episode6 友達から始めましょう、の話

 ランドセルを背負って口をもぐもぐさせつつ、ユウキが外へ飛び出していく。いつものことだ、とタイラは肩をすくめた。私も、と落ち着いて都が立ち上がる。

「行かなきゃ」

「どこに?」

「タイラ……」

 ふう、とため息をついて都は憂い顔を見せた。「働かなくちゃ、生きていけないのよ」とこぼす。それから実結の頭をなでて、「いい子にしてるのよ」と言って酒場のドアを開いた。強いな、とタイラは呟いた。

「いいの? 先生、ちょっと危ないお仕事始めちゃうかもよ」

 ガラスのコップを拭きながら、カツトシが眉を顰める。まあ、とタイラは言いながら新聞紙を広げた。

「お強いからね、センセイ。そこまで口を出す理由がない」

 あっそ、と言いながらカツトシは実結を抱き上げる。「じゃ、また僕とおでかけしましょっかーミユちゃーん」なんて楽しげに笑いかけると、実結もはしゃいで「いく!」と答えた。どうやらお互いに気が合ったらしく、この二人が一緒にいることも増えてきたようだ。簡単に支度をして、二人は外へ行こうとする。途中でカツトシが振り向いて、「タイラ」と呼びかけた。

「シンク下のラックに入ってるやつ、あんたのだから。ちゃんと飲みなさいよ」

 そう言い残して、カツトシは出て行ってしまう。実結も元気に手を振って追いかけて行った。

 飲むってなんだよ、と思いながらタイラはカウンターの向こう側へ歩いていく。ラックを開けると、赤い液体の入った瓶が転がった。

「……トマトジュース?」

 あまりの脈絡のなさに首をかしげながらも、タイラは栓を開ける。瓶に納まる容量を超えていたようで、開けた途端にぼとぼとと落ちる。それを避けながら、「好意か嫌がらせか微妙なところだな」と呟いた。ふと顔を上げると、ちょうど階段から降りてきたノゾムと目が合う。「よお」と手を上げるが、ノゾムが目を大きく見開いたままタイラを指さした。

「あ、あんた何してんだ!」

「トマトジュースなんですけど」

「それ、あんた、ついに……」

「トマトジュースなんですけど」

 警察、と叫びながらノゾムは外に消えていく。それを見ながらタイラはトマトジュースをちびちび飲んだ。「あいつ、時々こういうネタに走るよな」と呟きながら。

 また階段を駆け下りる音が聞こえてきた。そういやもう一人いたな、とタイラはぼんやり思う。『もう一人』は最後の一段を跳んで、言った。

「アイちゃん! 買い物いこーよ!」

「カツトシならいないぞ」

「ファー――!」

 なんだよ『ファー』って。

 近くにあった雑巾で床を拭きながら、タイラはユメノを見る。「よりによってお前か」とユメノが理不尽に発奮していた。しかし何やら考えて、気を取り直したようにユメノは口を開く。

「あのさ、お前の経済力とスタミナを買って頼みがある」

「俺にはJKの上から目線に興奮する趣味はないんだ」

「買い物についてきて」

「とても嫌だ」

 来てよ来てよ、とユメノはタイラに泣きついた。トマトジュースが瓶からこぼれそうになる。「買い物なんて一人で行けばいい」とたしなめれば、ユメノはぶうたれて睨んだ。

「あのな、服を買うとな、財布の中身がすっからかんになるだろ? そうするとなんと! あたしは昼飯にありつけない!」

「知らねえの極み」

「そんでもってそんなに服を買うとな、あたしの華奢な腕じゃな、持ちきれない」

「知らねえこと山のごとし」

 ぐ、と言葉に詰まって、ユメノは拳を握る。それを見たタイラが、思わず声を上げて笑った。「――――いいぜ、そんなに言うなら。俺に頼まなきゃならんほど切羽詰まったお前も、不憫だとは思うしな」と、トマトジュースの瓶をカウンターに置きながら言う。「まるであたしが友達いないみたいじゃん」とユメノはふてくされた。

