第70話 月にのぼったうさぎ
「もうひとつの横穴? いや、さっきの通路って一本道だっただろ?」
降りて這って進んで、そして上がっての“U”字型通路。
「いえ、横穴がありました。えっと、気づきませんでしたか? 昇り通路の出口付近にありました。背中側でしたからわかりにくかったと思いますけど」
「本当かロッド。そっか、背中側にあったんなら気づかなかったかもな。……そうだな。ここにいても仕方ないし、とりあえずその通路に入ってみようか」
「はい」
俺は匍匐前進で入ってきた穴にもぞもぞと身体を潜り込ますと、足下を気にしながら穴の中に身を潜らせた。少し下り、ロッドの言っていた辺りで振り返ってみる。視界は朧だが確かに横穴が開いていた。微かだが風も通っているようだ。
そういえば、この民家の床下に出るときに“蓋”がしてあったな。なら通路に風が通っているわけがない。……ひょっとすると、村中をこの通路が網の目のように走っていたりして?
俺は足下に気をつけて横穴に手をかけると、身体を捩らせて横穴に身をねじ込ませた。もう全身泥まみれだ。これって体臭は消せるけど、土臭さってのは消えるのか? クンクン、うむ。無臭だ。まさに無香空間。今なら放屁しても許されるかも。
そんなことを考えながら這い這いしてたせいか、ロッドの呼び声に我に返った。
「トーダさん、ここもさっきと同じで、ここからまた上に上がれそうです。どうしますか?」
狭い通路を苦労して振り返ると、ロッドが空いている上の空間を指さしていた。
「っと、全く気がつかなかったな。少し後ろ下がるぞ。……本当だ。さっきより狭いけど一応上にあがれるようになってるな。でも、まだ10メートルも進んでないだろ? たぶんここもどこかの民家の床下だろ。もう少し先に行こう」
「わかりました。あと、ちょっと気になることがあって不思議に思ってたんですけど」
「なんだ? あいつらのことか?」
「いえ、トーダさんのことです。さっき穴に戻ろうとして急に覆い被さってきましたけど、あれは一体何だったんですか?」
ロッドはジッと俺を見つめてくる。
まあ、非常事態で切羽詰まってるときに、いきなり覆い被さってきたら混乱するわな。
ロッドの性別が逆だったらどんなに興奮したことか。いや嘘だけど。
「ああ。ロー公はあれで異常に鼻がいいからな。俺は魔力を使って体臭を消したけど、ロッドの臭いはそのままだろ? ロー公にああまでして嗅ぎ回られると、代わりにロッドの臭いを嗅ぎ取られると思ったんだ。おまえは一度ロー公に捕まっているからな。感づかれるとまずい。んで、一応密着してればおまえの分もまとめて『消臭』できてたってわけだ」
一応わかってくれたのか、ロッドは感嘆らしき声を洩らす。
「ああ、だからですか。実はさっきから何か変な違和感がしてたんですけど、これでわかりました。トーダさんから『臭い』が消えていたんですね。最初に穴に潜ったときはトーダさんを臭いで追っていたのに、今は音と気配でしかわかりませんでした。魔力を使って自分の臭いを消すなんて、なんだかすごい力ですね」
「まぁね。ネクロマンサーのエチケットってやつさ」
なんちゃって。
少し前、お頭に面と向かって「吐き気がするくらい死体臭い」とか言われたが、もう忘れよう。ふふっ……ネクロマンサーに涙は似合わない……。
そうして俺たちはまた這い這いを続けた。その後、“T字路”にぶつかったり、上か下かの“ト字路”にぶつかったりした。所々にある昇り出口に這い出ては民家の床下から現在地を探る。這い這いのしすぎでもうあちこち擦り傷だらけだ。
それにしても、あの家の住人のドワーフはモグラの生まれ変わりじゃないだろうか。この調子じゃ全部の民家の床下まで穴を掘ってあるぞ。するとアレだな、ドワーフが若かりし頃、劣情を催す度、他人の家の情事を覗き見る性癖があったと考えるのが一般的だろう。
お年寄り達も50年ほど前はピチピチだったろうし。
「たぶん、ここが一番広場から近いところみたいですね」
そうこうしているうちに三回目の地上。俺のあとから抜け穴から這い出してきたロッドが、顔中泥だらけにして言った。たぶん俺も同じくらい汚れた顔をしているだろう。
