第95話 命の価値は

「一緒に死んで欲しい」と、助手席にいた妻にそう告げられた。

 外食するために出かけていた車の中での出来事だ。

 先ほどまで普通にしていたのに、急に何を言い出すのだと。

 聞き間違いかと思い半笑いで隣を見ると、妻は無表情のままジッと前を見つめていた。


 いいよ、と呟き、信号が青に変わったと同時に俺はアクセルを踏み込んだ。

 車はみるみるうちに速度を上げ、次の信号で止まっている前の車に近づいていく。

 アクセルを全開にしながら、隣の妻を盗み見る。

 妻は無表情を崩さないまま、ただジッと前を見つめていた。

 速度は時速100kmを越えた。国道では立派なスピード違反だった。急加速による重圧も感じる。普段なら規則に厳しい妻もこのときばかりは何も言わなかった。


 結局、絶妙な距離でブレーキを踏み、惨劇は回避された。

 俺ははぁ、とため息をつくと「俺はあなたと死にたいわけじゃない。あなたと生きたいんだ」そう言った。咄嗟に出た心からの本心だった。

 妻は無表情を崩さないまま、「そう」と言った。俺はすかさず「うん」と言った。

 結婚一年目を過ぎた辺りで、再発の告知がされるまでのわずかな時間での話。

 このとき俺は妻が言った言葉の真意に言及できなかったし、聞こうともしなかった。

 ただ、妻は自分の体のことだから、そのことにうすうす気づいていたんだろう。


 その後、追突事故じゃエアバッグあるし死ねないし、俺たちシートベルトしてるじゃん。なにより全然関係ない人が被害に遭うなんてと、妻を叱りつつ説き伏せていると、前方の車二台がおかしなことを始めていた。

 先ほどオカマを掘る直前だった車ではなく、ちょっとやんちゃな車高の低いスポーツカーだ。その二台が追い越し車線を挟み併走していた。

 異常なのは、その二台の距離が互いのサイドミラーが触れ合う程までに接近し、中の人間同士で連絡を取り合っていることだった。

 異変を察知した俺はその二台からそろそろと車間距離を取り始めたが、バックミラーを見るに後ろはやや混み始めていた。前の二台が法定速度下限一杯という遅い速度であったことと、俺たちが見つめる中、明らかに彼らは馬鹿な行動に出始めていたからだ。


 彼らは後部座席の窓を開け放ち、一人が窓越しに併走する車に乗り移ろうとしていたのだ。

 ミッションインポッシブルという映画の中でならイーサン辺りがやりそうなことだろうが、前方から聞こえてくる悲鳴にも似た馬鹿笑いは成人式での悪ノリ不良成人そのものだった。

 結局、身体の下半分近くを併走する車に突っ込めたことで満足したのか、事故ることもなく追い越し車線側を爆走して行ってしまった。

 

 俺は嘆息するだけだったが、隣の妻は怖い顔で「死ねばいいのに」そして「死ね」と口にしていた。

 非暴力不服従・積極的平和正義主義を貫く妻から聞いた初めての呪詛だった。

 俺は特に諫める理由もなく、思考を止めて「ははは」とだけ笑った。

 嫌な予感だけが俺の中に残った。




 さて、ここから本編に戻るわけだけど、俺はブロブに顔射をキメられ仰け反ったところを【砲撃士】の指輪に付け替えたハルドライドに狙撃されたらしい。

 どうやら俺の見ていないところで拳銃ハジキの受け渡しが行われていたようだ。

 幸い頭部の位置がズレたことで弾丸はこめかみを掠め、俺は死なずに済んだ。

 ただ、脳しんとうを起こしてしまったようで、俺は白目を剥いてぶっ倒れたというのだ。

 だからこれから先しばらくは、生き残った者の証言を聞き集めて再構成した話となるので了承願いたい。

 ちなみに、狙撃場所は暗視が効く俺の視野の外くらいから。後日、情報発信をしてくれたブロブ1ぷにょを回収。近くに踏みつぶされたアラゴグの死体を見つけて丁寧に葬ったことをここで報告しておく。

 では続きをどうぞ。


 

