18:見憎いアヒルの子

「愛、川さん……?」


 震える、呆然とした声で、そばに組み伏せられた青衣が相手の名前を口にする。

 青衣が驚くのも無理はないだろう。なにしろ同じクラスのクラスメイトが、明らかに自分たちを襲う敵の同類と、まったく敵対する様子の無い、仲のよさげな様子で姿を現したのだから。


「うんうん。青衣ちゃんは良い反応だ。そんな風に反応してくれるなら、私もこうして出ていた甲斐があるってものだよ」


 明らかに敵対的な立場で出てきておきながら、その表情にはまるで敵意のようなものを見せずに、白美が組み伏せられた青衣にそう笑いかける。

 否、この女の態度についていうなら、それは青衣に対してのものだけではない。


「それに比べて、なんだか工和君は反応薄いなぁ……。もしかして私がこの時間に入れるって、工和君薄々察してたの?」


「……いいや、まさかテメェが入刻してるなんざ、まるで予想してなかったよ」


「あれ、そうなの? てっきり工和君なら、それくらい予想してくれてるかと思ったのに」


 交輪の言葉に不可解な反応を見せながら、白美は呆れたとばかりに小さくため息を吐く。

 その様子は、どうやら交輪の発言の真偽を半ば疑っているようだったが、しかし白美の入刻を交輪が予想していなかったというのは本当だ。そしてだからこそ今の交輪には目の前の白美に対して、問いただしたいことが山のようにある。


「テメェ、いつからだ……?」


「へ?」


「いつから……、この幽体だらけの時間に、テメェ一体いつから紛れ込んでいやがった?」


 この状況で、愛川白美が入刻していることが発覚して、文字の影たちと白美が繋がりが有ると知って、交輪が真っ先に気になったのはその点だ。

 影たちの後ろに何者かがいる可能性は考えなかったわけではない。青衣が入刻してきたその時点で、自分たち二人以外にも入刻者がいる可能性も考えてはいた。

 だが一方で、交輪はその入刻者が、クラスメイトの中にすでに出ているとはこれまで考えても見なかった。これは盲点や油断と言ったものではない。確固とした理由、あるいは根拠とでもいうべきものがちゃんとある。


「前回の幽刻の時、あの教室の中に入刻してる奴は一人もいなかったはずだ。あの日の幽刻は授業中で、教室の中で実体を保っていたのは俺だけだった」


 いかに交輪がクラスメイトへの関心が薄い人間だと言っても、同じ教室内に幽刻の中に入り込んでいる人間がいれば流石にわかる。

 だが実際には“人間で”あの時実体を保っていたものは一人もおらず、教室の外で青衣が彷徨っていた他は、今交輪達を取り囲んでいるのと同じ人型の文字の塊が一体いただけだった。

 あの時あの教室内で、このクラスメイトは実体化してなどいなかったはずなのである。

 だというのに、そんな疑問を抱く交輪に対して白美が見せたのは、不本意なことにまるで呆れたような、そんな反応だった。


「あのさぁ工和君。工和君はもう少しクラスメイトの動向に興味を持った方がいいと思うよ。覚えてないかな。私あの日さ、幽刻を迎える前に仮病使って保健室に行ってたんだけど」


「保健室……?」


 言われて記憶をたどって、ようやく竜昇はあの日のことを思い出す。

 確かに言われてみれば、あの日は青衣以外にももう一人、保健室に行ったという理由で欠席していた生徒が存在していた。あの時は大して気にも留めていなかったが、しかし教室内にいなかったクラスメイトが、保健室という別の教室で入刻していたというのならば、あの日あの時同じ教室内に実態を持った白美がいなかったのにも納得はいく。

 だが、そこまで思い出したところで交輪は気が付いた。今しがた白美が発した言葉の中に、決して無視できない、本来白美が知らないはずの単語が混じっていたことに。


「おい、ちょっと待て。お前今“幽刻”って言ったか? なんだテメェ……、それは俺が勝手に決めた名前だぞ・・・・・・・・・・・・・・・。なんでお前が、その呼称を知ってやがる?」


