episode21 春眠、だから夢を見たのだ(壱)

 さすが金持ちの作った金持ち向けのホテルだ、とタイラは思った。

 椰子の木らしきものが、何本植わっているものか。路線はハワイアンなのだろうか、白い建物が中央にそびえ立っている。しかしオーナーがいかがわしい遊郭街を造った男であることを思えば、自然とラのつくホテルのにおいも感じ取ることができた。そんなことを考えているのは、タイラだけらしいが。

 はしゃいで走って行く仲間たちの背中を見ながら、タイラもぼんやりと歩いていく。「元気ね」と、都が冷静に呟いた。

 建物の中に足を踏み入れれば、見事な大理石だ。綺麗な姿勢で頭を垂れたスーツ姿の男が、「トモサカ様」と呼ぶ。肩をすくめたタイラを見て、「ご案内いたします」と男性は笑顔を作った。チケットなど必要なかったのだ、章や若松がそのつもりならば。

 先ほどまではしゃいでいた仲間たちも、どこかしおらしくタイラの背中に隠れている。お上りさんめ、と苦笑しながらタイラは先頭に立った。

 与えられた部屋は2つ。それぞれ4人用の部屋だ。カードキーで扉を開けた瞬間に、ユメノとユウキが「わあ」と声をあげる。まず見えたものは、大きな窓から見える海。遠目では波も確認できないほど穏やかな海だ。室内にはダブルの天蓋付きベッドが2つ置いてある。自分たちが普段宿場で暮らしているということもすっかり忘れて、夢うつつの表情をした。

「まさか2人で同じベッドを使わせる気か?」とタイラが問う。案内の男性は苦笑しながら「その方がよいと上から」と言いにくそうに言った。閉口したタイラを見て、ノゾムがにやにや笑う。諦めたように、タイラは「まあ、上が言うんならしょうがねえな。案内ありがとう」とボーイの胸のあたりをぽんと叩いた。ボーイも「これはどうも」と目を伏せる。何が? と不思議そうな顔をするユメノに前を向かせて、タイラは伸びをした。

 静かに去っていく男を見送って、ついにユメノとユウキが思い切りベッドに飛び込む。それを追って飛ぼうとしたカツトシを、タイラが止めた。その横をすり抜けて、実結が飛ぶ。ベッドの上で跳ねて、楽しそうな声をあげた。

「何よぉ!」

「お前が思いっきり飛び込んだらベッドどころか床が持たねえよ」

「そんなことないわよ! 痩せたもん!」

 控えめにベッドの端に腰かけて、ノゾムは周りを見る。それからぽつりと、「すげえ」なんて呟いた。年相応に、興奮した目をしてみせる。

「部屋はどうする」

 とタイラが言ったのを、ユメノは噛みつくように見た。

「そんなん男女で分かれればいいじゃん。あたしはセンセーとミユちゃんと寝る!」

「ええ! ユメノちゃん、僕は? 僕はダメ?」

「アイちゃんもダーメ! 男の子でしょ!」

 捨てられた犬のようにしょげるカツトシに、笑いながらタイラが「だとよ、諦めろカツトシ」と肩を叩く。それから急かされるようにして、男たちは外に出された。タイラたちが外に出るのを注意深く見てから、ユメノはいきなり都を振り返る。

「ねえ先生!」

 驚く都に、ユメノは詰め寄った。

「タイラと、どう!?」

 どう、とは。首をこてんと傾げる都に、「んー」と難しい顔をしてユメノは悩み始める。そんなユメノの真似をして、実結まで腕を組んだ。しばらく、2人で難しい顔をする。ようやく口を開いたユメノは、秘密の話をするように声の調子を落としていた。

「タイラと、付き合ってんの?」

 都はきょとんとして、瞬きをする。ようやくその意味を理解したようで、いきなり動揺のままにむせ始めた。

「ユメちゃん、何を」

「どうなの!? あたしにだけ教えてよ」

「そのお付き合いというのが男女の恋愛感情による蜜事であるなら、それは絶対にないわ」

「ちょっと難しすぎて何かわからないんだけど。つまり、何もないってこと?」

 力強くうなづいた都に、ユメノは重ねて「タイラのこと、好き?」と尋ねる。その問いにも力強くうなづいて、「好きよ」と答えた。実結も腕を上げて「すき!」と笑う。

「男として?」

「恋愛感情か、ということ……かしら。今日のユメちゃんは難しいことを聞くのね。恋心というものが明確に何を指すものかその答えも出ていないのに、それを答えようというのは少し無責任に思うの」

「難しい! 難しいよ先生。もっとズバッとはっきり言って」

「恋ではないはずだわ、どちらかというと、親しみに近い」

 親しみ? と困惑極まった顔でユメノがおうむ返しした。「信頼、と言ってもいいけれど」と都は目を細める。よくわかんない、と言いながらもユメノは、それ以上何か尋ねようとはしなかった。




☮☮☮




「で、先生とどうなのよ」

 いきなりそう言ったカツトシに、タイラは首をかしげて「どう、とは何だ。随分と曖昧だな」と苦笑する。わかっているだろうに、この男は時折こうして遊びたがる。カツトシはムッとして、「そろそろ結婚とか、しないの」と腕を組んだ。

