episode7 気まずい空気にはココアが効くもの(壱)

 全ての人は行くべき場所を知っていて、そうじゃなくたって人の顔色を窺えば、どちらに向かうべきかくらいわかるものなのに。

 顔色を窺う術を知らない青年と、人の顔を見られなくなった少女が、行く道もわからないまま途方に暮れて空を見ていた。ゆっくりと空から目を離して、二人はようやくお互いに気付く。道に座り込んでいた少女が、口を開いた。「えき、」とかすれた声で呟く。

「えき、あっちだよ」

 視界で光が弾けたように、褐色の青年が少女に近づく。その行動に驚いた少女は、少し背筋を伸ばして首をかしげた。

「あ、日本語わからない? キャンニュースピークジャパニーズ?」

 青年は笑顔を作ろうとして失敗したような顔で、何度かうなづく。それから「あの」と喉を震わせた。

「アナタは、ここで何をしている?」

 流暢だがどこか堅さのある日本語に、少女は綺麗な笑顔を見せる。

「うーん、家出かな」

 まあいいじゃん、と言った少女はどこまでもクールに長い髪をまとめた。勢いをつけて立ち上がれば、背丈は青年の胸のあたりまでしかない。それでも気圧されたように、青年は後ずさった。

「あたし、ユメノ。中道夢野。道案内ぐらいならするけど、でもお金持ってないし恋人ごっこもできないから。そういうの求めてこっち近づいて来たんなら他に行って」

 青年は勢いよく首を横に振り、「アイゼンカツトシという名前です。日本人です」と自己紹介をする。「それちょっと厳しいよ」とユメノは真顔で突っ込んだ。

 どこへ行きたいわけでもなさそうなカツトシを見て、ユメノはちょっと苦笑する。正体不明の外国人と沈黙の中見つめ合うのも辛い。仕方なく制服のポケットからコインを出して、軽く指で弾いた。

「ココアとか、好き?」

 自動販売機にコインを投入して、答えを聞く前に押した。ガコンと重い音がして、飲み物が落ちる。戸惑うカツトシの目の前に、缶ジュースを差し出した。

「あの、お金」

「ウェルカムトゥジャパン! ってことで気にしないで」

 いつまでも迷っている様子のカツトシに、ユメノはわざわざ缶ジュースのプルタブを立ててまた差し出す。恐る恐る受け取って、カツトシは口をつけた。そのまま一気に飲み干す。飲みっぷりに驚いたユメノが、瞬きをして「喉、かわいてたの?」と尋ねた。

「お腹、すいてる?」

「うん」

「もしかして全然食べてない?」

「わからない、です」

 ユメノはカツトシの手を強引に取り、そのまま何も言わず引っ張る。活気のないファミリーレストランに連れ込み座らせれば、カツトシは当惑しながらも水を美味しそうに飲んだ。カロリーの高そうなものを片っ端から注文して、ユメノは頬杖をつく。

 知らない外国人に食事を提供する家出娘――――。

 面白そうな脚本だけれど、見る人を選びそうなドラマだ。

 運ばれてきた料理に目を輝かせて、カツトシはユメノを見る。ユメノもこんなに豪勢な食事は久しぶりで、正直に喉が鳴った。

「いいんだよ。食べようよ」

 ユメノがフォークを持つと、カツトシが待ちきれない顔でパンを掴む。しばらく、空腹のままに咀嚼音が続いた。無心でパンを頬張っているカツトシに、ユメノはふと心配になる。

「お兄さん大丈夫? これから生きていける?」

「うん」

「なんで日本来たの?」

「お金あればご飯食べられる国って聞きました」

 食べるのをやめて、カツトシは顔を上げた。「お金がなきゃご飯食べられない国だと思わなかった」と真面目な顔で言う。深いな、とユメノは思った。今度はカツトシがユメノに尋ねる。

「どうしてこんなことしてくれますか?」

「別に。これもなんかの縁でしょ」

 あっけらかんと答えるユメノをじっと見つめ、カツトシは「ありがとう」と呟いた。ユメノが「逆にお兄さんはなんであたしのとこ来ちゃったの?」と笑う。少し迷いながらも、カツトシは答えた。

「ユメノちゃん……空を見てたから、僕も」

「……まあ、あんなところで空なんか呑気に見てたのあたしたちだけだったよね」

 というか、とユメノはこらえきれなかったように吹き出す。「いきなりユメノちゃんって、大胆だね」それから片目をつむって「アイちゃん」と楽しげに言ってみせた。カツトシはきょとんとしている。よくわからなかったようだが、何度もうなづいて肯定していた。

