第51話 ロー・ランタンの闇語り【前編】★カニバリズム表現注意
ちなみにそのクグツは遊び終わった後、視聴者からクレームが来ないように美味しくお召し上がりになったのだという。あんたネクロマンサーの鑑やで! まあ、俺はやらないけどね。
話をまとめると、ロー公は外に出るとき以外、穴蔵暮らしを強いられていたのだという。その穴蔵には窓もなければ糞を捨てる場所もなかった。ロー公は排便のたび、岩のように固い地面に指の力で穴を掘り、砕いた岩粒をかけていたらしい。
岩肌の亀裂から染み出る水を舐め、空腹も忘れた頃に落ちてくる死骸に食らい付き、たまにそれが連日続くと『クグツ』にして遊び尽くしていたのだという。
アーガスからロー公について何も聞くなと言われている。
なら、“ロー公が手前勝手に話す”のはOKなわけですね? 俺は話術を駆使し、ロー公が自分のことを話し出すように誘導した。実にチョロかった。いろいろ溜まっていたのだろう。
以下、意訳。
そこは地下に埋め込まれた酒壺のような空間だった。
『食べ物』が落ちてくる穴が天井にただ一カ所あるだけで、そこも普段は編み笠のような物が被せられ、何かが落とされる時にだけ
穏やかで
退屈を紛らわせるために【死霊の槍】を日夜振るった。この槍は家族と自分を繋ぐ唯一のものであり、自分が【ネクロマンサー】である
闇に向け槍を振るう。目を閉じても開いていても変わらないほど暗く狭い世界で、無心に槍を振るった。槍に常に触れていられることが己にとっての喜びであり、すべてだった。集落にいる時は槍を手放す時間があった。たまに姉や仲間たちにからかわれ、槍を取り上げられてしまったことがあった。村の誰よりも力の弱かった自分は、ただ拳を振り回し槍を取り返そうと躍起になった。倒されても倒されても向かっていくしかなかった。あの頃に比べたら、邪魔が入らず、槍に一日中触れていられるこの時間の、なんと恵まれていることだろうか。
あの集落と今とで何が違うのだろう。何も変わらないとそう思った。初めて槍を手にした夜はうれしくてうれしくて夜通し槍を振るった。痺れに似た甘い何かが自分の躯を酔わせていた。脳も体も汗でトロトロになるまで槍を振るい続けたあの夜の続きを、今も夢見ているだけだった。
意識して槍に触れるたび、なぜか誇らしい気分になった。なぜ自分が穴蔵で暮らしているのか、これからどうなるのか、そんなことどうでもよかった。槍に触れていると力が湧き、力強く槍を突くと、だんだんと高揚し勇気が湧いてきた。疲れたら槍を抱いて眠り、起きたらまた槍を振るった。“食べ物の穴”から落ちてくる物なら何でも食べた。
集落では槍の指導をしてくれる先生がいたけれど、今は槍自体が己の先生だった。いつの頃からか壁を槍で突き絵を描いた。夜通し突き、明け方に編み笠の隙間からうっすらと差し込む朝日でその出来を確かめていた。岩壁は堅かったが、それ以上に槍は堅く、絵を描き、そして消すたび、酒壺は少しずつ、だが確実に広がっていった。
孤独である時間は長く。だからこそ、『クグツ』を識ったときの喜びようはなかった。
その日はたまたま死体が二つ落とされてきた。一体を無我夢中で喰らい、飢餓から甦った自分には余裕が生まれた。そして槍が教えてくれたのだ。“我に心臓を捧げろ”と、聞こえた気がした。
その通りに心臓に突き刺すと、槍に血が巡るような感覚があり、身悶えするほどのむず痒さに襲われた。ふと気がつけば、目の前に『クグツ』が立っていた。
試しに話しかけてみた。返事がない。『命令』してみた。すると、その通り動いた。それが面白かった。そして“ああ、これがそうなのか”とようやく気がついた。
父も母も姉も兄も、コレが普通に出来ていた。それを自分は目の当たりにしてきたはずなのに、今まで何をしてきていたのだろうか。そう思い少し恥じた。……ただそれは、身近なところに使っていい死体がなかっただけの話だったのだが。