 あまりにも自然に、まるで常識的な言葉のように使われた“幽刻”という言葉。だがそもそも幽刻という呼称は交輪が勝手にそう名付けて呼んでいただけのものであって、都市伝説のような形で広まっている名前でもなければ、名前被りを起こすような、そんな名前の元ネタがある訳でもない。

 実際竜昇がネットで調べた際にも、【幽刻】などという名前は一切ヒットしてこなかった。


 だがそんな交輪の当り前の疑問に対して、白美は逆に『なんでそんなことを聞くの?』とでも言いたげな、そんな表情を見せて首をかしげる。


「なんでって……。もしかして知らないの? だからさっきからなんだか話がかみ合わなかったのかな……?」


「知らない……? なにを言ってるんだお前――?」


「いや、だからさ、私ずっと前に、“工和君の生徒手帳を見て”、そこにこの幽刻って現象の記録を付けてるのを見たんだよ。ほら、前に工和君が体育館に生徒手帳を忘れていったときに」


「な、に……?」


 白美が発したその言葉に、今度は交輪の方が目を丸くする番だった。

 交輪自身、手帳を体育館に忘れていったこと自体は覚えがある。そもそもそのことが、今隣で同じように組み伏せられている青衣との最初の接点になったくらいなのだから。

 だがその話の中で、手帳を見た人物は藍上青衣ただ一人で、他に手帳を見たという人間の話は全く出てこなかった。

 一体どういうことなのだと、そんな疑問と共に自身の隣、そこにいる青衣の方へと交輪が視線を向ける。すると当の青衣は、こちらと視線がかちあった直後にその瞳に怯えの色を見せて、すぐさま申し訳なさそうな表情と共に視線を逸らして、長い前髪の向こうへと己の両目を逃亡させた。

 その様子を見て、交輪はようやく自身が見逃していた“ことの真相”に思い至る。


「ああ、なるほどね。青衣ちゃんが私のことを工和君に隠してたのか。まあ、工和君に手帳を渡す役目を青衣ちゃんに任せたのは私だし、あの時は俗に言う中二病ノートとか、良くて漫画描く人のネタ帳かなんかだろうと思ってたから、余計なトラブルに巻き込まないでくれたって言うのは感謝するべきなのかもしれないけどさ」


 言いながら、白美は青衣の近くまで行ってしゃがみこみ、俯く青衣のその頭に向かって話しかける。

 とは言え、その言葉に感謝の色はなく、ただあざけるような、そんな冷たさが明るい声とともに伝わってきただけだった。


「そう言えば青衣ちゃん、今日の朝方に『変わったことが無かったか』とか聞きに来てたね。もしかしてアレ、工和君に内緒で、私が幽刻に入ってないかどうかを確認しようとしてたの? って言うことはやっぱり、私がこの幽刻って言うのに入れたのは、工和君の手帳を見てたからだったりするのかな?」


 交輪の知らない、青衣の行動をさりげなく暴露しながら、白美は冷酷な視線を青衣目がけて浴びせかける。

 そんな二人のやり取りを遮ったのは、他人の話に割り込むことに躊躇を覚えない、そんな性格を持つ交輪だった。


「手帳を見て幽刻に入ったって言ったな。じゃあお前、あの後すぐに入刻してやがったのか?」


「んん? えっと……、ああ、すぐって訳じゃなかったかな。あれはいつだっけ。えっと私にとっては今回が四回目だから……、二週間くらい前の夜かな。時間はそれほど遅い時間じゃない時だったと思うけど……」


(四回前で二週間くらい前、四月二十三日、二十時の幽刻か……)


 記憶をたどるように話す白美の言葉に、すぐさま竜昇はざっと頭の中で幽刻のタイムスケジュールを確認する。

 なるほど、夜に初入刻を迎えていたというのなら、その時にこの女の入刻に竜昇が気付かなかったのも無理はない。基本的に学校でしか接点がない以上、今回のように学校に両者がいる間に入刻しなければ、相手が入刻しているかどうかなど分かりようがないからだ。


