第29話 ザイルの追憶【中編】

 私は再度国境を渡り、王都に戻ることに決めました。

 入国時は『獣人』で引っかかったため、不法入国となりましたが、出国の方は以外とスムーズに事が進みました。もちろん病院側のサポートもあったことと、何よりセイルの存在が大きかったのです。

 セイルは人族と獣人のハーフであり、私の子であることが病院側の証明で明らかにされていましたし、この国は亜人の受け入れに寛容だったこともありました。もしも国境越えを余儀なくされたら、私の人生はまた違ったカタチになっていたかもしれません。


 私はセイルと病院から頂いたたくさんのミルクを抱え、ローズローズ経由、王都行きの宿泊馬車に乗り込みました。

 そのとき、病院の医院長から10年後必ずもう一度尋ねるように言われましたが、ちょうど10年後、ある事件が起こり、そのことで頭がいっぱいになっていて、私は医院長との約束を忘れてしまっていました。

 あれからもう三十年近くが経ち、それが何であったのか、今ではもう確かめようがありません。


 宿泊馬車での旅は二度目でしたが、幼い赤子を連れての旅は大変に気を遣いました。

 馬車の窓をわずかに開き、『風』の精霊を上手く操るなど、おしめを替えるときは他の乗客に配慮しながらの旅でした。


 ありがたいことに馬車は順調に進み、国境を越えるとローズローズの町に着きました。

 乗客の乗り換えがあり、6人パーティの冒険者との馬車暮らしとなりました。長い馬車暮らしでもセイルはぐずったりせず、大人しくしていました。

 日中はミルクを飲ませるために『光』の精霊を使ってほ乳瓶を暖めましたが、夜間はそれが使えないので常に一本懐で暖めていました。


 冒険者達の中にも女性がいて、よく抱かせて欲しいと頼まれましたが、抱かせると、すぐに私に手を伸ばし、足をばたばたさせむずがりました。

 苦笑する女性に頭を下げて、セイルを私の胸の中に収めると、セイルはすぐに大人しくなるのでした。


 冒険者達にはいろいろ聞かれました。

 主に、セイルと私の関係についてだったのですが、私は自分が冒険者だったことだけを伏せ、セイルは人族と私との間に出来た子供であることを話しました。

 馬車の中は賛否両論で盛り上がりましたが、セイルがあまりに可愛いので、これはこれで良いということに落ち着きました。


 そして、私からも冒険者達に質問をしました。

 1年半ほど前に、ローズローズのギルドでなにか事件が起こらなかったかと尋ねました。

 冒険者達は顔を見合わせ、自分たちはその時そこにはいなかったけれど、1年半前ならギルドの冒険者同士のド派手な殺し合いがあった年だと言いました。


 話題は次第にその事件に傾きかけていたので、私は業を煮やし、ギルドの中を眩しい光で満たし、冒険者達の目をしばらくの間失明させていた事件はなかったか? と聞きました。

 冒険者達は、そんな話聞いたことないと口々に言ったので、私は胸を撫で下ろしました。

 そのあとは、ギルド内であったおもしろおかしな珍事件などを話し合い、楽しく時間は過ぎていきました。


 私たち親子と冒険者達は、その後も大きな出来事に遭遇することもなく、王都までたどり着きました。これも何かの縁と、互いの名前を教え合い、手を振って別れました。

 私は馬車での長旅で疲れたのでないかとセイルの心配をしましたが、セイルはとにかくよく眠る子で、目を覚ますときはミルクを欲しがるときで、その時についでにオムツも替えていたので、今振り返っても、本当に手の掛からない子だったと思います。

 話はそれますが、今の孫達を見ても当時のセイルほど大人しかったとは思えません。セイルは不思議な子でした。


 この国の王都は、昔から種族のるつぼと言われているだけあって、私たち親子が暮らしていくのにはうってつけでした。

 数年ぶりとはいえ、ギルドの方々は私のことを覚えてくれていました。名字が変わったこと、結婚して子供がいることを告げると、ギルドの室長から家族で暮らせるようにと、空き家を審査無しで融通してもらうことが出来ました。

 それもやはり、セイルが可愛かったからでしょう。もみくちゃにされながらも、セイルが愛嬌を振りまいたおかげだと思います。


 昼間はセイルを背負い、ギルドの仕事をこなしました。

 ギルドの仕事と言っても、魔物と闘うような危ない真似はしていません。そもそも以前のように、町の外には出かけなくてもすむ仕事が増えていたからです。

 『地』『水』『風』『光』の四つがあれば、精霊使いは立派な便利屋でした。

 井戸も掘れましたし、下水の詰まりも取り除くことが出来ました。井戸の修復に光を集めることも出来ましたし、水質のチェックも出来ました。ペットのトリミングも出来ましたし、サービスで家畜との言語解読も行っていました。

 とにかく、毎日が忙しく、セイルを抱えて王都中を駆け回っていました。


 セイルは赤ん坊でしたが、手足の指が長く、その握力はとても強かったのを覚えています。

 怪力という意味ではなく、私の身体中に生えている毛を両手足の指でしっかりと掴み、それだけで帯など使わなくても決して落ちませんでした。

 しかも、寝ているときですら毛を掴んだ手を離さないのです。猿人族ではそういうのは普通だと聞いていましたし、セイルもまったく疲れた様子を見せませんでしたから、私の身体を離れるときはオムツを替えるときぐらいでした。


