episode7 気まずい空気にはココアが効くもの(弐)

 カツトシは目を覚まさない。死んでしまうのではと怖くなって、ユメノは何度も呼吸を確かめた。そのうちにひどくくたびれて、浅い睡眠をとる。

 真夜中、物音で目が覚めた。うっすら目を開ければ、金属バットが見えて動悸を覚える。瞬時に頭が覚醒し、ユメノは立ち上がった。

「待って、待ってごめんなさい」

 男たちはどっと笑う。馬鹿にされていると腹が立ったが、それどころではなかった。必死で頭を下げて、「馬鹿でお金もないけど、もう迷惑かけないから」と不器用に言葉を重ねる。しかし男たちは、謝罪にも言い訳にも興味がないように腕を組んだ。

「お前ら、平和一って知ってるだろう」

「は? タイラワイチ? 誰それ」

「仲良くしてただろうがよ」

「タイラワイチ? タイラ……? もしかして、あの酔っぱらいのこと言ってんの」

 ようやく彼に思い当たって不機嫌そうな顔をするユメノに、男が勿体つけるように近づいてくる。「お前たちのことは殺す」とはっきり言い切った。ユメノには、もはやこの男たちが自分らとどういう因縁があってどこで別れた相手なのか判別がつかない。

「お前たちのことはいずれ殺す。が、その前に面白いことに付き合え」

「面白いことってなに。私たちにとっても面白いの」

「面白いに決まってんだろ。なんてったって、平和一を殺しに行くんだぞ」

「へえ、それは」

 確かに面白そう、とユメノは不覚にもそう思った。

 カツトシは眠り込んだまま背負われている。自分たちは殺されるらしいし、その前にかのバイオレンスアル中へ迷惑をかけ残してもよい気がした。存外冷静な自分に困惑しながらも、ユメノは歩いていく。

「おいお前ら、タイラの居場所知ってんだろ」

 そんなことを言われて、ユメノもさすがに当惑する。それを教えてしまうのは人としてどうかと思う。しかし「こいつがどうなっても」なんてカツトシの頭を掴まれれば、考える暇もなく「あっち」と指さしている自分がいた。実際、守るのならばカツトシだ。

(あの男、死にそうにないし)

 歩いていくうち見たことのあるホテルを目にして、ユメノは少しだけほっとする。男たちは図々しく中へ入っていった。人の好さそうな顔のボーイが、うっすらと笑みを浮かべて会釈する。舌打ちをした男が、「部屋は?」とユメノに尋ねた。しばらく考えたが、そこまでは覚えていない。黙ったユメノを見て、男たちは一層不機嫌になる。

 ふと、ボーイがどこかへ電話をかけるの声が聞こえた。「お休み中申し訳ありませんが」と丁寧だが慣れた口ぶりだ。「お客様のようです、タイラさん」と。男たちは気づいていない。ユメノは唇を強く結んだ。頭の中で、なんとはなしにカウントする。

 1、2、3……ユメノの体感で25秒。ミリタリージャケットを着こんだタイラが、階段を降りてきた。その表情はうかがえない。それが近づいて来るにつれ、男たちが動揺をあらわにかたまる。ようやくタイラの顔が見えた。まったくの無表情であった。

「表出ろよ」

 先に言葉を発したのはタイラだ。頭をかきながら面倒そうな声音を作っている。あーあ、とユメノは思った。あーあ、闇討ち失敗。

 男たちは親に叱られた子供のように、大人しく外に出ていく。途中でボーイが「タイラさん」と声をかけた。

「ほどほどに」

「坊ちゃまがそうおっしゃるのなら」

 おどけた様子に安心したように、ボーイは自分の仕事へ戻っていく。外に出ると、唇にピアスを開けた若い男が口を開いた。

「タイラ、俺たちはお前に喧嘩を売りに来たんじゃなくてな」

 先ほどまでは『平和一を殺す』などと物騒なことを言っていたはずなのに、この低姿勢ぶりである。ユメノはなんだかがっかりして、見当外れに道路なんかを見ていた。

「取引しようぜ、クールにさ」

「しねえよ、誰だてめえ」

 バッサリとそう返され、青年は少し気圧される。「オレだよ、オレ。この前あんたに麻雀で身ぐるみはがされた」と必死に自己主張した。が、タイラの方では首をかしげて「そんな奴毎日いるよ」と呟く。どうやらさっぱり思い出せないようだ。鼻で笑ったユメノを、青年が自棄のように押し出す。

