テントウムシ
隆貴が不機嫌そうに「おせーよ」といったが茉麻だけ三駅離れた高校にいたことは分かっているはずだ。しかもメールが来たのは現代国語の授業中で、出席日数があぶなく抜けることが出来なかった。それも返信で伝えたはずなのだが読んでないのかもしれない。
「ご飯まだでしょ。食べなよー」
史乃が新しい割り箸を茉麻に差し出してきた。いただきますと、史乃の横に座り割り箸を割る。今日は昼食を抜いたからどんなものでもおいしそうに見える。
「おい、勝手に座んなよ」
隆貴はソファーに座り見下すように茉麻をにらんだ。二人きりの時はそうではないが、この友達がいるときはとにかく茉麻を小間使い扱いしたがった。
「いいじゃん、私がやるよ」
史乃はマンションに置きっぱなしにしている茉麻のエプロンをつけてキッチンに立つ。急に食欲がなくなった。
「おまえ、ほんとに使えないな」
と、隆貴に小突かれる。冷蔵庫から飲み物を出したり、冷凍食品を解凍する程度なんだから誰でもできる。エプロンだって本当は必要ないのだ。
「そうそう、彼女なんだからさー。頑張らないと捨てられちゃうよ」
すでに酔っぱらった顔をしている魁人が肩を撫でてくる。振り払うと「うわー、こわいー」とおどけて見せた。
「ノリ悪いねー。高校で厭なことあった?」
「ねえよ」
と隆貴が先に答えた。
「こいつ友達いねぇもん。なー」
「そんなこと言っちゃ可哀そうよ。女子高生は悩み事が多いのよ」
訳知り顔の史乃が茉麻の前に麦茶を入れたグラス置く。茉麻は黙って酢豚を食べ始めた。
「なあ、
それまで黙々と枝豆を食べていた晴彦が隆貴に言った。勝明とは四人と同じ大学の男子だ。茉麻も隆貴の部屋で会ったことがある。
「勝明君がどうかしたの?」
史乃も何も聞いていないようだ。
「あいつ死んだんだぜ」
軽く、本当に軽い口調で魁人が言った。天気の話をするかのように。
電子レンジが鳴って、史乃が解凍されたから揚げをプラスチックの容器から皿に盛りなおした。うまそうと魁人がさっそく箸をから揚げに突き刺す。レモンかけない? と晴彦が言うと、私マヨネーズ派と史乃が反対する。から揚げぐらいで話をそらされた勝明が不憫に思え、茉麻は
「勝明さん、なんで死んだの?」
と隆貴に聞いた。
「遭難だって。今年の二月に」
もう五か月も経っている。最後に会ったのはいつだっただろう。皆で行った初詣はいたはずだ。
「いつの間にかいなくなってたよな。気付かなかった」
魁人の言い草にドキッとして表情を見たが、冗談を言ってるようでもない。それに誰も指摘をしなかった。茉麻も何も言わずにから揚げに箸を伸ばした。
「雪山に上って、そのまま遭難したって」
隆貴が鞄から一枚のCDを取り出した。ラベルは白いままで何も書かれていない。
「雪山で勝明が死ぬ前に録音してたのをもらってきた」
「えー。何それ」
史乃が可愛く眉を寄せる。
「勝明の親、説得するのに苦労したぜ。怪談代わりに聞こうぜ」
隆貴は得意げに言うと誰の返事も待たずにオーディオの電源を入れてCDをセットした。勝明の死が夏の肝試しのネタにされる。茉麻は言いようのない不安に駆られた。別に勝明がかわいそうとは思わないが、自分が死んだらこの人たちにどういう扱いを受けるのか考えてしまう。口に入れたから揚げから浸み出す油が気持ち悪い。
『……標高五〇メートル』
勝明の声が突然始まった。
『ちょっと雲の動きが怪しいけど、まずまずの天気』
史乃がくすくすと笑う。
そのあとは同じような内容ばかりが同じ調子で入っている。自分で決めた区切りで記録しているらしい。茉麻には理解が出来ないが、なんとなく勝明がそれを楽しんでいるのは感じた。時折入る風の音。水の音。それ以外は勝明の声だけで十分もしないうちに隆貴があくびをし始める。
「最後の方まで飛ばせば?」