「けど、私が工和君の手帳の、この幽刻って言う現象の実在を知ったのはその一回前だよ。えっと、二十日だったか十九日だったかの昼休みだったかな。たぶん工和君だよね。和久内さんたちに幽刻の間に、マヨネーズを頭からかけるような真似をしたの」


「―-!!」


 白美からの問いかけ、その意味を理解して、交輪は思わずその驚きに息をのむ。

 白美の言葉、そこに込められた確信には、単に伝聞情報から推理したという以上の根拠がある。

 その根拠が何なのか、今の交輪にはそれが容易に想像できた。


「……テメェ、まさかあの時どっかで――!!」


「まあそう言うことだね。あの時さ、私上の階から和久内さんたちのやってることを眺めてたんだよ。あそこって確かに校舎裏で人気はないけどさ、階段の窓から見ると様子が丸見えなんだよね」


 暗にいじめを傍観していたのだと言いながら、しかしまるで悪びれた様子もなく明るい様子で白美はそう語る。

 実際のところ、今の彼女にとってはあの時のことの罪悪感よりも、自分が見た超常現象の目撃談を語ることの方が重要なのだろう。


「びっくりしちゃったよ……。なにしろいきなり和久内さんたちがマヨネーズまみれになるんだもん。たぶんあの手帳を見て、その幽刻って現象が起きる時間がその昼休みだって覚えてなかったらわからなかっただろうね。実際幽刻の話を知らない和久内さんたちや、知っててもその瞬間を目撃していなかった青衣ちゃんにはわからなかったみたいだし」


「ハッ、いい趣味してんじゃねぇか。“あの光景”を見ておいて、テメェが注目したのはよりにもよってそこだけか」


 心底不愉快とばかりにそう吐き捨てながら、同時に交輪は白美の証言、その内容を頭の片隅で冷静に分析する。

 ここまで彼女の証言を聞いていれば、事前に聞いていた青衣の例と合わせて入刻の原因にも一定の推測が立ってくる。

 事前に二人とも手帳を見ていたということから、手帳に記されていた幽刻の情報、もっと言えば知識の有無が関わっているのはほぼ確定的だ。そして知っただけでは入刻できず、実際に入刻するまでにインターバルがあった点についても、白美の話を聞けば嫌な仮説が生まれてきてしまう。


 幽刻についての知識を得て、その知識に信憑性が生まれるような光景を見た直後に、愛川白美は幽刻への侵入に成功した。

 そして青衣についても、実際に目撃して確証こそ得られていなくても、事件が起きたことで幽刻との実在を疑うくらいのことはしていたはずだ。

 そしてそんな予想が成り立てば、必然彼女たちが達成した入刻の条件というものにもある程度予想はついてくる。


(ただ幽刻の存在を知るだけじゃなくて、それを一定のレベルで信じていること……。ただの与太話としてではなく、ありうる話として考えることが入刻の条件か……!!)


 そこまで考えて、交輪は心の中で盛大に舌打ちする。

 なにしろ、もしもその入刻条件があっているのだとすれば、つまりこの状況は完全に交輪の不注意で生まれてしまった状況ということになってしまうのだ。


(チィッ――!! 俺があの時、手帳を忘れたりしてなけりゃ、こいつらはそもそも幽刻に入りこんできたりしなかったってことかよ)


 この二人に手帳を見られるようなことが無ければ、二人が幽刻内に入ってくることもなく、こんな文字の怪人に囲まれるような形で邂逅する事態にもなり得なかった。

 そんな考えが頭をよぎって、しかし交輪は密かに吐息を一つついてその考えを頭の片隅へと追いやった。

 情報管理の甘さを後悔する必要は確かにあるが、今はそれよりも考えるべきことが他にある。


「……ハッ、テメェが幽刻デビューした経緯はよくわかったよ。……んで? 本題はこっからだ。お前いったいここに何をしに来やがった。わざわざガラの悪いお友達をぞろぞろと引き連れて……!!」