 それでも生後1年を過ぎると、私の身体の上を、毛を掴んで器用に動き回りました。

 その頃の私は、身体こそ小さかったのですが、体力はあったのでセイルの好きにさせていました。

 どこに行くにも私たち親子は一緒でした。

 やがて、セイルは2歳になりました。私の膝の上から食べさせていた食事は、さすがに人目をひきましたので、椅子や地面に座らせましたが、身体の一部はいつもどこか私にくっけていました。

 私にべったりなセイルは、まだまだ赤ちゃんかと思われるかもしれませんが、大人同士の会話を聞き、私の肩越しに文字を見つめるセイルは、決して赤ちゃんではありませんでした。


 もともと大人しい子でしたが、2歳も終わりに近づくと、私の肩越しからすれ違う人に挨拶が出来る子になっていました。

 ただ、地面に下ろそうとすると嫌がり、理由を聞くと、「高いところが好き」とのことでした。


 さすがに3歳を過ぎると、私はセイルが背中に乗ろうとするのをやめさせました。

 セイルにはめずらしく、大声で泣きわめき暴れましたが、セイルの身体が大きくなったことと、セイルの身体が人族であり、靴を履き、しっかりと自分の足で歩くことを辛抱強く教えると、セイルは根負けし、家にいるとき以外は私の身体には登らないと約束しました。


 やがてセイルは6歳になりました。

 6歳になれば子供は皆、王都の小学校に通うことが決まっていました。

 セイルはひょろっとした子供でした。パールパールが黒髪だったこともあって、セイルも黒髪でしかもくせっ毛もちでした。パールパールの髪をとかしていたとき、幼い頃はそうだったと話していた気がします。


 セイルの顔は私にはまったく似ず、パールパールの面影を残した、親の私から見ても凛々しい美少年でした。

 もっとも、それは私だけがそう思っていたわけではなく、仕事関係の方やご近所の婦人方からも大変モテていたようでした。

 獣人とのハーフであることも決してマイナスにはならず、耳の良さと、嗅覚の鋭さ、動体視力の良さも、獣人の良いところは受け継いでいました。

 耳と尻尾は隠しようがありませんでしたが、亜人が大勢いるこの王都ではむしろそれが普通だったのかもしれませんでした。


 私にべったりだったセイルが小学校に通い始めたのも、理由がありました。

 セイルには赤ん坊の頃から見せてきた『精霊魔法』、それをもう一度、学校に通って学び直したいとセイルにお願いしたのです。お金はもう十分貯まっていましたし、必要なのは時間でした。セイルの頭の中では、自分も学校、お父さんも学校と合点がいったのでしょう、渋々ながらも理解を得ることが出来ました。


 『精霊使いコース』は1年間を選びました。

 もうこれ以上は、自分に伸び代はないだろうとわかっていたからです。それでも、学びたいという気持ちは常に持ち合わせていました。

 いずれセイルも『精霊使い』になるだろうと思い、少しでも親として役に立てればと考えていたからでした。

 学校から帰ると、ふたりして今日の出来事を話し合いました。友達が出来そうだとか、先生が人族の独身女性だとか、人がいっぱいいるだとか。セイルは目を輝かせてその日1日のことを話し、代わりに私が『精霊』についての授業をしました。


 日曜日の午前中はギルドの頼まれ事をするため、あちこち動き回ることが多かったのですが、最初のうちは私の後をついて回っていたセイルも、やがて友人達同士で遊ぶことが多くなっていました。

 仕事は日曜の午前中で済ませられる仕事のみを請け負っていたので、午後からは自分の自由な時間をもつことができました。

 セイルが家にいるときは勉強を見てあげたり、王都の商店街の方に出かけたりしてすごし、セイルが午後からも遊びに出かけたときは、本を読んだり散歩したりして過ごしていました。


 セイルが7歳になり、私は一足先に学校を卒業することになりました。

 卒業試験での成果は上々でしたが、予想していた通り、新しい精霊との契約には至りませんでした。ですが、『土崩属性:4』『水流属性:6』『疾風属性:5』『光属性:6』と、得意分野である『土』が4に上がり、他に比べてそれほどだった『風』が5に上がっていました。


 おおよそ、クリスラガー族の限界上限というのが『3』であったことからして、私の喜び様は大変なものだったと思います。なんせ、その『精霊使い:特薦コース』の先生が、私と同じ『土崩属性:4』だったのですから。

 私はギルドに飛び込むと契約証明書を所長に見せ、抱き合って喜びました。

 所長にもいろいろとお世話になっていたこともあり、私が『精霊使い、特薦コース』に入れたのも、所長がギルドから推薦状を書いてくれたからでした。

 『土崩属性:4』クラスを取得できていれば、土地改良区の役員に選出される可能性があり、今より安定した生活が送れるはずでした。今まではギルドから仕事を請け負う冒険者でしたが、役員に抜擢されれば、この王都のために働けるのでした。


 結局、その年の選考会では役員からはもれましたが、準役員として勉強しながら働くことが出来ました。ですが、さすがにそういった仕事の現場にセイルを連れてくることは出来ず、朝早くから夜遅くまで働き、日曜日以外はセイルとほとんど顔を合わせる機会もなくなってきました。

 ですが、それが逆に良かったのかもしれません。私にべったりだったセイルも、適度な距離を置くことで私の仕事を知るようになり、それまで私がこなしていた家事を分担でこなすようになりました。

 セイルも今までは遠慮していた、友達のうちに夕食に呼ばれることが増え、たまの風呂では友達と遊んだことばかりを話すようになり、学校行事に顔を出せば、教師からは成績優秀とほめられました。

