどをプールで遊んでいたようだ。さすがに飽きたのか、タイラもノゾムを引きずって歩いてきた。

「疲れたわ」

「でしょうね」

 プールの縁から立ち上がり、タイラは目を回しっぱなしのノゾムを背負う。それからちょっと笑って、仲間たちを振り向いた。

「なあ、焼き鳥食わねえか? 外に屋台が出てるらしいからさ」

 仲間たちは――――ノゾム以外の仲間たちは顔を見合わせ、歯を見せてにやりと笑う。ホテルの食事ももちろん美味だが、確かに自分たちの性分を考えれば飽き飽きだ。タイラに向かって大きく頷く。今日の夕飯は、決まりだ。意気揚々と仲間たちは、タイラの背中を追った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る