茉麻が提案すると「そうだなぁ」と眠そうにうなずくだけで動かない。晴彦が黙ってリモコンを操作する。三十分ほど飛ばしただろうか。ブツッと切れるような音の後、先ほどまでとは違い大きくて耳障りなノイズが入った。
『視界ゼロ。山小屋まではたどり着けなかった』
ノイズに紛れて勝明の声。吹雪になって身動きが取れないという内容の言葉がなんとか聞き取れる。面白くなってきたと言わんばかりに魁人が身を乗り出す。
『なんでこうもうまくいかないかな……』
自嘲気味の勝明。眠らないようにか、ぼそぼそと独り言を言っている。愚痴だらけだが時々自分を励ますように楽観的な救出劇を語りだしたりした。
「このまま死ぬわけだ」
隆貴がうれしそうに言う。そうか、と茉麻は思う。これは本当に人が死ぬ記録なんだと。勝明はきっと死ぬまで独り言を言い続けるのだろう。取り留めもない、つまらない、誰に聞かせるわけでもない独り言を。声が途切れた瞬間が死んだ瞬間だ。茉麻はそっと制服の半袖越しに二の腕をさすった。他の四人も息をひそめてその瞬間を待っている。早く死ねと茉麻は思った。こんなつまらない茶番は終わらせて。すでに死んだ人間だが、そう思わずにはいられない。
『くそっ一人でしゃべるのも限界があるな』
『じゃ、俺としゃべろう!』
その場にいた五人全員がびくりと肩を震わせた。明らかに勝明の声ではない、その声は吹雪に影響されずはっきりと聞こえた。
『あ、ああ。でも、いいのか』
困惑しているような勝明。
『どうして? な、勝明って好きな女子とかいるの?』
それに対してまるで修学旅行で浮かれた高校生のようなことを言う男の声。
「ね。勝明君、一人で登ってたよね」
「黙ってろ」
史乃のつぶやきに隆貴が怒鳴った。首をすくめる史乃。隆貴の表情から笑いが消え、しがみつくように音に耳を澄ませている。
『いるけど』
『マジで? 誰誰? 俺の知ってる人?』
『うん、でも、彼氏いるし』
『マジかー! きついなぁ』
『きついよ。ほんと、うん』
『どうした? 眠い?』
『うん』
『じゃ、寝ろよ。起こしてやるからさ』
『いや、でも』
『寝なきゃ体に悪いって! ほら子守唄歌ってやるよ』
『はは、なんだよそれ』
もう一つの声は本当に子守唄を歌い始めた。吹雪の音と調子の外れたアカペラ。普通の時に聞いたのならきっと眠くならないどころか不快でしかない子守唄も、短い歌を二回歌い終えて徐々に声は小さくなり強い風の音だけが残った。勝明の声も、体を動かしたときに聞こえる衣擦れの音も聞こえない。
「なにこれ? 気持ち悪っ」
魁人がわめく。明るい声を出そうとして失敗したようだ。誰も返事をしない。だが確かに「気持ち悪い」としか言いようのないものだ。突然出てきた男が勝明の死の一線を越えさせたのだ。ビルの屋上のギリギリに立っている人物の背中をポンと押すように。
しかしそれよりも茉麻は声に聞き覚えがあるのが気持ち悪かった。誰だか思い出せないが知っている。思い出せそうで思い出せない。
「これさ、隆貴が作ったとかねぇよな」
沈黙に耐え切れず魁人が再びつまらないことを言う。
「そんなわけないだろ」
隆貴の表情は硬い。
「こんなもん作って、俺や勝明に何の得があるんだよ」
「えー、さっき隆貴も言ってたじゃん、怪談だって。本当は勝明だって生き て……」
「死んでたよ」
晴彦が遮るように言う。
「俺、葬式行ってきた」
「え? 俺よばれてないけど?」
と魁人が隆貴の顔を見る。
「俺も呼ばれてない。晴彦は高校で部活一緒だったからだろ」
史乃以外の三人は高校生の時からの友人だ。こういう冗談が嫌いな晴彦が否定するのだからこれは本物なのだろう。誰もが口を閉ざしたので茉麻が発言をしようとした、その時だった。
風の音だけの録音から再び声が出てきた。
『お疲れ様でーす!』
はじかれたように全員がオーディオを見る。