「てかその赤い液体なに。殺人事件?」

「お前らの中の俺のイメージ物騒すぎじゃね」

「実物がタイラワイチだからな。相応のイメージにはなるわな」

 口の減らない、と苦笑しながらもタイラは椅子に掛けてあったジャケットを羽織る。胸ポケットに無造作に突っ込んである煙草の箱が、ちょっと顔を出した。『煙草やめれば?』という顔をして、しかしユメノは何も言わない。ただ不満そうにタイラの隣に立つ。

 確かに俺は物騒だろうが、とタイラは頭をかいた。

 そんなタイラワイチの隣に臆することなく立つ少女が、どれだけいるのだろう、と。

 ユメノはいつもの学生服を着こんで、ブレザーのポケットに手を突っ込んでいる。「行くぞ」と男前な台詞を吐いて、ドアを開けた。「仰せのままに」と冗談を言いながらタイラもついて行く。

 迷いのないユメノの足取りは、真っすぐに駅へと向かっていた。通勤ラッシュも落ち着いた時間帯だろうが、同じような顔をした老若男女が皆目的があるふりをして駅へと駆け込んでいく。

 駅の構内で切符を買って、ユメノはまったくタイラのことなど顧みずに改札を通った。どこへ行くのかも知らされていないタイラは、頭をかきながら「ユメノ」と呼びかける。

 ようやく振り向いたユメノが、「なんだよ」と眉を八の字にした。

「いくらの切符だ」

「好きなの買えよ」

「もうお前嫌い」

 小銭をあるだけ手のひらに出してみて、タイラはなるべく遠くまで行ける切符を買う。

 服なんて、もちろんこの街でも買えるのだが。むしろ賑やかな大都会。いくつもビルがそびえ立つこの街で、揃わないものなどない。それでも場所を移動しようというのだから、余程のこだわりがあると見て間違いないだろう。一度付き合うと決めたからにはそれなりの働きを見せなければ後で何と罵られるかわからない。タイラはため息まじりに苦笑して、改札を通過した。

 電車でしばらく揺られて、三駅ほど通り越したところでユメノが「降りる」と言い出す。どうやら目的地はそう離れた場所ではなかったようだ。無駄になりそうな切符を残念そうに見て、タイラは「オーケイわかりましたとも」と肩をすくめた。電車から降りると、また改札を通って今度はバス乗り場へ速足で向かう。タイラはもう何も言わない。とことんユメノの好きにさせるつもりだった。甘さというよりは疲れというところだろうか。ベンチに腰掛けながらふてぶてしく「バスはまだかねユメノちゃん」と空を見上げている。

 二人の目の前でバスが停車し、ドアが開いた。押し寿司のようにぎゅうぎゅう詰めの車内に、なんとか入る。立ったまま待っていると、「すぐだから」とユメノからようやく簡潔な説明があった。確かにそう遠く行かないうちに、降車ボタンを押す。

 バスから降りると、小さな店の連なっているのが見えた。

「RPGで見る村みたいだな」

「オープンモールだし」

 一つ一つが洒落たショップのようだが、正直タイラには毛ほども興味のない店たちだ。緑化運動でもしているのか、全体的に緑がかったレンガ造りの道に、青々と植物が自己主張している。十メートルごとくらいにベンチが置かれ、目立たないが灰皿もあった。タイラにとってはそちらの方が重要である。

 ユメノは少し目を輝かせて、早速ひとつの店に入って行った。遅れて、タイラも後を追う。

「これ、どう思う?」

 そう明るい声でユメノが広げて見せたのは、紺のブラウスだった。「どうって」とタイラは首をかしげる。「いいんじゃないの」

「もっとなんかさ」

「俺は黒の方が好き」

「お前の好みじゃなくて」

「ブラウスなんかわざわざ買わなくたって制服があるだろ、って思う」

 ユメノはムッとしたようだったが、素直にブラウスを置いて他の衣服を手に取り始めた。それからもユメノは幾度かタイラに意見を求めては、自分の欲する回答を得られずに仏頂面になる。好きに決めればいいのにな、と思いながらタイラもその都度答えた。不意に、ずっと見ていたらしい店員がそそくさとやってきて「こんな服はいかがですか?」と声をかけてくる。

