episode5 素材が良ければ大抵上手くいく

 ※ 今回の話には、お食事を美味しく頂けなくなるかもしれない描写がほんの少し混ざっております。『羊たちの●黙』などが生理的に無理な人は避けた方がいいかもしれません。








 ベッドの上で寝返りを打って、都はうっすら目を開ける。朝日はもう、差し込んでいた。上体を起こして、崩れた正座のまま目をこする。実結の姿はない。また勝手に降りて行ってしまったのだろうか。別に禁じていないのだから仕方がないけれど。

 不意に、表の騒がしさが気になった。この喧騒のせいで目が覚めたのかもしれない。逆に言えば外で誰かが騒いでいなければ起きなかったのだろうから、気が緩んでいると思う。

 そっと窓から外を見ると、この街には似つかわしくないオフィスカジュアルな服装の男が立っていた。うちの戸を軽くたたきながら何かを言っている。何を言っているのかよくわからないが、その執拗さは近所迷惑になりそうだった。やがて、戸が開いてタイラが出てくる。しばらく話を聞いていたが、解りあうことはなかったらしい。どうするのかと思えば、タイラは男をいきなり殴ってそのまま引きずって行ってしまった。

 衝撃の瞬間を目撃してしまった都は、寝巻のまま部屋を出て一階へ駆け降りる。

 慌てたふうの都を認めて、「あらあら」とカツトシが肩をすくめた。

「どうしたの、センセイ。そんな恰好で」

「今、表に」

 後ろの小さなテーブル席に腰かけていたユメノが、「うるさかったよね」と同調するように言う。口の端に何かのソースをくっつけていて、朝食後であることがうかがえた。都は動揺しながら、「たいら」と口に出す。

「タイラが、殴って連れて行ったように見えたのだけど」

「やっぱり?」

 呆れたような表情で、ユメノが口の端をナプキンで拭った。「話くらい聞いてやれって言ったんだけどね」とカツトシはため息を吐く。しょうがないっすよ、と口をはさんだのはノゾムだ。

「あの人、ああいうの嫌いじゃないですか」

「ああいうの?」

「マスコミ屋っていうんすか? 記者とかそういうの」

 あれは記者の類だったのか。そうであればなおさら殴るのは不味いと思うのだが。「まあ、あんまり仲良くはしたくないわよね」とぼんやりカツトシが言った。同感、とユメノもうなづく。ユウキは学校に行っているようで、見当たらない。

「ま、あの男が何とかしたんだろうから、いいわ別に。僕はちょっと買い出しに行ってくるけれど」

「ミユもいく!」

 カウンターの向こう側からひょっこり顔を出した実結が、ここぞとばかりに大きく手を振った。「私も」と言って腰を浮かせかけた都を、ユメノが制す。

「先生、そのカッコで行くの?」

 都は自分の格好を見て、そして静かに顔を赤らめた。そういえばまだ、寝巻のままだったのだ。大丈夫よ先生、とカツトシは言う。

「ミユちゃんのことはちゃんと見てるから。先生は休んでて」

 そうは言っても、やはり実結を外に見送るのは少し不安だ。カツトシのことだから、きちんと世話をしてくれるだろうが。

「わかったわ。じゃあ、よろしくね」

 そう控えめに託すと、カツトシはにっこり笑って「了解よ」と答えた。行ってらっしゃい、とユメノが手を振る。ノゾムは興味のなさそうな顔で、「コーラあったら買ってきてください」なんて言い置く。恐らく聞いていないだろうカツトシと実結は、元気に手を振って店を出て行った。