「マスター!!」


 俺の頭部が跳ね上がるのと同時に、マチルダさんは血相を変え、悲鳴のような声を上げた。

 そして、そのまま俺の元に駆けつけようと黒い淵に飛び込もうとして、


「マチルダ! 俺を屋根まで飛ばせ! そっちの方が早え!」


 背後から走り来るジェイルの言葉に踏みとどまった。

 マチルダさんはジェイルの意図を酌み取り、身を翻すと、弾丸のように加速し突っ込んでくるジェイルに向け、レシーブのように両手の平を腰の前で組んだ。


「距離22メートル、地上6メートル! 角度良し! 飛ばせ!!」


 目測での距離を伝えると、勢いそのままにジェイルはマチルダさんの両手の平に軸足を踏み入れた。

 発射台カタパルトの役目を担うマチルダさんが了解とばかりに、「■■■■!!」と、バーサーカーモードでジェイルを射出した。

 背を丸めたジェイルは砲丸の玉のように空高く打ち上げられたが、天性のバランス感覚なのか【シーフ】としての身体能力なのか、途中で身を起こし、クルクルと舞ったかと思うと、後ろ向きで屋根の斜面に無事着地した。

 屋根を削るようにザザザーッ、と数十センチずり下がるものの、『加震動波』を応用したスキルの効果なのか、バランスを全く崩してはいなかった。


 ジェイルはゆらりと立ち上がると、他には目もくれず、ダダジムの上で突っ伏している俺の背中にどっかと足を乗せた。ふ頭か波止場のユージローをイメージしてもらいたい。決して勝者のポーズではない。

 マチルダさんご立腹の不敬行為だが、このときジェイルは『加震動波』で俺の生死や状態を確認していたらしい。


「ジェイル! マスターは?!」

「……気絶してるだけだ。心臓の動きに支障はねぇ。大丈夫だ」

「そうですか。よかった……」


 ホッと胸をなで下ろすマチルダさん。

 ジェイルは俺の背に足を乗せたまま身を起こすと、周囲を見渡し、右手の指をある方向に向けた。


「マチルダ。テメェはこの方角にいるハルドライドぶっ殺してこい。任務の途中でいなくなるやつじゃねぇ。きっとまた狙ってくる。……村からひとりも逃げ出せねぇように繋いである馬全部殺しとけ」

「ジェイル、あなたは?」

「俺は――」


 今度は左手に持った風のナイフをロー公の背後にいるお頭に向けた。

 青白い光がゆらりと闇に融ける。


「そこのクソ女に用事ができた」

「ほう?」


 お頭が髪を掻き上げながらロー公の前に進み出た。


「兄弟喧嘩はもういいのか? ……ああそうか、兄を殺さずに済む方が、兄に見守られながら死ぬよりマシだからか。ははは。アーガス、舐められたものだな」

「…………」


 肩で粗い息を繰り返しながらも、灼熱の剣をそのままに、屋根の上のユージローを見上げるアーガス。


「勘違いしてんじゃねぇよ。クソ女」


 ベッと血のついた唾を吐くジェイル。その被害を受けるダダジム3号。踏まれ続けている俺。


「兄ちゃんが本気を出せねぇのは、チョロチョロ視界に入るテメェの存在が気にくわねぇからなんだよ。俺が知ってる兄ちゃんの実力はあんなもんじゃねぇんだ。テメェがいるせいで兄ちゃんは自由に生きられねえんだよ」


 風のナイフをゆらりと揺らす。


「先にそこのクソ女を殺す。そうすりゃ兄ちゃんは最強だ」

「はは――」


 そのときだった。

 パアン、とまるで風船が破裂したかのような音が響き渡った。

 しかしそれは銃声ではなかった。

 全くの意識の外からの『攻撃』だった。――そう、無差別攻撃だ。


 小山のように盛り上がっていた黒い淵の中央が、まるで炸裂弾か花火のように音を立てて破裂したのだ。

 そして、黒い淵のその中身を四方八方にまき散らしたのだ。


 その場にいたほぼ全員――ありがたいことにダダジムの上で突っ伏していた俺とダダジム、アラゴグ、ブロブは角度的に被害を免れたが、ジェイルにマチルダさん、アーガス、ロー公、それにお頭もその黒い淵のビッグバンアタックを食らっていた。


「な――なんだこれは!!」


 殺伐とした空気を吹き飛ばしてくれたのが、誰でもない破裂した黒い淵だったが、そんな状況の中でも唯一態度を変えないだろうなと思われていた人物が、実は一番の動揺をしていたのだというから驚きだ。