「こいつ! こいつら! こいつらで取引しよう」

 初めて、タイラが虚を突かれたような顔をした。「効果はてきめんだ!」と青年は叫ぶ。驚いただけだろうが、ユメノまで調子に乗って「よっ!」と声をかけた。

「何が『よっ!』だ小娘……案外元気そうで何よりだよ」

 面倒なことになった、と呟いてタイラは空を見る。見事な曇天だ。雨と晴れの境界線をじっと見つめ、タイラはため息をついた。青年が嬉しそうに「こいつらがどうなってもいいのかよ」と吠える。タイラは頭をかきながら、「俺と関係ない」と言った。

「今日は随分薄情なんじゃねえか、タイラさんよ」

「そいつらは俺とは関係ないから、こんなことに利用できるとは考えるな」

「じゃあ、殺しちゃってもいいわけだな」

 タイラは黙って、ただ前を見据える。青年が何か言いかけたとき、ようやくタイラは口を開いた。

「懲りねえな、お前・・

 風が起きて、ユメノの髪が揺れる。背後から、獣の遠吠えのようなカツトシの声。ユメノは瞬きをして、大丈夫とささやいた。カツトシに向けていったのか、それとも自分を安心させようとしたのか、口に出した瞬間にわからなくなる。男が二人倒れた。誰かがユメノの腕を掴もうとするのを、思い切り蹴とばして「ユメノちゃん」とカツトシが呼ぶ。もう、こうなったら。

「知らね、最後に立ってた方が勝ちだし」

 そう言って、ユメノも拳を構えた。向かってくる男の胸ぐらを素早くつかんで、体格の差を利用しながら思い切り背負い投げる。手の感覚を取り戻すために叩いてため息をつくと、タイラが「へえ」と驚いているのが見えた。見んな、と言いながらユメノはまた拳を握る。横でカツトシが暴れているのを黙認した。どうせ止められない。止まれない。

 四人目の男の股間を蹴り上げたとき、少し間合いを取ろうとした拍子に何かにぶつかる。顔だけ後ろを向くと、それはタイラの背中だった。「よっ!」と今度はタイラから声をかけてくる。

「随分とやりますね、お嬢さん。逃げてもいいのになぁ」

「……こいつら連れてきたの、怒ってる?」

 タイラはユメノに手を出そうとした青年の足を引っかけながら笑った。「そうだな、できれば昼間にしてほしかったよ。寝てたんだ」と、楽しそうに言う。なんだか昨日と違う、なんて思いながら見ると、タイラもこちらを見た。違和感の正体を掴む。なるほど、素面なのだ。

「あんた、酔ってない方がいいよ。イケメンだよ」

「よく言われる」

「超ムカつくよね、タイラワイチくそムカつく」

 タイラは少しきょとんとして、「名前言ったか?」なんて呟く。思い切り舌を出し、ユメノは前に踏み出した。やれやれという顔でタイラもどこかへ歩いていく。どうやら興奮した若者たちが一般人にまで絡んでいるらしい。「こらクソガキども」とたしなめに行く。

 ユメノはカツトシのもとへ歩いた。さすがに昨日タイラに殴られた痛みがあるようで、カツトシは腕を押さえながらふらついている。思った通りだ。敵が、増えている。

「アイちゃん」

「大丈夫。ユメノちゃん、僕ちゃんと勝つから」

 周りが全部敵に見えるから、敵じゃない人も敵にして。カツトシは戦っている。どう足掻いても勝ちが見えない。殴るたびに敵が増えていくのだから、当たり前だ。

「命乞いでもすれば可愛いのに」と嘲笑が聞こえた。それを強く睨んで、カツトシは拒絶する。「死んだ方がマシよ、負けたやつなんていらないんだから」とささやきながら。

 そんなことないよ、とユメノは思う。また、何も言えない。答えられない問いだけが増えていって、答えられないことだけが真実のように重なっていく。だから何かを言わなければいけないのに、無責任なことを言いたくなくて黙っていた。