 雨の降りだしそうなぐずついた天気の中を、二人は歩く。雲の切れ目から、朝日の欠片のような柔らかな光が降り注いでいた。

「アイちゃん、どこいくの?」

「お店屋さんに行きましょうね~」

 賑やかな街と反対方向へ歩いていきながら、カツトシは鼻歌まじりにそう言う。そわそわと落ち着かない様子ながらも、実結がうなづいた。

 閑静な通りを歩いていくと、人気のない民家のようなところに無造作に野菜が転がっている。「あら、ラッキーね」とカツトシが笑った。「今日は開いているみたいだわ」

 そこが目的地だと知った瞬間に、実結は走って行って野菜たちを見下ろした。形は不ぞろいだが、どれも大きな野菜だ。

「人参はまだあるから、じゃが芋買って行きましょうか」

「カレー?」

「カレーが食べたい? シチューでもスープでも肉じゃがでも、なーんでも作っちゃうわよ。ミユちゃんには嫌いな食べ物ってないの?」

「ミユがたべたの、おいしいのしかない。みんなすき」

 そう、とカツトシが微笑む。じゃが芋を手に取って、代わりに小銭を傍の小箱へ軽やかに入れた。




 一方カツトシと実結のいない酒場には、疲れた様子のタイラが戻ってきていた。珍しく『お手上げだ』という仕草のままいつもの席に座る。

「上手くいかなかったんですか?」とノゾムに尋ねられ、タイラは頭をかいた。

「そうだな。ぎゃんぎゃんぎゃんぎゃんうるさかったもんで、しょっぱなから殴ったしな」

「ケーサツ呼ばれなかったすか」

「あいつらは強い。全てが脅迫のネタだ」

「ってことは、先輩はそれに屈して帰って来たんすか?」

「ああ。とりあえずもう一発殴って帰って来たよ。ああいうやつって何言ってるかわかんなくて怖いんだもん」

「あんたがこえーよ」

 それからタイラはしばらく頬杖をついてぼんやりしていたが、やがて「カツトシはどこだ」と呟いた。「飲み物の一つくらい出せよ」と顔をしかめながら。

「アイちゃんなら出かけてるよ」とユメノが答える。「ミユと一緒よ」と都は付け足した。

「出かけてるってどこに」

「いつもの買い出しじゃん。やっさんのとこにでも行ってるんじゃない?」

 僅かに目を丸くしたタイラは、「行くんなら行くって言えよ」と理不尽なひとりごとをこぼす。何か、と都が言いかける。ため息まじりに、「あのガキ」とタイラは言った。

「あの、自称反戦主義代表のガキと別れたのも酒屋の近くだ。ありゃあカツトシとは合いそうもない。バッタリ出会ってなきゃいいけどな」

 天気はどんより曇り空だ。雨が降り出しそうな、ぐずついた銀色の空。似たような顔を、ユメノがしていた。「ちょっと出かけてくる」と言い残し、ユメノは静かに外に飛び出していった。




 出来立てのコロッケを幸せそうに口に運び、カツトシは頬を押さえる。実結も、舌を火傷しないように気を付けながら頬張った。

「ん~coganrea!」

 不意にカツトシがそんなことを言って、実結は首をかしげる。

「こがんりあ?」

「クガンリィア! 僕の国の言葉で、美味しいってこと」

 まあ、なくなっちゃったんだけど、と呟いた声は誰にも聞こえない。

 それから肉屋のマダムに向き直り、「これ本当にサービス?」と確認をする。まだ若い奥様は、鷹揚にうなづいた。

「もちろんさ。アイちゃんは常連さんだし、それに可愛いお客さんってのはそれだけで癒しだからね」

「やーだー、上手なんだから」

「あんたじゃないよ。そこのお嬢さんさ」

 まだ一生懸命にコロッケを食べている実結を見下ろし、肉屋の嫁は微笑まし気に目を細めた。ちぇ、と肩をすくめながら、カツトシも笑う。

「それじゃあいつものセットくださいな」

「いいよ。あ、ステーキにぴったりの牛が入ったんだ。タイラ帰ってきてんだろ。どう?サービスするよ」

「よく知ってるわね。帰って来たけど要介護状態なの。ごめんなさいね」

「尚更肉を食わせておかないと。大丈夫さ、ありゃたしかタンパク質とっとけば死なない男だ」

「そう……かもしれないわ。じゃあ貰って行こうかしら」

 真面目な顔で品物を受け取り、カツトシは代金を支払った。実結がコロッケを片手に笑いかけると、肉屋の嫁は軽く手を振ってくれる。実結は満足して、歩き出したカツトシの後を追いかけた。

 どこにいくの、と実結が尋ねる。カツトシは肩をすくめて、「ママに怒られちゃうかもね」と呟いた。

「お酒が売っているところよ。まあ、うちとそう変わらないから大丈夫よね」

「うん! だいじょうぶ。だいじょうぶ」

「なーんでうちの酒はあんなに減るのが早いのかしら。絶対にタイラの馬鹿が勝手に飲んでんのよ。間違いないわ」

「わかんない。ミユ、しらない」

 タイラが酒場のカウンターの向こうから飲み物をしばしば失敬しているのは実結も知っていたが、小さな声で「しらないもん」と繰り返しておく。どうやらカツトシはあまり気にしていないようで、「そうよね」と相槌を打ったきり黙った。