「クソ、取れないぞ?! ……いや、これは増殖じゃない。肌から直接湧き出してきているだと?!!」


 お頭は驚愕を隠せないといった感じで、頬についた黒いタールを袖で拭おうとするが、拭えども拭えども黒いタールは頬から血のように湧き出してくるのだ。

 まさに先ほどまでボルンゴを呑み込もうとしていた黒い淵がそのまま頬に張り付いた感じだった。

 お頭は上着を脱ぐと、それで頬を強く拭ったが、やはり完全には拭い取ることはできず、ロー公の背中に捻り付けるという暴挙に出るがやはり結果は同じだった。

  現時点で分かっていることは、まるで鳳仙花ホウセンカが種を飛ばすように、黒い淵が自らを破裂させ四方八方に拡散させたということ。

 皮膚などそれぞれに付着し、張り付いた部位から黒いタール状の液体が噴き出し始めたということ。ぬぐい取れないことからして、お頭の頬はおそらく黒い淵の召喚口になっている。


 ビッグバンアタックを食らっても、大丈夫な者もいた。

 マチルダさんとジェイルだ。

 さすが我が陣営チームネクロマンサーの猛者。伊達にあの世は見てねぇぜ。

 マチルダさんは屋根の上だけではなく、俺が倒れたあとも、アーガスにもそれにハルドライドの追撃にも意識を集中させていたのだ。当然、黒い淵が破裂しそうになっている状況にも気を配っていたのだという。

 ただ、まさか本当に破裂するとは思わず、弾け飛び飛来してくる何かから、両腕で頭部や顔を防ぐのが精一杯だったとのこと。

 そして素早く黒いタールのついた袖の部分を破り捨てたのだ。以前に、溶解液を含んだ果実を飛散させる肉食植物に遭遇したことがある経験が活きたらしい。

 もっとも、肌に直接触れていたらダメだっただろうけど。


 そしてジェイルは、


「ああ? なんだこりゃ。気持ちわりぃな」


 そう言うと、首元に張り付いた黒いタール状を残った右手の親指と人差し指で抓み――『盗んだ』。

 抵抗もなく、ぬろりと剥がされ、地上は俺様のゴミ箱だとばかりにポイ捨てされる。流石はDQN。


 だが、それだけでは終わらなかった。

 黒いタールが地面に落ちたかと思うと、再びコポコポと黒い淵が湧き上がってきたのだ。

 黒いタールを上着で拭い取っているお頭はともかく、ロー公の脇腹辺りに付着した『召喚口』から湧き出た黒いタールが屋根に落ちても、すぐさまそこに黒い淵を作り出さない。どうやら“地面”に落ちないと黒い淵にはならないようだ。


 シーフの『盗む』による黒い淵の解決方法を目の当たりにして唖然としたお頭だったが、すぐさま口元を引き締め気を取り直すと、


「アーガス。すぐさまアンジェリカを探し出して、この黒いのを止めさせろ。抵抗するなら殺しても構わない。ロー、ハルドライドにアンジェリカを探し出すように伝えろ。今すぐ大声でだ」


 上着で頬の黒い液体を拭いつつ、お頭は両耳を塞ぐ。


「わかったヨー。―――すぅぅぅぅ……。ハルドライドー!! お頭がアンジェリカを探し出せって言ってるヨーーー!!!」


 ロー公がお頭の指示を大声を使って伝えた。

 当然アンジェリカにも伝わっただろうが、時間と正確さ優先で、これに勝る連絡手段はなかったのだろう。


「バカでっけぇ声だしやがって……。ロー、アンジェリカを殺したけりゃ、お前がひとっ走り行きゃいいだけだろ」


 耳を押さえ、しかめっ面のジェイルがロー公に苦言を言う。


「ダメだヨー。ボクがいなくなったら、ジェイルはお頭を殺そうとするでショ?」

「へっ、お楽しみはお前が戻ってくるまで待っててやるよ。……おら、とっとと行ってこいよ」

「ダメだヨー、ジェイルすぐ嘘つくヨー」


 ジェイルが犬でも追い払うかのようにシッシとロー公を振り払おうとするが、ロー公は平然として動こうとしなかった。

 ジェイルは死霊の槍を持つロー公の間合いに踏み込めず、苛立ちを募らせはじめていた。


「ジェイル!」


 マチルダさんの呼びかけに、ジェイルはロー公から目を離さず「んだよ」とだけ返事を返す。


「アーガスさんが逃げ出しました。私は今からアーガスさんを追って仕留めます。……もしくは動けなくします。そのあとはハルドライドさんを仕留めに向かいます。あなたは?」