 相手が金属の棒のようなものを構える。理由なく悔しくなって、ユメノは前に出た。

 カツトシを、庇ったわけではないと思う。それは恐らく、砂の城を雨から守るために傘を差すようなものだ。自分の世界を守れるなら、自分など必要ないと思った。ようやく、理解できる。カツトシもそうだったのだ、きっと。

 目を閉じても予想していた衝撃はいつまでも来なくて、代わりに鈍い音が二回響く。そっと目を開ければ、カツトシと相手の男が同様に頭を押さえていた。その後ろで、タイラが自分の拳をさすっている。

「この国には『喧嘩両成敗』って言葉があってな」

 カツトシが涙目でタイラを見た。淡々とタイラは続ける。「正しいも正しくないも、善いも悪いも問わない。どちらもやりすぎだと判断したときにどちらも罰するってことだ」なんてかみ砕いて説明した。カツトシはしばらく逡巡していたようだが、やがて素直にうなづく。目を細めながら、タイラが手を叩いた。

「さあさあ祭りは終わりだ。これ以上やろうっていうならそこのお嬢様の言う通り、『最後に立ってたやつが勝ち』のルールでやり抜こうか?」

 立っている男たちは目を見合わせ、文句ありげな顔をする。しかし夜は明け切り、人気も多くなってきた時間だ。男たちは仕方なさそうに去っていく。

 ユメノちゃん、と呼びかけられ、ユメノは笑顔で振り向いた。「どうして」と言いかけたカツトシの頬を、ユメノは叩く。カツトシがきょとんとして、ユメノを見た。そんなカツトシの手で、ユメノは自分の頬もぱしんと叩く。ますますきょとんとするカツトシに、ユメノは笑って言った。

「ケンカする前に、両成敗」

 不意に、カツトシは深く息を吸い込み始める。それから一気に、「ユメノちゃんはすごい、世界一すごいとても強い」と吐露した。みるみるうちにカツトシの鼻にしわが寄って、涙が顎を滴り落ちる。ユメノは動揺して「どうしたの、何で泣くの」とヒステリックともいえる声で叫んだ。カツトシは武骨な腕で自分の顔をごしごしと拭いている。

「僕、わからなくなっちゃった。なんで戦いたくなかったのに、戦わなきゃ生きていけなくて、僕が悪いのに。戦わなくても生きていけるって知ってるのにわからなくて、わかろうとしない僕が悪い。最初に僕に笑ってくれたユメノちゃんを、守ろうとしたのに守れなかったのに、それでも笑ってくれるユメノちゃんが世界一すごい」

 ちょっとやめてよ、と言いながらユメノも目をこする。手の甲が濡れて「あれ」と思わず声を上げてしまった。どうして自分が泣いているのかわからない。カツトシはうつむいて「ごめんなさい」とささやいた。その顔を覗き込んで、「違うんだよ」とユメノは言う。

「あたし、強くないんだよ。だって全部……自分からやる勇気はなくて、いっつもアイちゃんの後ろで冷や冷やしてただけじゃん」

「でもさっき」

「違うよ、アイちゃんのこと守ろうとしたわけじゃなくて、あたしは全部終わった後でもう誰にも責められたくなかっただけなんだよ」

「それでも、ユメノちゃんは強いよ」

 上手く言葉が出なくなって、ユメノはぎゅっと目をつむった。「違うよ、強くないんだよ」と繰り返す。「強くなりたかったし強いつもりだったのに強くなかったんだよ、誰もいなくなったらぐずで弱かった。みんながいるのに誰もいないみたいな場所にいたくなかった。居場所がないんじゃなくて、逃げて来ただけなんだよ」とぐすぐす泣きながら続けた。涙も鼻水も止まらなくて、どうしようもないほど汚かった。

「僕も逃げてきたの」

「きっとアイちゃんのつらさとあたしのつらさは全然違くて、あたしのつらさなんて」

「どうして? 僕もユメノちゃんもつらかったの、同じ辛いじゃなくても、一緒につらかったなら誇れる」

「……じゃあ、あたしも、勘違いでいいや。アイちゃんと同じつらさだったかもしれないと思えれば、好きになれる」

 しばらく、二人が鼻をすする音だけが響いた。

 心は驚くほど穏やかで、『ようやく誰かに言えた』という気持ちでいっぱいだった。

 何か口に出そうとしたが、いきなり背中を叩かれて驚く。もう少しで舌を噛むところだった。背中を叩いてきたのは、案の定というべきかタイラだ。缶のココアを二本持って立っている。