 カツトシに連れられ、実結は酒屋の前に立つ。思ったよりも気軽な雰囲気で、蛍光灯の光度が高い店だった。奥から店長らしき初老の男が現れ、カツトシに親し気に手を上げて挨拶する。

「よおカツトシ。元気かい」

「もちろん。やっさんは?」

「この通りさ」

 男は腕まくりして見せて、豪快に笑った。それからふと実結のことを見て、「なんだいこのちびっこは」と首をかしげる。「天使よ」と肩をすくめながらカツトシが答えた。

「そうかい、おらぁ矢野っちってんだ。やっさんとでも呼びな」

「やっさん!」

 確かに天使だわな、と矢野はうなづく。そうでしょ、と言いながらカツトシが店内を物色した。

「ベースを二本ずつくださいな」

「あいよ」

 ビニール袋に詰められるだけ酒瓶を詰め、矢野はそれをカツトシに渡す。中身を確認して、カツトシが眉をひそめた。

「これ、一本多いわよ。しかもお高いやつだし。やっさんちょっとぼけてきちゃった?」

「失礼なオネェだな。いいんだよ、持っていけよ」

 口の端を上げて、矢野が目を細める。「タイラ、戻ってきてんだろ」なんて、可笑しそうに言った。カツトシは目を丸くする。

「なんでみんなそういうのわかっちゃうのかしら」

「やっぱり戻ってきてたか。お前たち、イマダのところの若造たちと喧嘩したろ」

「防衛戦よ」

「あのな、お前たちがそう元気に遊んでいるときには必ずタイラの奴が後ろにいるんだよ」

 遊んでないわ、とカツトシは仏頂面だ。何も言わずに肩をすくめた矢野に、「とにかく」とカツトシが首を横に振る。

「いらないわ。あの男はこれから禁酒するの」

「タイラが? やめろやめろ。あいつには禁酒も禁煙もできまい」

「なんでよ」

「当たり前だ。なんのためにそんなことをする」

 何か言いかけて、しかしカツトシはぐっと押し黙った。悔しそうな顔のまま、そっぽを向く。バツの悪そうな顔をした矢野が、「まあ、ヤツを心配する気持ちもわかる」と腕組みをしてうなづいた。「心配してるんじゃないわよ」とカツトシは吐き捨てる。

「そういうことなら酒はよそう。代わりにこれを持って行け。味は何とも言えんが、体にはいい」

 そう言って矢野が渡したのは、真っ赤なボトルのトマトジュースだった。見るからに濃厚そうなトマトジュースを受け取って、カツトシはちょっと笑う。

「ありがとう。これ飲ませておくわ」

「いいってことよ。あいつにも近いうちに顔出すよう言っといてくれ」

 言うだけ言っておく、と答えて、カツトシは店の出口へ歩いて行った。矢野が苦笑しながらも実結にオレンジジュースを持たせる。「また来な」と囁かれ、大きくうなづいて実結はカツトシの後姿を追った。

 しばらく歩いて、実結は立ち止まる。「アイちゃん」と呼びかければ、カツトシも立ち止まって実結のことを見た。

「あのね、だれかね、ついてきてるよ」

 カツトシはため息まじりにうなづく。

「そうね、やっぱり。このままウチに来られても困るし、話しかけてみましょうか」

 ゆっくりと振り返り、カツトシは頭をかいた。「それで、何か用なの?」と声をかければ、建物の陰から若い男が現れる。お話を、と男は言った。

「どうかお話をお聞かせくださいませんか?」

「話ィ?」

 訝し気な顔をして、カツトシは途端に警戒心をあらわにする。

「そんな暇ないけど。あんた、タイラに殴られた記者でしょ」

「タイラ……とは、あの乱暴な男ですか? お仲間なんですか、あんな男」

「あんな男をあんな男と呼んでいいのは僕たちだけよ」

 不機嫌そうに言って、カツトシは背中を向けようとした。しかし若い記者がそれを引き留める。「ルニヤの出身ですね」と記者は言った。カツトシは顔をこわばらせ、動きを止める。それから「違うわ」と簡潔に答えた。しかし記者も諦めない。