 私は、私が子供の頃におくれなかった学校生活をセイルが代わりに満喫してくれているように見えました。


 そして、セイルが10歳になったとき、私の父親が亡くなりました。

 私は親元を去ってから一度も顔を見せに帰ったことがありませんでした。

 一番上の兄とは年に何回か『飛翔文』で近況報告を行っていましたが、父の身体が悪いことは知りませんでした。

 私はセイルに少し早めの夏休みをとるように言い、王都の小学校へもそのように連絡を入れました。思えば、これがセイルにとって初めての外の世界になるだろうと、私は親心という奴で、王都でもちょっと高めな冒険者用の店に入り、防具一式を買いそろえました。

 私は獣人でしたので、フード付きのマントでも頭からかぶっていればそれで良かったのですが、セイルは私と釣り合う格好でなければ嫌だと言い張り、結局『風の法衣』とやらを二人分分割で買うことにしました。


 里までは、王都からの乗合馬車を途中まで利用し、そこから獣道に入りました。

 セイルはおっかなびっくり私の後を付いてきましたが、私がセイルと手を繋いで歩こうとすると、「お父さんの両手が自由じゃないと、僕まで危ない」と手を離し、私の風の法衣の裾を堅く掴んできました。

 私は息子の成長をひしひしと感じ、思わず涙が出そうになりましたが、ぐっと堪え、帰巣本能を頼りに故郷を目指しました。


 途中、何度か魔物に遭遇しましたが、王都お抱えの精霊使いとなった私に敵はありませんでした。命を奪うまでもなく、四つ足の魔物はすべて首だけ出して埋めてしまい、飛翔する魔物には、一度強風を正面からぶつけてやると、悲鳴を上げながら逃げていきました。


 セイルはすごいすごいと手を叩き、私は息子相手には謙遜せず、大いに胸を張りました。

 途中で幾度か休憩を挟み、お弁当を食べました。セイルは弱音を吐かずに歩き、夜は周囲に落とし穴を設置し、セイルと私はマントにくるまって眠りました。


 里は獣道からまるまる1日のところにあり、里の入り口の見張りに、ギルドの登録証明書と私の名と父の名を出して、里に入れてもらえることになりました。

 里の人口はやや増えた感じでした。皆、外から来た私に集まりだし、そして私の後ろに隠れていた息子に興味を抱きました。

 当たり前ですが、里には私と似た顔をしたクリスラガー族がたくさんいて、セイルは目を白黒させていました。

 私はセイルの頭から立派な兜を外してやり、立派な耳を集まってきた同族に見せてやりました。同族からはおお~と言ったどよめきが産まれ、息子は歓迎され、もみくちゃにされていました。


 私は集まってきた同族の中から長兄と次兄を見つけ出し、久しぶりの抱擁を交わしました。

 積もる話はあれど、まずは長老のところへと私たち親子は挨拶に向かいました。長老は昔とまったく変わらないよぼよぼなおじいちゃんで、私の帰郷を歓迎してくれました。

 長老の隣にはその息子であるバルディーズ様とその奥方様、そして可愛らしいお嬢さんと凛々しい坊ちゃんが座っていました。

 私は息子の出生と妻のことを簡単に話し、今は王都で働いている旨を伝えました。そして、セイルに自己紹介を促すと、息子は緊張した面持ちで自己紹介を始めました。

 王都の小学校に通っていること、今学校で流行っていること、部活のこと、将来就きたい【ジョブ】のこと。それはすべて日曜日の昼下がりに話し合ったことや、風呂場で背中を流してもらったときに聞いた事ばかりでしたが、私にはそれら全てが新鮮に聞こえ、思わず目元を押さえてしまいました。


 私が王都での暮らしを語っていると、長老の孫娘の――ラフィア様が奥方様にそっと耳打ちをしているのが見えました。奥方様はあきれた顔をして娘を見返すと、ラフィア様はさらに甘えたような仕草で奥方様に纏わり付き始めました。

 奥方様はすぐさまバルディーズ様に耳打ちし、バルディーズ様もまたあきれたような顔になりました。ラフィア様はすぐに席を立つと今度は後ろからバルディーズ様に纏わり付き、耳元でなにか囁きましたが、私は恐れ多くも長老と話しているため、他のことに気をとられているわけにはいきませんでした。


 えほん、とバルディーズ様は咳払いをされて、私は話を中断しました。

 長老は気付かずうんうんと頷き続けていましたが、バルディーズ様は構わずに私に言いました。


 「娘のラフィアが、君の息子のセイル君と遊びたがっているのだが、外で遊ばせてやっても構わないだろうか」


 私はまだまだ話を続ける気だったので、セイルに「遊んできたらどうか」と促してみました。

 セイルはラフィア様の方をちらりと見ると、「遊んできます」と素直に立ち上がりました。

 私は『失礼の無いようにな』と小声で呟き、セイルは大人顔負けの目配せで応えました。


 二人が外に出ようとすると、「僕も行きたい」とラフィア様の弟のラスタ様が立ち上がりました。

 私は子供は子供同士と思って、成り行きに任せようと黙っていましたところ、ラフィア様がラスタ様のところに駆け寄ってくると、なにか耳元でささやきました。今度は私も話していなかったので、聞こえました。