『クグツ』は自分で考えたり自分の意思で行動することは出来なかったけど、『命令』を与えると、忠実に従った。それが愉快だった。
初めての夜は何をして遊んだか覚えていない。ただひどく興奮していた気がする。奇声を上げ、胸を叩き、何かひどく馬鹿をやった気がした。朝になって反省して、バラバラになった死体を元の形に戻してから食べることにした。だけど、ダシが全部抜けきってしまったような感じであまり美味しくなかった。
それからしばらくして、ようやく外に出ることになった。
目隠しをされて袋に入れられて、でも槍と一緒だったから全然平気だった。ゆらゆら揺れながら長い時間ずっと大人しくしていた。自分を買った人の声で、そう『命令』されたからだ。仕方ない。自分はその『命令』を聞くために買われたのだから。
ゆらゆら揺れながらただひたすら自分の出番を待った。きっとこの槍を振るえる瞬間が来るのだと、内心わくわくしていた。
そしてようやく袋から出されて、目隠しを外された。――そこは自分がいた集落だった。
自分をここまで運んできてくれたらしい“人族”が「約束で3年に1日だけ帰郷していいことになっている」と言った。自分たちはここで待つという。
自分は大声でみんなを呼び、帰ってきたことを伝えた。みんなは最後に見た時よりも大きくなっていた。だけど、みんなは自分の姿を見ても、「相変わらず小さいなぁ」と言い、笑われた。でも久しぶりだったので、一緒になって笑った。仲間といるのは楽しかった。
家族に会いに行った。久しぶりに会った父と母は自分を温かく迎え入れてくれた。そして一緒に長老に会いに行き、穴蔵での生活を報告すると、【死霊の槍】で『クグツ』を作ったことを喜んでくれ、特別に自分のために儀式をしてくれ、そのまま腹を満たした。
姉も兄も健在だった。姉は今度結婚するらしかった。おめでとうというと、あんたのおかげよとおでこを叩かれた。姉は相変わらずだった。相手は教えてくれなかったけれど、姉より年下だとぷりぷりしていた。兄は久しぶりに魔物の『クグツ』劇を見せてくれた。ネクロマンド族が魔物相手に勇敢に戦うところが格好良かった。おまえを売ったお金で暮らしが豊かになったと父が満足そうだった。姉の結婚が決まったことが今一番の喜びだと語る母を見て、自分が高く売られて良かったと思った。まだ不満を口にする姉だったが、相手の子供を産むことは姉の中ではもう決まっているようだった。兄が「少し背が伸びたな」と言って、頭を撫でてくれたのがうれしかった。
槍を教えてくれた先生にも会った。自分を一目見て、ひとつ手合わせしようと言われた。自分は【死霊の槍】を、先生は同じ長さの棒を持って手合わせした。こてんぱんにやられたけれど、「3年前よりもずっと上達してた。ずいぶん手に馴染んできたみたいだな」と褒められてうれしかった。自分がしてきたことが無駄ではなかったことに安堵した。
翌日の朝、最後の挨拶にと長老の所に会いに行った。あと3年したらおまえも成人だから、入れ墨を入れて大人の仲間入りだと言われた。うれしかった。3年後が待ち遠しかった。
そしてまた目隠しをされ、長い時間袋の中で揺られ、そして“食べ物の穴”から穴蔵に落とされた。
3年後を夢見て、無心で槍を振るった。相手が欲しかった。無心で槍を振るった。でもやっぱり相手が欲しかった。
死体は数日に一度落ちてきた。たまに残飯が落ちてきたけれど、いつもお腹が空いているので、気がつけばどちらも全部食べている自分が恨めしかった。
ある日、落ちてきた死体の左手だけ残した。数日後、今度は死体の左足だけを残した。
こうして少しずつ残していけば、いつか一体の死体ができあがるだろうと考えていた。我ながら頭がいいなと思っていた。でも、数日で死体は腐り始めてしまい、結局食べてしまった。
