第56話 私の涙を拭って

 俺はかいつまんで説明をすることにした。


「――というわけで、河原でダダジム達がその獣人の息子の【精霊使い】との大立ち回りの結果、辛勝したけれど、そのとき全員が大けがを負ってしまったんだ。それもさっき俺が全員治療してやったんだけど、コイツだけは傷を塞ぐのが精一杯だったんだ。アンジェリカも折れた歯は再生していないだろ? 俺もあいつらに殴られて奥歯が折れた」


 指で口を開くと、その隙間を一応見せてやる。アンジェリカは前歯全滅なので、口を開いて見せ合うようなことはしなかったが。


「……まあ、【ボーナススキル】の“転用”のレベルが4に上がれば【魄】を使って欠損部位の『再生』まで出来るようになるらしい。ひょっとすると、レベル3でも、欠損部位があれば『接合』出来るんじゃないかと思って、コイツに自分の脚を拾いに行かせてたんだ。俺には【裁縫スキル】があるからな」


 針と糸で切断面をチクチク縫ってくっつけてみる。片方は傷を癒やしてあるからうまくいくかどうかはやってみないとわからない。常識的に考えれば無理だが、この力はどちらかというと非常識の域にある。無理だったら400%まで我慢してもらおう。


「そうなの…………精霊使いと大喧嘩するなんて。しかもそれで勝っちゃうなんて、えらいわ。……でも、よかったわね、あなた。治してもらえそうで」

「クルルルルル……」


 レッグは頭を撫でられて嬉しそうだ。


「でも、私の治療がこの子達のあとってどういうことよ!? 失礼しちゃうわ!」


 きぃぃ、と突如変貌したアンジェリカに、レッグは頭をもみくちゃにされる。

 いかん、空腹で気が立っているようだ。


「当たり前だろ。アンジェリカはお頭の中では“死んだこと”にされてるんだから。それにどこにいるかもわからなかったし、探すにも俺には見張りがついていた。アンジェリカが囚われている場所を見つけてくれたのはさっきのダダジムなんだ。……それに、早々に治療したら、ハルドライドあたりがやって来るだろ? パビックはさっき脅したからもう来ないと思うけど、他の連中もどうかわからない」

「…………けだもの。大っ嫌い……」


 アンジェリカが唇を噛み、グッと前を睨む。


「それだけアンジェリカが魅力的だったとしか言えないな。何の慰めにもなってないけど」

「何の慰めにもなってないわよ!」

「あんまり大きな声を出すな。……朝まではまだ時間がある。ひょっとすると夜回りが終わった盗賊が冷やかしにやってくる可能性もある」

「…………っ」


 アンジェリカが何かを乞うように、上目遣いで俺を見た。


「朝が来るまで私を守ってくれない? タカヒロ」

「お断りだ。アンジェリカ、アンタは俺の『庇護対象』じゃない。【同盟相手】だ。…………うまく死体になりきって乗り切って見せろ。俺には俺でやることがあるんだ」

「…………うぅ」


 しょげるアンジェリカにかまわず、俺は続けた。


「うまく乗り切って、無事に町について、クレイに俺のことを伝えて、それで駄目だったら俺のことは見捨ててかまわない。俺は俺で乗り切っていくつもりだ」

「あなたはそれでいいの?」

「いいもなにも、生き残る方法はこれしかないんだ。――ああ、そうだ。これはお頭が俺に教えてくれたことなんだけどな、アンジェリカも知っておいて損はない情報があるんだ」

「あの女の……? 要らないわ、そんなの」


 ぷいっと横を向くアンジェリカに、俺は嘆息する。


「いいから黙って聞け。……指輪を持つ【選出者】は、年間10人前後、必ず出会うことになっているらしい」

「それってどういうこと……? そんなの偶然にしては……」

「偶然じゃなくて、“必然”だ。そうなるようにイザベラに【設定】されていると考えてくれ。実際、俺とアンジェリカとお頭は出会った。全員で100人しかいない【選出者】同士が、この広い世界で出会う確率なんて、本来ほとんど無い。だけど、それでも俺たちは出会った。これは偶然じゃない。“必然”だ」