「するかもしれないな、いつかはミユちゃんも学校なんかに行くんだろうし。その方が後々やりやすいかもしれない」

「そうじゃなくて……まあ、そういう聞き方したのが悪いんだけどぉ」

 頭を悩ませるカツトシを見て、タイラは楽し気に喉を鳴らす。「そんなことを聞いてどうするつもりだ」と目を閉じた。

「別にぃ。ただ、同じ屋根の下に住んでいる仲間が知らない間に恋仲になってたらなーんか嫌じゃない。なんていうか、ちゃんと宣言してからそういうのやってほしいし」

「それなら心配するな。はっきり言っておくが、俺はお前たち全員をそういう目で見ている」

「……聞かなかったことにしまーす」

 きらびやかな部屋で、ユウキが『絶対に海側のベッドがいい』とノゾムに訴えている。そんなことよりも2つしかないベッドで、どう組み合わせて眠るかの方が深刻な問題だ、とノゾムは顔をしかめた。この中で一番体積が大きいのはタイラであるから、一番小さなユウキと組み合わせるのが妥当であるとはノゾムもわかっている。しかし、そうなるとノゾムはカツトシとペアだ。カツトシと同じベッドで寝ることになる。

「嫌なんすよ……! アイちゃんさんが嫌なんじゃなくて、そこそこ体の大きな男と同じ寝床ってのが、絶対嫌なんすよ……!」

 そう喚くノゾムに、タイラが「じゃあ俺はカツトシと寝るよ」なんて勝手なことを言った。案の定、カツトシが「イヤよ! さっきの話を聞いたら余計イヤよ!」と猛反発がある。タイラはそんなカツトシの頬を片手で掴んで、「ワガママ言うな、ガキに譲れ」と呆れたような顔をした。カツトシは「狭すぎるでしょ」と文句を言ったものの、それ以上の異議は唱えない。渋々ながら了承したようだ。

 ノゾムとユウキが窓際のベッドを勝ち取ったその時である。ドアをノックする音が響き、カツトシが急いでドアを開けた。ひょっこり顔を出したユメノが、「プールあるよ、プール」と嬉しそうに歯を見せて笑う。浮足立ったユウキたちも、荷物をひっくり返しながら飛び出した。途中で、カツトシが振り向く。タイラの動く気配はない。

「行かないの?」

「あんな近くに海があるのにわざわざ水たまりを作るとは、理解に苦しむな」

「海で泳ぐのはさすがに寒いわよ」

「プールも寒いだろ、何言ってんだ」

 それを鼻で笑ったユメノが、「温水ですぅ」と言って外へ消えていく。「後から来なさいよね」と言いながらカツトシも走って行った。




☮☮☮




 白いタオルで髪の水気を拭き取りながら、ユメノはカードキーをドアにかざす。簡単に認証され、にやりと笑った。音を立てずに部屋へ入ると、窓際の椅子に腰かけているタイラが見える。いつまでも顔を出さないこの男を、ユメノは呼びに来たのだ。

「……めずらしい」

 そう呟いて、タイラに近づく。彼は音もなく眠っているようだった。しばらく寝顔など見ていなかったが、こう昼間から飲酒もせずに眠っているのは異様とも言える。ふとテーブルを見ると、使用済みらしき注射器が転がっていた。なるほど、とユメノは思う。それから瞬きをして、じっとタイラを見た。――――たとえば、

 たとえば、ユメノがもう少しだけでも大人だったなら。

 そうしたら何ができただろう。何かが変わっていただろうか。もっと同じ景色が、この男と同じ目線で見られたのだろうか。

 注射器を拾い上げてみると、微かに薬が残っているようだった。ユメノは一瞬だけ目を伏せて、なんとはなしにそれを自分の腕にあてがってみる。針が刺さるかという瞬間、「やめておけ」と声を掛けられて飛び上がった。見ると、タイラが無表情にユメノを見ている。

「そんなものを使いまわすと、肝炎になるぞ」

 なんだ、と声を震わせてユメノは作り笑いをした。「起きてたんなら言ってよ」と、拗ねたように言う。

「今起きたんだよ、お前は普通に話している時よりも息を殺しているときの方がうるさいな」

「どういうことだし」

 少し気まずそうに、ユメノは注射器をテーブルに置いた。そんなユメノの濡れた髪を見て、タイラが眉を顰める。

「お前、そんなんじゃ風邪を引くぞ。ちゃんと拭けよ」

「大丈夫だよ、もうあったかくなってきたし」

「それでも美容師見習いかぁ?」

 言いながらタイラは、ユメノの持っていたタオルを奪取して彼女の髪をぞんざいに拭いた。水気を飛ばすように勢いよく。ユメノはしばらく、されるがままに黙っている。

 段々とそんな子ども扱いが嫌になって、ユメノはタイラの腕を止めた。怪訝そうなタイラに、何も言えずに拳を握る。タイラは「どうした」とだけ口に出した。急かすこともなく、ただユメノが何か言うのを待っている。「あのさ」と思わず口に出してしまって、ユメノは自分の腕をぎゅっと握りしめた。ああ、とタイラが柔らかく言う。「ゆっくり話せ」と、目を細めて。ユメノは「あのね」と少しだけ緊張の解けた声を出した。

「もうタイラが人を助けたりすることに、理由なんてないってわかってるんだよ」

「俺は誰も助けてないからな」

「でもさ、なんで都先生とミユちゃんのこと連れてきたのかな。あたしも都先生とミユちゃんのこと大好きだよ。ずっと一緒にいてくれたらいいって思う。でもさ、でも……あたしもアイちゃんも、ユウキもノゾムだって、選んでタイラといるんだ。でもタイラは、先生とミユちゃんには選ばせてない。ここにいろって言ったんでしょ。らしく、ないなって。ちょっと思ったんだ、タイラは……」