久しぶりに2体の死体が落ちてきた。それぞれ半分ずつ食べた。そうして2体のクグツを作った。我ながら頭がいいなと思った。クグツに命令を出し、自分と戦わせることにした。結果は圧勝だった。瞬く間に細切れにしてしまい、かき集めるのに二日もかかった。
その日は珍しく2体の死体が落ちてきた。しかも1体は裸ではなく、ちゃんと服を着ていて、腰には剣とそれに緑色の指輪をしていた。指輪の剣士に興味が湧いたので、とりあえず1体で腹を満たせると、槍で心臓を突き、『クグツ』を作り上げた。
指輪の剣士は外傷が少なく、他の死体と違い、首や頭部の傷はなかった。人族の年齢はよくわからなかったが、がっしりした体型だったので大人なのだと思った。
槍を構えて向かい合う。自分を襲うように『命令』すると、戦いを挑んだ。これで3度目だったが、今回も勝てると思った。楽勝だと。
だけど、今回の『クグツ』は強かった。瞬きする間に八度も斬られたのだ。最初よりも三倍以上に広くなった壁に叩き付けられ、気を失った。
目を開けると、目の前にクグツがいた。体中が痛かった。死にそうに痛かった。
クグツはジッとこちらを見つめ、ただ静かに『命令』を待っていた。すると、槍を持った腕が勝手に跳ね上がり、クグツの心臓を穿った。……そこから、暖かな何かが流れ込んできた。それはゆっくりと体中を巡り、そしてもう一度自分は気を失った。
気がつくと、自分に覆い被さるようにしてクグツが倒れていた。押しのけるようにしてどかすと、どうやら一晩…………以上経っていたらしく、クグツはただの腐った死体に戻っていた。立ち上がってみる。所々痛んだが、大きな傷はほとんど塞がっていた。槍がクグツから【魄】を吸い上げて自分の体を回復してくれたのだろうと思った。この【死霊の槍】がますます好きになり、愛おしくなった。自分はもっと強くならなければいけない。もっと逞しくならなければいけない、そう思った。とりあえず、もっと大きくなろうと目の前の死体を食べることにした。
それからまたしばらくして、2体の死体が落とされてきた。飢餓感をグッと押さえ、一体をクグツにする。クグツに【剣士の指輪】を着けさせ、剣を持たせた。反応がない。食べる。もう一体にも同じようにさせる。反応がない。翌日食べる。
それは指輪を試し始めて三回目の時だった。【剣士の指輪】が反応し、闇に浮かび上がるように緑色に灯った。その仄かな灯りに思わず破顔してしまう。急いでもう一体を平らげると、準備万端で槍を構えて向き合った。呼吸を整えて相手と対峙する。
クグツに『命令』を出した。全力で自分と戦うように言った。クグツは身を滾らせると、剣を手に飛びかかってきた。それを【死霊の槍】で迎え撃つ。
結局今回も“降参”してしまった。脚を切られて動けなくなってしまい、『命令』でクグツを停止させた。悔しかったが、仕方なかった。回復しようと、以前と同じようにクグツから魔力を汲み上げたが、千切れかけていた脚は接着こそすれ、感覚が戻ることはなかった。次の1体が落ちてくるまでの数日間、片足で踏ん張り槍を振るった。
ある日、落ちてきたのが残飯だったので、槍を持つ手を休め、「あーあ」と思ってみていると、小さな悲鳴と同時に服を着た死体が落ちてきた。がっかりしてた分、うれしくなって駆け寄る。……が、それは死体ではなかった。まだ生きていた。人族の女だった。
「痛い痛い痛い! 脚の骨が折れたみたいだわ! 誰か! 助けて!」
何を言っているのか、言葉がわからない。ちゃんとネクロマンド語で話してくれないと、そう思って近づいた。女は自分に気がつくと、甲高い悲鳴を上げた。あんまりうるさいものだから耳がきーんとなった。このヒトはここが穴蔵の中であることを忘れているみたいだった。でもどうしよう。殺して食べてもいいのかな? お腹空いているんだけどな……。