『勝明君ご臨終ーでーっす!』
ちーんと口で言う。
『それじゃあまた来週―。シーユーアゲイン!』
ぶちっと音が止まり静かになった。録音はここまでのようだった。
誰かが勝明が死んで動かなくなってからレコーダーを停止させたのだ。やはりそこに誰かいた。
「あのさ」
茉麻が声を出すと全員の視線が集まった。
「こ、声。この声聞いたことある」
その時、隆貴が反応したのを見逃さなかった。
「知ってる人ってこと?」
聞いてきたのは史乃だ。
「知ってる人っていうか。聞き覚えがあるっていうか」
最近ではない。思い出の片隅にこの声の持ち主がいる。その程度のものだ。思い出そうにも取っ掛かりがない。さっきの反応から隆貴も知っているのならひょっとしたら共通の知り合いなのかもしれない。
「隆貴も知ってる人かも」
「俺? 知らねぇよ」
吐き捨てるように返され茉麻は言葉に詰まった。共感してもらえるものだと思っていた。
「何々? 怪しいじゃん」
魁人が笑い出した。意味が分からず見返すとまた肩を撫でられる。
「そんなこといってさぁ、実はかまってほしいだけだったりして?」
「え?」
「適当に思わせぶりなこと言っとけば隆貴がかまってくれるって思ってる? カワ イーねぇ」
顔が熱くなるのが分かった。嘘までついて自分を見てほしいと思っている子ども扱いされているのだ。
「違う、本当に」
「うぜぇなあ」
茉麻の声にかぶせるように隆貴が悪態をつく。ご丁寧に舌打ちまでつけて。史乃も「もう! 怖いこと言わないでよ!」と諭すように言ってきた。言い返したところで無気になっていると思われるだけだ。
「俺も聞き覚えあると思う」
その時晴彦が口を開いた。
「はぁ? マジで?」
魁人が不服そうなのは、茉麻をからかって勝明の死から話題をそらしたかったからだろう。空気読めよと言わんばかりに晴彦に詰めよる。
「あれじゃない? 五、六年前によくテレビで話題になってた若手社長、捕まってから全然噂も聞かなくなったけど」
「あー、あれな。確かに似てる」
意外にも隆貴が同意した。
「その頃、茉麻ちゃん小学生じゃん。よく覚えてたね」
全然違う。そんな人物覚えてないし知らない。たぶん晴彦は茉麻をかばってくれたのだろう。よけい惨めになるだけなのに。
「もういいや、酔いがさめちまった。お前、酒かって来いよ」
隆貴は自分の長財布を投げてよこしてきた。声の正体についてこれ以上隆貴に聞いても不機嫌になるだけだろう。
「分かった」
と言って外に行こうとすると史乃がついてきた。
「未成年一人じゃ買えないよ。私も一緒に行くね」
振り返って残った三人をみたらおかしな空気になっていた。魁人はいつも通りつまらないことを言っているが隆貴と晴彦がお互いを意識しているのかしていないのか目を合わせないようにしているようだった。
しかし近くのコンビニでビールやチューハイと乾き物を買って帰ると、いつもの飲み会の雰囲気に戻っていた。茉麻はいつも通りウーロン茶を飲んで隆貴が茉麻の知らない大学の話題で盛り上がっているのを見ていた。酒を飲んだ隆貴は見た目こそ変わらないが小突かれたり腕をつかまれたりしたらいつも以上に力が入っているのが分かり少し怖い。魁人はすぐに酔いつぶれる。史乃はふわふわとした足取りになり誰彼かまわず引っ付いて回る。茉麻にとってこれが一番不快で、すでに十回以上キスされていた。晴彦は少し饒舌になる程度だ。
「そろそろ終電じゃないか」
晴彦が自分のスマホを確認しながら茉麻に言った。
「今日は泊まります」
努めて不自然にならないように言ってみたが隆貴に聞きとがめられた。
「未成年は帰れ」
「でももう暗いし。皆も泊まるんでしょ?」
準備していたセリフもスムーズに言えたのに、隆貴は押し付けるように茉麻に鞄を持たせた。
「駅まで送ってやるから早くしろ」