 あらかた食べ終えて、カツトシは立ち上がる。

「お金、払います」

「いいよ。無理しないで」

「だいじょうぶ」

 止める間もなく、カツトシは外へ出て行ってしまう。このまま逃げられたとしてもそう残念な気持ちにはならないけれど、ちょっと寂しいなとユメノは思った。そんなユメノの考えを裏切って、十分程度でカツトシは戻ってきた。その手には、分厚い財布が握られている。水を一口飲み、ユメノは立ち上がった。

「あのね、アイちゃん」

「お金、もらった」

「あのね、それはね、あったところに戻してきてね」

「これでご飯たくさん食べられます」

 ユメノは少しうなだれて、「ダメだよぉ」と嘆く。どこから調達してきたものだか知らないが、少なくともカツトシのものではあるまい。

「人のものは盗っちゃダメなんだよ、日本じゃ」

「盗んでない。もらった」

「痛いことして?」

「ダメですか」

 ひどく真っすぐな目をして、カツトシが問う。「だって負けた方が持っていても意味がないでしょう? 勝たなきゃいけないのだから、弱い人がご飯を食べていても仕方ないでしょう?」と、続けた。ユメノは何も言えずにため息を吐く。そんなことないよ、と言いたかったけれど、納得させられる言葉など持ち合わせてはいない。それにユメノだって、『勝った方が』という考えに共感できないわけではなかった。賛同できないとすればそれは、戦う意思のない人間を無理やりリングに立たせることだけだ。決闘なんて許される国でも時代でもないが。

 いいよ、とユメノは呟いた。「じゃあもうそれでお会計しようよ。綺麗事言ってんのも疲れた」と。

 ひどく不思議そうな顔をしながら、カツトシは財布を開く。分厚く見えていた財布の中身は、そのほとんどが不要なレシートだった。ここの食事代くらいは払えるけれど、なんだかくたびれ儲けだ。

 店を出て、ユメノは伸びをする。もう空は薄暗く、陽が落ちていた。

「アイちゃん、これからどうするの」

「わからない。です。あの、ユメノちゃんは」

「あたしはぁ、今日はとりあえず、どっかあったかそうなところで寝る」

「家は」

「だから家出だってば」

 欠伸まじりにユメノは、「ベッドに寝るんでもお金がかかるんだからぁ」と歌うように嘆いた。カツトシが『なるほど』という顔をする。嫌な予感がして欠伸を途中で止めると、案の定カツトシが通行人に殴りかかっているところだった。

「ストーップ、ストップ」

 慌てて止めると、カツトシは『なんで?』という顔のまま拳を下ろす。

「わかった。わかったから。あたしがやるよ。アイちゃんは後ろにいればいいから」

「働くのは男の仕事」

「男女平等社会バンザイ」

 おとなしくしててね、と釘を刺し、ユメノは肩を回す。気合を入れて、道行く人に声をかけることにした。「あの」と声をかけても誰も立ち止まらない。「おい」と言っても避けられるばかり。

 これは相当に、難易度が高い。多少は乱暴なことも致し方ないと思えるほどに。

 ほとんど自棄になって、「あの! 呼んでるんですけど!」と叫ぶ。その時、ふらふらと歩いていた一人の酔っぱらいがちょっと振り向いて――――確かに、笑ったような気がした。

 踵を返して歩いて行こうとする男を追いかけて、ユメノは「今笑っただろ!」と叫んだ。男の歩調はゆっくりで、簡単に追いつく。その腕を引っ張れば、男は眠そうに振り向いた。

「言いがかりですよ、お嬢さん」

 二十代やそこらの若者だと思っていたのに、その声は妙齢のそれだ。あまりにも落ち着いていて、金など巻き上げられそうにない。それでも不思議な興奮に、ユメノは話し続けた。

「今、あたしたち見て笑ったよな。絶対に笑った。何がおかしいんだよ、言ってみろよ」

「ぎゃんぎゃん喚かないで。僕ちゃん昨日ワインをウイスキーで割ってから、頭が痛いんだ」

 そこでユメノは胸を張ってみせる。「金だよ」と言ってやれば、酔っぱらいは「だろうな」と簡潔に答える。

「痛い目合わないうちに有り金おいて帰った方がいいよ、おっさん」

「まるで天使のような啓示だこと」

 肩をすくめた男は、「残念だが」と言った。「家出娘と訳アリ外国人に対する慈善活動はやってなくてね」と続ける。怒りで顔を赤くしたユメノの隣で、カツトシが動いた。拳を握って、大きく振りかぶる。