「ね、きっとお似合いですよ。お兄様もそう思うでしょ?」

 タイラとユメノはぽかんとして、静かに首を横に振った。

「こいつ兄貴じゃないよ」

「そんな少女趣味の服、こいつに似合わないよ」

 店員はちょっと笑って、「お似合いだと思いますけど」と言ったきり奥へ引っ込んでしまう。マジかよ、とユメノが呟いた。

兄妹きょうだいに見えんの、あたしら」

父娘おやこと言って間違えるよりは兄妹と言って間違った方が無難だろうよ」

 それに、とタイラはにやにやして続ける。「店員が援助交際カップルに声をかけるときには、兄妹として扱いがちらしい」と。ユメノがタイラを睨みながら肩のあたりを殴った。「離れろ、半径1キロ近づくな」「嘘に決まってんだろ、援交するにしたってお前にゃ色気がなさすぎるわ」

 ユメノは黙ってタイラの膝裏を蹴る。「いってえ」と朗らかな笑い声が響いた。

 結局その店では、ブラウスを何点か買って出る。

「そんな薄っぺらい服がいくらしたんだ?」

「うるせえ、お前のジャ○コで買ったミリタリージャケットとは違うんだよ」

 何で知ってんだよ、ちげえよ、と相反することを言いながらタイラは伸びをした。お洒落な紙袋など持たされて、少々げんなりしていたのかもしれない。しかしユメノはふらふらと目についた店へ入っていく。紙袋は順調に増えていった。

 5店めを出たときだろうか、ユメノはいつからかタイラがそばにいないことに気付く。ふと周りを見渡せば、ちゃっかりベンチに腰掛けて煙草を吸っていた。ぼんやり空を見上げるタイラの横には、紙袋が行儀よく並んでいる。そんなに買ったのか、とユメノは我ながら感心した。

「なに疲れてんだよ、おっさん」

「お前の資金源どこだよ。やっぱり援交か」

「殺すぞ。資金源は真面目にコツコツ働いた今までのあたしだよ」

「で、なんで真面目にコツコツ働いた金をこんなに一気に使おうって気になったんだ」

 わざとドカッと音を立てて、ユメノはタイラの隣に座ってやる。タイラは荷物をちょっとどけて、近くの灰皿に煙草を押し付けた。火が消えて、煙だけがそっと残る。

「あのさ、」

「ん」

「煙草やめたら?」

 口の端を歪ませたタイラに、ユメノはきょとんとした。ああ、笑っているのか、とようやく気付いて瞬きをする。少し珍しい表情だった。

「お前もそんなことを言うんだな」

「別に。思ったことそのまま言っただけ」

 灰皿の中では、煙草がまだ燻っているように見えた。じりじりと音を立てて少しずつ灰が広がっていく。風が吹けば、ほんの少し舞い上がって行き場のなさを嘆くように落ちていった。「なんで煙草なんて吸ってんの」と尋ねれば、タイラは曖昧にうなづく。

「ユメノちゃんは痛いところを突く」

「だっていいこと一つもないじゃん」

 まあな、と言ってタイラは笑った。今度はよく見慣れた、自然で軽薄な笑顔だ。

 ユメノ自身、一度だけ煙草を吸ったことがある。別に何でということもない。ただ、他人ひとより早く大人になりたかっただけだ。

「舌先ぴりぴりするし、煙は目にしみるし、サイアクじゃん」

 タイラは「ふうん」だか「ほお」だかわからない相槌を打ってまた空を見た。何か決めかねるように、それでも口を開く。

「煙草を吸うやつってのは、大抵が乳首依存患者らしい」

「はあ?」

「ほんとは乳首に吸い付きたくて仕方ねえけど、煙草買った方が安上がりだから喫煙家やめらんねーって話だ」

「ちょ、何そのくそダサい理由」

 腕を組んで、ユメノは唇をとがらせた。考え事をしているような真面目な顔で、「そんなに乳首が大事なら」と呟く。「なおさら煙草はやめれば?」と。意味が解らず目を見たタイラに、ユメノは人差し指を振って見せた。