「戦場のお話を聞きたいんです。僕、こういうもので」

 記者が雑に懐から名刺入れを出し、手こずりながらも名刺を差し出してきた。それをちらりと見もせずに、カツトシは捨てる。

「……僕、平和主義者なんです。恒久的平和のために、戦争の悲惨さを伝えたくて。あなたのお話はきっと平和の礎になります。お願いします」

 カツトシの表情は変わらない。何も言わずに冷ややかな目を向ける。記者は沈黙を埋めるように一方的に話し始めた。

「前線で戦ってらっしゃったんですか? 兵の数も兵器の質も勝っていたルニアが、なぜあそこまで苦戦を強いられたと思いますか? やはりタガン国の陰謀でしょうか。日本に亡命するまでの紆余曲折を。戦場での話を。どうか聞かせてください。平和の尊さを忘れかけている人々に、訴えかけていかなければ」

 彼は尚もカツトシを質問攻めにし、そして時折平和の尊さや争いの愚かさを訴えた。その瞳は、興奮で潤んでいる。

 やがてカツトシがぽつりと、「ずいぶん戦争が好きなのね」と呟いた。青年記者は、きょとんとしてカツトシを見る。

「前線というには、役立たずの民兵だった。銃を小脇に抱えて逃げ回っているだけの」

 それを聞いて、記者は目を輝かせた。「戦争が好きなのね」と今度ははっきり、カツトシが言う。記者はムッとして、「誤解なさらないでください」と抗議した。

「僕は戦争は憎むべきとして」

「熱意の方向が違うわ。火事に集まる野次馬と同じよ。火の色に魅せられて寄ってきながら、『中の人は大丈夫かしら』と心配そうに言ってみせるのと同じだわ」

「それは、話をきちんと聞かなければ」

「いいわ、そんなに聞きたいのなら教えてあげる」

 カツトシのつま先が、若い記者へ向く。静かに口を開き、低い声を出した。

「こっちからすれば、あれは勝ち戦だった。あんたの言ったように、軍の力差があったし。正直に言って、戦争も中盤までは、田舎町じゃ戦争をしているという自覚さえなかった。それがいきなり。いきなりよ。他国との貿易が中止された。経済制裁と言えば聞こえはいいかもね。陰謀だろうと制裁だろうとどっちでもいいわ。……この国じゃ兵糧責めって言うでしたっけ? 海もない国で貿易もなく、焦った軍隊は食糧やら人手やらを求めて無理な侵攻を続けて、みーんな死んじゃった。それでついに、呑気な顔して生きてたちっぽけな村人たちにまで銃を持たせることになったってわけ。で? どうなったと思う? どこにも畑を耕す人間なんていなくなった。食糧不足が深刻化しただけだった。それでも……勝ったのよ。僕たちは勝った」

 どこか焦点の合わない目を向けて、カツトシはぼんやり「ねえ、聞いていい?」と尋ねた。若い記者も現実ではないような顔をして、うなずく。

「空腹で……死にそうなほどの空腹で、それでも動き続けないといけないってとき。あんたそこに食べられるもの落ちてたら食べる?」

「それは……もちろん」

「なんでも? 食べられれば食べる? たとえ仲間でも?」

 それはどういう、と呟いて、そして若い記者は青褪めた。「食べたんですか」と確かめて、そしてすぐに頬を紅潮させる。「それは、それは、そんな、どうして、どう……」と口をパクパクさせた。

 唇の端を歪め、カツトシは笑顔を作ってみせる。「ん……」と静かに考え込む素振りでゆっくりと近づいて行った。記者の目の前で立ち止まり、若者を見下ろしながら口を開く。

「Ya, Re coganrette.」

 何を言われたかわからず、記者はきょとんとしてカツトシを見つめた。そんな記者に向かって、カツトシが手を伸ばす。迷いなく首へ向かっていくその腕が止まったのは、彼らの間に小さな影が入り込んだからだ。

 実結はカツトシに背を向ける形で、若い記者を睨んだ。

「アイちゃんのこといじめちゃ、だめなんだから」

 カツトシがハッとして、腕を下ろす。記者も正気に戻ったようで、足を震わせながら去って行った。

 ため息をついて、カツトシは苦笑する。

「僕の方がいじめられていると思うとは、さすがだわ。さすがタイラの連れてきた親子」

 ありがとう、と言いながら頭をなでると、実結はほっとしたように笑顔を見せた。ふと、17時の鐘がどこかから聞こえてくる。まだ空には青さが残っていたが、実結が「かえるじかんだね」と言ったのでカツトシもうなづいた。遠くから、ユメノの走ってくる姿が見える。