 言いながら、交輪は白美の隣に控える、一体の影へと視線を向ける。

 他の影たちが総じて黒い文字だけで構成される中、一体だけタスキのようにバーナーらしきものを張り付けた一体の影。そのシルエットは最初こそ、その輪郭の不確かさゆえにわかりにくかったが、よく見ると隣に立つ白美と体格も何もかもがそっくりに見える。


「そのガングロメイクのお友達がタスキみたいにかけてるそのバーナー、そこに書いてある名前には見覚えがあるぜ。確かこの学校の裏にあるろくでもないサイトの名前が、そのお友達のと同じ【見憎いアヒルの子ヘイトフルダックチャイルド】って名前だったはずだ」


「へぇ……。ちょっと意外だよ。工和君がこのサイトのことを知ってたなんてさ。最近それなりに利用者は増やしたけど、それでもまだそこまで広まってる段階じゃなかったはずなのに」


 交輪の指摘に、どこか感心した様子で白美が眼を細める。

実際にはこの情報は木林から得たものをそのまま口にしただけなので、交輪がその情報を得られたのは完全に木林の手柄な訳だが、生憎とそんな事情を知らない青衣に対しては認識を改めさせるくらいの効果はあったようだった。


「けど少し勘違いがあるみたいだね。私は別に青衣ちゃんに何かするようにみんなに指示してたって訳じゃないんだよ。青衣ちゃんにちょっかい出してたのはあくまで和久内さんたちでね。私がやったのはその矛先が青衣ちゃんに向くようにしたことと、あと少しだけ様子を見てたくらいかな」


「ハッ、自分は悪くないとぬかしながら黒幕カミングアウトとか、良く言えるな、いけしゃぁしゃあと……」


 毒づきながら、交輪は白美の語るやり口に、いよいよ己の中の考えが正しかったのだという確信を持つ。

 否、そもそもの話、彼女が裏サイトと同じ名前を身に着けた影とともに現れたというその時点で、その答えはもはや決まり切っていたくらいなのだ。


「ハッ、要するにテメェがこの学校の裏サイトの管理人だったってそう言う訳か。そういや代替わりしたって噂があったらしいからな。まさか入学したての同じ一年の中に、そんな立場の人間がいるとは思わなかったよ」


「あれれ、代替わりの話とかよく知ってたね。サイトの中でも一部でささやかれてただけなのに。うん、そうだよ。私が秘密交流サイト、【見憎いアヒルの子ヘイトフルダックチャイルド】の管理人ってわけ。って言っても、サイト自体は去年まで学校にいたお姉ちゃんから引き継いだんだけどね」


 明るく語られるその言葉の内容に、交輪は心の中で『なるほど』と煮えたぎるような気分で納得する。

 裏サイトとは言え、学校で代替わりと言われれば先輩から後輩へと言うイメージが強かったが、どうやら姉から妹へと引き継がれたというのが真相だったらしい。

 どうりで入学間もない一年生の間に利用者がやたらと増えていた訳である。管理人と言う立場であるならば、それこそ目を付けた相手をサイト利用者として引き込むのは簡単だったことだろう。

 そしてそうとわかれば、周囲で交輪達を取り押さえ、取り囲む影たちの正体にも見当がつく。


「そんな奴の隣に、そのサイト名を体に刻んだ黒いのが突っ立ってるってことは、この周りのお友達は定めしそのサイトの利用者たちか? とは言え、利用者本人って訳でもなさそうだな。利用者たちの悪意……、ってよりもネット人格みたいなものが実体化してんのか?」


「さあ……。詳しいことは私にもよくわからないよ。けど、どうもこの前使った感じだと、この子以外の人は私のサイトにアクセスしてないとこっちでこの形になれないみたいだから、工和君の言う通りそう言うことなのかもね」