でも、ヒトはそんなこっちの心情などお構いなしで悲鳴を上げて後ずさった。脚が折れているというのでまた悲鳴を上げた。痛そうだ。近づこうとすると悲鳴が大きくなる。うるさくってたまらない。しょうがないので壁の反対側に行って座り込んだ。悲鳴は止んだけど、「痛い痛い……ぐす……えぐ……」と泣き声は止まなかった。
食べたいんだけどなぁ……、そんな目でヒトを見る。だけど、自分を買ったヒトが『命令以外で人族を殺すな。傷つけるな』と言っていた気がする。困った。お腹が減った。ぐうぐう。
ヒトが落っこちて来たせいで、編み笠のような物が外されてしまい、穴蔵のなかは天井から光が一筋差し込んできていた。穴蔵の中は半径8メートルほどにまで広がっていて、高さも初めからそのくらいあった。
ジッと壁の反対側にいるヒトを見る。白い帽子を被って、白いエプロンをした若い女だった。歳は自分の姉と同じか、もう少し上のように思えたが、人族の顔は歳がよくわからない。
ヒトはまだ泣いていた。赤ちゃんみたいだった。姉に槍を取り上げられた自分みたいだった。空腹もあり、少しイライラしたがどうすることも出来なかった。買い主の『命令』に背けば、両親が悲しむと思ったからだ。
啜り泣くヒトを無視して立ち上がった。そろそろ槍を振りたくなった。ヒトは壁の反対側でビクッとなったが、今度は悲鳴を上げなかった。
そうして、いつものように壁に向かって槍を振るう。無心で槍を振るう。「あなたは誰なの?」無心で槍を振るう。「このお屋敷で買われている魔族って、あなたのことだったのね」無心で槍を「残ぱ……ご飯をいつもあげていたのは私なの……その、食べたりしないわよね?」無心で槍「痛……っ、ねえ、誰か呼んでもらえないかしら? 私、怪我をしているの」無心で「まさか本当に魔族がいるなんて思わなかったわ。てっきり大旦那様の趣味で大きな魔物でも飼っているのかと思った」無心「歳はいくつ? まだ幼い感じがするけど。ずっとここに住んでいたの?」無「ここって、他に出入り口がないわよね? どうしよう……、ゴミ捨ての当番、代わってあげなければよかった……ぐす……」……「うぇぇ~~ん、うえぇぇえ~ん」
気が散って集中できない。注意してやろうと、大股でヒトに近づいた。ヒトは近づいてきた自分に震え上がり、スカートから見える美味しそうな脚を隠そうと躍起になっていたが、折れているせいか、うまく動かせそうになかった。衝動的に齧り付きそうになるが、家族を思い出して、そこはグッと堪えた。
ヒトの顔に近づき、シィーっとやった。姉のつまみ食いを発見した時に姉が見せた仕草だが、他にも自分を黙らせるのにも使っていたので真似をしたのだ。ヒトは口元を押さえ、震えながらもコクコクと頷いてくれた。漂ってくる美味しそうな匂いにクラクラきたが、なんとか我慢して壁に向かった。
だけど、静かだったのはしばらくだけで、すぐに啜り泣きや、「痛い痛い」と呻き始めた。うんざりした気持ちになり、壁に立てかけて置いた剣とベルトを取って、ヒトの元に赴いた。ヒトが再び青ざめるのがわかった。「ごめんなさい」を繰り返し、涙をぼとぼとと流しながらピーピー泣き始める。無視してスカートをめくりあげた。泣き声がよりいっそう大きくなった。うるさくて敵わない。
ヒトの折れた脚の骨を正しい位置に戻し、剣を添え木にしてベルトで固定する。自分も何度か骨を折ったことがあるのでやり方は見て知っていた。ただ、自分がやるのは初めてだったのでうまくいっただろうか。スカートに潜り込んでの作業だったが、上からぽかぽか殴られていい加減嫌になった。治療が終わり、ヒトを無視して立ち上がると「ありがとう」とか聞こえた。その言葉はお礼だったのかも知れないけれど、ネクロマンド語で言ってくれないとわからない。
呼びかけが「痛い痛い」から「おなかすいた」に変わっただけだった。ヒトはおしゃべりだ。無視して槍を振るった。しばらく経って振り返ると、ヒトがしかめっ面でご飯を食べていた。慌てて自分もご飯に駆け寄った。ヒトは驚いたように身を強張らせたが、ご飯を食べ始める自分を見て、何かを呟いたが、とにかくヒトに食べ尽くされまいとご飯を口いっぱいにほおばった。