 その続きを、ためらってユメノは言わない。頬杖をついて何か考えている様子のタイラは、目を伏せて口を開いた。

「俺は、お前たちが大好きだ」

 ハッとして赤面したユメノも、すぐに不満げな顔をしながら「またそうやってごまかすでしょ」と少し睨む。タイラは目を伏せながら、口の端だけを上げた。

「お前はいつだったか、『初めて会った時のことを覚えているか』と問うたが……俺のほうが覚えているだろうな。実際にお前たちを見たのはお前たちじゃない、俺なんだから」

 その、勝ち誇ったような声は。まるで子供が、作り上げた積み木の城でも見せびらかすような声は。いつもの平和一とは、何か少し違っているようだった。

「お前たちが好きだ。自分でうちから鍵をかけておいて、『出してくれ』と叫んでいたような不器用なお前たちが好きだ。お前たちがそう叫ぶ限り、俺は何度だって、ドアでも壁でもぶっ壊して外に出してやる。その後は好きに飛んでいけばいいと思った。お前たちはきちんと外を見たうえで、『外に出たい』と叫んだのだから」

 拳を握って、ようやくユメノはタイラをまっすぐにみる。「うん」とだけ相槌を打つと、タイラは満足そうに眼を閉じた。「でも、あの母娘は」と、続ける。

「外を見ることさえできていなかったよ。俺はあの母娘を外に連れ出すにあたって、何も選択肢を提示することができなかった。あの母娘を放っておいて、人並みの幸福をつかませるような算段もさっぱり立たなかった。俺は俺で、途方にくれたんだよ。あんなに危うい生き物を、この街で見たことがなかったんでな……。だから俺は、あの手を引いて連れて来るしかなかった。それであの母娘が幸福になる確証もなかったが……今もそれが正解だったのかわからないが」

 そうしたかったから、そうした。

 言ってタイラはユメノを見る。「バカみたい」と、思わずユメノは言った。辛辣だなと、タイラが肩をすくめる。

 だってバカみたいだ。本当にこの男は、何も変わらない。ユメノとカツトシにカギを掴ませて前を指し示したタイラワイチは、ユウキに「生きてみろ」と諭した男は、ノゾムの自己満足を暴力的に諫めた彼は、同じように都幸枝と都実結を外に連れ出したのだ。バカみたいだ、そこにタイラ本人の意思など。

「俺は、強欲でさ」

 不意にタイラはそう言って柔らかく笑う。驚いて顔を上げたユメノを見て、その透き通る目を細めた。まるで、ユメノの考えなどすべて見通されているようだった。

「色んなこと言ったが結局は、あの母娘の笑顔を買いたかったのさ」

「買えないよ、笑顔は」

「そうだなあ。お前は頭がいいからそう簡単に言うが、俺にとっちゃ笑顔が買えなきゃどこで手に入れられるのかわからん。だから買おうと思ったんだ……人生すべて懸けても釣りは来ないだろうと思った。俺は物の価値のわかる男だからな、なんでも欲しいものは最善を尽くして手に入れるんだ」

 思わず小気味よく笑ってしまったユメノに、「バカみたいだと思うか」とタイラは悪戯っぽく尋ねる。ユメノは「ううん」と首を横に振った。

「バカみたいっていうか、バカだと思う」

「言ったな? お前らの笑顔も俺は買うぞ、釣りは出ねえんだろうから、全部受け取れ」

 ユメノは少女らしい笑顔を浮かべて、「いいよ」と頭を突き出す。撫でろと言わんばかりのその仕草に喉を鳴らして笑いながら、タイラはその額を小突いた。「ありがたき幸せ」と冗談まじりに言いながら。

 頭を押し付けてくるユメノの髪を指に絡ませながら、タイラは「そういやお前何しに来たの」と今さらながら尋ねる。ユメノがハッとして、いきなり離れた。

「そうだ……タイラのこと呼びに来たんだった。プール行こ、タイラ」

「お前、どうやって入ってきたんだ? 鍵かかってたろ」

「アイちゃんにこの部屋のカードキー借りた」

「セキュリティどうなってんだよ」

 どうでもいいじゃん、とユメノはぶうたれる。どこか虚を突かれた顔で、タイラが「どうでもいい、か」と呟いた。認識のズレを埋めるように瞬きをして、「どうでもいいか」とまた繰り返す。そんなタイラの顔を覗き込んで「ああ、わかったぁ」とユメノは意地悪く笑った。

「案外だらしない体してるから、水着になれないんでしょ」

「水着も持ってねえしな」

 よーし見せろ! と言いながらユメノがいきなりタイラの服を捲る。タイラにとっても予想外の行動だったようで、きょとんとしてその奇行を見ていた。まさか何の抵抗もないとは思わなかったのか、ユメノは少し赤面し、それでも引っ込みがつかなくなったようにタイラの上着を脱がす。そこでようやく、「意図を教えてくれないか」とタイラが淡々と言った。

「だ、だから……そのっ。プールに行こって、話なんですケド」

「水着もねえんだよ」

「大丈夫だよ! 先生も持ってなかったけど、ちゃんと買うところあったから」

「その金ってどこから出てくるんだろうなぁ」

 頬杖をついて、タイラはユメノをじっと見る。「俺の服を脱がそうとするとは、お転婆が過ぎるぞユメノ」と静かに諭した。それから、先ほどユメノがしたような意地悪い笑顔をしてみせる。