「……“必然”。……そう。そうだったのかも知れないわね」


 アンジェリカは何かに気づいたようで、そのまま考え込んでしまった。じゃあ、そろそろおいとました方がいいかもしれない。ロー公が目を覚ますかも知れないからな。


「ダダジム4号、そろそろ行くか」

「クルルルルル……」


 俺の呼びかけに応じてダダジム4号が嬉しそうに鳴く。


「もう行っちゃうの? タカヒロ」

「あいにく執行猶予のついた保護観察の身なんでね。ここには見張りが居眠りしているのを見計らってやってきた。もしバレたら執行猶予が取り下げられて実刑くらうかも知れないんだ」


 俺は左手の鉄手錠を持ち上げて見せた。


「もう会えないかも知れないから、しっかりな。あとで豚の血と内臓を運ばせる」

「待って。あと1分だけ待って。タカヒロに質問があるの」

「? 1分だけだぞ。なんだ?」


 俺は戸口に手をやりながら振り返る。給仕のダダジムが戻ってくるまでならいいか。


「さっき、タカヒロが【アイテムボックス】から取りだしたのって、“髪”よね?」

「目ざといな。……そうだけど、それがどうした?」

「亡くなった奥さんの髪?」

「…………そうだよ。イザベラに“髪”から奥さんを甦らせたネクロマンサーがいるって聞いて、持ってきたんだ」


 本当は若干違うけど、細かいことを説明している時間は無い。


「ふぅん。……亡くなった奥さんてどんな人だったの?」

「そんなの聞いてどうするんだよ」

「いいじゃない。この先、奥さんのことを聞いてくれる人が現れないかも知れないし、計画が失敗して私たち二人とも明日には死ぬかも知れないのよ」

「だからって…………いいよ、わかった。奥さんは国立医大卒の看護婦だった。歳は一個下で超頭のいい子だった」


 ちなみに俺は県立短大卒。二流高校からのコネコネの推薦で入った。


「頭が良かったんだ。勉強できたの?」

「ああ。頭がいい人間の見本のような人だった。AB型で、スポーツ万能だった」

「あら、私と一緒じゃない。私もAB型よ。スポーツは出来ないけど……」

「俺も出来ない。でも奥さんはデートの時、一輪車を乗り回して見せていた。初めて乗ったウェイクボードもその日のうちに乗れるようになっていた。とにかく運動神経がいい人だったな。……もういいか? 1分経ったぞ」


 俺は駄目だった。スポーツは苦手だった。体育も器械体操が苦手だった。縄跳びすらもうしろ二重跳びで引っかかってた。もちろん一輪車は乗れなかったし、鉄棒も逆上がりが限界だった。スケボーもスノボーもできない。運動神経というかバランス感覚が悪いのだ。

 唯一、水泳と剣道が出来た。でもどちらもそこまで上達しなかった。上には上がいるのがわかって戦い方を変えた。それでもどうにか引き分けに持ち込むのがやっとの実力だった。でも、だからといって運動が嫌いなわけではなくて、大人になってからも地道に筋トレやランニングなどで汗を流していた。

 奥さん――恵子は、【ホッケー】の選手で、中学時代、全国大会の選手だった。エースで、死ぬほど走り込んでいたと言っていた。スポーツ推薦を蹴って、県ですげー偏差値の高い高校に入り、バトミントンでやっぱりレギュラーしてたらしい。

 人望があって努力の人で、ああ……【努力の才能】に溢れた人だった。すべて完璧にこなすタイプで、思いやりはあるくせに、自分に出来ることを相手がしないと怒る人だった。二面性があって、とにかくよく怒って、よく泣いて、たまに笑って、笑顔が綺麗で。…………そんな彼女が大好きだった。


