第13話 藤巻の人生が決まった日
明人は机に置かれた通帳を眺めながら冷や汗を流していた。
ロイヤルガーデンパレス信用金庫。
その普通預金口座。
明人が小さい頃から使っている口座である。
通帳の日付は去年から更新されていない。
その通帳の摘要欄にいくつもの『振込』が並んでいる。
『エムアイシツクス | *10,000,000』
『シーアイエー | *20,000,000』
『ザイ)サイタマケイサツキヨウカイ | *118,590』
『ダイトウリヨウ | *1,000,000』
CIAもMI6も隠すつもりはないらしい。
どれも日本国内からの振り込みになってるのが何気に怖い。
埼玉県警の財団法人経由にするという無駄な気遣いと生々しい数字が痛い。
最後の大統領に関しては誰かの嫌がらせであってほしい。
どれもこれも振込額が異常である。
高校生の持つべき金額を大幅に超えている。
(ゲーム内の明人なら三日で使えるのだろうが……)
だが近々これを使わなくてはならないことになるだろう。
それは……原付の免許取得と原付の購入。
戦車からスペースシャトルまで運転できる明人だが、日本国内の免許は持っていない。いや……基本的に全て無免だ。
16歳になり次第、原付が使えるようにすれば移動できる範囲が広がるはずだ。
それにせっかく三島と仲直りできたのだ。
遊びに行ったりしたい。
いきなり万券が飛ぶようなことはないだろうが、それでも先立つものは欲しい。
やはり預金の把握のためにも一応記帳しておかなければ……
明人は決意を固めつつも悩ましいその処理が頭に掠めた。
ため息が自然と漏れた。
そのため息と同時に部屋に音が響いた。
それは携帯電話の着信音だった。
ガラスにヒビが入ったままの画面には『酒井』と書いてある。
明人は嫌な予感がしながらも電話に出ることにした。
「あ、明人君。酒井です。今大丈夫?」
「はい。大丈夫ですけど」
「いやね。ごめんねー。警察庁に目つけられちゃった。なんかねえエージェントが来るんだって。裏系の」
おかしい。
時系列が狂っている。
エージェントが来るのは夏以降のはずだ。
もしかすると人違いかもしれない。
一応確認すべきだと明人は思った。
「山田浅右衛門ですか?」
「……あれま。さすが業界人。詳しいねえ」
酒井は驚いている。
彼女のコードネームは山田浅右衛門。
山田浅右衛門は世襲ではない。
斬首には一定以上の技量が必要なため、山田一門で一番強い人間が山田浅右衛門を継ぐことになっている。
とは言っても斬首自体が今の時代には存在しないため、実際の仕事は警察庁のエージェントである。
そんな彼女の『らめ(略)』でのポジションは、いわゆる真面目なボクッ娘である。
突然転校してきて、捜査中に薬で自由を奪われたところを……最終的に何とか顔Wピースとかそういう役である。
完全にシナリオライターの趣味の産物である。
『なんで女が?』とかそういう当たり前の理屈が通じないことに関しては、あきらめるよりほかはない。
彼女の到来が何を意味するのか?
それは明らかである。
今後、明人は彼女を守りながら捜査を行わなくてはならないと言うことだ。
守るためには何が必要か?
守るためにプライドの高い彼女を説得するにはどうすればいいのか?
問題が山積みである。
「だいたいわかりました。こちらでなんとかします」
実際は何も思いつかないが適当なことを言った。
「そうかい? 悪いね。今度ディナーおごるよ。じゃあねー」
電話を切ると明人はもう一度深くため息をつき、そのままジェーンへ電話をかけた。
「はーい明人。山田浅右衛門のことね。調べとくねー」
おかしい。
話が早すぎる。
明人が疑問に思うのと同時に答えが返ってきた。
「明人の電話はエシュロンで常に監視してるから。あきらめてねー♪ あとさ、熱帯雨林でエロ物件買うと性癖筒抜けになるから注意ね」
「酷すぎる!」
「いいじゃん。どうせ夫婦になるんだし」
開いた口がふさがらない。
明人の心は事件とは関係のないところで折れそうになった。
◇
「隆二お義兄ちゃん。霞ね。また伊集院さんに助けてもらったんだって。警察の人が言ってた」
病室でランドセルを持った小学生が藤巻と話していた。
明人が学校で救った少女たち。
その中に霞もいたのだ。
「アイツには、また世話になっちまったようだな……」
藤巻は目を細めた。
藤巻にとって明人は妹を救ってくれた恩人だけではない。
自分のプライドまでを取り戻してくれた男なのだ。
世話になりっぱなしでは気がすまない。
「霞。やっぱ俺、アイツに借りを返しに行く」
そう言って藤巻は起き上がった。
藤巻は村田たちによる集団暴行で複数箇所の骨折を負っていたはずだった。
ところが多少の痛みはあるものの体を動かすのに支障がない程度に回復してしまった。
それどころか体から力があふれ出す。
隆二は今まで味わったことのない感覚に戸惑っていた。
「お義兄ちゃん! もー!」
霞が藤巻をぽかぽかと叩いた。
もう霞も藤巻が元気なのはわかっていた。
だが義兄のことが心配だったのだ。