「それで? 案外だらしない体で悪かったなぁ」

「いや、それは……。案外っていうか、そりゃそうだよねっていうか、悪くない、感じでした……ケド」

 ほう? と、タイラはにやついて立ち上がった。「確認したんだな? 確認しちゃったんだな?」と言いながらじりじり近づく。

「な、なんだし。来んなおっさん」

「ならば俺も確認しなければなるまい、お前の体を」

 そうして唐突に、タイラはユメノの足元をすくってベッドに転がした。蛙が潰されるような悲鳴を上げ、ユメノが慌てて起き上がろうとする。その肩を押さえつけて、タイラは上からユメノを見下ろした。完全に、悪戯っ子の顔だ。

 当惑しながらユメノは、「あのさ」と口を開く。

「タイラって、えっちなことするんだよね」

「えっ何その質問」

「いや、あたしとじゃなくてさ。女の人と、そういうことするんだよね」

 不意に真面目な顔をしたタイラが、「お前は抱かないぞ」と短く釘を刺した。当たり前じゃん、とユメノは不満そうに言う。

「女の人とそういうことする時も、そんな目をしてるの?」

 少し身を引いて、「どういう目だ」とタイラは訝しげに尋ねた。うーん、と唸ってユメノがタイラの目をのぞき込む。影になって光の当たらない彼の瞳は。

「何にもないね」とユメノは言った。

 中道夢野は昔、性的なものをはらむ視線が苦痛でたまらない時があった。今でも、女として触られると虫唾が走る。だから仲間たちのことは、家族のようなものだから平気になったのだと思っていた。

 こうして、こんな風に間近でタイラを見ると、なんというか拍子抜けだった。ユメノを女として見ていない、とか、そんなことじゃない。もしかしたら、と思う。もしかしたら、タイラには他人に対する何の感情もないのかもしれない。その証拠に、瞳には何の感情も浮かんではいないし、そう指摘した途端にその顔からも表情は消えた。だからユメノは、この男に嫌悪感を抱かない。決してこちらを、性的に消費しようとはしないからだ。この男にはその必要もないからだ。

 でも、だから、拍子抜けだった。

(違うかな、これ、残念っていうのかな。なんでだろう、嫌いになりたい気分だったのかも)

 なんだか、タイラの携帯電話を壊す女たちの気持ちが少しだけわかるような気がした。

 タイラは目を細めて、何か考えている。やがて口を開いて、「お前はいい目を持っている」とぽつり呟いた。あれ、とユメノは不思議に思う。いつもなら、すぐに冗談めかして『失礼だな』なんて笑うはずなのに。まだ無表情のままだ。そんなタイラの頬に手を伸ばして、ユメノはちょっとつついてみた。

「ねえ、海と山、どっちが好き?」

「……海、だな」

 そっか、と目を細める。「じゃあさ、海があるとこ行こうよ」と。

「ここにも海はあるが?」

「うん、この近くでもいいや。なんかさ、海が見える田舎とかでさ、みんなで暮らすのも楽しそうだよ。あたし、ついて行ってあげてもいいよ。その方が、タイラには合うかも」

 タイラが笑った。ふっ、と息を漏らす。「そんなことは絶対にないだろうな」と、吐息まじりに囁いた。ユメノも目を閉じて、うなづく。

「うん、だよね。そうだと思った」

 不意にガチャリと、ドアがまた開いた。ユメノとタイラは、同時にドアを見る。そこに呆然と立ち尽くしていたのは、ユウキだった。「よっ」とタイラが手を上げる。「よっ、じゃないでしょ」とユメノは突っ込んだ。ユウキは不服そうな顔で、「2人とも来ないと思ったら、なにあそんでるんですか!」と文句を言う。

「ユウキも来いよ、ベッドでトランポリンしようぜ」

「うっわ、うっわ。めっちゃ迷惑じゃん。田舎者みたーい」

「都会人だろうが田舎もんだろうが、ホテルのベッドでやることはトランポリン一択だ。夜もな」

「最低か?」

 いそいそとベッドを上ってきたユウキが、「なにしてたんですか?」と尋ねた。タイラは薄笑いを浮かべて、「何してたと思う」と逆に問いを返す。ユメノがタイラを指さして、「このおっさんにセクハラされてたんだ」と言いつけた。

「えー、アイちゃんに言っちゃいますよ」

「なるほど、これが死亡フラグってやつか」

 腕を組んでため息をついたタイラが、何を思ったかユウキに飛びつく。「ユメノにだけセクハラするのもフェアじゃないからな、どれ……ユウキ、お前と遊ぶのも久しぶりだな?」と言いながらユウキを羽交い締めにしたタイラが、楽しそうに笑った。「はなせ、はなしてください」と騒ぐユウキにしたって、その顔はとびっきり嬉しそうな笑顔だ。くすぐられて、言葉にならない声で笑う。それをぼんやり見ていたユメノのことも、巻き込んでタイラは2人をくすぐった。

「ちょっと! ちょっと、むっ……り、もぉー!」

 身をよじらせて笑うユメノとユウキを見て、タイラも喉を鳴らす。ようやく手を止めたタイラを睨みながら、ユメノは涙をぬぐった。「死んじゃうよ」と思わず幼稚な文句を言う。タイラはベッドに手をついて、「悪い。つい、な」といつもの調子で謝った。肩で息をするユウキが、ぴんと手を挙げる。