「そうみたいだな。でも、出来れば向かい側の民家の下に出たかったけどな。まあ、阿弥陀籤みたいな横穴をあっちこっちでやってきたんだ。マチルダさんまで……直線距離として、どうだろ、25メートル程か」
とりあえず、迷わず彼女の見えるところまでやってこられたんだから良しとすべきだろう。
時折床下に出て現在地と方角を確かめながら進んではいたものの、地下通路が必ずしもまっすぐ掘られていないため何度か軌道修正をかけることになった。
膝や手のひらの擦り傷は先ほど穴から出たときに『転用』で治しておいた。もちろんロッドのも治した。二人分でしめて4%ほど。
ロードハイムの【魄】で113%にまで上昇したのを修正し、現在109%程なり。
「おっと、ここから井戸も見えるぞ。石蓋が外されているところを見ると、お頭とアーガスはもうここには来てたみたいだな」
石蓋を外したままになっているところを見ると、当てが外れたとみえる。本人ここにいるし当たり前か。お頭達はまた別のところに向かったみたいだな。
「あそこは今では使われていない井戸なんです。でも、さっきあの女の人が脱出ルートとか言ってましたけど……」
「ああ。…………昼間、俺たち先遣隊はあの井戸からこの村に潜入しようとしてたんだ。途中まで一緒に来ていたゼペットっていうおじいさん達がこの村の元住人で、あの井戸と外の空井戸が繋がっているのを知ってたみたいで、それがこの村の様子を見る作戦の一環だったんだ。……確かに村の外まで繋がっているよあの井戸は」
そうなんですか、と井戸を見つめながら感慨深そうに頷くロッド。
「抜け穴のこと、ロッドは知らなかったのか?」
「村のみんなから以前にそんな話を聞いたことがありましたけど、なんだか冗談みたいでしたし、普段から石蓋がしてあったので、どけてまで入ろうとは思いませんでした。でも、実際村中をあんな穴が掘られていましたし、驚くことばかりです」
「そっか」
よもやその石蓋を外して、あの井戸に大盛りいっぱいまで村人の死体が放り込まれていたとは言えないよな。覗き込ませるのもやめておこう。たぶん、服とかがいっぱい浮かんでて何じゃこりゃー状態だし。
それよりもパビックだ。俺たちはほとんど地上に顔を出さなかったから見つかるはずもなかったのだけど、逆を言えばパビックの足取りというか、その所在を見失ったことにもなる。
このまま見つからなければ言うことなしなのだが、相手が指輪なしのパビックとはいえ、“捜索に特化した”ロー公のクグツだ。慎重に行動しないといけない。
マチルダさんに指輪を装着しているところをパビックに見つかって大声を上げられでもしたらかなり困ることになる。たぶん盗賊どもは村の奥の方に集まっているからすぐには戻ってこられないだろうけど、少なくともお頭達には俺の存在を知られることになる。
パビックの“命令”は捕らえろ、になっている。体術では敵わないだろうから問答無用で押し倒される可能性もある。それでも右手さえ使えれば倒せるだろうけど、羽交い締めにされた場合、身動きがとれなくなる。
そこでロッドの出番なのだが、クグツ相手だと返り討ちに遭う可能性も決して低くない。
とすると、最好手は俺たちが先にパビックを見つけて、罠にかけて始末するのが一番理想的だろう。
クグツ化したパビックを見つける方法か……。
目を閉じて息を整える。ゆっくり作戦をイメージする。
方法はともかく、とりあえず見つけたあとは動けないようにして、ロッドに後ろから脳天グサーしてもらって、そのあと俺がゆっくり『大声』を上げられるようにもって行きたい。
そして素早くパビックから【魄】を頂いて死体を始末。あとはマチルダさんを甦らせたり、ダダジムたちが迎えに来てくれるのを待つ。……完璧だ。
……。
しかし、床下からの世界は視界が狭いなぁ。パビックも全然見つからないぜ。
そんなことを思って待っていると、隣にいたロッドが痺れを切らしたのか、もそもそと床下から這い出ていった。
「お、おい」
「トーダさんはここにいてください。僕が走って母ちゃんの所まで行ってきます。この指輪を右手の人差し指にはめればいいんですよね」
ロッドは全身の砂を払いながらポケットをまさぐる。
「そうだけど、まだ作戦が決まっていない。いいから早く戻れ。パビックは盗賊以外は見つけ次第喰っていいって命令だっただろ。この村で生きてるのって俺とおまえとアンジェリカと……ああそうかダダジムがいたか……じゃなくてっ」