 人差し指を唇に当てながら、白美はそんな適当極まりない分析を交輪たちにぺらぺらとしゃべる。

 情報管理の甘いことこの上ないが、しかしその考えの無さは交輪にとっては好都合だった。

 前回、なぜ交輪たちの教室にだけ影が現れたのか密かに疑問に思っていたのだが、種を明かせばなんてことはない。要するに授業時間中に携帯電話をいじっていた不届き物がいたらしい。


「うん、っていうかさ、実は前回工和君にはその辺相談しようと思ってたんだよね」


「……なに?」


「だって工和君が一番この幽刻って言う現象に詳しいんでしょう? 生徒手帳にあんな記録を残してたくらいだしさ。って言うかさっきの質問、私が何しにここへ来たかって言うその答えはさ、工和君にいろいろと、この幽刻についてわかってることを教えてもらって、これからのことを相談しようと思ってたんだよ」


「ん、だとぉ……?」


 予想外の白美の言葉に、交輪は内心でその意図を判じかねる。

 ここまでの経緯から考えて、てっきりこの女はこちらに対して敵対的な意思を持っているのだろうと考えていた。実際この状況は、明らかにこちらに対して敵意があるのだと、そう断じていい様な状況だ。

 だがしかし、よくよく考えれば幽刻内でそんなことをするメリットがあるようにも思えないのだ。話を聞く限り白美が幽刻に関わったのはごく最近。それも原因が交輪の手帳や行動であることを考えれば、彼女にこんな行動を求めるような、そんな背後関係があるようにも思えない。


「テメェ、いったいどういう脳味噌してやがんだ? 少なくとも俺にはこれが人にものを相談したい奴の態度には思えねぇぞ。大体、テメェが用があるのは藍上の方なんじゃなかったのか?」


「ああ、うん、まあね。って言うか、厳密に言うと用があるのは私じゃなくって、ここにいる皆の方なんだけど……」


「――あ? みんなってお前――」


「うん、でもそうだね。ちょうどいいからこっちを先に済ませちゃおうか」


 交輪の言いかけた言葉には耳を貸さず、白美はくるりと背を向けて周囲にたむろする文字の影たちへと向き直る。見れば、先ほどからどんどん数を増やしていたらしい文字の影たちは、いつの間にかその数を三十人近くにまで増やしていた。

 そんな群衆のような文字の塊たちに対して、目の前の白美はまるで物怖じすることなく親しげな様子で語りかける。


「うんうん、そろそろログインしてた人達はみんな集まったかな。じゃあみんなに聞きたいんだけどさ、みんなで頑張って捕まえた青衣ちゃん、この後皆はどうしたい・・・・・?」


「――っ!?」


 問いかけられた質問、それが意味するものを正確に理解して、直後に交輪は自身の全身に冷たい感覚が走るのを感じ取る。

 いやな予感、どころではない。別段明確な根拠がある訳でもないのに、なにが起きるのかが、その最悪の展開が確信をもって予想できてしまった。


(――おい、止せ、やめろ)


 ほとんど恐怖に狩られるようにそう思うが、しかし交輪の喉は凍り付いたようにその言葉を外へと発しない。

 そうこうしているうちに問い掛けられた文字の影たち、そのうちの一体がまるでこちらに見せつけるように顔を向けて、そこに張り付くディスプレイに予想した通りの言葉を表示した。