「終わったか? お前ら目立ちすぎだから、一旦俺の部屋に入れよ」

 そう言ってユメノとカツトシの背中を押し始めた。二人はようやく周囲の目に気付いて、素直に歩く。「下手くそなんだよ、お前ら。聞いててもさっぱりわからなかった」と言いながらタイラは缶を手渡した。ほんのりあたたかいミルクココアに、「ぬるい」と苦情を言おうとしてやめる。その代わりに顔を赤くした。話が終わるのをココア用意して待っていた、タイラを想像して。




☮☮☮




 桃のネクターを開けながら、タイラはベッドにどさっと腰かける。そのすぐ横では、ユメノが心地よさそうな寝息を立てて眠っていた。「お前ら、よく寝るな」なんて言われてカツトシは「二度はあんたに気絶させられてる」と反論する。二度もか、とタイラが笑った。カツトシはココアを傍のテーブルに置いて、「怒ってないの」と尋ねる。

「何をだ」

「巻き込んだから」

「お前に巻き込まれたのは俺じゃなくてその小娘だろ。まあそれで、その小娘が俺を巻き込んだんだけどな」

 お前こそ、とタイラは言いながら煙草のパッケージをとんとんと叩いた。「理不尽に殴られたって、俺を恨んでいるものと思っていたけどな」なんて平然と言う。カツトシは少し悩んで、首を横に振った。

「腹が立つけど、恨みはない」

「難しいことを言う」

 煙草に火をつけながら、タイラは肩をすくめる。「まあ、素直なこってありがたいね。ついでに一つ聞け」と目を細めて続けた。

「『命乞いするくらいなら死んだ方がマシ』ってのは、あれはよくない」

「うん」

「もちろんお前の国でお前が通した信念を否定はしないが、あの時お前の後ろにはユメノがいたはずだ」

「うん」

「あそこでお前が諦めて死んで、そしたらユメノはどうなる」

「うん……守らなきゃ、いけなかった」

「重ねてこのガキは強がりだ。お前を死なせるくらいなら、そんなもの見ないよう死にに行く困ったちゃんだぞ。二度とそんなことさせるな」

「うん……うん」

 やけに素直で気味が悪い、とタイラは端的に言って肩をすくめる。失礼な男を睨んで、カツトシは鼻を鳴らした。タイラが緩やかに笑う。「その顔が可愛げなくて可愛いよな、お前」なんて失礼な言葉を重ねた。ムッとしながらも、カツトシはココアを口に含む。

「あんた、何者なの」

 そう尋ねても、タイラは何も言わない。聞こえていないのかと顔を上げてみれば、タイラは何か考えているように首をかしげていた。「お前の国では」とようやく口を開く。

「『何者』と尋ねられたらなんと返す。名前か」

「名前……が言えれば十分だったけど、戦場では階級が言えなきゃ失礼だった」

 なるほど、と言いながらタイラは自分の懐を探り始めた。それから何か四角い紙のようなものを出して差し出す。

「この国で『何者』と言ったら大抵が後天的に得た所属を指す。そんでもって……どこにも属さないやつはこう言い訳するわけだ」

 紙には、名前など書いていなかった。階級も、彼の言う所属らしきものも、見当たらない。ただ『肉体労働・家事援助・問題解決』という単語の羅列と、電話番号らしき数字が載っているだけだ。タイラは灰皿に煙草を押し付けながら言う。

「何者にでもなる。それなりの報酬があれば、ってな」

「プライドはないの?」

「買う客がいれば仕入れよう」

 予想外の返答に少し面食らっているカツトシに、冗談だよとタイラが笑う。「大層お高いんでしょうね」と皮肉ってみれば軽やかに小突かれた。

「そんなにお金って必要?」

「そりゃあ。金さえあれば食って飲んで遊んでいられる」

「……覚えておく」

 何か不意に真面目な顔をして、タイラは缶ジュースを飲み干す。灰皿もあるのに空き缶に煙草の吸殻を入れながら、また煙草のパッケージを出した。ついでのような動きで、カツトシに何かを差し出してみせる。無言で受け取って、カツトシはそっと目を落とした。それは、古びた鍵束のようだった。アンティークにしてはセンスのない、と言おうとしてやめる。存外、タイラが真剣な目をしていたからだ。