「煙草吸ってると乳首取れるってさ」

「マジか。侮れねえな」

 ようやく、タイラが立ち上がる。「ショッピングは終わったかい、姫様」などと茶化してくるので、ユメノも立ち上がって腰に手をあてた。「今日はこの辺にしといてやらあ」と姫らしさのまるでない台詞を吐く。ラーメンでも食って帰ろうぜ、と言ったタイラから、微かに煙草の苦い香りがした。




☮☮☮




 スカートの埃を叩いて、ユメノは階段を飛び降りる。「朝飯いらない」と言いながら、そのままドアを開けた。声をかけようとしたまま固まって、カツトシが当惑の表情を浮かべる。

「どこ行くんすかね、あんなお洒落しちゃって」

 あまり上手ではないナイフ使いでパンケーキを切りながら、ノゾムが言った。ああ、とぼんやりタイラはコーヒーをマドラーでかき混ぜる。

「んなことよりお前、昨日本気で通報したろ」

「何のことかな」

「イブから注意を受けました」

「本橋ちゃんさんつえー」

 ノゾムの頬を強めに掴んで、タイラは「冗談じゃねえぞ」と語調を強めた。どうやらそれなりに効果のある説教を受けたようだ。モトハシイブはタイラに惚れているらしいが、それにしてはタイラと正論で戦おうとする稀有な人間である。

 寝癖をつけたままパンケーキにかじりついているユウキが、「かれしですかー?」と無責任にも呟いた。すぐさまカツトシが「まさか」と反応する。どうでもいいだろ、と呆れたようにタイラがノゾムから離れて言った。一部始終を黙って見ていた都が、控えめに口を開く。

「男の子と会うようには、見えなかったけど」

「そうよね! 言ってやって、センセイ!」

「あれはどちらかと言えば、戦闘服よね」

「えっ」

 回転椅子の背もたれに身を委ねたまま、タイラがふっと笑う。都もうつむいて、ちょっと困ったように笑っていた。ただカツトシだけが、心配そうにしている。そんな大人たちを見て、ユウキと実結は首をかしげている。「ケンカだったら、ユメノちゃん負けないのに」「まけないのに」

 関係ない顔をしていたノゾムが、一人で吹き出した。

 人が出たり入ったりを繰り返して4時間、ちょうど昼食どきだからか、顔ぶれは朝食時と同様になっている。

 その時、ユメノが戻ってきた。どこか暗い顔で、まだ新しい服には大きな染みがついてしまっている。

 動いたのは、都とタイラだった。

「早く染み抜きをしなければね。こんなに可愛らしい服が、もったいないもの」

「そうだ、お前はいいかもしれねーけど服が泣くぞ」

 その代わりにこれを、と言いながら都がその場でシャツを脱ぐ。「あら先生ったら大胆」と目を見張りながら、タイラもジャケットを脱ぎ始めた。

「いらないよ」とユメノは怒ったように言う。「もう出かけないし」と奥へ引っ込もうとしたユメノの腕を、タイラが掴んだ。離してよ、とユメノは睨む。

「まだいるんだろ? 早くしないと、逃げられるぞ」

 ユメノは驚いたような顔をした。ふと見れば、いつのまにか足元に立っていたユウキが野球帽のようなものを差し出している。

「ぼくのぼうし、かしてあげます」

 のんびり歩いてきたノゾムは、歩きながら自分の首元を探った。

「自分のチョーカーも、オシャンティなんでぜひ持ってってください」

 その後を、実結とカツトシも続く。

「みゆのハンカチかしてあげる!」

「防弾チョッキ必要?」

 それから実結が、思い出したように走って行き、何かを腕に抱いて戻ってきた。それは、いつもユメノが着ている学生服だった。ユメノは硬い表情のまま、自ら着ていたスカートを脱ぎ去り、学生服のスカートを素早く履く。ノゾムがそっと目をそらした。