「あとひとつだけ。奥さんの髪型ってどんな感じだったの?」

「うん? 髪型?」


 出会った頃の“お嬢様縦ロール”から、抗がん剤使ってた頃の【海原うなばらはるか】まで様々だな。ウイッグで隠してたけど。……抗がん剤は効かないってわかって中断したら、毛がまた生えてきて、最終的にはおばさんパーマみたいになっていた。でも、その毛はまるで赤ちゃんの毛髪みたいでふわふわしていた。


「うーん。色々あるけど、肩までくらいのが好きだったかな?」


 俺は髪型よりも、どちらかと言えば【おでこと眉フェチで】、恵子の眉とおでこは最期まで俺の好みだった。


「そうなんだ」

「――は?」


 アンジェリカは毛布から両腕を出すと、おっぱいがあらわになる。おっぱいイズビューティフル! ふぉぉぉぉっ。アンジェリカのバストサイズは、【バスト占いのうた】で言うところの「もうひとがんばりでーす」だ。い、いかん、正座せねば目が潰れる……。

 ちなみにお頭は、寄せて集めて「そんなの微妙すぎ~」クラス。勝者ウィナー、アンジェリカ!!

 などと考えていて、アンジェリカの行動に気を配らなかった。アンジェリカは髪をポニーテールにまとめると、手にしていたナイフでばっさりと切ってしまった。


「――あ」

「ああっと、ちょっと切り過ぎちゃったかな?」


 アンジェリカは切り落とした自分の髪を見て「あちゃー」と言う顔をした。


「お、おまえは馬鹿か?! 何でそんなことするんだよ! 髪が短くなっているのがバレたら、絶対変に思うじゃねーか?!!」

「それは大丈夫。だって、あいつらも私の髪を切って虐めてたし。ほら、ベットにもいっぱい散らばっているでしょ?」


 アンジェリカがベットのシーツにへばりついている金髪を指さして言う。


「長さが違うだろうが!! これはプレイの一環のつもりだろうけど、アンジェリカのは完全にショートカットになってるだろうが! なに考えてんだよ!」

「ふふふ、頭が軽くなったわ。似合うかしら」

「オツムが軽くなったの間違いだろーが!」


 頭を軽く振って笑顔で手櫛をかけるアンジェリカ。激しいツッコミを入れるものの、完全に無視される。なぜならそこに「クルルルルル……」と盆に配膳された食事を持ってやってきたからだ。


「わぁ、美味しそう。しかもまだ温かいじゃない。嬉しい」


 アンジェリカがうれしそうな顔で唐揚げをほおばる。歯が足りないようなのでちょっと食べにくそうだが、それでも「美味しい美味しい」と食べてくれることに俺は満足した。


「ちなみに、それ俺が作ったんだ。うまいだろ」


 本当は『俺たち』なのだが、俺以外は盗賊一味か死体なので割愛する。手柄独り占めだ。


「本当?! 料理が上手ね、タカヒロ。とっても美味しいわ。ダダジムは火が苦手だからあんまり上手じゃないの。木の実とか果物とか。まあ、贅沢言ってられなかったのだけど」

「俺には【料理スキル】があるからな。でも、そういう料理自体は今日が初めてだ。味付けは【調合スキル】もからんでて、うまく調和した感じだな。まあ、盗賊団での役目は当分、回復役と料理当番だろうな」