「もうすぐトーダが意識を取り戻す。それまでこの二人をここに留めておく」

「わかりました。……できれば、お互いの位置を取り替えっこしたいところですね」

「いいや。このクソ女、テメェにやるにはもったいねぇ」


 眉間に皺を寄せながら睨みつけてくるジェイルを無表情で見つめ返すお頭。


「……マスターのことは任せますよ、ジェイル」


 後ろ髪引かれるかのように何度も後ろを振り返るマチルダさんが、アーガスを追って見えなくなると、


「ああ、……ちゃんと見ててやるよ。こいつが起きるまではな」


 俺の頭を踏んづけたままのジェイルがぽそりと呟く。

 ジェイルは気を失った俺を守護しゅごるためにこの場から動けず、お頭達も自分たちの身体に黒い淵の『召喚口』をつけれているため、地面に降りるのは得策ではないとこの場にいる。

 あとはどちらかの陣営の働き待ちだと思われたが、意外なことに、先に動いたのはお頭の方だった。


 お頭はロー公の耳元で何事か指令を伝えると、くるりと二人に背を向け、マチルダさんとは反対側の地面に飛び降りた。

 何かをバキバキと踏み壊す音をさせながらも無事に着地するお頭。


「お頭はどこ行くノ? さっき言われたこと終わったら、一緒について行いってイイ?」

「……。そうだな。そこにいる死に損ないのクグツを殺してからなら追ってこい。トーダに纏わり付いている猿どもも殺すことを忘れるな。行き違いアンジェリカを見つけたら、捕獲して大声で報告しろ」

「ワッカリマシター」


 ハーイと手を上げるロー公。


「逃がすかよ!」


 慌ててお頭のあとを追おうとするジェイルだったが、ロー公が死霊の槍を水平に振るって牽制すると、ジェイルはそれをけ反って躱した。

 ロー公は死霊の槍を構え直すと、お頭が走り去った先を背で守るようにして立った。


「ダメだヨー。ジェイルはここで死ぬんだヨー」

「へっ、テメェに俺が殺せんのかよ。ロドルクにぶん殴られて頭ん中お釈迦になったって聞いたぜ。あんまり動くと少ない脳みそが耳からこぼれ落ちるぞ」

「楽勝だヨー。ジェイルはボロボロだからすぐ死ぬヨー。死霊の槍でジェイルを突いて怪我を治すヨー」


 死霊の槍が、真っ直ぐにジェイルの心臓に向けられる。そこに躊躇も油断も無い。

 ジェイルは目を細めると、ふん、と不敵に笑った。風のナイフを逆手に持ち直し、首をこきこきと鳴らす。


「“シーフの耳は地獄耳”ってな。さっきあのクソ女から『ここから二人を動かすな』と命令されてたろ。それはよ、つまり俺たちに動かれるとあのクソ女が困るって事だろ」

「お頭にはジェイルを殺せって言われてるヨー。ジェイルを殺したあとは残りを殺して、トーダと一緒にお留守番するヨー。バイバイ、ジェイル。大嫌いだったヨー」


 ロー公はわずかに身を屈めさせると、鋭く息を吸った。 

 一撃の下に葬り去ろうと、ロー公は屋根の一部を吹き飛ばす勢いで足指に力を込めた。

 その爆発力を推進力に代え、死霊の槍は膝を付いたジェイルの心臓目がけて伸ばされる――はずだった。


 ジェイルが何かを呟く声が、同じく地獄耳のロー公に届いたのだ。

 

 ジェイルの心臓まで、わずか数十センチのところで、ロー公はそれが何を意味するのか気づき、急ブレーキを掛け、死霊の槍はすんでの所で停まった。

 ジェイルは元盗賊の経歴を生かした邪悪そうな笑みを浮かべながらこう言った。


「トーダの命が惜しければ、もう少し下がりな」


 青白く光る風のナイフの魔光が俺の首筋を照らしている。




 一方、マチルダさんは――と言うと、


 民家の一角で、追っていたアーガスの足跡が消えていることに気づき立ち止まった。アーガスの靴底は村民のそれとは作りが違って追いやすかったのだ。

 注意深く辺りを探る。

 隠れたのか、はたまた靴を脱ぎ捨てたのか、木でも伝って逃げたのか。

 周囲に気配はない。


 アーガスもあのビッグバンアタックを食らった被害者なのだ。地面のあるところで立ち止まったりはできないはずだ。

 服についた黒いタールは上着ごと破り捨てたものの、首元と左手の甲の2カ所に被弾したのを見逃さなかった。

 被弾した皮膚は、それ自体が召喚口となり黒いタール湧きださせる。やがて重力に沿ってそれが地面に滴り落ちると、“呼び水”のように、そこから新しい黒い淵が現れるのだ。

 被弾した皮膚から湧き出す黒いタールの量は、さほど多くなく一定だが、それを止める方法はない。せいぜいが布で黒いタールを拭うだけだが、そんなことは一時凌ぎにしかならないだろう。