「やるよ、俺には必要ないもんだ」

「何……カギ?」

「賭けポーカーで俺が勝ち取った」

「何のカギ?」

「このホテルを出て、2時の方向に歩いて6分くらいだ。ここのせいでつぶれたと言っても過言じゃねえ、くそ古い宿の抜け殻がある。……まあ、行けばわかるだろ」

 鍵を見つめながら、ようやく意味を理解してカツトシはきょとんとする。「どうしてここまでしてくれるの?」と尋ねれば、タイラは苦笑して「やっぱりそう来るか?」と呟いた。空き缶を握りつぶしてゴミ箱に投げ入れながら、「最初は」と口を開く。

「お前らの目が気に入らなかった。居場所がないから行き場もないなんて諦めてる目が、気に入らなかった。そんなお前らを見て見ぬふりしてる奴らも気に入らねえし、お前らも周りもお互い拒絶し合ってんのが気に入らねえし、だから、気に入らねえもんは一通り殴った」

「……理解した」

「でも、まあ、その鍵はあれだ。要らねえからやるだけだよ」

「理解できない」

 タイラが頭をかきながら、「わからねえかなぁ」とこぼした。珍しく困ったようだったので、カツトシは楽しくなって「わからない」と重ねて言う。難しい顔をしていたタイラだったが、やがて面倒になったようでカツトシの頭を小突いて立ち上がった。

「また気絶させられてえのか」

 カツトシは頭を押さえながら、そのまま仰向けに寝転がる。ユメノの寝顔が見えた。

 よかった、と素直に思える。すぴすぴ寝息を立てているユメノは、年相応に少女の顔だ。彼女のこんな表情を見られた、そのことについてだけでも、

「ありがとう」

 そう、言える。顔を見て言うことは、癪だから絶対にしないけれど。

 タイラは何も言わない。聞こえているのかいないのかもわからない。そのうちカツトシは目を閉じた。ごく自然な眠気が懐かしくて、肩の力が抜ける。煙草の香りがした。小さな鼻歌とともに。

 朝方肩を叩かれて、カツトシは目を開ける。心配そうな、ユメノの顔が見えた。上体を起こし、ぼんやりと窓の外を見る。見事な晴天だ。

「よく、寝た……」

 あの男は、と言いかけて違和感に気付く。あまりにも部屋が、綺麗だ。カツトシたちが寝ていたベッド以外、綺麗に整理されて不要なものは何一つない。直感的に、タイラがもうここにはいないと知る。ユメノも当惑しながら「あいつ、いないよ」と呟いた。

 部屋中探したけれど、冷蔵庫に食料が残されていただけだ。それ以外は塵一つも残ってはいない。タイラの『忘れもの』を鞄に詰めて、二人は部屋を出た。

 フロントに寄ると、昨日のボーイがにっこりと微笑んだ。ユメノが、どこか気まずそうに「あいつは」と尋ねる。

「あいつ? どなたです」

「あの……タイラ、は」

 ああ、とボーイはうなづいた。「あの方ならチェックアウトされましたよ。いい契約でしたのに、残念です」なんて、表情も変えずに答える。そこで、タイラワイチがこのホテルと何らかの契約を結んでいたと知る。本当に残念です、と今度は疲れたようにボーイが言った。どうやら独り言のようだったが、気を取り直したように「なんせ、また初めからあの人を探し出して口説き落とさなければなりませんからね」と悪戯っ子のように笑う。