「……もぐもぐ」

「アンジェリカ、よく噛んで食べろよ。空腹時にかっ込むと具合が悪くなるぞ」

「大丈夫よ。【快便快尿スキル】があるから。食中毒以外は平気みたい」

「おまえよく食事時にそんなこと……、まあいいや。じゃあ、そろそろ俺たち行くから」


 よっこらせっと立ち上がって腰を伸ばす。おっぱいを拝見するために正座していたのではなく、ただ単に左手にある鉄手錠が重くて座ったのだ。あー重い、あー重い。


「……もぐもぐ」

「じゃあ、確認な。あとでダダジムにバケツに入った豚の血と豚の内臓。豚の肉……は可哀想だからそのナイフで毛布の端でも切って頬に詰めておけよな」

「……もぐもぐ、ごくん。もぐもぐ……」


 アンジェリカは一心不乱に食事をしている。聞いてはくれてそうだが、そんなにお腹が空いていたのか。……まあ、温かい食事に飢えていたのかも知れない。


「ダダジムの歯に血を塗って噛みあとを再現すること。ひっかき傷や腫れていたおしりも血を塗って再現すること。廊下から気配がしたら荒縄で手首を結んで息を殺――」

「わかったから、もう出て行って」


 ピシャリと会話を打ち切るように、アンジェリカが声を上げた。


「あ、ああ。それだけだ。明日になったら俺はレッグだけ預かる。他の4体は盗賊どもが出て行ったら小僧と一緒に――」

「出て行って!!」


 今度こそアンジェリカは大声を上げた。ぎろりと俺を睨む。アンジェリカは前歯の無い……というか、色々無い歯を剥いて俺を威嚇するように言った。


「もうわかったから。行ってちょうだい」

「……ああ。でも、連絡用に一応レッグは残しておくな。行くぞ、ダダジム4号。また背中に乗せていってくれ」

「クルルルルル……」


 4号が俺のそばまで寄ってくる。俺はレッグに手を振った。


「タカヒロ。最期に温かい食事をありがとう」

「……ん。じゃあな。じゃあクレイに俺のこと頼むな」

「……もぐもぐ」


 アンジェリカはそれを無視すると、また食事に戻ってしまった。俺はまあいいかと思い頭をかく。「まかせて!」と胸を叩かれて別れて、『マルエル』のときみたいに期待して待ってて馬鹿を見ることにもなるかも知れない。それを知ってのことだろう。アンジェリカは賢い。一応、やれるだけのことはやってくれるはずだ。

 俺はダダジム4号と一緒に戸口をくぐった。ギッ、ギッ、とまた足下を軋ませながら廊下を歩く。

 さて。次の計画に移らなくてはいけない。っと、その前に死体置き場モルグの死体を片付けないとな。あー忙しい。でも、お腹いっぱいなのにアレを見て、『瀕死体験』してゲロ吐かないってのもなんだな。すっかり一人前の【ネクロマンサー】って感じだな。


「クルルルルル……」


 ん? おまえもそう思うか? …………あれ? おまえ今鳴いたか?


「クルルルルル……」


 ダダジム4号が鳴く。今のは足下の4号から聞こえた。すると、さっきのはレッグらしい。俺はちょっと振り返ったが、また、ギッ、ギッ、と音を立てて廊下を――ダダジム4号が俺のズボンの端を握っていた。


「どうした4号」

「クルルルルル……」


 ダダジム4号は何かを訴える目で俺を見上げてきた。ダダジム4号はズボンの端を離さない。……でも、あんまりぎゅっと掴んでいる様子ではなく、今は軽く摘まんでいる感じになった。今度踏み出せば、その手を振り払える程度だった。

 俺は立ち止まり、ダダジム4号を見た。何かを伝えようとしているに違いない。

 ダダジム4号がそのままアンジェリカの一室を指さした。


「アンジェリカー、ちょっと言い忘れてたんだけどさー」


 俺はその足で元来た廊下を戻った。何気ない風を装い戸口をくぐる。アンジェリカは先ほどと変わらない格好で、もぐもぐと食事を続けていた。……涙を流しながら。


「――――」


 ぽろぽろぽろぽろ、後から後から止めどなく涙を流し続けるアンジェリカに、俺は息を詰まらせるほか無かった。

 アンジェリカが、戻ってきた俺に気づくと、ぎこちない笑みを浮かべてズズッと鼻をすすった。


「お、美味しいわね。このシチュー。グズッ、でも、急、に入って、来ない、で、ちょうだい……ううう。ううう……。うううう~~……」


 アンジェリカはそれ以上ものを食べることが出来なくなり、唸り声を上げて泣き出してしまった。歯を食いしばって耐えようにも食いしばれる歯が少ないのだ。隙間の空いた唇から、唾液とともに咀嚼したものが零れだしてくる。