 だから、立ち止まれば立ち止まっている時間が長いほど、足下には黒い淵が大きくなっていき、やがては黒い手を伸ばして捕獲されてしまうのだ。

 ……おそらくは、誰かを呑み込むまでは同じように増えていくはずだ。


 追っている最中、地面に零れた黒いタールが小さな黒い淵に変わっているのをいくつか見かけたが、まだそれほど大きくはなっていなかった。だがそれも5分もすれば、それぞれが融合し、飛び越えられないほどの大きさにまで成長してしまうのは明白だ。

 いずれ村自体を飲み込んでしまうのかも知れない。


 ふと、マスターが屋根の上で気絶していてくれて良かったと安堵している自分がいることに気がつく。

 ジェイルはともかくとして、あの魔族はマスターを殺すことも殺させることもしないだろう。魔族の思考と嗜好はわかりやすく、それが簡単に変わることはないことは知っている。いざとなればジェイルが、お猿ちゃん達がマスターを連れて逃げる時間稼ぎくらいにはなるはずだ。

 少なくとも、屋根の上にいる限りは黒い淵に呑まれることはないだろう。


 ……だが、傷を負っているマスターの元を離れ、独断で行動することには抵抗がある。胸が苦しい。不安で苦しくなる。早くマスターの元に戻りたい。私なら最善の方法でマスターをお守りできるはずだ。やはりジェイルでは力不足。

 というか、なぜジェイル如きがマスターをお守りする役目にあたっているのだ?

 なぜ私はあんな無礼者をマスターの元に残した? あれは本来私の役目だろう。

 私はあの事態に気が動転し、冷静さを欠いていた。そこにジェイルがまんまと乗っかってきたのだ。

 狡猾な男だ。

 序列的に考えても、倫理的に考えても、常識的に考えても、到底納得がいかない。

 やはり、後できっちりシメておかないといけない。きゅっと。


 そんなことを考えながら、マチルダさんは両手に握った丸い石を砕かんばかりに握りしめる。


 ――ビュン、と何か風鳴りの音が聞こえた気がして、反射的に身を屈めた。

 何かが頭上を通過していく気配を感じるが、ヒトの殺気や気配、魔力などはまったく関知できなかったことからして、殺傷能力を期待しない、簡易的な罠を発動させたのだろう。

 風鳴り音の質からして、弓矢の類いではなく、鞭。

 いや、さらに細く……糸か紐のようなものを高速に動かしたような音だった。


 殺傷が目的ではないのだとしたら、狙いは何だろう。

 そう思った次の瞬間、身を低くしていた姿勢が仇となったか、頭から何か液体のようなものを大量にかけられた。

 ばしゃぁっ、という派手な水音が聴覚と視覚、嗅覚と感覚、それに思考をマヒさせてしまっていた。

 先入観とでも言おうか、液体を頭から被ってしまったことで、液体と黒いタールを連想してしまい、先ほど黒い淵に引きずり込まれそうになり藻掻いていた男を自分と重ね合わせてしまっていた。

 つまり、私は一瞬パニック状態に陥ってしまったのだ。


 その隙を突いて、オレンジ色の閃光が走った。

 躱しきれなかったのは己の未熟さゆえではあったが、それでも無意識で致命傷を避け、腕一本で済んだのは戦場で培った戦士の勘だったとしか言いようがなかった。


「……ッッ」


 右肩を軸に自身を回転させ、追撃をさせまいと地面を転がった。

 鋭く響く痛みからの叱咤に、パニックから解け、思考と視界が戻ると、目の前にはアーガスが、オレンジに輝く魔剣を振り下ろしたままの格好でこちらを睨み付けていた。


「…………ああ、あなたでしたか。てっきりもう一人のほうの方が仕掛けた罠だと思ってしまいました。……はぁ。…………へぇ……。物干しの棒に紐を括り付けて弓形に張って、あそこに引っかけて……、はあはあ、なるほど。最後は板が外れてタライの水が上から落ちる仕組みですか。よくこんな短い時間に考えつきましたねぇ。