「探し出さなくても、電話で」

「あの方はすぐに携帯電話を壊すから……今の番号は知らないなぁ」

 カツトシはいそいそとポケットから硬い紙を出して、ボーイに見せた。「あらあら」とボーイが目を丸くする。

「名刺をもらったんですか? すごい、気に入られたんですね」

「気に入らねえって散々言われたわ」

「名刺に書いてある番号なら大丈夫です。そちらは壊れないようにしているようですから」

 少し考えて、カツトシはその名刺をボーイに差し出した。「受け取れませんよ」とボーイは困ったように笑う。

「それはあなた方に差し出された手ですから、横から僕がかっさらっていいものではありません。あの方は怖い。機嫌を損ねたくないんです」

 カツトシはうなづいて、名刺をポケットにしまった。ユメノが何か言いたげな顔をする。

 ああでも、とボーイが人差し指を立てていった。「繋がりを断つのは惜しいですからね」と続ける。

「ここで働きませんか」

 ユメノもカツトシもきょとんとして、顔を見合わせた。ボーイはにこにこと人のいい笑顔のまま、「タイラさんもいなくなってしまったことだし、給仕の真似事で結構ですから」と簡単そうに言う。そんなこと言っても、とカツトシは当惑し、「どういうつもり?」とユメノが不信感をあらわに尋ねた。

「どういうつもり、と言われても」

「だってあたしそういうのやったことないし……たぶんアイちゃんも無理だよ」

「できるようにすればいいのです」

「なんであたしたちなんか」

「『なんか』というのはよくない。あなた方は二人ともタイラさんに気に入られたほどの人物ですよ、それだけでも利用のしようが……いえ、誇るべきです」

 あの男そんなにすごいの? とユメノは信じがたいような顔をする。「僕は評価しています」とボーイはうなづいた。そんなことよりもこの少年がうっかり口にした『利用』という言葉がカツトシとしては引っかかったが、無垢そのものの少年の瞳を見て忘れることにする。恐らく、聞き間違いだろう。

 また明日来る、と言い残して二人はホテルを出た。ボーイは最後まで笑顔で手を振りながら、見送っていた。

「これからどうしようか」とユメノが言う。2時の方向に6分、とカツトシは呟いた。この国に来て初めて、行く場所が定まったような気がする。ユメノは不思議そうな顔をしながらもついて来た。

 確かに6分ほど歩けば、古ぼけた宿らしき建物が見える。大きくはないが、縦に長い建物だ。タイラから渡された鍵を出してみて、その扉の鍵穴を探す。何度か試して、ようやくドアノブが回った。ドアについた鐘が、カランと涼やかに鳴る。

「ここ、どこなの」とユメノが初めて口を開いた。

「タイラがポーカーで勝ち取った」

「わからないんですけども」

 中に入ってみると、思っていたほど汚れてはいない。つい最近まで、人が使っていた気配がある。部屋の中央にバーのようなカウンターがあり、右手に螺旋階段も見えた。ユメノとカツトシは目を見合わせ、二人で階段を上っていく。

 二階には大きな鏡があった。姿見よりも大きい。床の素材はゴムだ。「体育館みたい」とユメノが言う。カツトシにはわからなかったが、運動場か何かだったのだろう。二階の奥には擦りガラスの折れ戸があり、覗いてみるとプールが見えた。もちろん水は張っていないが、見れば見るほどに謎の施設だ。「そういえばお風呂入りたいなぁ」とユメノが呟く。シャワーもあるから、洗身くらいはできるだろう。もちろん水が出れば、だが。

 二人は三階へ上がった。やはり、今までの階とは様子が違っている。まずその足元には赤い絨毯が轢かれており、右手にも左手にも、突き当りにもドアがあった。

 金色のプレートに書かれた数字を見ながら、ユメノが一つのドアを開ける。カツトシも近づいていき、目を丸くした。

「部屋、だわ」

「部屋、だね」

 ごく普通の、ベッドが高級そうなだけの普通の部屋だ。入ってみても、木製の棚に大きなベッド、古い冷暖房器具、トイレとシャワールームがある快適そうな部屋だ。いいホテルだね、とユメノは呟く。確かに、ホテルとしては一流ではないがいいホテルではある。この部屋に、プールに酒場だ。昔はそれなりに繁盛していただろうと思う。

 一旦一階へ降りて、カウンターの丸椅子に腰かけた。二人はふとため息ついて、どちらともなく「どうしようか」とこぼす。しばらくの沈黙の末、カツトシは口を開いた。それを制するように、ユメノがカツトシの手を掴む。