「慌てないで、みんな食べていいよ」とヒトが言った。無視して両手いっぱいにご飯を取ると口に運び続けた。頭に何か触れた。ヒトの左手だった。どうやら頭を撫でているようだった。……指輪がある。たぶん【資格なし】なのだろう。無視して自分はひたすら食事を続けた。
食事を終えて、ヒトは壁により掛かり、自分は反対側の壁に向かって槍を振るった。天井からの光がだんだんと弱く、頼りないものに変わってきた。「クシュン」とクシャミをする音が聞こえた。久しぶりの音だったので振り返ってみる。目が合う。ヒトはずずっと鼻水をすすり上げた。寒いのかも知れない。また泣かれるかも知れないと思い、自分は剣士が着ていた服を拾い上げると、ヒトに渡した。「あ、ありがとう」と言われた。やはりお礼の意味なのかも知れない。どういたしまして、と呟いてまた壁に向かった。
無心で槍を振る。何千何万と繰り返してきた動作を繰り返す。そしてだんだんとキレが悪くなり、体が重くなってきた。今日はこれで終わりにしようと思い、岩肌から染み出す水を舐め、排便小尿を済ませ壁を削った砂をかけると、眠ることにした。
また「クシュン」を音がした。ヒトは渡した服を重ね着して眠っているようだった。なんとか出て行って欲しかったが、全力で放り投げるにしても8メートルの天井は少し高かった。
ヒトを再度見やる。血色の良さそうな顔だ。さぞかし美味しいだろう。
集落では半年に一度、奴隷商人が家畜や魔物のみならず、日用雑貨、獣族やヒトなどを売りに来ていた。自分もその現場を見たことがある。長老が代表で一気に30人ほど買って、代わりに誰かの生まれたばかりの赤ん坊を売った。それでもいくらか集落は儲かっていたらしい。
生きたままヒトを喰らうのは儀式の時だけで、それを行うにはちゃんと“資格”が必要だった。資格のない自分は儀式が終わった後、お
ふと、このまま大人になれるんだろうか、という思いが脳裏をよぎった。集落のみんなはだんだんと大きくなっていた。小さいと思っていた姉の胸さえ大きくなっていた。自分は飽食のあの環境に居て、もっとも小さな存在だった。それなのに今はこの飢餓生活を続けてる。ひょっとしたら次にみんなに会ったとしても、「おまえだけは変わらないな」と言われるんじゃないだろうか。そんな不安を感じた。
槍を抱いて目を閉じる。
自分は売られた存在だけど、そこで終わりではないように気がしていた。そう言われていたし、自分でもそう思っていた。
槍をまだ使いこなせていない自分が悪いのだと思い直す。自分のクグツにすら負けてしまう自分が情けなかった。もっと強くならないといけない。もっと槍を振らないといけない。あんなヒトごときに気を散らされていてはいけない。
久しぶりに考えることがあった夜。誰かの寝息に耳を傾けた夜。
翌朝、いつもより強い日の光に目を覚ました。軽い柔軟を済ませて、さて槍を振ろうかといったところで、ヒトから声が掛かった。手招きをしている。初めは無視していたが、「ちょっと、来てって呼んでるでしょ!」「パンツ見たくせに!」「漏れちゃう! 漏れちゃう!」と騒がしい。ため息をついて振り返ると、切羽詰まったような顔になっていた。仕方ないので近寄っていくと、なぜか剣士の服の一部を切り取って欲しいようなことを手振り身振りで訴えてくる。
そのくらい自分でしたらどうかと言ったが、言葉が通じていない。結局、切迫した表情のヒトに押し切られる形で服の一部を破いた。
「向こう行って! こっち見ちゃ駄目だからね! 音も聞かないでよ!」
今度はなにやら激しい剣幕で追い払われる。いやんなる。