『とりあえず眼鏡割る』

                 →『それ鉄板』


 応じるように、第二の言葉が画面を流れる。

 そしてそんなやり取りを皮切りに、交輪達の周囲を取り囲む影たちのディスプレイに、まるで動画サイトのコメントのようにいくつもの文字が流れ出す。



       『眼鏡はない方がいい』

  『スカートをめくる』

 『むしろパンツを脱がす』     『→刑事さんこっちです』

     『胸をもむ』       『おっぱいが、見たいんです』

         『屋上の端で胴上げ』  『→からのバンジーだろ』

   『やっぱり腹パン』          『一思いに裸に』

  『→うわ、鬼畜』     『抓る、捻じる、打つ』

 『優等生気取りの淫乱眼鏡ちゃんに鉄槌を』

           『裸に剥いて写真を撮る』  『→それや』


 まるで冗談のようなノリで、実際に行われれば冗談では済まないような、そんな会話が画面の中で繰り返される。

 もしもこれが本当に画面の中で繰り広げられている会話ならば、交輪も眉を顰めつつ、まだ冗談だと信じられただろう。

 だが今、交輪の目の前にある光景はそう思わせない気配がある。

 こいつらならば本当にやりかねないという、そんな予感が確かにある。


「う~ん、やっぱり男子が多いからなのかな、なんかエッチ系のネタが結構多いね。まあでも、やっぱりそのあたりから攻めた方がみんな喜ぶのかな」


「おい……、愛川――」


「実はこんなこともあろうかと、こんなものを用意しておきましたぁッ!!」


 と、竜昇の声など歯牙にもかけず、白美はスカートのポケットから何かを抜き放つと、それを持った手を上に掲げて影たちに自分の用意したものを見せつける。

 取り出されたのは何の変哲もない、ただのハサミ。

 本当に文房具として使うような、“裁ちバサミですらない”普通のハサミだったが、それでもここまでの流れで白美がこのハサミを何に使うつもりでいるのかはおおよそ理解できた。

 それは恐らく文字の影たちも同じだったのだろう。彼らの表情とも言えるディスプレイに、『待ってました』などという喝采にも似た言葉が次々と流れていく。


「愛、川さん……」


 未だ現実を受け止められていないのか、呆然とした表情の青衣が影たちの中心に竜クラスメイトの名前を口にする。

 だが呼ばれた当の本人がその表情に浮かべたのは、あまりにも残酷で楽しそうな笑みだった。


「それじゃあ、そう言うことなんで青衣ちゃん、ちょっと見やすいように起き上がってくれる? ああ、でもそうか、青衣ちゃんを起こすのはそっちの子たちに頼めばいいのか」


「――ぅっ、ぁ――!!」


 白美がそう言ったその瞬間、まるで白美の意図に応じるように、青衣を背後から取り押さえていた影たちが、青衣の体を無理やり引き起こす。

 捻り上げられた両腕の痛みに苦悶の声を漏らし、顔を伏せようとする少女の髪を容赦なくつかんで、顔をあげさせ、胸を突き出すような形で青衣の体を固定する。


「ああ、そうだ。肝心の動画を取るの忘れてた。ケータイは、ああやっぱり圏外か。でもまあ、カメラ機能さえ使えればとりあえずはそれで――」


「おいッ……、愛川――!!」


「……はぁ、なにかなぁ、工和君?」


 目の前で行われる暴挙に対して、交輪がどうにか先ほどよりも強く声をあげると、青衣の目の前にまで近づいていた白美がハサミを持ったまま交輪の方へと振り返る。


「ちょっとおとなしく待っててよ。黙って見ててくれる・・・・・・・・・なら、みんなも何もしないからさ」


「―-ッ!!」


 同時に三人の周囲、交輪達を取り囲む影たちも一斉に交輪の方へと顔を向けて、まるで脅しをかけるように大量の文字が流れるディスプレイを交輪に対して見せつける。

 まるで同調を強要するような、文字の影たちからの集団圧力。

 止めとばかりに放たれるのは、その同調を後押しするための。あまりにも残酷な白美の言葉。



「ああ、そうだ。それとも鋏を使うのは工和君がやってみる? そうすれば、空気の読めない工和君でもちゃんと仲間に入れるよ」



「――」


 その言葉を聞いたその瞬間、交輪の眼に見える景色の色が一変する。

 とめどない、冗談交じりの悪意への畏怖の感情が一気に膨れ上がり、しかしそれより勢いよくあふれ出した別の感情が恐れの感情を飲み込んで、交輪の視界を真っ赤に染め上げる。