「あたしと一緒にいてくれる?」

「……僕から言おうと思ったのに」

 じっと見つめ合い、二人は笑った。

 大丈夫、とユメノが言う。「なんかわかんないけど家はできちゃったし、すげー怪しげだけど働く場所も見つかったし」

 大丈夫、とカツトシも笑ってみる。「だってユメノちゃんがいるから」と。ユメノは顔を赤くして、カツトシを叩いた。ちょっとだけ、痛かった。




☮☮☮




 ドアが開くときの、鐘の音がする。カツトシは緊張の面持ちで振り向いた。よお、と手を上げた男を見てうなづく。

「なんだ神妙な顔をして。お前が呼んだんじゃなかったっけ?」

「久しぶりね」

 タイラワイチ、という名前を反芻させて口に出した。タイラが嫌そうな顔をして「やめろ」と言う。どうやらフルネームで呼ばれることを嫌っているようだった。タイラ、と呼びなおす。タイラは首をかしげて、「あのお嬢ちゃんは」と辺りを見た。

「ユメノちゃんには買い物に行ってもらったの」

「お前……進んで野郎と二人っきりになるとは、やっぱりそういう趣味か?」

「これって」

 タイラのからかいを無視して、カツトシは目の前に名刺を出してみせる。あの日、タイラから受け取ったものだ。そこに書いてある『肉体労働・家事援助・問題解決』という文言を指す。

「ここに書いてあることをやってほしい時に、電話かければいいのよね?」

「ああ……そういうことじゃないんだがそういう意図で渡したもんだから何とも言えないところだな」

 それで、とタイラが続きを促す。「頼みたいことが」と言ったきり、カツトシはうつむいて黙った。どうせ受け入れられやしないだろうと思うと、その先を言うのも勇気がいる。タイラはと言えば、カウンターの丸椅子に勝手に腰かけながら頬杖をついていた。沈黙に追われて口を開いたけれど、「ゆっくり話せ」と言われてまたカツトシは考える。ようやく、カツトシは「眠れるようになるまででいいから、一緒にいてほしい」と呟いた。

「不安で仕方ない女の子を、眠らせてあげたい」

「俺に子守唄でも歌えと?」

「誰も傷つけないためには、とっても強くなくちゃいけなくて。僕だけじゃユメノちゃんを守れないから」

 タイラは背筋を伸ばし、呆れたような顔をする。「お前、俺を番犬代わりに飼おうってのか」と嘆いた。そんなつもりは、と言いかけて止める。反対に「悪い?」と胸を張った。この男には、そんな態度の方が好まれるともう知っている。

「俺に首輪つけたいやつなんて、指がたらねえほどいるんだぜ」

「首輪なんて買う金ない」

「そんなんで俺を飼えるのか」

「たぶん、首輪なんかなくても離れていかないと思う」

 何を根拠に、という顔のタイラに、カツトシは空咳をしてみせた。それから堂々と、「だってあんた、僕らのこと好きでしょ」と言い放つ。それもまったく根拠などない。嘲笑されてもおかしくはないような理屈だった。それでもタイラは目を点にしながら、「報酬は」と言う。

「金は、ない。報酬は今あんたが座ってる席」

「他は?」

「あんたを飽きさせないって約束する」

 ぽかんとしながら、タイラは「驚いた」と呟いた。「こんなに驚いたのは人生で3度目だ」と。

「俺に子守りと番犬やらせて、報酬はこの寂れたカウンターの特等席、それと約束された面倒事。裏付けは、俺がお前らを好いていることだとさ」

 舐め腐っている、と呟いて、しかしタイラは思い切り吹き出す。それから耐えきれなくなったように声を上げて笑い、声をかけるまで腹を抱えていた。ようやく顔を上げたタイラは、「根性を疑うぞ」と笑いすぎて苦しそうに言う。

「ブラックバイトも真っ青だ。食事と住処ぐらい、あるんだろうな」

「えっと……まあ、その」

「ああ、もう何も言うな。お前らの不器用さは十分すぎるほどわかっているから。でも料理くらい作れるようになれよ? せっかくこんな特等席が俺のものなんだからな、カウンターに何品か並んでもらわなきゃ寂しいってもんだ」