「タイラ!」

「どうした」

「プールにいきましょう! みんなまってますよ。アイちゃんもノゾムも、センセーもミユちゃんも、まってますよ」

「なんでだ? お前らで楽しく遊んでればいいだろ」

 ムッとしたユメノとユウキが、2人でタイラに背を向けて寝そべった。しばらく黙っていたが、やがてユウキだけがごろんと寝返りを打ってタイラを見上げる。「いかないんですか?」と寂しそうに確かめた。

「行ってもいいぞ、行くだけならな」

 ユウキの髪をなでながら、タイラはそんなことを言う。「お前らがどうしてもって言うなら」と余計な一言を付け加えれば、「べつに来なくてもいいですよ」とユウキが顔を赤くした。どっちだよ、とタイラはからかう。

「まあ、お前らがはしゃぎすぎて溺れるようでも困るからな。いい、行ってやるよ」

「な……いいですよ! ぼくたちはそんなにお子さまじゃありません!」

「お前たちの心配をしているんじゃない。そんなお前らの面倒を見る先生も胃が痛いだろうと思っただけだ」

 柔らかなユウキの頬を軽くつねって、タイラは軽やかに笑った。拗ねるユウキを見て、「そんな顔すんなよ」とようやく手を離す。それから、未だに背を向けているユメノに気付いて苦笑した。

「まだ許してくれないのか、ユメちゃんよお。何をそんなに怒ってるんだ」

 そう顔を覗き込んで、タイラは目を丸くする。「寝てるぞ、こいつ」と静かに腕を組んだ。ユウキも恐る恐る「ユメノちゃーん」と呼んだが、健康的な寝息が聞こえただけだった。爆睡である。

「……誘っておいて寝るとはな。これは将来、とんだ魔性だぞ」

 言いながらタイラが頬杖をついた。呆れているようでも、面白がっているようでもある。ユウキはうつ伏せになって、そんなタイラを見た。不意に声をひそめて口を開く。どうやら、タイラと2人になったら言いたかったことがあったらしい。

「しょうらい……学校で、将来の夢の作文をかきます」

「そうか」

「タイラの将来の夢はなんですか?」

「焼肉行きてえなぁ」

 みぢかですね、とユウキはうなづく。「ぼくは」と言いかけて、うつむいた。「ぼくはなにをかけばいいのか、よくわからないんですよ」と。何か叱責でも飛んでくるものと身構えるユウキに、「だよな」とタイラは難しい顔で言う。

「夢と言われてもな……将来と言われてもな……。明日生きているかもわからんのに、そんなことを考える暇もねえよな」

 腕を組んでぶつぶつ言った後で、しかし清々しく笑って見せた。「――――でもまあ未来ってのは、来ないところには来ねえし、来るやつには来るもんだ。来た時のことを考えておいても損はねえぞ」なんて冗談めかしてユウキの頭をなでる。

「タイラは、こどものころ夢がありましたか?」

「あったよ。ハンバーガーショップのフライドポテトを腹いっぱい食いたかったんだ」

「ポテトすきなんですか」

「いや……そうでもねえな」

 うーん、と天井を睨んで、ユウキは何か考えていた。「ぼく、今でじゅうぶんなのに」と呟く。そうかとだけ、タイラは答えた。

「でも、タイラみたいになりたいと思う」

「そうか?」

「タイラみたいに、みんなみたいに、強くなりたいとは思います」

 タイラは横になって、ゆっくりとユウキの胸のあたりを叩く。優しく、寝かしつけるリズムで。「お前はこれから本物を知るだろう。ツイてるぞ、あいつらといればそんなのすぐだ」なんて耳元で囁きながら、瞼を閉じるユウキの顔を見ていた。やがて眠りに落ちた少年に、それでもタイラは寄り添っている。無性に煙草が吸いたくなったが、苦笑して目を伏せただけにしておいた。

 微かな電子音が聞こえて、タイラは顔を上げる。続いてドアの開く音がした。入ってきたのは、ノゾムだ。ベッドの上の様子を見て、何も言わずに固まっている。仕方なく、タイラが口を開いた。

「こいつら、はしゃぎすぎじゃねえか? 俺を呼びに来たくせにこのザマだぞ」

「……自分も先輩のこと呼びに来たんですけど」

「なんで? お前らほんとタイラさんのこと好きだよな」

「やめました、2人が寝てるんじゃ意味がないし」

 そう言ってノゾムは、ベッドに仰向けに寝転がった。代わりにタイラが体を起こし、ノゾムの顔を見下ろす。

「お前も寝るのか? まだ昼だぞ」

「寝かしつけてくれてもいいんすよ」

 タイラは顎をさすりながら、「ノゾム」と呼んだ。それから真面目な顔で「お前、出ていくつもりはないのか」と唐突に言い出す。思わず飛び起きて、ノゾムは声も出ないままタイラの顔を凝視した。ようやく、「……は?」とだけ口に出す。

「いや、常々思ってはいたんだが。お前には帰る場所がありそうなものだしな」

「そっ……それは、出て行けってことですか」

「予定を聞いただけだ。俺に決定権はない」

「出て行ったほうがいいって、思うんすか」

 何か言いかけて、しかしタイラはただ目を細めただけだった。いそいそと姿勢を正し、ノゾムはなんとはなしに正座する。タイラも片膝を立てて、ノゾムに向き合った。

「世の親という生き物が、子供に対してやれ『結婚しろ』やれ『就職しろ』とうるさく言う気持ちの欠片くらいはわかりそうだ」

「何すか、それ」

「おっさんはみんなこうだから気にすんな」

 少し背中を丸めて、ノゾムは言い訳のように「だってあんたのこと倒してないし」と呟く。そうか、と言ったタイラが腕を組んだ。

「それじゃあしばらくは無理だな、俺も今倒されるのは困る」

 その回答に少し安心していたノゾムの頭を、タイラはいきなり片腕で引き寄せた。抗議する暇もなく、枕の上に横になる。起き上がろうとしても、押さえつけられていて動かない。