「あなたはいずれこの里の長老になるオトコでしょ? なら、ザイル様の異国の話を聞いて見聞を広めたらどう? こんな機会滅多にないわよ?」


 ラフィア様はそうおっしゃると、ラスタ様の両肩を押して座らせました。ラスタ様も何となくそういう気分になられたのでしょう、まっすぐに私を見つめました。


「じゃあ、行きましょうか。セイル様」

「……お父さん、行ってきます」


 私は手を引かれて部屋を出て行く息子に、なにか言葉をかけようと必死で言葉を探しましたが、なぜかなにも出てこず、息子の姿が見えなくなるまで戸を見つめていました。


「ザイル様、もっと異国の話をして下さい」


 驚いたことに場の空気を戻したのは、姉にこの場に留まるように説得されたラスタ様でした。バルディーズ様と奥方様はあんぐりと口を開け、長老はうんうんと頷き続けました。


 私は気を取り直すと、王都の文化のことを話しました。

 そしてギルドで学んだこと、王都での生活、冒険者としてこの国にある大きな町全てを回ったことなどを、なるべくわかりやすく話して聞かせました。

 ラスタ様は前のめりで聞きながら、いくつもいくつも質問を投げかけてきました。

 私はバルディーズ様と奥方様の顔色を窺いながらその質問に丁寧に答えていきました。

 途中でバルディーズ様が咳払いをすれば、その話は切り上げ、また別の話を始めるといった具合でした。それでもラスタ様には聞くこと全てが興味深かったようで、私の語り口にも熱が入りました。


 夜の帳が下り、そのままの流れで私は夕食を長老宅で頂くことになりました。

 セイルはどこで遊んでいたのかわかりませんが、夕食前にはきちんと戻って来ていました。

 私はセイルに、「楽しく遊んできたかい? ラフィア様に失礼はなかったかい?」と訪ねると、セイルは少しだけ口ごもりましたが、「仲良く遊んでいました」と照れたように笑うのでした。私が、そうか良かった、と話を終えようとすると、


「クリスラガー族の女の子は、どうしてあんなにも積極的なのですか?」


 と訪ねてきました。

 私の子供の頃は、同族の女の子の数が男の子の数を下回っていたので、とにかくモテたい一心で、三兄と競って女の子にアピールし続けたことを思い出しました。

 結局、いい返事はもらえず、しかも大人の事情で里を出て行った私に、息子にいいアドバイスなど出来そうにありませんでした。それに、それこそ大人の事情で、一族の長老の大事なお孫さんに、私の息子が釣り合うとは思いませんでした。


「相手に好意を持たれるということは、それだけでセイルが正しく生きてきたという証拠でもあるんだ。お父さんは、セイルがこの里で受け入れられるかどうか、すごく心配だったけれど、安心したよ。でも、流されるままに行動してはいけないよ。子供同士の遊びなら構わないけれど、ちゃんとこの里の掟と規律は守ること、いいね?」

「はい。わかりました」

「あと、バルディーズ様が私たちを夕食に招待してくださったんだ。ごちそうになろう。行儀良くするんだぞ」

「はい。…………お父さん、ラフィア様が僕の身体をべたべた触ってきたり、クンクン臭いを嗅いできたりするのも、普通のことなのですか?」


 私は息子の言葉に戸惑いましたが、子供同士と思い、


「ラフィア様は人族の姿をしたお前が物珍しいのだろう。くすぐったかったらくすぐったいと言って、やめて欲しかったらやめて欲しいと伝えなさい。でも、決してお前からラフィア様に触れることをしてはいけないよ」

「わかりました」


 息子は私の目を見てそう言いました。

 私はそれ以上はなにも聞かず、豪華な夕食会に招かれたこともあり、昼間の時とはまた違った語り口調で周囲を楽しませました。ただ、皆が私の方を向いて笑っているのに対し、ラフィア様だけは常に息子の方を向き、ニコニコと微笑んでいるのが少し気に掛かりました。


 バルディーズ様から「今夜は泊まっていくといい。この里には宿屋などないからな」とありがたい申し出があり、私はもともと泊まる予定だった長兄の家に行き、そのことを話すと「ずいぶんと気に入られたな」と家族談議が取りやめになったことを了解してくれました。

 明日の9時から墓参りに行こうという話にまとまり、次兄の家にも行って、そう告げると、私は長老宅に戻りました。


 長老宅での就寝中、蚊帳が持ち上げられ、誰かがごそごそと蚊帳の中に入ってくる気配を感じました。その影の目的は私ではなく、私の隣で眠る息子に用があるようでした。

 息子が揺すられるのを密着している私も感じましたが、私は声を発しませんでした。

 息子は一度寝入ると、小さな物音や私がトイレに立ったくらいでは起きず、だいたいは朝まで寝続けるのが通常でした。

 息子への揺さぶりは、息子がなかなか起きないのに苛立ってか、だんだんと大きくなり、最後には私をも巻き込むほどむちゃくちゃに揺さぶられました。それでも私は起きようとはせずに、事の成り行きを見守ることにしました。


 さすがの息子も目が覚めたと見えて、驚いたように上半身を起こしました。

 そしてそこには、ラフィア様が満足そうな顔で座っているのです。行儀のいい息子は布団の上で座り直すと、相手の出方を待ちました。

 息子自体なにが起こったのか理解できていないようでした。


「私のお部屋で一緒に寝ない? とびっきり美味しいお菓子も果蜜酒も用意してあるの」


 私は声を上げそうになりました。

 息子が「ラフィア様が積極的」と口にしていた意味がようやく理解できました。

 そうだ――息子の身体を触る行為も、匂いを嗅ぎ、自分の体臭を相手にこすりつける行為も、自分が体験してこなかったクリスラガー族の『求愛行動』ではないか、と。

 そして息子は、今まさに寝床へと誘われようとしている。息子もラフィア様も10歳と言うことで、子供だと思い込んでいた私の、性への未熟さを呪いました。

 さりとて、闇の中、私は微動だにできませんでした。

 それはまるでパールパールと過ごした安宿での情事を思い起こさせました。性の知識など全くなかった私にパールパールは覆い被さってきました。


 ローズローズでの事件の後、安宿で同棲を始め、3日目のことでした。私は訳も分からぬまま果て、真っ白になった頭の中でこれは何かと問い続けていました。私はセイルのおかげで親にはなれたものの、大人にはなれていなかったようでした。