「大丈夫ですよ。ここでこうして話している時間がもったいないです」
ロッドは取りだした指輪をグッと右手に握りしめながら言った。
「トーダさんは母ちゃんの力が必要なんですよね? 指輪をはめれば、母ちゃんは甦るんですよね?」
「たぶんな……って、おいロッド、行くな! 戻ってこい! かむばっくひやー!」
ロッドは俺の制止を無視して母親の方へと走り出した。
確かにここでこうして手をこまねいている訳にもいかないのはわかっている。
背後からパビックが現れる可能性だってあるし、そのまますんなりとマチルダさんのところまで行けるかもしれない。辺りをうかがう限りではパビックが近くにいる様子はない。ポコペンしているときも、空き缶を守るオニ役が消極的よりも活動的で大胆な方が場が動きやすいじゃないか。いや意味わからんけど。
とにかく、俺が隠れていてロッドが指輪を届けてくれるんなら、それはそれでいいじゃないか。
……それよりも、問題は指輪をマチルダさんに届けたとして、果たしてマチルダさんは俺の望むクグツとして甦るのか、ということだ。目を開けたマチルダさんが目の前のロッドを捕まえてハングリー精神全開でむしゃこらしないという保証もない。ぶっちゃけると今甦らせて盗賊たちと互角に戦えるだけの実力を持っているのかってことだ。こちとらマチルダさんを甦らせたときはネクロマンサーLv1だったんだぞ。
仮に術者のLvが関係ないとしても、アドニスみたいな戦闘特化のクグツだった場合、ロー公以外の盗賊とは戦えると思うが、ロー公に挑んだ場合、【死霊の槍】で機能停止させられる可能性もある。
クグツの使い方を誤れば計画が根底から崩れる可能性もある。
……だが逆に考えれば、“だからこそ今”なのだ。彷徨いているパビックにマチルダさんをぶつけるというのは、
ロッドが指輪を届ける→マチルダさん復活→彷徨いているパビックと戦闘→初勝利!
隠れて応援してる俺→アムリタであっはーん→ついでにレベルアップ!!
良し!! 実に良し!!
俺は駆けだしたロッドの背を目で追いながら親指を立てた。
だが、そうは問屋がおろさなかった。ロッドが10メートルも進まないうちに、俺の目の前の地面にぱらぱらと砂の雨が降った――「なんだ?」と思った瞬間、ドスン、と上からパビックが降ってきた。
心臓が飛び上がった。
ロッドが気づき、振り返ると同時に真っ青な顔で「うぁ……」と叫び声を口にしたが、最後まで聞くことは出来なかった。
おそらくだが、近くの民家の屋根から動くモノがいないかパビックは見張っていたのだろう。そして、もそもそと床下から這いだし、広場中央に向けて走り出したロッドを『命令対象』として認識したのだろう。もしくは俺から離れたため“臭い”を嗅ぎつけたかだ。
ロッドは一瞬俺に視線を移したが、何も言わず、助けも求めず、身を翻させると脱兎のごとくマチルダさんの方へと走った。
ロッドも機敏な方だと思うが、パビックのそれは予想よりもずっと早かった。
パビックに背後から飛びかかられ、ロッドは押し倒された。その衝撃で気絶したのか、それとも再び死んでしまったのか、ロッドはピクリとも動かなくなった。
「ギャギャギャ」とパビックが嬉しそうに叫んだ。そして耳まで裂けんばかりにあんぐりと口を開くとロッドの首元に迫った。
俺はああ糞と思いながら民家の床下から這い出た。
出来るだけ音を立てないようにパビックに向けて疾走する。幸いなことに、パビックは目の前の得物を貪るのに気を取られて――いなかった。くるり、とパビックが俺に振り返った。
その口元は大きく開かれたまま、……血で汚れてはいなかった。
――しまった、と思った。
ロッドがボリボリ喰われている間に右手でパビックの頭部に触れ、【魄】を奪ってしまおうと駆けだしたのに、パビックは捕まえた
どうしてだ、と急ブレーキをかけながら逡巡する。答えはたぶん、ロッドも“クグツ”だからだ。共食いはしないというゾンビ的マイナールールなんだろうか。
ともかく、ロッドは気絶、目の前にはパビック、そしてホイホイとおびき出された俺。
その距離たった6メートル。
赤い眼をしたパビックは立ち上がると、顔をくしゃくしゃに緩め、大声を張り上げた。