「ちょっ、とー? 何なんすかマジで」

「いいぞ、寝かせてやる。お前の要望だろ」

「要望じゃないんすけど!」

「この分じゃ、闇討ちでも俺に勝つのは無理だろうなぁ」

 ムッとして、ノゾムは腹に力を入れて起き上がろうとした。ぴくりとも、動かない。痛くはない。ただ、動かないだけだ。少し怖くなってタイラの顔を見上げる。涼しげな表情で、ノゾムを見ていた。途端に胃の上の辺りが冷たくなって、体が固まる。タイラが手を離しても、動けないままだった。ずっと天井を見ていると、不意に話しかけられて緊張を解く。

「お前もカードを使って入ってきたのか?」

「……そっすよ」

「ユメノとユウキもカードを持っていたってことは、それじゃあカツトシは入ってこれねえわけだ」

「鍵を開けとけばいいんすよ」

 そうか? とタイラは頭をかいて、「まあそうか」とうなづいた。「オレが闇討ちしたって負けないんでしょ、あのドアから堂々とヒットマンが出てきても先輩は負けないっすよ」と少し拗ねたようにノゾムは言う。タイラといえば、「それはそうだが」と当たり前のように流していた。思わず吹き出してしまって、ノゾムは腹を抱えて笑う。

「あんたほんっとに、絶対負けなそうですよね。てかヒットマンってなんだよ、なんでヒットマンが入ってきて無事な想定なんだよ、『それはさすがに』って言ってくださいよ。勝てねえ勝てねえ、もうちょっと弱くなってくんないかな、あんた」

「お前が先にヒットマンが来るって想定したんだろ、乗ってやったんだよ俺は」

 枕を抱きしめて笑うノゾムを、タイラが呆れて見た。笑いつかれたのか、ノゾムは「はー、明日はプール来てくださいよ」とタイラに背を向けて言う。「もしかしたら、泳ぎだったら勝てるかもしれない」なんて案外真面目な顔でそんなことを嘯いた。しばらく、沈黙が続く。ようやくタイラが「お前、泳げたんだっけ?」と問うたが、返事はない。どうやらもう眠ったようだった。

 タイラはため息をついて立ち上がる。離れていた2つのベッドを寄せて、大きな1つのベッドにしておいた。ノゾムやユウキは心配なさそうだが、どうにもユメノの寝相が悪い。ここまで大きな寝床なら、落ちることもないだろう。それから、ノゾムの言うとおりに部屋の鍵を開けておいた。どうせ呼びに来るのだろう、と思いながら。こうなったらカツトシか都に何らかの方法で連絡を取ってしまうほうが手っ取り早いのだろうが、タイラはそういったことをしない。帰ってくるも帰ってこないも、それぞれの自由だ。

 紙の色が変わるほど古い本を手に取って、タイラは腰掛にドカッと座る。

 次に来るのはカツトシだろう。もしくは都母娘に連れ立ってくるか。これが賭けであれば前者に賭ける。2人で戻って来てそのままお開きになるのでは、タイラを呼びに来る意味がない。

 3ページほどめくったところで、やはりカツトシは来た。ドアを開けた瞬間に、膝から崩れ落ちる。

「タイラが本なんか読んでる……!」

「お前の行動の方は読めそうで読めないな」

 顔を上げたカツトシが、「あんたも本なんか読むの?」と訝しげに言った。「読むよなぁ?」と煙たげにタイラは答える。不意に近づいてきたカツトシが、タイラの手からその文庫本を取り上げた。うーん、と上から下から覗き込む。

「僕、漢字は得意じゃないのよねぇ」

「お前の去年の目標は漢字検定じゃなかったか?」

「去年は誰も目標守れなかったわね」

「ああ……今年は目標すら立ててないしな」

 立てとく? とカツトシは腕を組んだ。何やら考えている様子のカツトシを見ながら、タイラも腕を組む。「あんたの去年の目標って禁煙だったっけ?」とカツトシが首をかしげた。

「そうだったかもしれないな……今年もそれでいいか」

「1ミリも達成する気なさそうだけど」

「俺の人生目標は無言実行なんだって」

「有言不実行じゃないの」

 日本語がお上手なことで、とからかうようにタイラが言う。少しムッとして、カツトシはタイラの本をぱらぱらめくった。「これ、何の本なわけ」と尋ねる。なぜかタイラはにぃっと笑って「なんてことない、普通の話だ」とだけ端的に答えた。ふうん、と言いながらカツトシはベッドの端に腰を掛け、そこに3人分の寝顔を見つけて目を丸くする。

「寝ちゃったの?」

「そうだそうだ、そうだった。そいつら何とかしろよな。はしゃぎすぎなんだよ、たかがホテルでさ」

 いくら待っても来ないはずだわ、とカツトシはちょっと笑った。タイラが頬杖をついて、「都先生とミユちゃんは」と問う。瞬きをして、「ミユちゃんがまだ遊びたいって」と当惑気味に言った。