「あたし、」口を開いてユメノは顔を上げる。

「めっちゃ強いね? 防具レベル100って感じ」

 おう、と軽くタイラは笑った。「何着ても可愛いのねぇ」とカツトシが感心したように言い、ユメノはガッツポーズを見せる。それから、しっかりとした足取りでまた外へ出ていった。ドアの閉まる音だけが、その場で木霊する。

 ふと、タイラがカツトシに「タオル」と短く要求した。言うとおりにタオルが投げつけられると、タイラもそれをそのまま都に投げる。きょとんとする都に、タイラは苦笑した。

「俺はね、据え膳は食う主義だ。ミユちゃんの前じゃなけりゃね」

 言われて少しだけ顔を赤くしながら、都はタオルで肩を隠す。「まったくうちの女性陣はなんで露出に躊躇がないのかねー」と頭をかきながら、タイラは階段を上がっていった。「男性陣が自分らだからっすかね」とノゾムも困ったような顔をする。タイラはもう何も言わず、二階へ上がっていった。




☮☮☮




 着慣れた学生服のスカートは、走る彼女の邪魔にはならなかった。堅い防弾チョッキは正直に言って全く不必要ではあったけれど、それでも途中で外したりはしなかった。野球帽だって、何度か脱げそうになったけれどその度に大事そうに被りなおした。

 息を切らして走って行くと、小さな喫茶店の前にかつて『友人』だった少女たちを見る。三人の少女が各々気の強そうな顔で、一人のうつむきがちな少女を囲んでいた。囲まれていた少女は後ずさって、慌てたように転ぶ。

 ユメノはゆっくりと歩いて行って、「あのさあ」と声をかけた。四人とも一斉に振り向いて、一人がわざとらしく吹き出す。

「何あのカッコ―」「逃げたと思ったのに」「ねーちょっとキレてんじゃん?」

 どこかねっとりとした声で、「ごめんねェ」とひとりが言った。

「お紅茶こぼしちゃってェ。着替えてきたの? てかウケるよね、その服。やばいよ」

 ユメノは肩をすくめ、相手の口調を真似しながら「ゼンゼェン」と言ってやる。

「怒ってないからァ。てかお褒めにあずかり光栄~」

 可愛いでしょ、あたし、とユメノは続けた。対峙している三人から、失笑が漏れる。

「は? 何それギャグ?」

「あたし何着ても可愛いだろっつってんだよ、あんたらとは違って」

 三人組の、表情が変わった。攻撃的でいて、しかしその顔にはどこか怯えがにじんでいる。

「なんか、馬鹿だねあんたたち」

 休む暇なくユメノはそう言い放った。「今何してた?」と尋ねれば、三人の中の一人が転んでいる少女を指さす。「この子が、そーゆーヤクソクだったのにお金持ってこなかったから、わたしたち会計で恥かいたの」と当たり前のようにわめいた。「ヤクソクだったのに」と強調するようにもう一度言う。尻餅をついたままの少女が、うつむきながら「あんなに頼むと思わなかったから」とか細い声で訴えた。

「てか、ユメノ払ってないじゃん。ムセンインショクいけないんだよ?」

 少し言葉に詰まって、ユメノは瞬きをする。風が吹いて、また帽子が飛ばされそうになった。

 ひたむきに素振りをする小学生男児の、その頭から落ちた帽子を覚えている。その少年の名前を思い出せば、できすぎた筋書きのようで自然とユメノの頬が緩んだ。

 別に反撃が怖いことなど一つもないけれど、防弾チョッキを身に着けている今のユメノは無敵だ。「強い、あたし。無敵」そう心の中で呟いて、ユメノはそっとタイラのジャケットを握りしめた。

「よく言うよ、人の服汚しといてクリーニング代も出さずにさ」

 言いながらも、ユメノはジャケットを軽く叩いて探り始める。財布らしきものが入っていたので、「でもいいよ、払うよ」と言いながらそれをそのまま投げつけた。何が入っているかなど、知ることではない。

