クマ

 学校に全く行かないとさすがに担任から何度か電話が来たようだが、親がどう対応したのか、期末試験を終えたくらいから何も言われなくなった。たぶんこのまま新学期も登校しなければ退校になるのだろう。部屋から出ずにぼんやりとしていたら八月になった。そこでやっと茉麻は部屋から出た。理由は三つある。一つはやっぱり研一と一緒に引きこもるのは気持ちが悪い。研一と同じことをしていると自覚するたびに吐き気がした。二つ目は両親のこと。父親は何度か様子を見に来てくれたがそれだけだった。母親は研一の部屋に入っていると気配ではわかったが茉麻の部屋には来ない。一日二食の食事も研一だけだ。一日部屋で寝ていてもお腹はすくので茉麻は誰もいない時を見計らって台所でカップ麺などのインスタント食品をあさっていた。それももう限界だった。

 そして三つ目。隆貴からメールがあった。

『今日集合』

 それだけだったが、隆貴が会いたいと言ってくれていると茉麻は喜んで身支度をした。メールは毎日しているが会うのは顔のあざのせいもあって久しぶりだ。まだあざのあった場所は紫から黄色になる途中のような色をしていたがファンデーションでごまかすことができた。

 隆貴のマンションにつくとすでに大学生たちは集まっていた。しかし前と違うのはうるさい魁人がいないことだ。茉麻にとっては別にどうでもいいことだった。

「茉麻ちゃん久しぶり、もう夏休み?」

 今日の史乃はキャミソールにデニムのミニスカートでかなり露出が多かった。一方茉麻はチェックのワンピースで自分でもがっかりするほど子供っぽかった。隆貴はどう思っているのだろう。彼の顔を見たがさっさと座れと目で促されただけだった。

「茉麻ちゃん聞いてる? 魁人が事故死したこと」

 史乃に言われて一瞬意味が分からなかった。勝明じゃなくて? と聞き返しそうになる。

「勝明の録音聞いた後にね、高速道路で単独事故したんだって」

 晴彦が付け足してようやく本当に魁人の話なのだと分かった。隆貴と毎日メールしていたはずなのにそんな話は一度も出てこなかった。

 茉麻がなんと言っていいのかわからないでいると、隆貴がカバンの中からラベルの白いDVDを出してきた。それを見た瞬間、体の芯が凍る感覚がした。前もこんな光景を見たことがある。

「魁人の車、ドライブレコーダーがついてるんだ」

 隆貴が目を細めて三人を見る。たぶん他の二人も茉麻と同じ感覚に襲われたのだろう。晴彦、史乃と一人ずつ目を合わせ、隆貴は最後に茉麻の目を見たままにっと笑った。

「またご両親だまして持ってきたのか」

 晴彦の声には少量の怒りが混じっていた。

「いやな言い方するなよ。これは魁人の姉貴に借りたんだよ。両親に見せていいか俺に判断して欲しいって」

 なんで魁人の姉が隆貴に頼むのだろう。不自然に感じたのは茉麻だけではないようで史乃も眉を寄せていぶかしげな顔をしている。

「ま、見てみようぜ」

 隆貴はDVDをデッキに飲み込ませ始めた。

「二人は帰ったほうがいいんじゃないか。今回は、映像だ」

 晴彦が茉麻と史乃に言う。簡潔な言い方をしているが酷い状態の魁人の死体を見ることになると暗に忠告しているのだろう。

「興ざめなこと言うなよ」

 隆貴が晴彦に言う。

「興ざめってなんだよ。魁人の両親に見せられるかどうか判断すればいいんだろ。だったら俺たち二人で十分だ」

 晴彦が珍しく強い口調で隆貴をいさめた。睨み合う男子二人に茉麻ではなく史乃が割って入った。

「大丈夫よ、私は。魁人のお姉さんも見てるんでしょ? ちょっとくらい平気よ」

 史乃の言い方に茉麻は引っ掛かりを覚えた。「私は」といいたのだ。無意識だろうか? 茉麻と史乃自身を線引きしているような気がして茉麻も「私も見る」と史乃に続いた。

「じゃあ、皆で見ようぜ」

 隆貴は晴彦を睨みつけたまま「皆」を強調して言った。晴彦が目をそらすと満足したのか「再生!」とわざとらしく元気にリモコンを操作した。

 映像はフロントガラスから見える景色で、音はほぼエンジンと風だけだった。いつもしゃべり続けているうるさい魁人は、運転中は全く声を出さずたまに咳をする程度だ。

 見ている側も一言もしゃべらない。茉麻は自分が魁人になって車に乗っている錯覚に陥った。これから自分が事故にあうと思うと体が硬くなる。

 高速道路に入る。先を走行する車を次々と追い抜いて行く。かなりスピードが出ているはずだ。魁人はスピード狂なのだろうか。無言なのは走ることに集中しているからか。メーターは見えないがこのまま事故を起こせば大変なことになるのは、無免許の茉麻にもわかる。事故死の疑似体験だ。