あ、ちょっと優しい。これだけで嬉しくなってしまうのだから仕方ない。機嫌が悪くならないように茉麻は素直に隆貴について外に出た。
空に夏の星座が光っている。あの星は何て名前だっただろう。こんな話をしても隆貴は面白がらないとわかっているから茉麻は黙っていた。左手を隆貴の右手に重ねると握り返してくれた。
「一回くらい泊まってもいいじゃん」
実は鞄の中に替えの下着も歯ブラシも準備していた。引かれるといやだから誰にも話していない。
「お前が高校卒業するまで待ってやってるんじゃん」
「だからさ、泊まるだけなら全然健全でしょ?」
隆貴が笑う。
「健全なお泊りじゃ我慢できないから言ってんだろ」
不満はあるけどこういういい方されると茉麻の気持ちは満たされてしまう。大事にされてる。二人の時はそれを惜しげもなく教えてくれる隆貴が好きだ。
「それにお前受験生じゃん。勉強第一」
現実的なことを言われてうっと息が詰まった。
「全然勉強してないから、無理かも」
「またまた。お前の兄貴も優秀だったじゃん」
またもや思い出したくもない現実を思い出さされ、わざとかと茉麻は隆貴を見上げた。しかし隆貴は優しく笑い返すだけだ。何も考えてないのかもしれない。
駅に着くと改札の前で隆貴に抱きしめられた。酔っているからいつもよりも締め付けられて痛かったが、離れるのが嫌で茉麻も腕を回す。顔を上げると触れるだけのキスをされる。しばらくそうして抱き合って、またキスをした。
「ね、うちの近くまで送ってよ」
いい雰囲気と判断して少しわがままを言ってみたが却下された。
「早く帰らないと史乃と晴彦がやり始めるだろ」
「えー。それはないでしょ」
「いやいや、あいつはかなりのむっつりだからな」
晴彦とむっつりという言葉がミスマッチで茉麻は笑ってしまった。
「じゃ、家ついたらメールしろよ」
「うん」
別れを惜しみつつ茉麻は改札を通った。何度か振り返って手を振るとちゃんと隆貴は手を振りかえしてくれた。
電車移動の間、隆貴のぬくもりを噛みしめていた。が、電車が家の最寄駅に着くと不意に肌寒さが襲ってきた。頭の隅に追いやっていた勝明の録音も相まって震えが走る。改札を出て周りを見渡すがタクシーもない。歩いて十五分ほどだが住宅街のせいか他に誰もいなかった。
どうせいつも通り何か起きることはないと思いつつも、どこかで次は自分が事件に巻き込まれるかもしれないという予感がぬぐえず足早に歩き始める。
帰路の半分くらい歩いたころに、ふと後ろから足音が聞こえてきた。最初は気のせいかと思った。が、その足音がはっきりと駆け足に変わる。茉麻は逃げ出すことも声を上げることもできずその場にしゃがみ込み体を固くした。
「あれ、茉麻ちゃん?」
足音が直ぐ傍で止まり、意味もないのに息を止める。勝明の録音が脳内で再生された。
『ご臨終ーでーっす!』
いやだ、やだやだやだ。
「ちょっと、大丈夫かい?」
足音の男が焦ったような声を出す。茉麻は恐る恐る顔を上げた。
「あ、幸田さん」
スーツ姿の五十代の男が茉麻の顔を覗き込んでいた。隣の家のご主人だ。
「ごめん、後姿が奥さんに見えたから、つい走ってきちゃって。驚かせてごめん」
気の弱そうな幸田は歯切れの悪い言い訳を並べて謝ってきた。いったい制服姿の女子高生と自分の奥さんをどうやったら間違えるというのだろうか。
「あの、もう大丈夫です」
謝り続ける幸田が多少疎ましくなってさっさと立ち去りたくなった。しかし帰るべき家が隣なので歩き出したら並んで幸田も歩き出した。
「いやしかし、ここ数年全然あわなかったね。中学に上がったくらいからかな。今は高校生だよね? 何年生かな」
幸田は深夜とは思えないテンションで茉麻にしゃべりかけてくる。邪険にするわけにもいかず「二年です」と答えておいた。三年と答えて受験がどうの進路がどうのと話を広げられてもかなわない。しかし幸田は一向に構わず