「ほんと暇だよね、あんたたちって」とため息をつきながら、ユメノは腕を組む。「受験とかないの? 未来への希望とか不安とかないわけ? わざわざあたしなんか呼び出して、お紅茶引っかけただけ。金も払わずに飲んだり食ったりまるで生産性のない時間を過ごしただけ。楽しい? 楽しいんだ? こんなことで楽しんでるあんたたちが、ほんっとサイコーにつまんないよね」

 一瞬顔を赤くして、三人組は黙って財布を拾った。それから、逃げるように背を向ける。その背中を、ユメノはじっと目に焼き付けた。

 何度も見た背中だ。大きかったり小さかったり、怒っていたり怯えていたり。かつて好きだった、嫌いだった誰もが簡単に背を向けた。その背が消えるまで睨んで、いつものようにユメノはうつむく。何も変わっていない自分と世界を、責めるようにそっと。

「トモも、さ」と思い出したように尻餅をついたままの少女を見た。中原友子は、どうやら手の甲をすりむいたようで、血のにじむ傷を当惑の表情でさすっている。ジャケットやらスカートを探っては見たけれど、生憎実結のハンカチくらいしかない。心の中で実結に謝りながら、そのハンカチを友子に差し出した。

「トモも、あんなやつらの言うことなんて聞いてなくていいんだよ。それがあんたの弱さなのか優しさなのか知らないけど、別に反論ぐらいしたって死なないし。もしそれで死ぬほど追いつめられたら、あんな三人くらいあたしが一回ぶん殴ってやるし。……とか言って、あたしもトモには結構ワガママ言ったし、あたしのこと嫌いだよね、っていうか、まあ、その、あたしそんなに怖くないから、言いたいことの一つくらい言っていいんですけど」

 ユメノがはっきりしないことを言っている間に、ハンカチを受け取った友子が立ち上がっている。それから、小さく、しかし存外力強い声で言った。「じゃあ、一つだけ言ってもいい?」と。ユメノは驚いて、何度かうなづく。ハンカチを握りしめ、友子はぎゅっと目をつむった。何度か口を開いたり、閉じたりしながら、言う。

「こんな、こんな私で、気がちっちゃくてユメノちゃんのこと何にも助けられなくて中学の時からこんなんでずっとユメノちゃんに憧れてたのにユメノちゃんと話もできなくて、でもこんな私なんですけど」

 すっと、どこか投げやりなようにも見える力強さで、ハンカチが差し出される。

「私と、お友達から始めてください!」

 ぽかんとしながらも、ユメノはハンカチを受け取った。色々と言いたいことはあったけれど、口からこぼれたのは「やっぱりあたしたち、友達じゃなかったんだ」という独り言だった。それを聞き取り、友子が慌てて「そういうことじゃないんですけど」と言い訳をする。「大丈夫、ちゃんとわかってるから」とユメノは笑った。

 中学を卒業するまで、ユメノはかの三人組と仲が良かった。特別だったわけではない。急速に生徒たちの中で暗黙の了解のようにグループ分けされていく中で、ユメノはどこのグループにも属していなかった。誰とでも程々に仲が良かったユメノには、例の三人組と友子の関係が興味深かったのだ。

 優しくて少々とぼけたところのある友子に冗談で無理難題を言うと、友子は当たり前のようになんだって本気にした。ユメノはそれをからかうのが楽しかったが、段々と三人組の要望は冗談の体をとった本気の頼みになり、次第に命令になった。違和感を持ったが、友子もさして困っているようには見えなかったので大して気にもしなかった。

 あの頃、自分たちは友達なのだと思っていた。

 受け取ったハンカチを見つめ、ユメノは瞬きをする。仲が良かったクラスメイトも、みんな背を向けてしまったあの日。友達なんていなかったんだな、と思うたびに、中原友子への接し方を悔いていた。自分からすれば友達への些細なからかいだったけれど、彼女からすればはた迷惑な我儘だっただろう。「冗談だよ」と言う前に友子が実行に移してしまうのも、ユメノは面白く笑ったことがある。だから、