 息子は闇の中、私を見ました。私は微かに首を横に振るのが精一杯でしたが、息子にはそれが理解できたようでした。


「ラフィア様のお部屋には行きません。僕はここでお父さんと寝ます」

「私が欲しくないの? 好きにしていいのよ? お菓子も果蜜酒もおもちゃも、何でもそろっているんだから。ねぇ、行きましょう?」

「行きません。ラフィア様はひとりで寝室にお戻り下さい」


 きつい息子の一言で、ラフィア様が怒り出してしまうのではないかと、私は密かに期待しました。

 大きな声を出せば、私はそれを機会に目を覚ますことが出来ます。そして、このことは内緒にしてあげるから部屋に戻りなさいと窘めることが出来るはずでした。

 ですが、そうはなりませんでした。ラフィア様はその時からすでに賢かったのです。ラフィア様は手法を変えてきました。私がそばにいるのにも構わず、息子にしなだれかかってきました。


「私、セイルのことが好きよ。セイルは?」


 息子と同じ10歳とは思えないほどの大人びた甘い声でした。

 なぜか、私の心臓がどきどきと鳴り、今にも破裂しそうでした。息子は答えを出し渋っているようでしたが、ラフィア様はさらに上を行くお方でした。

 ぴちゃぴちゃとなにかを音を立てて舐めるような卑猥な響きが耳朶を打ち始めました。


「やめて下さい。ラフィア様」

「ふふふ」


 息子は身をよじらせましたが、ラフィア様を突き飛ばすようなことはしませんでした。

 息子の震えが肌を通して伝わってきました。それでも私は身を固くしたまま動けませんでした。

 ふと、ラフィア様と目が合ったような気がしました。息子の首元に手を絡め、息子の首筋を舐めている時でした。ラフィア様の目が私を見つめ、スッと細まるのを見ました。赤い舌が息子の耳を舐め上げると、私にも囁くように言いました。


「いくじなし」


 ラフィア様は息子にキスをすると、蚊帳の外に出て行きました。しばらくの間、息子も私も呆然としていました。


「お父さん。ラフィア様は積極的なんだ。ああいうの、なんか困るよね」


 ぽつりと息子がこぼし、私は言葉が見つからず息子の頭を撫でました。

 一晩中撫で続けました。翌朝、用意された朝食を、長老を除いたみんなで食べました。

 やはり眠れなかったのか、息子は少し眠そうでした。ラフィア様は昨夜のことなどなかったかのように振る舞い、奥方様に甘えていました。

 ですが、時折見せる息子への視線は昨日のものとは違って見えました。臆病な私は、気付かないふりで、異国の朝食風景を語って聞かせました。


 私は礼を言って長老宅を出ると、里のあちこちを見て回りながら長兄の家に向かうことにしました。眠そうに目をこする息子の手を握り、里のなかを案内していると、ふと、背後から視線を感じました。

 振り返ると、ラフィア様の姿がありました。30メートルほど離れたところを、付かず離れずの距離を保ち歩いていました。

 声をかけようかどうか迷いましたが、眠そうにしている息子にこれ以上負担はかけさせられず、軽く頭を下げるに止めました。

 ラフィア様は私に気づかれたことにも声をかけられなかったことにも、なんら動揺した様子もなく、ただニコニコと私たちの後をついて回りました。


 クリスラガーの里といっても、さほど広くはなく観光目的にしていることもないので、こぢんまりとした家々が続くだけだったのですが、私には懐かしく、息子には物珍しく映ったことでしょう。

 私は息子に自分の幼少期のことを語って聞かせました。

 あの木は昔はもっと低かった。あの枝を折ったのは私だ。落っこちて泣いてしまった。屋根の上に登ってひなたぼっこした。そして――三兄とよく女の子のことで喧嘩した。

 息子は私を見上げると、「お父さんもそんな時期があったんだ」と驚いた様子でした。もちろん、モテなかったことは伏せておきましたが。


 そんなことを話している間中、ラフィア様の視線を感じていました。

 息子は気付かなかったでしょうが、30メートルという距離はクリスラガー族ですら足音が聞こえるか聞こえないくらいです。気付くためには、振り返るしかなかったのですが、息子は私の思い出話を聞くのが楽しいらしく、前すらよく見ていない状況でした。

 もしも息子がその視線に気付いて振り返れば、ラフィア様は偶然を装って同行を申し出るつもりだったのかもしれませんでしたが、息子は最後まで気付かなかったようでした。


 長兄の家の前には、次兄の家族も集まっていました。

 長兄は私とは8つ離れていて、私がこの里でくすぶっているときにすでに自分で家を建て、嫁をもらって、その時にはもう嫁のお腹には子供がいました。

 長兄はそんな感じで初めから自立した大人でしたから、里でも長老とバルディーズ様に次ぐ地位にいました。

 長兄には4人の子供がいました。

 男女男女とバランスが取れていて、本当に長兄らしいと思ったものでした。


 5つ離れた次兄は、昔から精霊魔法に秀でた秀才で、聞けば里でトップと並ぶ、12ある精霊のうち、7つの精霊と契約を果たしているとのことでした。しかも、全ての属性で『4』クラスだというのです。私は次兄を改めて尊敬しました。

 里では精霊魔法の教師として活躍していると話してくれました。

 次兄の家族は嫁の実家に一緒に住んでいると言うことで、子供は女女女と少し偏っていましたが、次こそ男だと、嫁の前で宣言して頭を小突かれていました。本当に次兄らしい感じでした。