「あ、ちょ、アイちゃんまだ早いよ!」

 しかしユメノ自身目の前の男を殴ってやろうと思っていたからか、止めるのが一瞬遅れた。そのままカツトシが、男の顔面に右ストレートを入れる。男が、ぽつりと呟いた。

「……うるせーんだよなァ、頭ン中まで」

 カツトシの右腕は綺麗に受け止められている。離れようと身を引くが、その腕は一ミリも動かない。酔っぱらい男がため息まじりに「オヤジ狩りなんてこわーい」と身をよじってみせる。それからカツトシの腕を横に流し、腹に拳を入れた。カツトシが膝をついて悶絶する。そのままゆっくりと、地に伏した。

 ユメノは呆然とする。男がカツトシを担いでいこうとした。ハッとしてその背中を殴る。

「ちょっと! どこ行くんだよ! おい! ふざけんな!」

 男が、ユメノを見た。底が見えそうなほど透明で、それでいて何も見えない瞳だった。ユメノは喉を鳴らし、そっと離れる。勝てない相手に挑むほど、自棄を起こしているわけではなかった。

「ねえ、どこに連れてくの? 殺すの? その人、こっちに来たばっかりで何にもわからないんだよ。あんたに絡んだのあたしだし、そんなひどいことしないで。あたし謝るし、ねえ。警察呼ぶよ。ねえって」

 不意にまた、男が振り向いた。「お前、ポメラニアンに似てるね」といきなり言う。「こわくて尻尾巻いてるくせに俺の踵に噛みついてくるいたいけなポメ公に似てる」と真顔で言い放った。その評価には腹が立ったが、ユメノは黙ったままでいた。

「殺さねえよ。そういう気分じゃねーから」

 そう言って男は踵を返し、カツトシを担いで歩いて行ってしまった。ユメノは当惑しながらも、ついていくしかない。今日会ったばかりだが、危なっかしすぎる異国人を放ってはおけなかったのだ。




☮☮☮




「お運びいたしましょうか」

 小さなホテルの、人の好さそうなボーイが声をかけてくる。どうやら担がれているカツトシを、酔ってつぶれた若者と決めつけている様子だった。それを朗らかに断って、男は奥へ進んでいく。助けを呼んだ方がいいのかまだ迷いながら、ユメノも後に続いた。

 人ひとりを担いだまま部屋のドアを開け、男はここで初めてユメノを振り返る。部屋に入れずに戸惑っているユメノを。それから、無言で手を伸ばしてきた。ユメノは思わずそれを振り払って、背中がじっとり汗ばむのを感じる。男は説明もなく、興味もないように部屋の奥へ進んでいった。

 男はベッドにカツトシを下ろし、まだ迷っている風のユメノに「ドアを閉めろ」と短く言う。ユメノは迷った末に、部屋に入ってドアを閉めた。ジャケットを脱いで長椅子に腰かけた男が、眠そうに「名前は」と尋ねる。ユメノは立ったまま睨みつけ、「人の名前聞くときは自分から言うんだよ」と吠えた。男はちょっと笑ったようだった。何も言わずに目を閉じる。眠るつもりらしい。

 拍子抜けしたユメノは、音を立てずにカツトシの横に移動する。穏やかな寝息を立てていて、ほっと胸をなでおろした。今まで、よく眠れていなかったのかもしれない。目の下にくまが見えた。

 そっと、ユメノも目を閉じる。ずっと眠れていなかったのは彼女も同じで、ベッドの上でまどろむだけでも久しぶりのことだった。

 このまま眠ってしまったら、危険だろうか。あの男は何のつもりでこんなところにユメノとカツトシを連れ込んだのだろうか。やはり殺されるのだろうか。それともユメノやカツトシはどうにかすれば金になるのだろうか。わからない。わからないけれど、男はいま本当に眠っているようだ。逃げるにしたってカツトシが起きなければ難しい。

 男が起きだしたらきっとわかるだろう。高ぶったまま、寝ても眠らない耳がきっと物音を聞き取るはず。

 そう自分を納得させて、ユメノは抗いがたい眠気に体を預けた。

 まどろみの中で声を聞く。日本語ではない、英語とも違う、どこか異国の言葉だった。隣を見ると、カツトシが目を強く閉じたまま何かを呟いている。ユメノはそっと彼の髪をなでた。強張っていた表情が、幾分か和らいだように見える。