「かんちがいだよ」

 そう言うと、友子は激しく首を横に振った。

「だって、たぶん、あたしがあいつらよりちょっとマシだっただけだよ。トモと仲良くする権利、ないよ」

 そんなことない、と言って友子はちょっと笑う。「わたし、ユメノちゃんが言ってるの冗談だってちゃんとわかってたもん。ユメノちゃんってちょっとテキトーで、言ってるの全部冗談だと思ってた」

 それもちょっと失礼だと思う。

「でも本気にしたふりで遊んでたの、わたしがユメノちゃんと話すの楽しかったから。ユメノちゃんといると、わたしユメノちゃんの友達なのかもって思えたから」

 間違って、いたのかもしれない。いなかったのかもしれない。ちょうど十五歳くらいの時の、自分を思う。

 あんたの友達、一人はいたみたいよ、と。

 それからユメノは、ニッと笑って右手を差し出した。

「こちらこそ、不束なユメノですがよろしく」

 友子は一瞬で顔を輝かせた。ユメノの手を取って、大げさに振る。「はい、よろしく。よろしくお願いします」と何度も繰り返して。




☮☮☮




 ポケットに手を突っ込んでぼんやり歩いていると、後ろから背中を叩かれた。

「よお、別嬪さん。そのジャケットいかすじゃん。どこで買ったんだ?」

 目は合わせないままで、隣にタイラが立っている。

 歩くペースを崩さないまま、ユメノは「ジャ○コ」と答えた。「あの店、なくなっちまって寂しいよなァ」とタイラはどこかしんみり言う。ついでにユメノは「財布投げてきたから」と申告しておく。「そうですか」とあっさりタイラはうなづいた。ロクなものが入っていなかったに違いない。

「どうだった、勝ったか?」

 当たり前、と答えながら隣を見ると、やっぱりタイラはこちらを見ていない。まっすぐ前を、少しだけ空を、ただ眺めながら歩いている。実結のハンカチを握りしめながら、ユメノが「あのさ」と話しかけた。

「あたしらとのファーストインパクト覚えてる?」

「忘れるわけねーだろ。強烈なハジメマシテだったぞ」

「酔っぱらってたくせに?」

「酔いも一瞬で醒めたわ」

 そうため息まじりに嘆いたタイラの膝に、ユメノは軽く蹴りを入れる。どこまで本気で言っているのか、判別がつかない。タイラは笑いをこらえていた。腹は立つけれど、少しずつどうでもよくなってまた歩く。

「なんか、思い出しちゃったんだよね」

「ファーストインパクト、か?」

「なんかさ、別に、いい意味とかじゃないんだけど」

 タイラが黙って続きを待っている。言葉を選びながら、しかし面倒になって、ユメノは口を開いた。

「あの日、タイラに絡んで、そんでもって返り討ちに合って」

「災難だな、俺」

「なんか初めて、この街が相手してくれた気がした」

 微かに笑って、タイラがようやくこちらを向く。「相手してやったのが俺ぐらいなもんで、残念だったな」と。

 痛い目にもあったし、怖かったし、腹も立ったけれど。この男が初めて、自分たちの存在を『知って』くれたような気がした。なぜだかそんなことを、今日思い出した。

「まあ、カツトシに聞いたら全く違う感傷になるだろうが」

「アイちゃん?」

 やれやれという顔をしながら、しかし何も言わずにタイラは歩いていく。家が見えてきても、そのペースを崩さない。家を通り過ぎて、どこかへ行こうとする。どこに行くのか尋ねようと思ったが、意味のない事だと思ってやめた。仕事と言われても、遊びだと言われても、ユメノには関係のないことだ。

 一人で、酒場のドアを開く。

「あ、ユメノちゃんですよ」と、最初に近寄ってきたのはユウキだった。野球帽を返しながら、「お前、いい名前だな。かっこいい野球選手になれよ」と言っておく。「ぼくは野球選手になる予定はないです」と言われた。実結も、後ろから小走りしてくる。