また無心で槍を振っていると、しばらくして糞の匂いが漂ってきた。チラリと見ると、さっき破り取った布きれで尻を拭いていた。そういえばヒトはきれい好きだったか。目を合わせるとやっかいなので、前に向き直り、また無心で槍を振り始めた。
「お腹空いたねー」
ヒトがまた何か不満を訴えていた。
「朝ご飯でないのー?」
言葉はわからなくても顔を見ればわかるので極力見ないようにしていた。
「今日はね、本当は私がゴミ捨て当番なんだ。でも昨日の子と交代したの。私はいつもお屋敷の端の端にあるゴミ捨て場にちゃんと捨てていたの。なのに、あの子が『もっと近い生ゴミの捨て場があるよ』って教えてくれたの。それがここ。失敗したわー……。慣れないことをするものじゃないわね……はぁ」
そう言ってヒトは脚をさすっている。
無心で槍を振る。そろそろヒトの言葉に惑わされなくなってきた。
「今日、あの子がゴミ捨て当番だから……たぶん、お昼くらいに捨てに来るはずよね……。ねぇ、そのときなら大声出してもいいでしょ? 私、ここにいたらお邪魔みたいだし」
話しかけているみたいだったが、言葉の意味がわからないので対応できない。相手もそれがわかっているのか、その後もぶつぶつと何か呟いていた。
「お腹空いたねー。朝は食べない主義なの? お昼ご飯まだかなー」
日が暮れると同時に、ヒトが啜り泣き始めた。鼻のすする音と相まってうるさいことこの上ない。……ああ、だから集落では長老が『ヒト』を一カ所に集めて管理していたのか。社会の仕組みに気づき、なるほどなーと独りごちる。
ヒトは水場近くを占拠しているので、イチイチ水を飲みに行くたび目を合わせることになる。
「あ。……あはは、夕飯何時から? 私、好き嫌いないのよ。もう、残飯でも何でもいい……お腹空いた……」
無視して近づくと、岩場に口をつけて水をすすった。
「魔族でも水を飲むんだねー。不思議ー。わー……、……うっく、えっぐ、ひーん……ひーん……」
ヒトもお腹が空いているようだけど、自分もお腹が空いていた。舌なめずりをして、ヒトを見下ろす。その視線に気が付いたのか、ヒトが俺の目を見上げた。
「う、う、う、うえ~ん。うえ~ん。またイヤラシいコトしようとしてるー。やだやだやだ、え~ん、お腹空いたよー!」
とっとと退散し、気を取り直して槍を振るった。月明かりが“食べ物の穴”から差し込んでいた。
招かざる客を迎えて3日目の朝。昨日と同じようなことを言ったので、また少し剣士の服をちぎって渡してやる。だんだんと袖が短くなってきていた。
「食べてないのに出るなんて不思議……。ゼッタイ痩せたわよね」
ヒトは糞をしながらそんなことを言っていた。排便の時に、ヒトは一体何を言っているのだろう?
「ねえ、それって絵なの?」
水を飲みに水場に行くと、ヒトが壁を指さしていた。きっとあの絵のことを言っているのだろう。お昼近くになり、穴蔵の中もだいぶ明るくなってきたため、気がついたのだろうか。それともようやく周りを見る余裕が出てきたのだろうか。
槍を振りに壁の前まで戻ると、「待って」と声が掛かった。その単語は知っていたので、振り返る。
ヒトはヨロヨロしながらも立ち上がると、壁伝いにこちらにひょこひょこやってきた。
「初めは壁に向かってコツコツうるさくって何やっているのかと思っていたけど、絵を描いていたんだ」
ヒトは、ここ数日で頬が少しこけ、泣きはらした顔になっていた。自分は飢餓から来る衝動をグッと抑え、壁を指さす。まさか自分の描いた絵を誰かに見せるとは思わなかった。
父を見せる。「お父さんね?」母を見せる。「お母さん?」姉を見せる「ん? こっちがお母さん?」兄を見せる「弟さんかしら?」そして自分を見せる。「……これはあなたね?」ヒトは柔らかく微笑むと、こちらを指さした。頷いてみせる。
「家族を描いていたの。あなた絵が上手ね!」
ヒトに褒められたような気がして、まんざらでもない気がした。