 続いて私の番でした。

 私はまず兄の子供達に自己紹介すると、続いてセイルを従兄弟達の前に立たせました。

 反応は様々でしたが、すぐに打ち解けた感じになり、わぁわぁきゃぁきゃあとどこかに駆けていきました。


 私は昨日できなかった家族談議を、子供達が離れた隙に行うことにしました。

 私が里を離れてから生きてきた流れを話し、セイルのことを話しました。

 セイルについては兄弟も一応の理解はしてくれたようでした。兄たちも弟を里から追い出したような感じになったのを気に病んでいた様子でしたが、私が王都で大きな仕事を任されていることを知ると自分のことのように喜んでくれました。

 長兄からは、父親の具合が昨年辺りから急に悪くなったことを聞きました。父の最期は痩せて満足に歩けないほどよぼよぼだったそうですが、眠るように亡くなったということでした。


 私と三兄が里を出た当初は心配ばかりしていたこと、三兄が飛翔文を寄越さないと憤っていたこと、私の子供が人族であっても、顔を見てみたいと言っていたことなど、私はそれを聞いて涙を流しました。

 やはり一度は父にセイルの顔を見せに帰るべきだったと後悔しました。

 私は涙を拭き、息を整えると、最後の懸案を兄弟に伝えました。今まで長兄に飛翔文ですら伝えていなかったこと、それは三兄のことでした。

 私は国境越えの時に会った三兄のことを兄たちに伝えました。この里に帰ってくることを拒んでいた理由の一つに、父にこのことを知られたくないと思っていたからでした。父に会えば、必ず三兄のことも訪ねるに違いありませんでしたから、私が三兄が盗賊に身をやつしていたことなど、父に言えるはずもなかったのです。

 ……いえ、本当は父にすがり、兄弟そろって三兄を連れ戻す事を提案したかった。そうするべきだったのかもしれませんが、あのときはパールパールのことで頭がいっぱいでしたし、セイルに会ってからは子育て一色でした。

 むしろ、子育てを理由にそのことから目を背けたかったのかもしれません。今やっと兄たちの前で罪の告白が出来た思いでした。


 兄たちは目を閉じると、黙り込んでしまいました。私も告白したことによって気が抜け、昔と変わらない天井をぼんやりと見つめていました。


 やがて子供達がワイワイと騒ぎながら帰ってきました。

 私は自分のしょぼくれた顔を両手でこすると、頬を紅潮させ飛びついてきた息子を抱きしめました。息子とその従兄弟達はもうすっかり仲良くなっているようでした。


 私たちはぞろぞろと墓場までを大行進しました。

 セイルは人族でありながらもクリスラガー族に好かれるタイプの顔立ちのようで、従姉妹の女の子達からもみくちゃにされながら歩いていました。

 従兄弟の男連中にからかわれながらもセイルも楽しそうで、昨夜の出来事など忘れたかのようでした。そっと後ろを振り返ってみても、ラフィア様の姿はありませんでした。


 お墓参りを済ませ、また長兄の家に戻ると、みんなで昼食をとることにしました。

 子供達は私の話を聞きたがり、昨日長老宅で話したように語って聞かせました。もっとも、安易な人族社会への憧れを持たないように、危なくて怖いこともちゃんと教えました。

 子供達は真剣な顔で聞き、口々に質問なども飛び交いました。


 やがて子供達は、セイルに「精霊魔法を見せてあげるー」と言いだし、外へ飛び出していきました。私たち兄弟は目配せをして、まず次兄が席を立ちました。


「こらこら、先生の見ている前以外では使わないっていう約束だろう」

「じゃあ、先生の精霊魔法見せてー」

「見せてー」

「わかったわかった。いつもの場所に行こう。ザイル、この子に精霊は……?」

「セイルは、まだどの【ジョブ】が適合するか、調べていないんだ。12歳までは慌てさせないつもりなんだ。この子の人生だからね」

「そうか。……それがいいかもな。よしじゃあ、セイル。先生が今日中に、君に『精霊使いになりたいー』って言わせるくらい、すごいのを見せてあげるよ。ザイル、構わないだろうな?」

「先生すごいんだよー」

「ねー」


 従兄弟達に手を引かれながらも、セイルはなにも言わず目で私に訴えかけていた。


『お父さん。僕は“精霊使い”になりたいって。お父さんと一緒に仕事がしたいって言ったはずだよ』


 私はセイルに笑顔で手を振って送り出しました。その後を、奥様方も付いていきました。

 残された私と長兄は果蜜酒を酌み交わしながら、三兄のことについて話をしました。

 結論として、三兄はクリスラガー族を追放された『咎人』と言うことになりました。

 掟では、里を飛び出し、盗賊に身をやつした者は死刑に処すと定められていました。クリスラガー族の名を汚さないためです。ですが、長老にはそのことを報告していなかったため、三兄のことは、兄弟間だけの取り決めになりました。これならわざわざ討伐隊を編成しなくてもすむからです。

 実際、10年以上も昔の話ですし、三兄も生きているのか死んでいるのか、それすらも確かめる方法がありません。つまり、兄弟間の取り決めも、ただの『黙認』にすぎませんでした。