藤巻はそんな霞を見て優しく笑った。
「おーっす」
男が病室に入ってきた。
見るものが見れば、何気ない動きからすら、正中線に軸が見えるかのような無駄のない重心移動。
筋骨隆々とした体格。
それは隆二の兄の
隆史はモトクロスをやっていた弟の隆二とは違い、子供の頃から空手をたしなんでいた。
そのせいか、細身の隆二とは違い、隆史は筋肉ダルマと呼んで差し支えのない重量感がある。
その迫力のある顔でギロリと隆二を睨む。
「隆二。お前、噂の番長とつるんでるそうだな」
ドスのきいた声だった。
隆二の兄は決して悪い人間ではない。
ただ少し頭が固く思い込みが激しいのだ。
「いーや。霞を助けてもらっただけだ。兄貴も知ってるだろ?」
警察から聞いた話では、伊集院明人は良くも悪くもとんでもない人間のようだ。
隆二は相手にもされていないだろう。
だから、これが事実を一番正確に表現しているに違いない。
だがそれを聞いた隆史は顔を真っ赤にして激怒した。
「お前が村田なんかとつるんだせいで、二度も霞が危ない目に遭った。お前どれだけ家族に迷惑をかければ気が済むんだ! それをなんだ今度は伊集院か! いい加減にしろ!」
隆史は明人と隆二がつるんでいるという前提で話していた。
やはり話を聞く気はないらしい。
隆二が何を言えば納得してもらえるかを考えていると一方的に隆史が話を続け始めた。
「隆二。表に出ろ。もう少し入院させてやる」
隆史の顔はまさに鬼の表情だった。
◇
隆二は病院の屋上へ連れてこられた。
幸いなことにそこには誰もいなかった。
隆二は困ったなと顔をしかめると霞の必死な声が響いた。
「隆史お義兄ちゃん、やめて! 」
だがそんな声も隆史には届かない。
「俺はこいつを殴らなければ気がすまない!」
隆史はそう言うと伝統派空手独特の半身に拳を中段置いた構えをとった。
隆二はそれを見て、一瞬だけ困ったなと顔をしかめた。
「霞。兄貴はこういうヤツだから仕方ねえ。止めても無駄だ」
「ガタガタ言うな隆二! 構えろ!」
隆二は仕方なくボクシング風の顔の前に拳を置く構えをした。
その瞬間、隆二の目には隆史の姿がぶれたように見えた。
隆史は一瞬にして隆二の懐に飛び込み、右の拳を発射する。
その時、隆二の中で変化が起こった。
空気が波打つのが見えたような気がした。
大砲のように大きな拳が真っ直ぐ顔面に向かってきたのが見えた。
ただしそれは止まっているかのようなスピードでだ。
空気が波打ち、拳が迫ってくる。
隆二はこの時間の主観的変動の事を考えてる余裕はなかった。
反射的に顔の前にあった手を出す。
ゆっくりと拳に手が迫り拳につながる腕に触れる。
手が腕に触れた瞬間、拳の軌道は横に逸れ、拳は隆二の顔の横をかすめて行った。
隆二はそれだけで安心することはしなかった。
打撃系武道の攻撃は単発ではない。
次が来るはずだ。
その予想は当たっていた。
拳を引く動作とともに威力よりも鋭さを追求した拳が先ほどより速くやってくる。
隆二は冷静に次も逆の手で触れ軌道を変える。
そして三発目。
大砲のような右が隆二の腹を射貫くかのように向かってくる。
隆二は自分の体の内側から手を回し、腕を触る。
決して力尽くで弾かない。
少しだけ軌道を変えてやるのだ。
三発目が隆二の横を通り抜けると時間は元に戻り静寂が場を支配した。
その場にいた全員が驚く中、最初に口を開いたのは満面の笑みの隆史だった。
「本気だったんだがな……」
「ここで死んじまったら伊集院に借りが返せねえだろが!」
隆二のその台詞を聞いた瞬間、隆史はガハハハハと豪快に笑った。
「どうやら伊集院はいいやつのようだな。隆二。伊集院に何か習ったのか?」
何も思い当たる節などない。
隆二は正直に答えた。
「いや兄貴。何も習ってない。というか俺は助けてもらったときしか合ってない。今のだってよくわからんが、突然時間が止まったみたいになって伊集院の真似をしたらよけられたんだ……」
「そうか……たしか学園の一年だったな?」
「ああ花梨がそう言ってた」
「よし、お前も復学しろ。卒業できたら今回の件は許してやる」
「いや兄貴!俺は就職……」
「復学しろ。これは命令だ。どうせ留年でもう一度一年だ。伊集院と同じ学年でやり直せ」
隆二は『それとこれは違う』と反論しようとした。
だが突然、血が体の下に降りたかのような感覚を感じ声が出せなくなった。
鼻から何かが流れてくるのがわかった。
「うおッ隆二! その鼻血は何だ?」
「え?」
それだけ言うと目の前は真っ暗になり、そのまま隆二は倒れた。
「うおおおッ! 隆二! 隆二! しっかりしろ! 死ぬなあああああッ!」
「お義兄ちゃん! 看護婦さん! 看護婦さあああん!」
どこかで叫び声が聞こえたような気がした。
これが藤巻隆二が伊集院明人の運命に巻き込まれることを決定づけた出来事であった。
これより藤巻隆二は普通の人生を大幅に踏み外すことになる。
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