「遅いよ」と上気した顔で、責めるような戸惑うような声で。

 カツトシと実結は顔を見合わせて、笑った。

「いま帰ろうと思ったところよ」

 二人はゆっくりと、仲間のもとへ歩いて行った。




 酒場のドアを開けて、最初に目が合ったのは都だ。一瞬だけ顔を輝かせ、慌てて実結のことを迎えに来る。ごめんなさいね、とカツトシは謝った。

「ミユちゃんもいたのに、遅くなっちゃって」

「いいのよ。実結はいい子にしていた?」

 いいこにしてたよ、と実結が自己申告する。そう、と都は微笑んだ。

 いつの間にかユウキも帰ってきている。仲間たちから「遅い」やら「腹が減った」やらの文句を受けながら、カツトシはカウンターの向こう側へたどりついた。買ってきたものを棚にしまう。

 その中の立派な肉の塊が視界に入り、カツトシは思わず目をそらした。鼓動が早くなるが、そんなものはすぐにおさまるだろう。自分はそう弱い人間ではない、とカツトシは喉を鳴らす。

 不意に顔を上げると、無表情にこちらを見ていたタイラと目が合ってしまった。タイラはふっと笑みをこぼし、「今夜はステーキか? 豪勢だな」と言う。

「……あんた、タンパク質さえとっときゃ死なないと思われてるわよ」

「誰にだよ。お前に?」

 億劫そうに立ち上がって、タイラはカウンターの中に入ってくる。「たまには俺が腕を振るってやるから」そう、目を伏せて頭をかいた。

「お前は向こう側で、座って待ってろ」

 呆然としているカツトシを置いて、タイラはぽんぽんと手を叩いてみせる。「ほらお前ら、今夜はご馳走なんだからその前に風呂に入って来い」と仲間たちを急き立てた。都が驚いて目を丸くする。

「タイラ、料理ができるの?」

「先生、肉は焼きゃあ大抵ステーキに変身する」

 簡潔に言われて納得したようで、都は実結を連れて階段を上っていく。「ランドセルおいてきます」と言いながらユウキも都たちを追いかけ、肩をすくめながらノゾムもそれに続いた。最後にユメノが、何か言いたげにちらりと見て、しかし諦めたように背中を向ける。

 ふ、と微かにカツトシが笑った。「僕、肉が好き。ビーフだろうがポークだろうが」と独り言のようにこぼす。

「チキンは?」

「そういうこと言ってるんじゃないわよ。変な勘違いして妙な気を回すなって言ってるの」

「チキン超うまいけどな」

 話を聞いているのかいないのか、タイラは涼しい顔でフライパンを火にかけた。緋色がちろちろ見える。なぜ、とカツトシは呟いた。

「あの記者を見逃したわけ?」

「殴ったぞ」

「でも、見逃したでしょ。まだちょろちょろ嗅ぎまわれるくらいには」

 ああ、と言いながらタイラは塩と胡椒を振る。「俺が気に入らないやつを必ず戦意喪失レベルに半殺しにすると思われても困るんだけどなぁ」と詠嘆口調で呟いたが、カツトシはそれを無視した。

「熱意が」とタイラが笑う。「本物だっただろう、あのガキ」

「熱意?」

 当惑して聞き返したが、それ以上の説明はない。わけのわからない怒りが湧いてきて、カツトシは目の前の男を睨む。

「何、それ。熱意がありゃあ、全部肯定できるってこと?」

「俺がいつ、あのガキを肯定した。あんな世間知らずのはた迷惑なぼっちゃんを。俺はただ、」

 何よ、と語気を強めるカツトシに、タイラは「落ち着けよ」と無表情のまま言った。

「俺が殴ったら理不尽だと思っただけだ」

「殴ったじゃない」

「殴ってから思ったんだよ」

 思わず力が抜けて、カツトシは肩を落とす。「災難ね、あの青年も」と呟いてしまった。

 気づけばタイラは人参などを一口大に切ったりしている。どうやら肉だけでなく付け合わせまで用意するつもりらしい。この男の時折見せるこういう完璧主義なところが、よく理解できない。