「花の女子高校生だね。なんというか大人になった。きれいになったというべきかな。茉麻ちゃんはやっぱりお母さんに似ているね」
とセクハラまがいのことまで言い出した。さっき大声を上げてやればよかったと後悔したが、家まで一人じゃない安心感を思えば我慢する気にもなった。
坂道を上り先に幸田家の白い壁が現れ、その後ろに茉麻の、真鍋家のうっそうと茂った庭が現れる。
「そういえば、こんな時間になんで……」
幸田が言いかけるのを無視して茉麻は小走りで家に入って鍵をかけた。あからさますぎただろうか。だがもともと幸田家とはほぼ没交渉なので多少無礼をしても気にすることはない、たぶん。
茉麻は両親に気付かれないようにそっと靴を脱ぎ自室に入った。さっそく隆貴にメールを送る。返信はないがいつも遅いので気にならない。風呂は朝にしようと制服を脱いでパジャマに着替えていると、ふとさっきの気持ち悪い幸田の声と勝明の録音に入っていた謎の声が重なった。
最初は気分が高ぶった男の声だからかと思ったが、考えれば考えるほど似ている。布団に入っても目が冴え、茉麻は声のことばかり考えていた。あの声は若かった。隆貴たちと同じくらいの男の声だった。
そうなると茉麻は一人の少年を思い出さずにはいられなかった。胸が締め付けらるような気持ちのまま無理やり眠ったら、昔の、初恋の夢を見た。
茉麻はその時まだ十歳にもなっていなかっただろう。赤いワンピースを着て幸田家の庭にいた。幸田家の庭は美しかった。季節ごとに色とりどりの花が咲いていた。茉麻の母親も対抗して庭に花の咲く木や苗を買ってきて植えていたが一度だって花を咲かせたことはなかった。だから茉麻は幸田家の庭の方が好きだった。その時咲いていたのはパンジーだった。可憐な花には可愛い蝶々が集まってくる。その風景をよくうっとりと眺めていた。
そんな茉麻の後ろからその少年は声をかけてきた。
『テントウムシが止まってるよ』
少年はそっと茉麻の髪に触れ、小さなナナホシテントウを優しく摘み取った。
『全然気が付かなかった』
少年に触られたことで茉麻はドキドキした。少年はにっこりとほほ笑み、テントウムシを掌に乗せ直すと落とさないようにゆっくりと人差し指だけを立てた。テントウムシはしばらく手の上をさまよっていたが、人差し指を見つけて六本の足をせわしなく動かし爪の先まで上ると羽を広げて飛び立った。
『かわいいね』
茉麻が言うと
『そうだね』
と少年はうなずいた。茉麻は花壇の中から別のテントウムシを探し出しそっと自分の掌に乗せてみた。同じように指先から飛び立たせてみたかったのだが、テントウムシはさっさと飛び去ってしまった。
『難しいね』
少年に言うと
『テントウムシの気持ちがわかれば簡単だよ』
と不思議なことを言った。
『テントウムシの気持ちなんてわからないよ』
『それがね、わかるんだ』
少年はいたずらっこのような顔になった。たぶん茉麻もおんなじ顔をしているのだろう。ふたりで顔を寄せ合う。
『テントウムシはね、太陽の方向に行く習性があるんだ。指先を上に向けたら登って行くのはそのためだ』
『私のテントウムシは飛んで行っちゃったよ』
『それはね』
少年は茉麻の手を取った。
『こうやって、影を作って』
そのときすりガラスの引き戸が開いた。そこには首が少し骨ばった女性が立っていた。きりっと眉を吊り上げて少年を見ている。
『
女性が無機質な言った。
『日焼けするわ。早く家に入りなさい』
少年、柊哉は少し困ったような笑顔を茉麻に向け『またね』と小声で言ってから女性に促されるまま家の中に入っていしまった。その女性は柊哉の母親だ。彼女と茉麻は話したことがなかった。茉麻は話せるとも思っていなかった。長い間女性には茉麻の姿が見えていないのだと思い込んでいたからだ。この時も女性は茉麻に一度も視線を向けていない。