「あ、ミユちゃんごめん。ハンカチ、洗ったら返すから」

「ユメノちゃんにあげる」

 カウンターに腰かけている都を目で伺うと、「いいのよ」という顔をしていた。ひとまずお礼を言いながら、ユメノはカウンターまで歩いていく。都が、自分の隣の回転いすをちょっと動かしてユメノを誘った。自然、ユメノはその椅子に腰かける。

「先生」

「おかえりなさい」

「あ、うん。ただいま」

 若干ペースを乱されて、ユメノは顔を赤くした。「あのね、先生」と気を取り直して口を開く。

「ありがとう、ブラウス」

「私なんかのもので申し訳なかったのだけれど」

「ううん。すごくやる気出た」

「何よりだわ」

 ホットコーヒーを飲みながら、都はほんのり笑った。そっとユメノを横目で見て、「あなたは本当にかわいいわ」と呟く。思わぬ殺し文句に、ユメノも耳まで赤く染める。都が静かに続けた。

「服を選んで髪型に何時間も悩んで、鏡の前で目を輝かせている女の子って本当に可愛いものね。私はどうしても頓着しないタイプだから、実結が年頃になってもそういうことをしてあげられないって心配だったの。でも、」

 都がユメノの髪をかき上げて、耳にかける。「こんなに可愛いお姉さんがいれば安心。よろしくね、ユメちゃん」と、微笑んだ。曖昧なほど、柔らかい表情で。

「……そしたらあたし、センセイの娘なんだけど。いいの?」

 小声でぼそりと呟いたユメノは、不意にカウンター越しにこちらを伺っているカツトシに気付く。パッと顔を輝かせ、ユメノはカウンターに片膝をついた。「ユメノちゃんカウンターにのっちゃだめです」とユウキがたしなめるのも聞かず、そのまま向こう側のカツトシに抱きつく。

「アイちゃんただいまぁ!」

 カツトシは安心したように「おかえりなさい」と笑った。

「防弾チョッキ、役に立った?」

「全然! こんなの全然使わないよお。戦争じゃないんだから」

「そうなのー?」

「でもすっげえんだから! すっごいまじハンパなくムテキ気分だったんだから! ありがと! アイちゃん大好き!」

 たじろぎながらも、「嫌ねぇユメノちゃん」とカツトシが頭をかく。ユメノはぴょんとカウンターから降りて、「そういえばさ」と切り出した。

「あいつと初めて会った時って覚えてる? タイラワイチとかいう酔っぱらいとさ」

 ア゛ッと何やら変な声を出しながら、カツトシはカウンターを叩く。「覚えてないわよ、そんな前のこと」と怒ったように答えた。いつの間にか、都とユウキが興味津々という顔をして聞いている。そんな二人の真似をするように、実結も「うんうん」と聞いていた。

「痛い目に合っただけ。それだけよ。エラソーな酔っぱらいと運悪く出会っちゃって、だらだらここまで来ちゃっただけ」

「ふうん?」

 言いながら、ユメノは腕を組む。「まあ、言われてみればそれだけだ」と納得したようにうなづいて、くるりと背中を向けた。

「お風呂入るね」と言いながら階段を上るユメノと、入れ違いのようにノゾムが降りてくる。すれ違う瞬間、ユメノはノゾムの肘のあたりを引っ張った。

「おい、のんたん」

「おかえりしゃっす、ユメノちゃん」

「このチョーカー、まじオシャンティだからさ。ちょうだい? いい?」

「いっすよ。自分にはちょっとちっちゃかったし」

 ありがと、と言いながら階段を駆け上っていくユメノを見て、ノゾムはぽつりとつぶやく。

「やべー。うちのアイドルに、首輪かけちゃったよ」

 一人でくすくす笑って、ノゾムは階段を降りていった。こんなことを言ったら総ブーイングするであろう仲間たちが、軽く手を上げてノゾムを歓迎する。何食わぬ顔でコーラを頼み、ノゾムは酒場の端に腰かけた。

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