 ははぁ。すると最初に聞いた風切り音はその紐が飛んでくる音だったんですね」


 ジュウジュウと左腕の切り口を魔剣の残り火が灼き続けている。

 灼熱の魔剣に加えて、ここまで傷が深いと“再生”も追いつかないだろう。 

 まあ、それはともかく。

 頭から被ったのが黒いタールでなくてよかった。


「片腕でなにが――ぐぁあっ!!?」


 何か呟きながら立ち上がろうとするアーガスの膝に、問答無用で拳大の石を投げつける。膝の皿が割れたようでアーガスがその場に崩れ落ちた。


「何ぼさっとしているんですか。口を動かす暇があるんなら足を動かし距離を詰めるなり距離を取るなりなさい。あなたは筋はいいのですが、詰めが甘いんですよ。もっと戦場で実戦を積むことですね」


 教官時代を思い出し、腰に手を当て説教をしてみるが、アーガスは灼熱の魔剣をそのまま杖にして、砕けた膝で立ち上がろうとしていた。

 ぽたぽたとその頬からこぼれ落ちるのは、脂汗ばかりではなく、黒いタール。地面には黒い淵が、少しずつだが確実に広がり始めていた。

 マチルダさんは、鼻息ひとつ噴いてツカツカとアーガスに歩み寄ると、黒いタールの召喚口とは反対側の頬をぶん殴った。

 軽くやったつもりだったが、知らず力がこもってしまったのだろう、アーガスは駒のように二回転し、顔から崩れ落ちた。そしてそのまま首根っこを掴むと、民家の屋根の上へ放り投げた。

 気絶の有無はわからないが、あの足ではもう動けはしないだろう。


「まったく。手加減するのにも一苦労ですねぇ。この憤りを一体誰にぶつければいいのやら……。本当に、もうっ!」


 アーガスの落としていった魔剣を拾い上げると、すっかり灼けてしまった傷口からおよそ10cmほどを力任せに切り落とした。

 アーガスの気絶により灼熱効果は解けていたが、切断面は綺麗であればあるほど、再生速度は速いことを経験上知っているからだ。

 自傷行為には慣れている。

 毒だの溶解液だの呪いだの、蟲族の卵を植え付けられたことさえあったのだ。

 そのすべてを自分で切り落とし、囓りつき、毟り取り、削り取って除外してきたのだ。今更腕一本どういうことはない。痛いだけだ。

 魔剣をぶるんと振るって血のりを落とす。魔剣類は消費魔力の量が通常の武器と比べて桁違いに多いくせに、魔剣そのものの特性を【魔剣士】でないために、【戦士】である自分は引き出すことができない。正直このテの武器は苦手なのだ。

 しかし、これしかまともな武器はなく、マチルダさんは眉間に皺を寄せながらも魔剣を肩に担いだ。


「さあ、次はハルドライドさんですか。ウチのマスターに舐めたコトしてくれた罪はその身体で償って――――」


 そこでマチルダさんの顔がぱぁっと明るくなった。


『マスター! ご無事だったんですか!! よかった。本当に、ほんっとうに心配していたんですよぉ! え? ええ、はいはい……。は? ジェイルが……? へぇ……』


 マチルダさんの貌からスゥッと表情が消え、眼光だけが鋭く闇を貫いていた。




『そうなんですよ、マチルダさん。俺が気絶してる間に何があったんでしょうか?! ジェイルが俺のこと殺すって言って、風のナイフであばばばばばb』


 首元をスゥッと撫でるようにするだけで、切れ味抜群の風のナイフは俺から尊厳とHP1を奪っていった。


「暴れんじゃねぇよトーダ。手元が狂っちまうじゃねーか」

「あの、ジェイルさん。これはいったい全体どういう了見なのでしょうか。当方になにか至らぬ粗相でもしでかしましたでしょうか。ひぃぃ、納得いく説明をして頂くために、後日改めて場を設けてですね……」


 緊迫した空気を醸し出しているのは何もジェイルだけではない。

 目の前には死霊の槍を構え、普段のまぬけた表情からは同一人物とは思えないほど険しい貌のロー公が、鼻頭に無数の皺を寄せながらギリギリと歯ぎしりをしている。

 あわわ。とてもロー公には話しかけられない。


「あの、皆さん、どうか落ち着いて、武器を、ですね……。これ以上罪を……」

「死にたくなきゃ、黙ってろ。殺すぞ」


 顎の下をグィッと風のナイフでなぞり上げられる。


「ぶひぃ!」


 俺が気を失っていた間に何が起こったのか、誰か説明をしてください。

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