 結論が出てからも、私と長兄は無言で果蜜酒を酌み交わしましたが、私はふいに悲しくなり、涙を流しました。涙は後から後から流れ、止まりませんでした。

 三兄が私と別れた後、どういう経緯で盗賊の一味に加わったのか分かりません。ですが、あのとき確かに、三兄は私を助けようとしてくれていたのですから。


 夕食は長兄の家でそのまま戴きましたが、寝る場所は実家、つまり亡くなった父の住んでいたところで休むことにしました。

 たまに長兄の嫁が掃除に来てくれていると言うこともあり、とりあえず男二人で寝るだけなら十分な感じでした。

 物置から蚊帳をもってきて吊ると、少しかび臭い父の布団に息子とくるまりました。

 明日は朝食の後、長老のところに行って挨拶をして、それからまた丸1日かけて森を抜け、今度は馬車など使えませんから徒歩で王都を目指す、そう息子に伝えました。息子はわかったと言い、その日は早めに休むことにしました。


 蚊帳が開く気配がして、私はまさかと目を覚ましました。

 そしてそこには息子をじっと見つめるラフィア様の姿がありました。ラフィア様は私と目が合うと、すっと目を細めて微笑みかけてきました。


「こんばんは。ザイル様」


 私は昼間三兄のことで、悩んでいた霧も晴れたこともあり、ラフィア様の奇行ももはや捨て置けないと、私は彼女を叱るため起き上がろうとしました。


「咎人」


 彼女の口から信じられない言葉が飛び出してきて、私の身体は金縛りのように動けなくなってしまいました。


「ザイル様のご兄弟のひとりが、下賤な盗賊に身をやつしてしまっているなんて、残念です」


 よよよ、と芝居掛かった仕草で泣き真似をするラフィア様に、私は指の先から足の先まで血の気が引くのを感じました。


「私がお父様に話せば、フェルゲバスロトーハン家は『咎人』を産んだ家と言うことになりますよね。私もセイル様の叔父がそのような方であって欲しくありません。フェルゲバスロトーハン家は素晴らしい方ばかりですから」


 私はラフィア様をどこかで子供と見くびっていたのかもしれませんでした。せいぜい大人びた賢い子供だと。

 でも、実際は違いました。彼女は幼く見えるだけの大人だったのです。

 ラフィア様が私たちの後を付けていたのは、セイルと遊びたがってのことではありませんでした。標的は私で、丸1日、声も立てず、気配も感じさせず、なにも食べず、トイレも行かず、私の声が聞こえる範囲でただひたすら弱みを見せるのをジッと待っていたというのです。


「ふふふ。ザイル様が三兄様のことを話したとき、私うれしくて、ついつい漏らしてしまいました。赤ちゃんみたいで恥ずかしいわ。セイル様には秘密ですよ」


 ラフィア様は人差し指を口元に当てると、しぃーっと、まるで子供にするような仕草で私を見つめました。

 私は彼女の底知れぬ恐ろしさのあまり、小さく頷いてしまいました。

 ラフィア様は満足そうに微笑むと、セイルの手をふとんから取りました。そして、くんかくんかと匂いを嗅ぐと、


「雌臭いわ。セイル様、酷いにおいよ」


 そう言って、ラフィア様はセイルの腕をぺろぺろと舐め始めました。

 羞恥心はないのか、親である私の目の前でラフィア様は一心不乱にセイルの腕を舐め続けました。

 指も爪の間も赤い舌を使ってぺろぺろと舐め回しました。ただ、肘から下は長袖だったこともあってか、それ以上下は舐めることはせず、左手の次は右手を舐め始めました。

 ぴちゃぴちゃと音を立てて、女の貌が目の前を揺らぎ、それがパールパールと時折重なりました。


 途中、ラフィア様は息子の指を舐めるのをやめると、私に向かって妖艶な顔を向け、こう言いました。


「ザイル様も女性がご入り用でしたら、ひとり用意させますけど。ふふふ。ええ今夜にでも」


 この子は本当に息子と同じ10歳なのかと私は本気で疑いました。

 私が微かに首を横に振ると、そうですかと、また指を舐める行為に戻っていきました。

 小一時間ほど経ったでしょうか、ラフィア様は満足げに微笑むと息子の手を布団の中に戻し、今度は息子に覆い被さるようにキスをしました。

 10秒ほど経って顔を上げると、ラフィア様の唇から透明な糸が垂れていました。


「来年、同じ時期にまた来てくださるというのなら、今夜はこれで引き下がりましょう。ザイル様、私と約束して下さりますか?」


 恍惚とした女の表情と、私を支配下に置こうとする大人の目が入り交じった貌で、彼女は私に契約を求めてきました。私はようやく言葉を思い出し、彼女にこう言いました。


「また来年も二人で来ると誓います。ですが、これだけは大人としてあなたに言っておきます。セイルの人生はセイルに決めさせます。どうしても息子に好かれたいのなら、好かれる女性に。息子に愛されたいのなら、息子に愛される女性になるべきでしょう。力ずくで身体を奪い、言葉を引き出したとしても、息子はいずれあなたから離れていきます」


 ラフィア様は一瞬きょとんとした顔をすると、ふふふふふふ、と目元に無数の皺を寄せて笑うと、


「そんなこと、重々承知していますわ。……では、ザイル様、セイル様、お休みなさいませ」


 ラフィア様はぺこりと頭を下げると、振り返らず部屋を出て行きました。

 私は魂の抜けたような気持ちになり、胸が苦しくて悲しくて仕方がなくなり、息子を胸にかき抱きました。

 すると、眠っていたはずの息子が、私の胸に頬をすり寄せてきました。


「心配しなくてもいいよ、お父さん。彼女のことは僕に任せて。考えがあるんだ。明日出発する前に、少しだけ彼女と二人だけで話す時間を下さい」


 私は戸惑いましたが、息子は私の背に手を伸ばし、子供をあやすようにとんとんと優しく叩いてくれました。


「大丈夫、大丈夫。お父さんは僕が守るから」


 私は息子の言葉と優しい背中の振動のおかげで次第に瞼が重くなり、いつしか深い眠りへと落ちていきました。


 朝、目を覚ますと、そこに息子の姿はありませんでした。私は慌てて外に飛び出し、里中を捜して回りました。

 それでも見つからず、もしや息子は長老宅に誘い込まれたのかもしれないと身震いしました。

 ああ、彼女は『今夜は引き下がる』と言った。夜が明ければ、『今夜』ではなくなると、どうして気がつかなかったのか。私は頭を抱え、フラフラと実家の方に戻って来ました。

 もしかすると、息子はもうあそこから帰ってこられないかもしれない。帰ってきても、それは以前の息子ではないような気がしました。そう考えると、身が引き裂かれる思いがしました。