 逆境を飲み込んで燃え上がる、あまりにも捻くれた交輪の怒りの感情が。


「舐め腐ってんじゃねぇぞテメェェェッ!!」


 次の瞬間、交輪の体が視界と同じ赤い輝きに燃え上がり、同時に自身押さえつける文字の影たちを巻き込んで、押さえつけられた床を透過する形で交輪の体が真下にすり抜け、落下した。


「ちょっ、ええッ――!?」


 突然に起きた変化の連続に流石の白美も驚きの声をあげるが、交輪にしてみればこんな真似をしてくる相手をいちいち気遣う意味はない。

 むしろ結論から言えば、白美の驚きはむしろ好都合だった。

 白美の驚きの声に連動するように、交輪を取り押さえていた影たちの力が一瞬緩む。どうやら巻き添えにできたのは左側を押さえていた影と、足にまとわりついていた、胴から下を切り落とされた影の二体だけらしい。


(好都合だ――!!)


 真下へ向けて落ちながら、交輪は一気に左腕を振り回し、掴んでいた影の腕を振り払う。

 いかに強い力で掴んでいようとも、人間の手の形にはどうしてもその構造上抜け出しやすい場所がある。腕を握る掌の、親指と他の指の間に真っ直ぐに力をかけるようにすれば、掴まれた状態からでも比較的簡単に抜け出すことができるのだ。

 さらに抜け出す際に勢いをつけた腕を胸の前で振り被り、反動と手首のスナップで加速させて、背後目がけて一気に裏拳を叩き込む。

 交輪の背後で影の一体が顔面を砕かれ、空中に溶けるようにバラバラに崩れて消えていく。


「もう一匹ィッ!!」


 さらに交輪は空中で右足だけを思い切り振り回して影の手から解放。反射的に強くなる左足への握力さえ好都合と嘲笑い、左足ごと影を真下に振り回して、同時に空中で着地の態勢を整える。

 後は今真下に来た影の頭に、そのまま自由になった右足を振り下ろすだけでいい。


「んだらァァァアアッ!!」


 赤熱によって明らかに強くなった脚力に全体重を加えて、交輪は着地と同時に影の顔面を力の限りに踏み砕く。

 ここに至るまでものの数秒。真上の白身と青衣があっけにとられる早業で拘束から脱した交輪の行動は、しかしこれだけでは終わらない。


「そこだァァァアアアッ!!」


 幽体化してうっすら透けて見える天井の上に狙いを定め、交輪は右手に握っていたままだった箒矛を真上に突き出し、跳躍する。

 赤熱した肉体が通常では有り得ない跳躍力を叩きだし、突き出した矛が天井を透過して青衣を取り押さえる文字の影の、その顔面へと容赦なく突き刺さる。


「――っ、うっそ……!!」


 突如として地面から飛び出したように見えたであろう矛とそれを構えた交輪の姿に、そんな展開を予想していなかったらしい白身が驚き、硬直する。

 そしてそんな反応はどうやら影たちにも影響を与えるらしい。青衣を取り押さえていたもう一体の影が硬直と共に青衣の体から手を離すのを、まさしくその身をかっさらおうとしていた交輪は見逃さなかった。

 自身床から上半身を生やした状態のまま、すかさず青衣の体へと手を伸ばし、その身を影から剥ぎ取り、抱き寄せる。


「下だ、藍上、もう一度落ちるぞ!!」


「――ッ」


 二度目のせいか、今度は青衣も悲鳴を上げなかった。代わりに交輪の首へとしがみつき、上の階から引きずりおろされるようにして床を透過する。

 一瞬の浮遊感の後二階へと着地。直後に幽体の床を蹴って、交輪は青衣の体を肩に担いでそのままこの場を全速力で離脱する。


「――わ、ぁ、く、工和君――!!」


「悪いがそのままじっとしてろ。とにかく今は全力でここを離れんぞ!!」


 青衣にしてみれば不本意な運ばれ方かもしれないが、今は態勢を整えるだけの猶予は無い。グズグズしていてはまた上から影が下りてきて追いつかれると、交輪は階上から聞こえる女の怒号を無視して全力疾走で二階の廊下を駆け抜ける。