――と、ドシャッと“ご飯の穴”から残飯が落ちてきた。またこっちかーと思っていると、ヒトがいきなり大声を上げた。
「助けてーーーー!!! 誰かぁぁぁぁ!!! 私は穴に落ちちゃったの!! 助けてーーーーー! きゃああああああああああああああああ!!!」
穴蔵が揺れるかと思ったほどの大音響だった。思わず耳を塞いでしまう。
「ええ!?? 今の声……ひょっとしてアイーナ??!」
「ああ!! マルエル!! そうよ、アイーナよ! マルエル! マルエル! よかった! 私助かるのね! 助けてマルエル! 私残飯を捨てに来たらこの穴に落ちちゃったのよ! お願い! 私をここから助け出して!!!」
「わ、わかったわ、アイーナ。その……わかったわ! 誰か……そう誰かを呼んでくるわ! 待ってて!」
「ありがとうマルエル! 私待ってる! 出来るだけ早く助けてちょうだい! 私、脚を怪我していて動けないの。愛してるわ、マルエル!」
相手の声は聞こえなくなった。
天井からの光を浴びながら、大声の次は、またわっと泣き出してしまったヒト。どうでもいいけれど、ご飯を踏んでるので、そばによって腕を掴んで注意した。ヒトはちょっと驚いた顔をしたが、足下を指さすとわかってくれたようで「ごめんなさい」と言って慌ててどこうとした。たぶん、謝ったのだろう。「痛い!」そう悲鳴を上げて倒れかけたのを支えてやる。そのまま持ち上げて水場の壁まで運び、残飯の半分を持ってきてあげた。
「くれるの……? でもいいわ。きっともうすぐ出られそうなの。ありがとう、気持ちだけ頂くことにするわ」
どうやら食べないらしい。よかった。本当は全部食べたいくらいお腹が減っていたのだ。別に新参者のヒトに気兼ねしているつもりはなかったけれど、『食べ物を与えようとせず、人族を死なせるのは、殺すと同罪』とか買い主に咎められそうで気が引けていたのだ。これで安心して食事が出来る。
残飯を両手ですくい、もりもりと口に運ぶ。ヒトはそんな自分をクスクスと笑いながら見ていた。笑われている感じではなかったので放っておくことにした。
「貴重な体験だったのかも知れないわ……。うん、きっと貴重な経験ね」
「お屋敷のお庭に、こんな魔族さんが暮らしていたなんて。メイド達に行っても誰も信じてくれはしないでしょうね」
「ありがとう優しい魔族さん。脚の怪我の手当までしてくれて。私、あなたのことは忘れないわ」
「ねえ、魔族さん。あなた、お名前はなんて言うの? 私はアイーナ。あなたは? ……ふふふ、いやーね、照れてるのかしら。ああ、空が恋しいわ」
「……遅いなぁ、マルエル。誰を呼びに行ったのかしら……もうすぐ、日が暮れちゃうのに……」
「……お腹空いた。……脚痛い。……お腹空いた。私の馬鹿。残飯でも何でも、食べておけばよかった……」
「もう、今日は来ないのかなぁ……。明日にならないと来ないのかなぁ……。お腹空いたぁ……」
ようやく寝入ったのか、定期的にぼやいていた言葉が止んだ。水を飲もうと壁に近づいていくと、ヒトはうっすらと目を開いた。
「魔族さん……。今日のお絵かき、終わった……?」
壁に口をつけて水をすする。ようやく人心地ついて息を吐く。
「お疲れ様。今日も頑張ったね」
一瞥だけくれてヒトとは反対側の壁に行こうとする。
――と、ズボンの裾を掴まれた。思わず振り払いそうになったけれど、古い生地なので破けるかも知れないと、やめておくことにした。
「少し話さない? 魔族さん」
ヒトが隣の地面をぺしぺしと叩いた。どうやらそこに座れと言っているらしい。ズボンの裾は掴まれたままだ。仕方なしにヒトの隣に座った。
そろそろ寝ようかと思っていたのに、と恨めしい視線を送るが、「私ね、このお屋敷に勤めだしてもう4年になるんだぁ」ヒトはなにか語り出した。
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