 窓の外を見れば朝日が差していた。何時間寝たのだろうと不思議な気持ちになる。

「アイちゃん、大丈夫? アイちゃん」

 椅子で寝ている男を起こさないように、静かにカツトシを揺り起こした。カツトシは最初ぼんやりとユメノを見ていたが、次第に状況が飲み込めてきたようで苦いものでも食べたかのような顔をする。

「ここ、どこ?」

「わかんない。ホテルかな」

「あの男は」

「あそこで寝てるよ」

 驚いたように、カツトシはいきなり立ち上がった。それから、音を立てずに男に近づいて行き、テーブルに置いてあった灰皿を掴んで振り上げる。ユメノが止める暇もなく、勢いよく男の額にそれを下ろした。

 瞬間、男が目を開ける。鬼気迫る表情のカツトシを見て、ぽかんと口を開いた。間一髪のところで灰皿を避け、「兄ちゃん落ち着け」と叫ぶ。

「昨日の俺がやったことは昨日の俺が責任を取っただろうから、今日の俺とは関係ない」

 転がりながらそんなことを言う男は、慌てているからか昨日のことを思い出せないらしい。こめかみを押さえながら、カツトシとユメノを交互に見た。「ここはどこだ」と男が言う。「こっちが聞きたいよ」と思わずユメノは答える。

「まあ、落ち着け。落ち着いて考えさせてくれ」

 そうぶつぶつと言う男は、どうやら頭が痛いらしく、顔をしかめたままだ。「まず、お前らは誰だ」と男が言う。「名前を聞くんならそっちから」と言ってやると、男は先ほどまで座っていた椅子にまた腰かけてため息をついた。

「俺が聞いてんのは名前じゃなくてだな」

 そんな男を、カツトシがまた灰皿で狙う。男はそれをかわしながら、やれやれという風に今度はカツトシを組み敷いた。「ちょっと!」とカツトシが言う。

「ちょっと! なんなのよ、あんた!」

 男の『やれやれ』という顔が、『What?』という顔に変わった。そのままユメノのことを見るが、ユメノも当惑してカツトシを見る。

「離しなさいよ! この酔っぱらい! チンピラ! ピストルがあればあんたの脳味噌そこら中にぶちまけてやるんだから!」

 男も、ユメノも、目が点になる。しばらくカツトシの罵倒を聞いていた男が、不意に肩を震わせ始めた。カツトシから離れ、「こいつは」と声を上げて笑う。

「随分と口の悪いオネェ様だな、この外国人は」

 ユメノも、力なく笑った。こうやって可笑しな気持ちになったのは久しぶりで、なんだか笑い声と一緒に涙も出てきそうだった。カツトシは、ユメノと男の反応が理解できずにぽかんとしている。それから自分の失態に気付いたように顔を赤らめた。

「……僕、日本語教えてくれたの女の子だったから」

「その、脳味噌ぶちまけるってのもか? クールな女だな」

 カツトシが、男を睨む。「悪かったよ」と笑いながら、男はユメノとカツトシに椅子に座るよう促した。立ったまま待っていると、男は小さなキッチンに歩いて行き、何か冷蔵庫をあさり始める。やがていい匂いがここまで届いて、ユメノは自然と席に着いた。カツトシもしぶしぶという体で椅子に腰かける。白い皿に載って出てきたのは、ベーコンエッグのトーストだった。

「思い出してきた……俺がお前らをここに連れて来たんだったな」

 確認と言うよりはただひとりごちて、男は自分のトーストを食べ始める。ユメノとカツトシは、自分たちの前に置かれた美味しそうな食事を見て、ただ当惑していた。食えよ、と男が言う。「オヤジ狩りなんてするくらいだ、腹減ってんだろ」と。恐る恐る、ユメノがそれを口に運ぶ。温かくて、美味しかった。こんな簡単な朝食でも、人の手料理なんて食べたのは久しぶりだ。いつぶりだか思い出せないほど、久しぶりだ。ユメノの様子を見て、カツトシもトーストを口にする。美味しそうに、全部食べた。