「そういうところだぞ、お前は……カツトシ」

「何が?」

 タイラは何か言おうとして、すぐに肩をすくめて黙る。何よぉ、と膨れ面のカツトシから目をそらして、「お前のいいところでもあるしな」と苦笑した。不満そうに、カツトシはベッドに寝転がる。

「お前も寝る気か?」

「寝ないわよ! でもこのベッド、すごーく気持ちいい」

「さすがに、な。高いだけはある」

「……僕たちはあんたとは違うから、望む毎日と違う日々が続くと疲れちゃうのよ。だから、最近ちょっと……都先生がいなくなったり、なんだかとてもドキドキしたりして」

 そうか、とタイラは目を伏せた。

「寝てもいいぞ。夕飯には起こしてやるから」

「寝ないって」

 しばらく、放り投げられたような沈黙が生まれる。聞こえてきた鼻歌に、カツトシはつい瞼を閉じた。「ねえその歌、昔からあんた歌うわね」と回らない頭でなんとか口に出す。タイラは答えないまま、軽やかなハミングを続けた。子守歌のはずもないブルースを、しかし心地よく聞きながらカツトシはやがて眠りに落ちる。すぐに子供のような寝息を立て始めた。

 うつむいて笑いながら、タイラは立ち上がる。ドアの前まで歩いていき、ドアノブに手をかけた。頭をかきながら開けば、目を丸くする都と視線が合う。さすがにタイラも動きを止めて、「なんだ戻ってきたのか」とひとりごちた。

「ええ……もう実結も疲れたようだから」

「プールは広いのか? 今見に行こうと思っていたんだ」

「そうね、なかなか大きいわ。一緒に見に行きましょうか?」

「いや、いいよ。中に入るかい」

 都はうなづいて、実結を抱きながら部屋に入る。ちらりとベッドを見て、「寝ちゃったのね」と微笑した。「君も疲れたろう」と言いながらタイラが丸椅子に腰かける。その隣に腰を下ろしながら、都はただ微笑ましげに仲間たちの様子を見ていた。そんな都の腕から抜け出して、実結がタイラの膝に乗る。

「君もベッドに行けばいい」

「大丈夫よ、まだ眠くないわ」

「そうか? まあ、ベッドに行くにしてもユメノの隣はやめたほうがいい。蹴られるからな」

 そう、と目を丸くして都はユメノの様子を見た。奔放に四肢を投げ出して、ユメノはぐっすり眠っている。

「……安心してるのね、きっと」

「当たり前だろう、俺がいるんだから」

 都が少し驚いてタイラをまじまじと見る。涼しい顔をしているタイラに、「時々本気なのか冗談なのかわからなくなるわ」と肩をすくめてみせた。実際、その時の気分でタイラは「冗談だ」とも「本気だ」とも言うだろう。この時のタイラは何も言わず、頬杖をついただけだった。

 不意に実結が、テーブルの上に置いてあった本を手に取る。「だっ、くーす、ふんと」と、慣れない口ぶりで読み上げた。へえ、とタイラは感心して実結の頭をなでる。

「カタカナも読めるのか、天才だな」

 えへへ、と笑って実結は自慢げな顔をした。対照的に都が目を伏せながら、「新庄さんは」と呟く。

「人を教育することが好きだったんだわ。私が教えたことなんて何もないくらいよ」

 実結の頭を両手でわしゃわしゃと撫でながら、タイラは都を見た。「これから、まだまだ教えることがたくさんあるんだぞ」なんて、薄く笑う。都はハッとして、「そうね、そうなんだわ」と何度もうなづいた。ありがとう、と言いかけた都に「君は」とタイラが言葉を投げる。

「新庄のことを悔いているのか?」

 驚いて、都は思わず目をそらしてしまった。それが、どうしようもなく答えだ。そうね、と心を落ち着かせながら口に出してみる。

「後悔していないわ」

「また、難しいことを言う。その嘘には意味が?」

「あるの。ちゃんと、あるから。だから後悔していないと今は言わせて」

 タイラは目を細めて容認した。逆に都が、「あなたにも何か後悔していることがあったりするのかしら」と尋ねてみる。一瞬だけ虚を突かれたような顔をして、タイラは首をかしげる。

「後悔するほど、昔のことを覚えていないんだ」

 そう、と言ってから都は、何とはなしに「ピーターパンみたいね」と呟いた。本当に深い意味などない、ただ結びついた記憶を安直に口に出しただけだ。「ピーターパン?」とオウム返しされて初めて、都は赤面する。

「そう、ピーターパン。あの物語の最後にね、ピーターは言うのよ。『ティンカーベルもキャプテンフックのことも忘れた』って。終わったことは全て忘れていってしまうの。ピーターは大人にならないから、思い出があってはいけないんだわ」

「俺は子供でいるわけじゃないよ」

「……ええ。だけど、ちょっと思ってしまったの。ピーターがウェンディのことだけは忘れなかったように……あなたにとって私たちも、そうなれるのかしらって」

 タイラが実結に覆いかぶさるように前かがみになり、うつむく都の顔をにやにやしながら覗き込んだ。「ウェンディたちはピーターパンを置いて成長していくんだぜ?」と、楽しげに言いながら。都はムッとして、「そうね、だからピーターも最後には、別にウェンディじゃなくてもいいと拗ねて去っていくんだわ」と言ってやる。何がおかしいのかタイラは、クツクツと喉を鳴らして笑った。