 その時だった。

『ノってきたね!』

 総毛が立った。隆貴がDVDを出してきた時とは比べ物にならないくらいの寒気。誰も声を発しないがたぶん気づいただろう。

 勝明の録音に入っていた声だと。

『さぁ、最終コーナーに入っております。天気は良好。魁人選手のコンディションも万全です』

 ふざけた口調でまるでカーレースの実況のまねをしてるようだ。魁人は相変わらずしゃべらない。しかしスピードが上がっているのが分かった。

『何者にも追随を許さない速さ! どこまで行くんだ魁人選手! 光速を超えるのか?』

 光速は高速道路と掛けているのだろうか。

『おっと、一台のワゴン車が追いかけてくる! 逃げ切れるか? 逃げ切れるのか魁人選手!』

「もうやめて」

 史乃のかすれた呟きにはっとした。もしこの声が殿村の録音と同じものなら、おそらく魁人は。

 エンジンの音が変わる。

『行け、魁人。走れ、そのままだ!』

 その先に防音壁が見える。カーブだ。壁がぐんと近づいた。

『ゴール!』

 車はそのままのスピードで防音壁に突っ込んだ。映像はその瞬間乱れぷつりと音が切れ真っ暗になった。

 映像が終わっても誰も何も言わない。茉麻は隆貴を見た。後悔と恐怖が入り混じったような白い顔だ。知っていて見せてきたのではない。だが、こんな偶然がありうるだろうか。身近な人間の死に際にいないはずの同じ人物の声が入っているなんてことが。いやもしこれが偶然でないとしたら、この声が二人に共通の友達だったとしたら。

「同じ声だよな?」

 誰もが沈黙する中最初に口を開いたのは晴彦だった。茉麻はどう答えていいものか考えた。史乃は顔を両手で覆ったまま動かない。隆貴も息が止まったかのように静かだ。晴彦と目が合った。今まで見たことがないような懇願するような目で見返してくる。私が言わないといけないのか。茉麻は晴彦に対して失望した。頼りがいのある先輩だと思っていたのに、こういう時は年下を使うのか。

「柊哉君の声に似ているよ」

 茉麻は晴彦ではなく隆貴に向かって言ってみた。だがすぐに後悔した。隆貴の顔は白からさらに色のない髪のような色になったと思うと、目を見開きその視線に茉麻を入れてきた。ゆっくりと手が伸びてくるが茉麻は避けることが出来ない。そのまま襟首をつかまれ持ち上げられた。

「何言ってんだよ。そんなことあるわけねぇだろ」

 ゆっくりと低い声で隆貴は言う。茉麻の奥歯がカチカチとなる。史乃は顔を上げて呆然と茉麻たちを見上げていた。当然だろう。史乃は柊哉を知らない。二人が何の話をしているのかわかっていない。

「頭お・か・し・く・なっ・た・ん・で・す・か?」

 丁寧に一語一語区切って罵りの言葉を茉麻に浴びせる。ごめんなさい、ごめんなさい、声にならずに唇だけ動かす。

 その時、ぱちんとテレビが再び映像を映した。全員とっさに振り返る。茉麻の足が床についた。

 さっきまでのフロントガラス越しの景色とは違い、外から車を映している。音はない。フロント部分がへしゃげた青い車。事故の衝撃で漏れ出したガソリンに引火したのか火が上がっている。警官や消防隊が数人カメラを横切る。幸いにもこの位置からは魁人の姿は見えなかったが、事故車を見れば魁人がどんな状況だったのかは想像できた。

 雨が降り出す。画面に水滴が付き映像がぼやける。その雨粒でにじんだ色が揺れ出した。カメラが動いているのではなく、ちょうど水滴が付いた位置に人間が現れたのだ。動いている。水滴が流れて踊る人物が明瞭になる。マイムマイムのようなステップ。自分で手を叩いてリズムをとっている。

 ラフなTシャツにデニムのパンツ。そして顔、いや頭には熊の着ぐるみの頭の部分だけをかぶっている。その場にいる警官たちはその人物を見ない。気づいていないのか、その横を表情一つ変えずに通り過ぎる。険しい表情の警官たちの中で一人だけ軽快に踊っている。

 こいつが声の主だと茉麻は思った。なぜ踊っているのだろうか。楽しいのか。事故現場が。だけど誰にも見えてない。違う。見てないんじゃない。見てる。

(私たちが見てる)

「止めて!」

 茉麻は叫んだ。ほとんど悲鳴だった。誰も動かない。茉麻は隆貴の手を振りほどいてリモコンを握る。手が震えて停止ボタンが押せない。その間も熊をかぶった男は踊り続ける。被り物のせいでどんな顔をしているのかはわからないが、きっとカメラを見ている。カメラ越しに茉麻たちを見ている。

「貸せ」

 隆貴が茉麻からリモコンをひったくる。そしてようやくテレビは消えた。

 気が付けば茉麻は泣いていた。止めようと瞼を抑えてもぼろぼろと零れ落ちてくる。すると隆貴の腕がふわりと茉麻を包み、ぽんぽんと頭を優しく叩かれた。

「ごめんなさい、変なこと、言って、ごめん」

 隆貴の胸に顔を押し付ける。

「うん、気にすんな」

 優しい声で隆貴が言う。なんであれを柊哉と思ったのだろう。あんなおぞましいものを。頬に流れた涙をぬぐう。ファンデーションは落ちただろうか。視線を感じ顔を上げると、隆貴が茉麻を見て微笑んでいた。

「死んだ人間が出てくるわけないだろ。馬鹿だな、茉麻は」

 有無を言わせない言い方。二本の腕が茉麻の体をきつく締める。

「う、うん。そうだよね」

 もう二度と柊哉の話はするまい。してはいけない。自殺した人の話は。

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