 俺はアンジェリカのそばまで行くと、無言でその頭を抱きしめた。アンジェリカはそのままそのまま俺にしがみつき、わぁわぁと激しく泣いた。泣き声が外に漏れないように、俺は胸にアンジェリカの顔を押しつけた。

 今まで気丈に振る舞っていたものが、ある瞬間から崩れて、感情が暴走し、自分でも止めらなくなったのかも知れない。


 俺の妻もそうだった。

 一度目の手術を終えてから半年後に結婚し、アパートで二人で暮らし始めてからの妻は、とにかくよく泣いた。原因の8割が俺だったが、理不尽な理由で泣かれたのがほとんどだった。他の新婚夫婦はどうなのかわからないけれど、うちは週に二回は喧嘩になった。まず、なぜか妻が不機嫌になり、気取った俺が場を取り繕おうと冗談を言って笑わせようとして滑り、無視され、そっとしておくと突然キレて怒り出し、止まらなくなり、俺はおろおろする。最後に妻はわぁわぁ泣き出して、俺が今みたいに抱きしめて謝って仲直りするのだ。

 ……未だにキレられた理由の大半が理解できない。考えれば考えるほど謎が深まるミステリーの固まりのような女性だった。

 ただ、まあ。結婚生活半年を過ぎてくると、週2から週1に。そして1年を過ぎるころには10日に1回にまで落ち着いていた。

 妻は泣き上手であり、俺は妻に泣かれると急に弱気になるタイプだった。対立していたことも、結局泣かれた妻には勝てず、すべて言うとおりにした。


 あの頃の妻とは似ても似つかないアンジェリカの、短くなった髪を撫でて泣き止むのを待った。だけど、アンジェリカはいっこうに泣き止まなかった。


 涙を流すのは悪いことではないと聞いたことがあった。泣くことで【ストレスの原因】となっている成分を【涙】に混ぜ体外に掃き出すためなのだという。泣いてすっきりするのはそういう理由なのだと、いたく感心した覚えがあった。

 なら、このアンジェリカの涙もきっと正しいものなのだと思う。好きなだけ泣かせて、すっきりしてもらった方がいい仕事をしてくれるに違いない。


 ロー公や小僧が目を覚まさないか、やきもきしていたが、……10分くらい経っただろうか。俺の服の胸元が涙と唾液でぐしょぐしょになった頃、ようやくアンジェリカの泣き声が止まった。

 とん、とん、と赤子をあやすように背中を優しくノックしていたのをやめて呼びかけてみる。


「もう大丈夫か? アンジェリカ」

「…………」


 アンジェリカは何も答えない。ズズッと鼻をすする音が聞こえた。

 彼女の首元から湿った吐息が立ちのぼってきた。懐かしい女の体臭が鼻腔をくすぐる。何もかも捨てて、ただこの芳醇な香りに包まれ、果ててしまいたい。そんな衝動に駆られるも、不思議な力に掻き消される。

 血の通った心と感情の変化すらも霧散し、クリアな思考だけがぽつんと残される。


「……わかった。大サービスだ。作戦が全部うまくいって、俺が解放されたらダダジムを全員返してやる。でも、クレイの説得に失敗したら……1匹だけな?」


 本当は5匹全部いて欲しいのだが、アンジェリカからしてみれば、成功しても、すっかんぴんの状態からのスタートになる。王都に行くにも、再び【召喚士の指輪】を手に入れるにも金が要る。……それこそ『あっは~ん、うっふ~ん』のお店で働いたりしないとやっていけないだろう。マーサの下について飲み屋の姉ちゃんにでもなれば、男を虐げながら暮らしていくぐらいは出来そうだが。


「ううう……、ううううううう、うううううう…………」


 ぬうぅ。またアンジェリカが泣き出してしまった。第2ラウンドか? それとも1匹じゃ足りないのか?


「わ、わかった。俺も男だ。ならどーんと、2匹返してやる。どうだ。失敗しても2匹だぞ。金も貸そう。どうだ、金貨6枚だ。仕事だと思えば気が楽になるだろ? ただし利子は年率……」

「うううう……うぇぇぇぇ……うえぇぇぇん、うわぁぁぁあん……」


 ぐはっ。泣き声が大きくなった! なぜだ??! 2匹じゃ足りないのか??