「意地悪を言い合うのはやめよう、子供じゃないんだから」

「ごめんなさい、私が先に言い出したんだわ。忘れてね」

 なんとなく気まずくて、都は実結が弄んでいた本を借りる。「これは、あなたが読んでいたの?」と確認したが、タイラからの返答はない。表紙には、ダックスフントらしき胴の長い生き物のイラストが描かれている。頁をめくり、都は文字を追った。「あなたも小説を読むのね」と囁く。反応は期待していなかったが、「読むよね」とだけ言葉が返ってきた。

「つくり物の世界なんて、一笑に付すかと」

「人の想像できる物事は、全て現実に起こり得るんだってさ」

 文字を一つ一つ追っているうちに都は、言葉の意味を何一つ理解できていないことに気が付く。目をこすって、また黒いインクとにらめっこした。読んでいるうちに、腕が肘掛から落ちる。さすがに本を閉じて大切に腕の中にしまいながら、殊勝な顔で前を見た。舟を漕いでいることが、自分ではわからない。そんな都の肩を、タイラがいきなり抱き寄せた。タイラの肩に体重を預け、都の体は安定する。「ごめんなさい」と何に謝っているのかもわからないまま口にして、都は目を閉じた。ふっと、タイラが笑って実結の頭をなでる。

「君のママは眠ってしまったよ」

 大人しく撫でられながら、「うん」とだけ実結は言った。タイラの膝の上で自分の膝を抱えながら、実結は小さく「ぷしゅう」と音を立てて息を吐く。

「あのね、ミユね」

「うん」

「ママもタイラもいやがるとおもって、いわないことがあるのよ」

「そうかなって思ってたよ。俺は嫌じゃないからさ、こっそり聞かせてくれよ」

 実結は『ほんとうかしら』というようにタイラの顔を見上げて、すぐにまたうつむいた。

「ミユね、しんじょうのおじちゃん、きらいじゃなかったのよ」

 目を細めたタイラが、「ああ」とだけ言って先を促す。実結は顔を真っ赤にしながら、一生懸命に「おもしろいおじちゃんじゃなかったけど、やさしいおじちゃんだったのよ。だからさいごのおわかれのときは、こわいおじちゃんだってわかったけど、ミユね、ちょっとかなしかったの」と言葉を重ねる。タイラがそっと実結の手を取ると、実結は無意識なのかぎゅっと握りしめた。

「ずっとさみしかったのよ、しんじょうのおじちゃん。ミユね、わかったの。だからいつかおまわりさんにおはなしするときになっても、そんなにわるいひとじゃないですよっていってあげるつもりだったの」

 うなづいて、「俺もあいつは悪いヤツじゃなかったと思う」とタイラは同意する。それから小さな手を壊れないように握り、そっと耳元で囁いた。

「じゃあミユちゃんは、俺のことを怒っているね? いきなりめちゃくちゃにしてしまったね」

 実結が少し考えて、静かに首を横に振る。ぴょこんと飛ぶようにタイラの膝からおりて、どこかへ駆けていった。自分のリュックサックから必死に何かを出してきて、満面の笑みでそれをタイラに見せる。実結の手に余る大きさのスケッチブックだ。

「ミユね、うみをかくのがゆめだったのよ」

 そう言って実結が窓の外を指さす。タイラもつられて外を見た。

 寄せては返す白い波が、一時砂浜と同化する。どこまでも、どこまでも青い海がそこにはあった。

「ミユのばしょをおおきくしてくれて、ありがとう」

 表情を失くしたタイラが、しかしすぐに笑って、眠る都を抱き立ち上がる。ベッドの空いている隙間に彼女を寝かせて、それから実結の前まで歩いて行った。黙って手を差し出せば、少女は迷いなく手を取る。一息に抱き上げて、タイラは実結の背中を撫でた。

「話してくれてうれしいよ、ミユちゃん」

「いやじゃなかった?」

「嫌なもんか、俺はずーっと君と話したくてうずうずしてるんだぜ。ミユちゃんが何を話したって、俺もみんなも、もちろん君のママも、ずっと味方に決まってる。だから無理をしていい子になって、言いたいことを我慢していなくてもいいんだ。見てみろ……ここにいるみんな、言いたいことしか言ってないだろ」

 うん、と実結は真面目な顔をしてうなづく。タイラが声をあげて笑い、寝ている何人かが寝ぼけて目を開けたりした。しかしすぐに目をつむり、また夢の中に潜っていく。背中を擦られている実結も、眠そうに瞬きをした。そんな実結を都の隣に寝かせ、何度か肩をやさしく叩く。

 やがて実結の寝息が聞こえ始め、まるで部屋丸ごと眠りに落ちたような空気が満ちた。タイラはやれやれと腰に手をあてて、その様子を眺める。さすがにここまで寝顔が一堂に会したことはないだろう。

 ユメノは奔放な寝相を見せて、ノゾムの腹に足を乗せている。ノゾムはといえば、何かうなされているようで枕をこれでもかと抱きしめていた。カツトシはうつ伏せに寝ている。微動だにしていない。その隣に、精一杯縮こまってユウキが眠っていた。健康的に胸を上下させて眠っている実結に、寄り添うようにして都も寝息を立てている。

 夕日が射し込んできて、タイラはまた椅子に腰かけた。

「……なるほど、絶景だ」

 思い付きでカメラなどを探すタイラの顔は、確かに街にいる時とは違うようだった。それを見る誰かは、残念ながらこの部屋にはいない。ただ遠くの潮騒が、やけに穏やかに響いた。

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