「ギャギャギャギャギャーーーーーーーーーーーーッ!!!!」
万事休す。
これでお頭やロー公、そして他の盗賊達にも俺の存在が知られることになった。
そして、次の瞬間、俺は捕まってしまうのだ。
ああ……ここまでか、と俺は落胆を感じた。パビックが俺を見てニヤリと笑ったような気がした。
せめて、あと十数メートル……時間にして10秒。わずかな時を稼ぐことが出来たなら、マチルダさんに指輪を渡すことが出来るのに……。
俺はそう思い、口惜しげにマチルダさんの方を見た。そして“それ”に気づいた。
――あ。と思った。
そして、刹那の思考停止に陥った。床下からでは絶対見ることが出来なかった位置に、あるものが横たわっていたからだ。
「ギャギャギャッ!!!」と、パビックが叫んだ。感傷に浸る間もなく小走りで駆けてくる。
俺はなんだかとても悲しくなり、切なくて、不覚にも涙が出そうになった。
俺は鑑識で平常心スキルをオンにした。そしてネクロ専スキル、ついでに残りの一般スキルをすべてオンにし、『消臭スキル』をオフにした。
涙は引っ込んだ。
「はぁぁぁぁぁぁ…………………っ」
そして、俺は――『天地魔闘の構え』をとった(ダイの大冒険参照)。
パビックはハグを求めるように両手を大きく広げ、近づいてくる。
天地魔闘の構え――それは、左手は天に、右手は地に向けられた最強の構え!!
やりすぎてしまうかもしれん。
俺はハグを求めて離すまいと突っ込んでくるパビックの左胸に右手を、そして上から叩き付けるように左手でパビックの頭を掴んだ。
息を充分に吸い込むと、俺は大声で啼いた――パビックの声で。
「月が真ん丸だぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
それはダダジム達と事前に決めておいた合い言葉。
“用事がある。俺を捜しだせ”という意味だ。
パビックは右手を押しのけ構わず突っ込んでくる。
俺は左胸から上方向に右手を滑らせると、左手とともにホールドアップした。どうせパビックは“俺を傷つけることは出来ない”、そう命令されている。
パビックは俺をがっちりハグすると、わずかに持ち上げ、「ギャギャギャッ!」と喜びの声を上げた。おそらく、「獲ったどー!」とでも言っているのだろうか。
ほんの数十センチ高みからこの村を見下ろす。
俺は脱力しながら、改めてマチルダさんの方を見た。彼女の様子は以前とほとんど変わっていない。
――ただひとつを除いては。
マチルダさんのわずかに動く右手の指が、俺のレベルを上げるために犠牲になった“召喚獣”の血で赤く汚れていた。
アンジェリカは、果たして本当に召喚獣に“命令”したのだろうか。“お願い”したのだろうか。
――タカヒロのクグツのレベルアップのために死んでこい、と。
果たして、聞き分けの良い“召喚獣”がそれを聞き入れたのだろうか。
そういえば、と俺は月を見上げながら、こんな話を思い出していた。
月にのぼったうさぎ。
インドのお話しだ。
昔、あるところに、うさぎときつねとさるが仲良く一緒に暮らしていました。三匹は、いつもこんなことを話し合っていました。
「私たちが今獣の姿をしているのは、よほど前世での行いが悪かったからに違いない。せめてその償いに、これからは世のため人のため、何か役に立つことをしよう」
これを聞いた神様は大変喜びました。
「なかなか感心な獣たちだ。よしよし、何かいいことをさせてやろう」
そこで、神様はよぼよぼのみすぼらしいおじいさんに化けて、三匹の前に現れました。 今にも倒れそうなおじいさんの姿を見て、何とか役に立とうと三匹は考えました。
さるは木登りが得意だったので、あちらこちらの木に登り、おいしそうな木の実や果物をたくさん取ってきました。
きつねは動きがすばしっこいのが自慢だったので、颯爽と野山を走り回り、川魚をたくさん捕ってきました。
ところが悲しいことに、うさぎには自慢できるものが何も無かったのです。思いあまったうさぎは、おじいさんの目の前で火をたいて、こう言いました。
「私は何も取ってくることが出来ません。私の体を焼きますから、せめて私の肉を召し上がって下さい」