「それで、お前ら何なの。どうした?」

 ユメノとカツトシは顔を見合わせ、簡潔に名前だけを告げる。

 男は興味なさそうに鼻を鳴らし、「タイラ」とだけ呟いた。それが男の名前なのだと、少しの沈黙の後にユメノは知った。

 タイラは三人分の皿を重ねながら、「カツトシくんにユメノちゃんねぇ」と繰り返す。言葉は後に続かず、皿を片付ける音だけが響いた。

 今度は、ユメノの方から問いを重ねる。

「タイラって名前なの?」

「さっきそう言った」

「それって名前? 苗字?」

「ミドルネーム」

「家はここらへん?」

「ここ」

 いい加減な答えばかり、返ってきた。小声で「ムカつく」と呟くと、奥の方でタイラが笑う。本当に、ムカつく。

 カツトシはといえば、まだ物足りなそうに自分の指を見ていた。満腹にならなかったのだろうか、確かに成人男性には足りない食事だったかもしれない。のんびり戻ってきたタイラは、それを見て頭をかいた。

「なんだ、食パン持ってくか? あとモヤシくらいしかねえんだが」

 いいよ、とユメノは答えた。「その代わり」と唇をとがらせてタイラを見る。

「お金貸してよ」

 タイラは肩をすくめ、「なるほど」と呟いた。「なるほど強かな家出娘だ」と。それから、ふと表情を緩ませた。

「お前ら駆け落ちごっこでもしているのかと思ったが、なんだ、保護者同伴の観光巡りだったか」

 ムッとして、ユメノはタイラを睨む。「馬鹿にすんな」と噛みつけば、タイラは「違えよ」と笑った。何が違うのかは、教えてくれなかった。その代わりタイラは、脱いだジャケットから財布を取り出す。

「お前らと貸し借りの約束をしても仕方ないからな、やるよ。これで国に帰れ」

 紙幣を三枚抜き取り、ユメノの顔の前にかざした。それを受け取りながら、ユメノは黙る。道理に合わない、と思った。それは全く罪悪感などとは異なる感情だ。どちらかといえば、反発。この状況でどう頑張っても対等になど見られないということへの、反発だった。それでもユメノはその紙っぺらを自分のポケットへねじ込む。何も言わずに立ち上がって、カツトシの腕を引っ張った。

 タイラはこちらを見ないまま、「気をつけろよ」と目を細める。余計なお世話、と思いながらユメノは部屋を出た。行くあてなどどこにもないというのに、勇ましく。カツトシはぼんやりとついてきた。

 ホテルを出てずんずん進んでいくユメノに、初めてカツトシが声をかける。

「ユメノちゃん、どこ行くの」

「わかんない。けど、遠く」

 また、空を見た。

 戻れないほど遠くを目指していた。それでもふと不安になって、うずくまって地面を見る。「アイちゃん」と小さく呼びかけると、カツトシはそっと耳を寄せた。

「アイちゃん、これからどうするの」

「ユメノちゃんといる」

「なんで?」

 困ったような顔で、カツトシはユメノの髪をかき上げ耳にかける。「ユメノちゃんが家に帰れるまで」と言った。なんで、とまた尋ねれば、カツトシが苦笑する。

「僕がさみしい」

 なんだか肩の力が抜けてしまって、ユメノは立ち上がった。「あたし帰れるとこないから」ときっぱり言う。

 それでもどこかにたどり着こうとするから、苦しい。決まっている。そんなのわかっている。ただ、遠くへ。そうすればきっとどこかには、眠れる場所があるに違いないから。

「アイちゃんこそ、帰んなきゃいけないんじゃないの」

 ユメノと肩を並べ、カツトシは目を細める。「ないから」とだけ答えた。

「……行き先は?」

「それも、ない」

「ふーん」

 他人事のように相槌を打って、ユメノは伸びをする。「じゃ、一緒じゃん」と呟いて。カツトシが嬉しそうに笑うのが見える。そういう顔は本当にハンサムで、彼の笑顔は結構タイプだ。ずっと笑っていればいいのにとユメノは思った。

 きっと、

 何度うずくまって地面を見たって、また空を見たくなる。そのために空が綺麗だ。人が地面ばかり見ないように、今日も空は綺麗だ。

「今日はどこ泊まろっか」

「お金、ある?」

 うーん、と言いながらユメノはポケットに手を入れる。タイラから貰った紙幣が指先に当たった。きっと一週間くらいは滞在できるだろう。タイラはこれで家へ帰れと言っていたが、そんなつもりも場所もない二人にはできない相談だった。大丈夫だよ、とユメノは答える。また他人をカツアゲでもされたらたまらない。