 だが。


「――クソ、赤熱の効果が切れてきやがった」


 交輪の全身、そこに満ちていた巨大なエネルギーが、長く走るにしたがって徐々に薄れているのが感じられる。

 同時に、羽のように軽くなっていた全身に重さが戻り、肩に担いだ青衣の重みも合わさって交輪の体から徐々に体力を削り取る。


(この感覚……、ああ、そうか。そう言うことかよ)


 全身を襲う消耗と共に、交輪はもう一つ、自分の中で異常な速度で消耗しているものがあることに気が付いた。

 内から湧き上がり、視界を真っ赤に染めていたマグマのような怒り。先ほどまで交輪の中で荒れ狂っていたその感情が、しかし今はほとんど沈静化して、不気味なほどの落ち着きを見せ始めているのだ。

 そのあまりにも不自然な感情の起伏に、ようやく交輪は自身が使っていた超常的な力の、その発動を支える最後の構成要素に思いが至る。


(この能力、俺の感情をエネルギーにして発動してやがったのか)


 よくよく思い返してみれば、交輪の周りで異常な事態が起きた時、強弱種類の違いは有れど、毎回交和は常に何らかの激しい感情に駆られていた。

 先ほどのように文字の影たちが青衣を襲っているところを見た時には激しい怒りや苛立ちが交輪の中で燃え上がっていたし、融合現象を意図せず起こした際にも、怒りなどの感情とは少々違うものの、鬱屈とした感情や、恐怖、焦りなどがあり、その精神状態は決して平静とは言えなかったのだ。

 能力発動のその直後のことを思い出してみても、幾度かは不自然に、急激に自分の中の感情が落ち着いていくような、そんな感覚に襲われたことがあったようにも思う。

 これまでは、単に突然の能力の発露に驚いて、直前の感情を忘れてしまっていたのだろうと思っていたが、しかしこうして急激に自身の怒りが薄れていくのを感じてしまえばその理由についてもまた別の可能性が見えてくる。


 もはや間違いない。これらの超常的な能力は、使用者である交輪の情動をエネルギーとして発動していたのだ。

 単純に怒りに任せて覚醒していたのとも違う。感情はただのきっかけではなく力を発動させるために必要不可欠なエネルギーであり、そのエネルギーは力を使えば使うほど消費されていくし、当然、使い切ってしまえばどんな効果も瞬く間に力を失ってしまう。


「くそ、赤熱が完全に切れちまった」


 二階の廊下を駆け抜け、壁をすり抜けて一気に地表へと飛び下りて、自身の体を見つめた交輪がそう苦言を漏らす。

 一度感情が落ち付いてしまった以上、今の精神状態ではもう一度あれらの超能力を使うのは難しい。何らかの方法でもう一度感情を呼び起こす、言い方を変得るならモチベーションを向上させなければ、再び同じように力を使うことはできそうになかった。

 そして幸か不幸か、そのモチベーションを回復させる事態はすぐに訪れる。


「く、工和君――!!」


 焦ったような青衣の声に振り返ると、校舎から何体もの黒い影が地上めがけて飛び下りているのが見える。そういえば最初の時も四階から飛び降りて平気で着地していたっけと思い出し、交輪は思わず憎々しい感情で舌打ちを漏らした。


「ああ、ちくしょう。危機感エネルギーの補給ありがとうよ」


 悪態をつき、交輪は青衣を抱えなおし、再び立ち上がって走り出す。自分で歩かせようかとも思ったが、それよりも赤熱強化した交輪が抱えて走った方が足は速い。できるだけ影から離れるように、身を隠すように逃げなければと肝に銘じながら、交輪は自身の逃走経路を学校校舎裏の雑木林の中へと設定した。


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