「わかった! わかったから! 利子は要らない。成功報酬にもう金貨3枚だそう。……ダダジムは4匹返す。頼む! 1匹は残して置いてくれ! 俺もさみしいんだ。あんな殺戮戦隊デストロイヤー集団の中で、いつまで正気を保っていられるかわからない。粗相をして即日殺されるかも知れない。そうでなくてもシンデレラみたいにこき使われるに違いないんだ。――それに、見ろ!」


 俺はアンジェリカを胸から離すと、俺は上着をめくり上げて左の乳首を見せた。


「どーだ! 酔ったハルドライドに押し倒されて、乳首を噛まれた痕だ。そんな変態野郎のメシの世話までしてやらなきゃならないこの俺の方が不幸だろうが!! お頭は俺が従順になるまで徹底的にいじめ抜くだろうし、スキンヘッドは俺のしもの世話をしたがっている。今夜だって添い寝してくるに違いない。どう考えてもアンジェリカの方がマシだろ?!」

「…………」

「なんとか言えよ……」


 アンジェリカは無言で俺の傷ついた乳首に触れてくる。いやん。そこは今敏感だから、らめぇ。


「……私も噛んでいい?」

「誰が噛ませますか!!? はい、サービス終了! これ以上はお金取るよっ!」


 俺は思わぬ反応を示したアンジェリカから乳首を守るように上着を元に戻した。ううっ、胸元がびちゃびちゃして気持ち悪い。

 アンジェリカがまたトン、と胸に顔を埋めるように……顔を隠すようにしがみついてきた。


「やめてっていったのに、乳首を噛まれた……。痛いって言ったのに、もっと強く噛まれた……。気がついたら……私の乳首が噛み潰されてて……血がいっぱい出てすごく痛かった……」

「…………そうか。大変だったな。痛かったな。苦しかったな」

「うん……」


 髪を撫でて慰める。言葉で慰められないのなら、せめて落ち着くまでこうしててあげようか。脳裏の片隅にはタイムオーバーの『警告音』がけたたましくなっているのだが。


「…………」

「私、死体の演技をするの、無理かも知れない」


 アンジェリカがぽつりとこぼした。


「……ランプを消して真っ暗にしておいたらどうかな? そうすれば臭いでしか判断できないはずだ」

「……駄目よ。あいつらの武器は魔力で光を灯すことが出来るの。その光でランプをつけ直すわ。…………それに、私ね、その廊下の軋む音が苦手になったみたい。『ギッ、ギッ』って音がするたび身体が勝手に震え出すの。呼吸が出来なくなって、頭がぐちゃぐちゃになって勝手に涙が出てくるの。絶対死体の真似なんかできない……」

「…………そうなのか。そっか。そうだな……」


 心的外傷後ストレス障害PTSDと言うヤツになってしまったのだろうか。命の安全が脅かされるような出来事、戦争や天災、事故や犯罪、虐待などによって強い精神的衝撃を受けることが原因で発生するストレス障害だ。

 アンジェリカの場合、あの廊下の軋む音が引き金になって急性トラウマを引き起こすのだ。『パブロフの犬』の実験のように、脳裏に惨劇がフラッシュバックして起こり、パニック状態になるのだろう。廊下が軋むたび男共が代わる代わる現れ、アンジェリカを犯しては帰って行く。きっと、自殺を考える間もなくその行為は繰り返されていたのだ。

 そうして、やがて時間の間隔が開き、俺が怪我を治してしまうことによって、痛みによる妨害が無くなり、思考がクリアになって、より考えることが出来るようになってしまった。


「タカヒロぉ、私、どうしよう……。今度あいつらにレイプされたら、もう、生きていけないよぉ……。うまく、動けないくなるよぉ。タカヒロに迷惑かけちゃうよぉ……」


 そう言って、アンジェリカはまた泣き出してしまった。

 これは作戦を急遽変更しないといけない。だが、どうする? 今の作戦以上に安全且つ、常識的な方法はあるか? それともアンジェリカを切り捨てて、小僧だけでも村の外に出すか?