だからその後、茉麻は自分の母親から幸田家の庭に勝手に入るなと命令を受け、不思議に思った。母はいったいどこから見ていたのだろう。花もつけずに無駄に伸びて手入れもされない樹木があるため真鍋家からは幸田家の裏庭は見えないはずなのに。ただ単に柊哉の母親が文句を言ってきただけなのだろうが、茉麻の母親はそういう理由などは一切茉麻に告げず、命令だけする。怒られるわけではない。この頃すでに両親は兄にしか関心を持っていなかった。茉麻は両親と兄に迷惑をかけなければ何をしても何も言われなかった。ちょっと遅刻があっても忘れ物をしても、担任から連絡がない程度ならばそれでよかった。
小さい茉麻は少し寂しかったが、家族とはそういうものだと思っていた。
柊哉の夢が覚めた後はこっちが現実だと考えたくなくて一時間ほどベッドの上でゴロゴロとしていた。だが平日だということを思い出し、起き上がって時計を見た。すでに十時を過ぎている。両親はとっくに出社したのだろう。茉麻も自分がすぐにでも登校したほうがいいのは分かっていたが、シャワーは浴びたいし空腹感もある。学校は昼からゆっくり行くことにして風呂に入るべく自室を出た。しかし運の悪いことにちょうど兄の研一もまた自室から出てくるところだった。すぐに引き返そうとしたがすぐにドアを引っ張られドアノブをつかんだままつんのめって倒れそうになった。髪をつかまれ引き起こされる。
研一は以前の「両親の期待の子供」だった頃には想像できないくらいぶくぶく太り、パンパンにむくんだ顔はニキビやシミがあり醜かった。その顔をぐっと近付けられ気持ち悪くなる。
「お前、またあの糞どもと会ってただろ」
糞どもとは隆貴や晴彦や魁人を指す。研一もまた三人と同じ高校だった。そして彼らを研一が嫌いなのも知っていた。だけどそれと茉麻が隆貴と付き合うのは別のことだ。ニートのくせに。
「あんたには関係ないでしょ」
と言いかけたが「あ」のところで腹に蹴りが入った。息が止まりもがいていると髪をつかんだまま壁に頭を打ち付けられる。
「あいつは、高校の時に、俺を、奴隷にしたやつだ!」
何回も聞いてる。でも隆貴たちはそんな風には思ってない。今でも懐かしそうに「研一どうしてる?」って聞いてくる。研一の被害妄想ではないか。
その後何発が殴られ意識が飛んだ。気が付くと日が暮れていた。重い体を起こす。わき腹が痛い。廊下に吐しゃ物がこぼれていて臭い。
引きずるようにして風呂場に行って、鏡を見た。右目の下と左の顎のあたりにあざがあった。どちらもひどく腫れている。
「さいあく」
研一に殴られるのは初めてではなかったが、顔をやられるのは小学生以来だ。口の中も切れているようで血の味がする。服を脱ぐ。腹と背中にあざを見つけた。風呂に入り冷たいシャワーを浴びながら考えた。
なんで研一は茉麻が隆貴たちと会っていたと思ったのか。たぶん夜中起きていたのだ。茉麻が真夜中に帰ってきたことを知っていた。そしてそんな時間に帰る理由は彼氏に会っていた以外ないのだ。
研一は自室で酒を浴びるように飲んでいたのだろう。多少それは予想していたが、酔ったらすぐに寝る研一が起きていたとは思わなかった。朝も昼前に起きていたことなんてほとんどない。今日は厄日だ。
こんな顔では当分学校に行けない。
もういいや、と茉麻は思った。卒業できなくても、大学に行けなくても。そもそも問題児扱いだったし、親も高校に入ってからは何も言ってこない。自分に期待している人なんて誰もいないのだ。そして茉麻自身自分が何もできない空っぽな人間だと知っていた。
だからもういいや。ため息を一つ吐くと、自然と涙がこぼれた。
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