 ゆっくり歩きながら、ユメノはあちらこちらと指をさす。

「あれはね、クレープ屋」

「クレープ」

「クレープは……美味しい」

「クレープはおいしい」

「タピオカは餅」

「タピオカはモチ」

「あれはカラオケ。いっぱい歌ってストレス発散」

「ストレスハッサン」

「でも今はそんなお金ない」

「お金ない」

 難しい顔で繰り返しながら、カツトシは何度もうなづく。「今度行こうね」とユメノは笑った。この奇妙な友人と街を巡るのは、きっと楽しいだろうと思う。そこまで考えるとなんだか胸が苦しくて、ユメノはそっと拳を握った。得難い何かを永遠に失ってしまったように思う。今まで生きてきた世界に見事に捨てられた自分が、自ら捨てた全ての青春だろうか。

 どこか気落ちしたようなユメノを心配したのか、カツトシが手を伸ばす。

 その時、はしゃいだような声が響いた。

「いました! あの外人ですか、兄さん!」

 指をさされたカツトシが、きょとんとして手を引っ込める。4,5人の男たちが走ってくるところだった。

「お前だろ、兄さんから財布盗んだやつって」

 若い男たちの後ろから苦々しい顔で歩いてくる男に見覚えがあるようで、カツトシはようやく納得の表情をする。「違いますよ」と生真面目に呟いた。

「僕、盗んでないです。その人から貰ったのよ」

 男の表情がさらに苦々しくなる。「ふざけんなよ」と若い男たちが吠えた。どうやらカツトシが持ってきた財布の持ち主とその弟分たちらしい。ユメノは頭を抱えつつ、前に出た。

「あの、ごめんなさい。この人外国から来たばっかりでよくわかってなくて。謝ります。お金も返します」

「返せんのかよ」

「五千円くらいなら今」

「は? ナメてんのかクソガキ」

 若い男が鼻で笑いながら腰に手をあてる。「兄さんの財布の中身が五千円なわけねえだろ。十万だよ、十万」と言い放った。対してユメノは唖然とする。兄貴分らしき男を見ると、どこか気まずそうに押し黙っていた。

「十万は、ちょっと」

「使ったのかよ。出るとこ出てもいいんだぞ、オラ」

「いやあの、最初から十万なんて財布に入ってなかったし」

「うるせえぞ。盗ったくせにごちゃごちゃ言うんじゃねえよ」

 確かに、そうだ。他人の物を奪ったからには、その額がなんだと言う権利はないように思える。訴えられるのも困るし、そこは黙って引いた。すると若い男は満足そうに、「どうすんだよ」と言ってきた。

 そんなこと言われたって、どうしようもないし。

「あの、また……今度!」

 カツトシの腕を取って走る。敵前逃亡だって美学である。勝算さえあれば。

 後ろから嘲笑だか怒声だかわからないものが飛んできた。立ち止まってそれを確認する暇などあるはずもなく、ユメノは身軽に走って行く。カツトシは不思議そうな顔だ。逃亡の必要性を感じていないように。冗談じゃない。

「ちゃんと走って!」

「なんで? 僕、勝てるよ」

「勝っちゃダメなの! 正しくなきゃ勝てないの!」

 警察の厄介になるのも困る、これ以上目立っても困る。言い訳の言葉も出てこないようでは、正しさの欠片も掴めやしない。だから、戦えない。正しいと証明できるものだけが強いこの国じゃ。

 後ろから何か飛んできて、思わず避ける。それはファーストフード店の紙袋に入ったゴミで、吸い込まれるように前方の車にぶつかった。運転席のドアが開き、不機嫌そうな初老の男が降りてくる。思わず「ごめんなさい」と謝ったユメノに近づき、「どうしてくれんだ、傷がついただろうが」と怒鳴った。

「え、ゴミが当たっただけでそんな」

「うるせえよ、どうしてくれんだって聞いてんだぞ」

「あたしが投げたんじゃないし」

 後ろからは煽るような声が聞こえてくる。こんなところで足止めを食らっているわけにはいかない。「ちょっとごめん」と言いながら、ユメノはまた走る。「あ、おい」と戸惑いながら男もついてきた。

 これだから大人は。何かあるとすぐ金で解決させようとする。それで解決してしまうからよくない。よろしくない。

 ちらりと後ろを向けば、なんだか人が増えているように見えた。うわ、と言いながらまた前を向きなおす。

「あっ」

 気づけば目前に、人の背中があった。今さらブレーキなどかけられるはずもなく、そのまま衝突する。「ご、めんなさい」と恐る恐る顔を上げると、振り返った顔はどこかで見たことのあるものだった。ユメノは目をパチクリさせて、呟く。