そういうと、止める間もなくうさぎは火の中に飛び込み、たちまち黒こげになってしまいました。 この様子を見た神様は元の姿に戻り、獣たちに向かって言いました。
「お前たち三匹には本当に感心しました。この次生まれ変わるときには、立派な人間として生まれてこられるようにしてあげよう。特にうさぎ、お前の姿は褒美として月の中に永遠に飾っておくこととしよう」
こういったわけで、三匹はそれぞれ人間に転生し、月の表面には、今でも黒く焦げたうさぎの姿が残されているのだそうです――。
月は煌々と輝き、人の下に陰を作る。
レッグ。おまえがどういうつもりでうさぎの真似をしたのか、わからない。
ただ、おまえのおかげであの窮地を脱することが出来た。ありがとう。
あとでクグツにして甦らせてやるからな。
そんときまた、改めてありがとうって言うから。
「ギャギャギャギャギャ!!」
パビックが嬉しそうに奇声を上げ、俺を抱えたまま歩き始めた。おそらくロー公のところにでも運ぼうってんだろう。
「うるせぇよ、いいからとっとと【魄】よこせ。この包茎野郎」
俺はパビックの頭部に右手を添えた。
(以下、パビックの追憶“――”略)
絵を描くのが好きだった。
主に風景画を描いた。父が建てた家を描いた。母を喜ばせるために花や鳥も描いた。
けれどもう今は描かなくなった。
俺の描く絵の中の世界は、今いるこの世界とは違って、争いも貧富の差も、ましてや醜い――
父親が46才の時に、母親が41才の時に俺が産まれた。
ふたりの出会いが決して遅かったわけじゃなかった。
ただ、母親には顔に火傷と聴覚の障害があり、父親は生まれつき足が悪かった。
ふたりとも30も半ばを過ぎてから“お似合いだ”との理由で引き合わされた。
父親の足が悪いのは父のせいではなく。母親の火傷は母が幼い頃に戦禍で負ったものだった。
父親は足のハンデを手先の器用さと努力で培った技術で克服し、同僚の若い衆から慕われていた。母親は外にはあまり出たがらなかったが、幼い頃から縫い物が得意で刺繍や縫製の仕事を請けおっては、庭の陽の当たる閑散とした場所で作業をしていた。
学校の帰り道、父の仕事場を覗いてはそれを母親に伝えるのが俺の日課だった。
言葉では伝えられず、手話では限界があり、きっと俺の絵もそういった意味で上達していったのだと思う。
「――んでよ、パビック。おまえホントはアンジェリカの所に行かなかったんじゃねーの?」
ゴウゴウと勢いを増す炎に気圧されて二三歩後ずさったところを、後ろからハルドライド先輩に肩を組まれた。
ギョッとしてたじろぐ俺を、ハルドライド先輩は「いーの、いーの」とそのままバンバンと肩を叩いてくる。
「誰がおまえの代わりにいたかっつーのは、今更だしな。あの場にいなかったのはゼゼロだろうし、アンジェリカは死んじまったワケだし。しっかし、あの乳は惜しかったぜー」
「え? ゼゼロ先輩……ですか?」
思わず聞き返してしまう。そりゃたしかにゼゼロ先輩は眠たくなったからって早々に宿屋の方に向かっていったけど。
「なんだよオメー。ゼゼロ以外に誰がいるってんだ」
ハルドライド先輩は剣呑な眼を俺に向けた。
「えっと、アーガスさん、とか……」
とたん、ハルドライドの眼が真ん丸になった。
「マジで言ってんのか、おまえ。アーガスの旦那はねぇよ。ありゃ真性の童貞だ。ドーテーオーだ」
「はぁ……」
頭に“?”がついたが一応相づちを打っておく。ハルドライド先輩がお頭と話すアーガスさんを指さしながらいった。
「昔、俺の親父の店に連れて行ってやったときよ、空いてる女が5~6人いたから相手させようとしたらよ、アーガスの旦那、何つったと思う? 『ふしだらな女が俺にまとわりつくな』、だぜ? やべーよ、ありゃ。マジイカレテル」
げふぅ、とハルドライド先輩がゲップをした。俺は顔を背けながら、
「アーガスさんは、あのアンジェリカに……女に興味が無い?」
「ねぇコトはねぇだろうけどよ。あー、アレじゃね? 処女としかしねーとか。親が決めた婚約者としかしねーとか。高貴な出だからよ、アーガスの旦那。……たしかそんなことジェイルが言ってたっけなー。『兄ちゃんは潔癖だ』とか『兄ちゃんに色目使う女は俺が全員犯した』とか。ジェイルまじ兄貴ラブ。俺なんか義弟の妹とラブラブなのよ-、がはははは」
あ、れ?