 水でも被ろうと実家の裏にある井戸に向かいました。すると、そこには息子の姿がありました。

 息子は夜寝たときと変わらない寝間着を身につけていましたが、地面でも転げ回ったのかひどく汚れていました。ここにいたのも、きっとそれを洗おうとしていたのでしょう。

 それになにより、息子の唇の端が切れてうっすらと血が滲んでいるではありませんか。私は息子の名を呼ぶと、駆け寄り、その身体を抱きしめました。


 私は胸がいっぱいになり、この手を決して離さないと心に誓いました。息子は苦しがりながらも私を受け入れ、またトントンと背を優しく叩きました。


「朝の方が人目がないから、ラフィアと落ち着いて話が出来ると思ったんだ。出発時に時間をもらうのも気が引けたからね。でも良かったよ。なんか泥だらけになっちゃった」

「やっぱり、ラフィア様と会ってきたんだな?! それでこんなに泥んこにされて」

「泥んこはラフィアも一緒だよ。あの子今頃お風呂に入っているんじゃないかな。一緒にどうって誘われたけど、ちゃんと断ってきたよ」


 息子がラフィア様のことを呼び捨てにしていることに気がつきましたが、私は気にせず言いました。


「……もう2度とこの里には来ない。もうお前には怖い思いはさせない。お前を守るためならお父さん、どんな罰でも受ける覚悟だ」

「勘違いしないで、お父さん。ラフィアとは最後までちゃんと話して和解したよ。僕の思いも伝えたし、彼女の考えも聞いたんだ。そりゃ、取っ組み合いの喧嘩にもなったけど、僕たちは子供だからそんなの当然だよね?」

「取っ組み合いって、ラフィア様に怪我でもさせたんじゃ……」

「平気だって言ってたから大丈夫と思うよ。それより、お父さん。僕は来年もまたこの里に帰ってきたいんだ」

「ラフィア様にそう言われたのか?」

「違うよ。これは僕の意思だ。信じてくれる? お父さん」


 私は息子の目を見ました。その目は決して誰かに支配された暗い目ではなく、なにか目指すべき目標を決めた強い意志が込められていました。


「息子のことを信じない親がいるものか。……わかった。また来年も来よう」

「ありがとう、お父さん。お父さんは昨日、『息子の人生は息子が決める』って言ったよね?」

「あ、ああ」

「僕の人生は僕が決める。ラフィアはもちろん、お父さんにも僕の将来は決めさせないよ。……僕の【ジョブ】は僕が決めるんだ」


 息子の私を抱く手に力がこもりました。いつの間にこんなに大きくなったのだろうと、私は息子の成長を素直に喜ぶことにしました。真っ直ぐだったパールパールに似たのかもしれないな、と私は心の中でそう思いました。


 長兄の家で朝食を呼ばれた後、長老の家に別れの挨拶をしに行きました。長老は昨日から体調が優れないというので、バルディーズ様と奥方様だけに会い、来年の帰郷を約束すると外に出ました。

 外では長兄次兄が待っていました。息子は従兄弟達に囲まれながら、来年もまた来ると約束していました。

 私たちは門兵達と握手を交わし、お土産を手に里の外に出ました。

 ラフィア様の姿が最後まで見えなかったこともあって、ラフィア様に別れの挨拶はいいのかと息子に聞くと、ラフィアはそんなタマじゃないよと言いました。なんのことかと思いましたが、里を出て10分も歩かないうちに、先回りしていたのか、ラフィア様が木により掛かりながら私たちが現れるのを待っていました。


 息子がラフィア様に駆け寄り、私の見ている前で熱い抱擁を交わしました。

 昨夜のように唇を交わすことはありませんでしたが、確かに息子の方から彼女の身体に触れたのでした。


「じゃあ、行ってくるね。また来年、会えるのを楽しみにしているよ」

「はい。いってらっしゃい」

「飛翔文を送るから。お金が掛かるから頻繁には送れないけど」

「初めの一度だけで結構です。後はこちらの飛翔文で対応できますから」

「ありがとう。元気で」


 息子は一度ラフィア様から身を離すと、彼女のおでこにキスをしました。そして彼女の両手を握り、もう一度、「元気で」と言いました。

 ラフィア様はうれしそうに微笑むと、「あなたも息災で。お帰りを心待ちにしています」

 そして、ラフィア様は私に向き直ると深く頭を下げました。


「嫌なことをしてごめんなさい。もうしませんから」


 ラフィア様のあまりの変わりように私が呆気にとられていると、息子に肘で脇腹を小突かれました。私は我に返り、


「息子をよろしくお願いします」


 そう口走っていました。ですが、やはり恐れ多いと思い、私は慌てて訂正しようとしましたが、紅潮して笑い合う二人を見て私は口を閉じることにしたのです。



 ザイル氏がそう言い終わるのと同時に、前の方から大きな声で「休憩にせんかぁー?」と年寄り達の声がした。

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