「タイラァ?」

 彼はじっとユメノたちを見て「ああ」とようやく言葉を発する。「家出娘と異国オネエ様」と呟いて笑った。その呼び名はあまり嬉しくないが、そんなことでつっかかっている暇はない。背後の男たちも追いついたようで、後ろに苛立たし気な息遣いが聞こえる。やがて、その中の一人が声を上げた。

「あれ、タイラじゃねーか?」

 名前を呼ばれたタイラが、無表情にそちらを向く。「なんだお前ら」と不機嫌そうな声で威嚇した。男たちもどこか慌てたふうに、「ちげえんだよ」と弁解する。

「そいつらが兄貴の財布を」

 そう言いかけるのを、タイラは嫌そうに遮った。「多勢に無勢か? いい大人がガキを追いかけまわすなんてみっともねえことするな」そうタイラが言うと、男たちはいささか怯む。

「でもよ、そいつらが」

 ぐちぐち言うんじゃねえよ、とタイラは睨みながら歩いて行った。ふと居酒屋の前の立て看板を両手で掴み、雑に揺らす。

「おう、チビ。そんなちっせえこと言ってるからいつまでもチビなんだぞ」

 沈黙が辺りを包んだ。

 看板に対してメンチを切り続けているタイラに堪えられなくなったユメノが、「それ看板なんだけど」と控えめに突っ込んでおく。わかってるよ、とタイラは面倒そうに言った。

「看板に喧嘩売るなんてタイラさんったら面白―い、ねえ菊花ちゃん」

 そう自分で言って後ろを振り向く。が、菊花という人物らしき影はどこにもない。自棄を起こしたように、タイラが「わあ菊花ちゃんだ」と言いながらユメノに飛びついた。

 人違いである。恐ろしいまでに人違いである。

「ちょ、違うんですけど。てか酒くさっ」

「あれ菊花ちゃん、おっぱいなくなっちゃった」

「殺すぞ」

 ユメノから離れて、タイラはしげしげと周りを見た。

「店長、新しい子入ったの?」

「誰に話しかけてんだよ」

「この子も可愛いじゃん、胸はないけど」

「ほんと三十回ぐらい殺すからなお前」

 よろめくように後ずさり、タイラがユメノの肩を掴む。「ごめん、傷ついたんならあやま」と言いかけ、動きを止めた。何かえづくような仕草をする。ユメノは「吐くなよ?」と慌てて離れた。パッと顔を上げたタイラは、何か思い出したように、当惑して立ち尽くしている男たちに向き直る。

「何見てんだよ、見せモンじゃねえぞ」

 そう理不尽に難癖をつけ、ずかずかと歩いていく。若い男が焦った表情で、「酔ってんのか、タイラ」と尋ねた。「酔ってねえよ」とタイラは答える。「アフリカゾウで轢き散らかすぞてめえ」などと言い捨てた。完全に酔っている。

 話の通じる様子のないタイラに対し、男たちはひどく困惑している様子だった。それを見たタイラが、眉をひそめてポケットを探る。

「金か? 金が欲しいのか? くれてやるよそんなもん」

 タイラが角ばった財布ごと、投げつけた。一番前に出ていた男の頭にクリーンヒットして、重い音を立てる。誰も拾おうとはしなかった。こんなに誠実さの欠片もない事後処理もなかなかないだろう。一日を無駄にした虚しさを、誰もがその胸に感じた。と、その時である。

 今まで黙っていたカツトシが動いた。止める間もなく、理由のない暴力が始まった。ユメノの隣に立っていたタイラでさえ、呆然とそれを見ている。

「アイちゃん! ちょっと、ステイ! ハウス!」

「どうして? チャンスなのに」

 何のチャンスだというのか。叩き潰された男が一人、カツトシを睨んで「殺す」と呟いた。それを聞いたタイラが、ユメノの腕を掴んで歩き出そうとする。「ユメノちゃん」とカツトシが呼ぶ。タイラは振り返って、「お前は来るな厄病神」と嫌そうな顔をした。それでもカツトシはついて来る。ユメノは複雑な表情で、タイラに連れられていた。