「アニキ、ちょっと話聞いてもらっていいっすか?」
やがて俺も12才になった。
両親を年寄りだとは思ったことはなかったが、父親が口癖のように「あいたたた」と口にするようにはなっていて、母親は薄毛を隠すように家の中でも黒い帽子を被るようになっていた。
『適性検査の日』、俺は町の同級生達と国の首都にある検査機関に向かった。
馬車に揺られながら、見送りに来てくれた両親の姿を思い出していた。父親はともかく、母親は人目を気にしながらも、馬車が木々の角を曲がり見えなくなるまで手を振っていた。
ふと、合格してしまったらどうしよう、と思った。
もしも何らかのジョブの適性に引っかかり、両親と離ればなれになってしまったらどうしよう。もしそうなったら4年間も離ればなれになってしまうのだ。
俺は不安に駆られ、馬車の後部窓から外を見た。幸いこの馬車は6人乗りの3台目、最後尾だ。今すぐドアを開けて町に向かって走って帰ることも出来る……。
ガタゴトと揺られながら、俺は帰ることばかりを考えていた。
結果として俺には“適性”は無かった。
C判定が4つほどあったらしいのだけど、どれも“C-”だったため、家に帰れることになった。父親と一緒に大工になるのもいい。これでまた好きな絵が描ける。
俺はホッと胸をなで下ろしていたのだが、同乗している同級生の中には悔しさに目に涙をためている子もいた。
17人中5人に適性があり、適性者はそのままそこに残り、代わりに親が呼ばれることになった。簡単なお別れ会が行われ、帰りの馬車は来るときよりも1台数が減っていた。
ガタゴト帰りの馬車に揺られながらも心に余裕が生まれていたのだろう、同級生の会話が聞こえてきた。
「最近また盗賊が出るんだって」「盗賊って悪い人たちなんでしょ?」「町に住めなくなった人だって」「恐いね。この馬車が襲われたりしないのかな?」「大丈夫よ。ファーストジョブを持った人たちが2人もいるもん」「盗賊って泥棒をする人なんでしょ?」「この間だって……」
俺はそんな話を聞きながら目蓋を閉じていた。
朝から緊張していたせいか、ドッと疲れが出てきたのだ。そうしてウトウトとしかけていたとき、ガシャンと前を行く馬車の窓硝子が割れ、馬の嘶きが聞こえてきた。
きゃぁぁぁぁ、とそばにいた同級生達の悲鳴が上がった。
俺はパニックになりながらも車窓から外を見た。そこには学校で習ったことのある魔物――ゴブリンが十数体、弓矢や棍棒、鈍い色の刃物を手に前の馬車を襲撃していた。
ガシャン、とすぐ後部の窓硝子が割られ、棍棒と刃物を手にしたゴブリンが卑しい顔を覗かせた。
戦慄する。俺も同級生達の声に合わせ悲鳴を上げた。
気がつくと、見覚えのある場所に寝かされていた。
そこは町の医務室の一室だった。辺りからはくぐもった呻き声や啜り泣く声が聞こえてきていた。怪我をした同級生達はみんなここに寝かされているのだろう。俺は身を起こそうとしてズキリ、と肩が痛んだ。見ると、右肩の周りが包帯でぐるぐる巻きにされて血が滲んでいた。
たぶん、あのとき女の子に覆い被さろうとしたゴブリンに殴りかかって、反対に殴り飛ばされて……そこから覚えていない。刃物を持っていた奴もいたからそれで刺されたのだと思う。
長い時間、薄暗い天井を見上げていると、誰かの母親がやってきた。娘を呼ぶその名には聞き覚えがあった。同じ学校に通う友達の名前だった。母親に泣きじゃくるその子から、だいたいの事情がわかった。
まず、俺たちは帰り道でゴブリンの集団に襲撃を受けたこと。
ファーストジョブを持つ護衛が二人と兵士が二人、御者も二人いたが、護衛の一人がゴブリンの放った毒矢によって命を落としてしまった。だけど、もう一人の護衛と兵士が奮闘してくれ、どうにかゴブリンを追い払ったこと。
そして、同級生を6人も失ったこと。俺を含め4人が大怪我をした。
俺が助けようとしていた女の子も死んでしまったらしい。
俺は肩の痛みとは違う胸の痛みを抑えるため、右手で胸元のシャツをグッと握りしめ、目を閉じた。
そうして、俺は両親が面会に訪れるまでの長い長い時間を泣かずに耐えていた。
俺にはみんなを守る力が無いことをその日のうちにすべて知った。
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