「…………アンジェリカ。服を着ろ。この家から出る」

「うん。うん。うん!」


 アンジェリカの手に力が甦る。これでいいのだと自分に言い聞かせる。

 アンジェリカはふらつきながらもベットから降りると、全裸で俺に抱きつき、俺の頬にキスをした。「ありがとう」と言って俺から離れると、とたとたと部屋を出て行った。別の部屋で服を探すのだろう。

 俺はエロエロモードに突入する気は起きず、ジッと仄暗く燃えるランプの火を見つめていた。


 アンジェリカがだぼだぼな服を帯で結び、奇妙な格好でやってきた。俺はベットに腰掛けたままそれを一瞥し、またランプの火を見つめた。

 アンジェリカがダダジムの頭を撫でながら俺の隣に座る。


「アンジェリカ。このままここで息を潜めていることは出来ないんだよな?」

「…………」


 開口一番、俺はそれを口にする。するとアンジェリカの目元から涙が溢れ出してきた。


「安心しろ。アンジェリカはこの家を出てもらう。涙をふけ。俺の作戦Part2だ。だが、こっちの方が危険だ。失敗すれば二人とも殺されることになる。アンジェリカはこの場ではないところで、また犯されてから死ぬことになる。その覚悟はあるか?」


 犯される、と言う言葉にアンジェリカはビクッとなったが、「この部屋を出られるんなら、それでもいい」と言った。俺はその覚悟に敬意を表して、アンジェリカの目元を拭ってやった。


「この作戦は、俺もアンジェリカも、ダダジムも小僧も、この家もこの村も、死体も盗賊どもも全部巻き込んで、全部使って初めて成功する作戦だ。アンジェリカ。【召喚士の指輪】、手に入れたら戦ってもらう。ダダジムも戦ってもらう。もちろん俺も戦う。そういう作戦だ。盗賊どもと戦って、殺して、生き延びる作戦だ」


 『死中に活を求める』を地で行く作戦になる。もちろん正面からガチンコでぶつかっては返り討ちに遭うに決まっている。『魅毒花』でもあれば一気に全員始末できるが、あいにく手元には無い。採取しに行くも時間が無い。


「かまわないわ。この部屋を出られるのなら、何だってかまわない。捕まって、犯されそうになったら――困ったわ。舌を噛むことが出来ない」

「そんときは諦めろ。自殺なんてするな。……第一、アンジェリカはキリスト教徒だろ? 自殺できないじゃん」

「そんなのもうやめたわよ。私――もう、人殺しているし」


 そうカミングアウトして、アンジェリカは俺の顔色を伺うようにして見た。


「そっか。俺は殺人幇助さつじんほうじょと、グールになった仲間を数名葬ったぐらいだな。ビビって動けないヤツよりも数倍信頼できる」

「――そう。タカヒロはまだなんだ……」

「残念がるなよ。言っとくけど、俺はまだこの世界に来てから二日と経っていないんだからな。そんなにサクサク人殺しが出来てたまるか」

「それもそうね」


 アンジェリカがフフフッと苦笑した。


「タカヒロは、昨日見た時よりも変わったわよね。ううん、まるで別人みたいに見えるわ」

「そうか? ん~そうかも。【男子三日会わざれば刮目して見よ】ってやつだよ」

「昨日会ったばかりで、まだ3日も経ってないわよ」


 それもそうかと思ったが、


「俺は3倍速で成長しているんだ」


 そう言うと、アンジェリカは可笑しそうに笑った。そうそう、やっぱり女性は笑っていた方が断然いい。俄然やる気が湧いてくるって感じだ。


「じゃあ、作戦を説明するぞ」


 さあ。終わりの始まりを語ろうか。

 朝が来る前にすべてを終わらせよう。――このランプの火が消えないうちに。そして、この笑顔が消えて無くならないうちに。

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