 しばらく歩いて、タイラは振り向く。所在なさげな顔をして、やはりカツトシはついて来ていた。タイラがため息を吐く。

「お前、この小娘に少しでも好意があるのならどこかへ行け。二度と関わってやるな」

「どうして? 僕、ユメノちゃんを守れる」

「こいつを守ってやらなきゃならねえ立場に落とし込んでんのがてめえだからだよ」

 言葉に詰まって困った顔をするカツトシに、タイラは頭をかいて「それに」と畳みかけた。

「『守れる』なんて大層なこと言ってたが、お前、俺からこいつ守れんのかよ。やってみろ、お前のやり方で俺からこの小娘守って見せろよ」

 言って、タイラはわざとユメノを強く突き飛ばして転ばせる。「くっそ酔っぱらい」と言いながらユメノが起き上がるころには、カツトシはタイラに殴りかかっていた。その拳を表情も変えずに受け止めて、タイラはゆっくり押し返す。

「気に入らねえ目をするなぁ、お前ら」

 拳が止まった。カツトシが腕を引こうとするが、ぴくりとも動かない。そのまま、タイラがカツトシの腹に蹴りを入れた。カツトシはえづきながらうずくまる。そんなカツトシの胸ぐらを掴んで、タイラは拳を握った。人が人を殴る音が聞こえる。何度も何度も、時には蹴り飛ばして、カツトシが苦しげに喘いだってやめない。

「やめてよ、やめて、死んじゃう」

 ユメノは必死に縋り付く。ようやく殴るのをやめたタイラが、ユメノを見た。「お前もお前だ」と目を細めながら言う。

「いつまでこの馬鹿の保護者をやっているつもりだ」

「え?」

「お前が今おんぶに抱っこしているもんは、お前にとっちゃ自分を捨てる前の世界かもしれねえ。お前が必要とされていると思い込んでた、家族かもしれねえしダチかもしれねえし、恋人かもしれねえ。でもよく見てみろ。そんなタマか、こいつ」

「何……言ってんの」

「お前の希望に沿わなかった世界の代替として、こいつを負うな」

 戸惑った。「そんなんじゃ」と口に出した言葉は情けないほどに震えている。今までの親しみも好意もその存在自体が、失ったものの代替品だったなどと、認めない。認められない。それでもタイラは容赦なく続ける。

「傷の舐め合いを、俺は否定する気なんてねえ。本当に舐めて治る傷もある。だがお互い傷を見せもせず関係ない場所を舐め合ってんのは見ていて不快だ。相手が信用できないなら傷ついていること自体隠せ、少なくともこの街にいる間は」

 風が無関係に吹き抜けて、ユメノの髪をもてあそんだ。そういえば、シャワーを浴びたのも何日前だろう。汗で頬に張り付いた髪が鬱陶しい。いつまで続ければ、と不安が胸をよぎる。いつまでもは続けられない現実逃避だ。そんなことはもう薄々わかっていて、それでも帰る場所はどこにもない。

 高ぶる感情を押さえもせず、ユメノは「あんたに」と口にした。

「あんたに、何がわかるんだよ……!」

 いきなり顔を上げて睨みつけたユメノに、タイラは首をかしげる。そのまま何も言わないので、沈黙が怖くなってユメノは言葉を紡ぐ。

「あんたみたいに……みんな暴力で従わせて一人で生きてるような……そんな奴に、人の気持ちなんて」

 わからないよ、とユメノは絞り出すように言った。タイラは表情を変えない。ただ低い声で、「行き先があるのなら送っていくぞ」とだけ囁く。ユメノは首を横に振り、カツトシを肩に担ごうとする。重くて手間取ったけれど、なんとか引きずるようにして移動した。タイラは追ってこない。しばらくして、背中からタイラの踵を返す音が聞こえた。今までどんなに責められても出てこなかった涙が、鼻の奥にツンと響いて頬を伝う。

 背中を向けたのはユメノだ。理解を拒んで突き放したのもユメノだ。だから上を向く。歯を食いしばって歩き続ける。

「アイちゃん、起きて。歩ける? ……ダメだ、病院。保険証、ないよね。どうしよ。くっそお、あのアル中ゆるさねえ」

 下品な言葉で恨みごとでも言っていれば、涙はそのうちおさまっていくものだから。鼻をすすって歩いていく。今日も行くところがない。凍死するような季節じゃなくてよかった、という思いと、凍死するような季節になったら、という思いが同時に去来する。なんとか考えないようにしながら、駅の近くのベンチに腰を下ろした。

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