 ぼんやりタイラの手際を眺めつつ、カツトシは「お腹すいたわ」とこぼした。へえ、と興味なさそうにタイラがうなづく。

「あんた、お腹すく?」

「俺をなんだと思ってる」

 フライパンにバターを落とし込み、激しい音を立てた。大きいままの肉の塊を、さっと用意する。「あのさあ」と不意にカツトシは口を開いた。

「あんた、お腹すいたら。ほんと、死ぬほど空腹でたまらないって時」

「例えばの話か」

「そこに死体落ちてたら食べる?」

 タイラは顔を上げ、「何の?」と尋ねる。「人の」とカツトシが端的に答えた。

 肉の焼かれるにおいがする。鼻について、カツトシはそっと目をそらした。フライパンの位置を微調整しながら、タイラがため息を吐く。ここでため息を吐かれると思わなかったカツトシは、背筋を伸ばして答えを待った。何も言わない。しびれを切らして、「なんとか言ってよ」と訴えた。

 わかんねえな、とだけタイラは言う。「結論から言えば経験がない」と切り捨てるように続けた。カツトシは震える声で、「なんで冗談でも言って茶化さないの」と呟く。

「……昔、腹が減って死にそうな時」

 肉をひっくり返しながら、タイラは話し始めた。

「金魚を食ったことがある。水槽で泳いでたやつだ。どうだろうな……あの時人が食えるもんだと思えてたら、食ってたかな。わかんねえな、金魚よりは美味そうだけどな。そういう問題でもねえだろう」

 独り言のように淡々と呟いて、それから最後に「食う方法があれば食ってたかもしれねえ」と言って笑う。

「でも、『食ってたかもしれねえ』なんて答えは望んじゃいないだろう。『食ったことがある』じゃないと、お前に届かねえんだよ。お前は馬鹿だからさ、それ以外の言葉は知らないうちにごみ箱に捨てやがるだろ」

 反論しようとしたが言葉が出ず、カツトシはぐっと押し黙った。別に、とタイラはわざと軽薄な調子で続ける。

「別にそれでいい。容認できるものだけ拾っていけばいい。誰も責めねえだろうが」

「今あんたに責められた気がしたんだけど」

「扱いづらい青少年をそばに置くと気苦労が絶えなくてな」

「よく言うわよ」

 くすくす笑ってから、カツトシはふと真顔になる。「それで、金魚ってどんな味なの?」

 タイラは肩をすくめた。「絶対に食うなよ。腹壊すぞ」

 焼きあがった肉がカットされて、皿に載せられた。それから肉汁とバターの残ったフライパンに醤油と味醂を入れ、タイラは後ろの棚を物色する。ワインを手に取って、軽やかに栓を抜いた。ぶくぶくと煮立ったフライパンにそれを流し込む。カツトシが驚いて、「勝手に」と非難した。

 美味しそうなにおいに誘われたように、階段を降りる足音が聞こえる。「できた?」とはしゃいだ声を上げたのはユメノだ。後ろからユウキとノゾムが続き、都と実結も遅れて現れる。

 ちょうどソースを作り終え、タイラは皿を人数分並べた。都がカウンターの向こう側へ歩いていき、米をよそってこれも人数分並べる。

「はい、ユウキ。いただきますしてください」

 タイラがなぜか丁寧にそう依頼し、ユウキは張り切って手を合わせる。

「いただきます!」

 いただきます、と全員それに続いた。

「残念ながら美味しいっすね」と本当に残念そうにノゾムがぽつりと言う。「素材がいいからよ」とカツトシはすぐに料理人の腕を否定した。ふんふん、なんてうなづきながらタイラは自分で料理した牛肉を咀嚼している。

「で、この立派な肉はどういった経緯で手に入れたもんだ? まさかお前がリアルマネーで買ったわけではあるまい」

「リアルじゃないマネーで買ったのよ」

「はいはい。お前ったら実はファンタジー属性だもんな」

「……百瀬さんちでもらったの」

 箸を止め、タイラは目を丸くした。「菊花ちゃんに会ったの?」と不満そうな顔をする。「いいなあ、俺も会いたかった」と嘆くタイラには、『あんたの復活祝いだ』とは絶対に言わないでおこうとカツトシは思った。

 カツトシもフォークを掴む。まだ赤いところの残る肉を刺して、じろじろと見た。試しに、という体で口に運べば、思わず「美味しいじゃない」と呟いてしまう。それを見たタイラが、何か迷うそぶりを見せてから口を開いた。

「……菊花ちゃんの選んだ肉だからな」

 そうね、とカツトシは笑う。そして、心の中で呟いた。

 あんたが料理したからじゃなくて、素材がとんでもなく良いからよね。知ってる。

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