 パッと、カツトシは顔を輝かせる。じゃあ、と言いかけたカツトシを制して、タイラが立ち上がった。指でカウンターの隅をなぞって、その埃をカツトシに見せる。

「いいぜ。まずは、掃除だ」

「えっ」

 何か言う暇もなく、カツトシは濡れ雑巾を持たされ床に這いつくばっていた。タイラに足蹴にされつつ、床を磨き上げる。この男を招き入れたことに早くも後悔の念を抱きながら、床に自分の顔がうつるほど綺麗に磨いた。と、その時である。カランコロンと勢いよく鐘の音が響き、ユメノが帰ってきた。

「は……何してるの?」

 口を半開きにして呆然とするユメノに、思わずカツトシは飛びつく。「ユメノちゃん! もうこの男嫌い!」と訴えれば、ユメノが眉を八の字にしてタイラを睨んだ。

「なんでいるわけ?」

「いや俺はそいつに呼ばれてきたんだけどな。おいカツトシ、話は通ってないのか。全部お前の独断か」

 ユメノがカツトシを振り向く。カツトシは少し考えるそぶりを見せ、それから「こいつが勝手に乗り込んできた」と言い切った。ユメノがタイラに殴りかかる。

「待て、待って待ってユメノちゃん」

「お前にユメノちゃんとか呼ばれる筋合ないんだけど」

 ふん、とそっぽを向くユメノに、タイラはやれやれという表情で肩をすくめた。カツトシはちょっと笑いながら、「うちで飼うことにしたの、いいでしょ」と告げる。ユメノは驚いて、目を見開いた。

「うちにそんなお金ないよ! それに誰が面倒みるの!?」

 横でタイラが、思わずという風に古典的なこけ方をする。「お前らなぁ」と言いながらも可笑しそうに笑っていた。

「立場わかって言ってんのか……。俺を犬扱いするガキなんてお前らくらいだぞ」

 ていうか、とユメノは困惑してタイラに向き合う。「フツー断るでしょ」と唇をとがらせた。タイラは肩をすくめる。「報酬に釣られてね」と答えてカツトシを見た。

「うちに金なんてないって。ねえアイちゃん、なんでそんな無理してこいつのこと呼んだの? そりゃあ、最近ちょっと悪戯とか嫌がらせが多いけど」

 馬鹿言うな、とタイラは顔をしかめる。「金なんかよりいいもんだよ」と。腑に落ちない顔のユメノの頬を掴んで、「何かご不満が?」と問う。ユメノは少し考えて、それでも首を横に振った。よろしい、とタイラは言って、ユメノに箒を持たせる。

「俺は2階を掃除してくるから、お前ら仲良くこの酒場を使えるようにしとけよ」

 ユメノは箒を持って立ち尽くし、階段を上がっていくタイラを見ていた。ふと思い出して、「タイラ」と呼ぶ。

「謝りたいことが」

「数多の無礼、ようやく謝罪する気になったか」

「あんたに人の気持ちはわからないと言ったこと」

 それが? とタイラは言った。「その発言のどこを訂正するんだ」と、不思議そうに。

「俺は殴った相手の痛みを慮ったことはない。事実だ」

 あっさりと言われて、当惑しながらもユメノは拳を握った。「でも」と言った声が震えなくて心底よかったと思う。

「でも、もう一人じゃないじゃん。そこだけは訂正しとかないと、あたしたちが気になる」

 タイラはカツトシとユメノを見て、「お前たちが」と何か言いかけた。ユメノにもカツトシにも、よく聞こえないほどの小さな声で。それから気を取り直したように「言ってろ」と笑う。そのまま階段を上って行くタイラを見て、「言われなくても」とユメノは心の中で呟いた。

 言われなくても、やりたいようにするし言いたいことを言うのだ、この他人事の街で。

 このあまりにも不揃いな三人が身を寄せて、誰がどのように救われたのか、わからない。ただ、この街のにぎやかさは少しだけ増した。なんせ約束された面倒事が、行く道を探し始めたのだ。

 二階のガラス戸を開けて、タイラが顔をしかめる。

「星が出てら」

 いつもなら、月明りや不必要なほど明るいビルに存在を消される星が、今夜は二つほど輝いていた。まるでその存在を強く主張しているように。

 下の階から声が聞こえる。どうやら、ユメノかカツトシのどちらかが掃除ついでに水道を壊したようだ。「待ってろ、どこも触るな」と言いながらタイラは降りていく。最後にもう一度空を見た。

 星はあったけれど、月は、雲に隠れて見えなかった。

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