17:幽刻下の逃避行
「時間通りだ」
腕時計を見ながらそう呟き、交輪が青衣の様子へと目を向けると、彼女はまだ幽刻と言う現象に慣れていないせいなのか、鞄を胸の前でしっかりと抱きしめた状態のまま周囲の様子をきょろきょろと見まわしていた。
すぐさま周囲を確認するが、流石に教室内に先日のあの影の姿は見られない。どうやら入刻した瞬間に迎撃に来るような、そんな即応性の高い存在ではなかったようだ。
「とりあえず、幽刻のうちにここを離れるぞ。いろいろ実験したかったが、今日のところはもうそんな気分でもねぇ。あの顔面ディスプレイがまた出てこないとも限らねぇしとっとと駅前にでも繰りだすぞ」
「で、でも、このまま帰っちゃったら工和君が明日――」
「――知るかそんなもん。あんな奴らに媚びるくらいだったらボッチの方がよっぽどましだ」
こちらを気遣っているであろう青衣に取り付く島も与えずそう言い返し、交輪は鞄を担いだまま教室の壁へと近づいていく。
扉を開ける方法などない以上、幽刻における部屋からの出入りは基本壁の透過だ。どちらが幽体化しているかわからなくなりそうな方法だったが、生憎とそんな感慨は何度も幽刻を経験していくうちにあまり気にならなくなってきた。
躊躇なく壁へと己の体を押し込み、半透明の壁の向う側がへと顔を出したことで、
ちょうど廊下に立っていた、体が黒い文字でできた人影の、顔面代わりのディスプレイと目が合った。
「――!!」
声もなく驚き、直後に交輪が後ろに飛び退いたことで、黒い人影が幽体化した壁の向うへと消えていく。
いや、見えなくなったというだけで、それは決して消えたわけではない。
「――出やがった!!」
床へ着地し、鞄を放り棄てながら慌てて振り向いて背後の青衣にそう呼びかけると、唐突に声をかけられた青衣がその呼びかけを理解できずに、前髪と眼鏡で隠した目を白黒させる。
「――えっ、で、出たって――」
「――っぶねぇ!!」
青衣の理解を待たず、壁の中に黒い影を見て、交輪は慌てて青衣に飛びつき、力任せにその軽い体を突き飛ばす。
直後、拳を振り上げた態勢で壁をすり抜けた黒い影が教室内へとあらわれ、直前まで二人がいたその場所へと向けて勢いよく拳を突き出した。
前回と違い男のようなシルエットの影から放たれる強烈な一撃。肉体的にも弱々しい青衣がまともに喰らっていたら、それこそただでは済まなかっただろうそんな攻撃が、間一髪目標を見失って空を切る。
「――の野郎!!」
すぐさま踵を返し、交輪は影の空振りしたばかりの無防備な背中に蹴りを叩き込み、その文字の全身を前へとつんのめらせて幽体の床の上へと転倒させる。
「走るぞ!!」
すぐさま尻餅をつく青衣の方へと駆け寄り、その手を強引に掴んで無理やり立たせて教室の壁へと突入する。
幽体の、実体のない壁を通り抜ける独特の感覚。
いつもはある程度気にしていたその感覚を今回ばかりは無視して廊下に飛び出した交輪は、しかしそうしたことで見えた光景に今度こそ絶句することとなった。
影がいる。それも一体や二体ではない。廊下に見えているだけで、少なく見積もっても七体以上。どうやら個体差があるようで、背丈やシルエットなどは微妙に違うようだったが、根本的に同じものと思しき文字の体と画面の顔を持つ怪人が、廊下に出た交輪たちに反応して一斉にその顔面を突きつけてきた。
「……おい、藍上……。なんかお前人気大ブレイクなんだが、なんか心当たり有るか……?」
「うう、ううう……」
「冗談で返せよ。本気で余裕がないみたいじゃねぇか」
土気色の顔で、現状を否定しようと必死に首を振る青衣に対して、交輪は舌打ち交じりにそう言葉をかけ、掴んでいた青衣の手にしっかりと力を込める。
見捨ててやるつもりなどないと、そんな意思表示はどちらにも伝わったのか、握った青衣の手がピクリと反応し、同時に文字の影たちが一斉に前のめりに身を沈めた。
「来るぞ。腹ァ括ってしっかり逃げろ!!」
震える手を叱咤したその瞬間、交輪が今しがた通り抜けたばかりの教室の壁をすり抜けて、その向こう側から先ほど蹴り転がした影が飛び掛かって来る。
それに対して、交輪の方はいちいち迎撃など行わない。そんなことにかける時間も惜しいと前へと走り出して影の攻撃圏内から離脱し、正面にいた二体の影をよけるべく、斜め前にある隣の教室へと、教室の角の壁をすり抜ける形で飛び込んだ。
同時に、交輪は自分の制服のポケットから、前回のような事態を想定して忍ばせていたカッターの替刃をつまみ出す。
(思い出せ……。俺はあの時、あの力をどうやって使ってた?)
前回の幽刻の際、三回も起きた謎の幽体と物体の融合現象。詳細については今日検証するつもりだったが、交輪はこの現象を交輪自身が起こしたものであると想定し、その現象を起こした時の感覚を思い出して、休み中に何度もイメージトレーニングを重ねてきた。
発動の条件に付いてもすでに検証は済ませてある。後はそれが本当に正しいかどうかを、この土壇場で確認するのみだ。
狙うは教室右後ろ。どこの教室でも必ずそこにある、掃除用具の入ったロッカーのその中身。壁をすり抜けた際に同時に見えたその一本目がけて、交輪は手の中で輝く折る刃式の替刃を捻じり込む。
「――混ざれぇッ!!」
――『カキン』、と言う金属音のような音が周囲に響く。
同時に手を引いていた青衣を教室の中へと放り込み、交輪は直感に任せて手にした箒を体ごと回して背後目がけて振りぬいた。
その判断が功を奏し、背後から手を伸ばし、今まさに青衣の髪を掴もうとしていた黒い腕が、箒と替刃が融合して生まれた矛によってバッサリと断ち切られる。
『何をしおる』
「こっちのセリフだ、ボケェッ!!」
壁から飛び出す顔面のディスプレイにそう言い返し、交輪は青衣から手を離して空いた右手に赤熱の輝きを灯し、前方から迫るその顔面を力任せにぶん殴る。
硬い感覚が拳に返る。だが攻撃自体は効を奏して、殴られたディスプレイはみるみるひび割れ、よろめき倒れるようにしながら壁の中へと溶けるようにして消えていった。
(――っし、とりあえずは予想通り。あの黒いのは顔面が弱点、『強化』も『融合』もとりあえずは成功……!! ハッ、だんだん見えてきたぞ……。この力のからくりが!!)
口元に獰猛な笑みを浮かべながら、すぐさま交輪は自分が作った武器がどんな形で出来上がっているかを確認する。
とっさのことだったため材料にした箒も適当に手を伸ばしたところにあったものを使用してしまったが、幸運にも材料となっていたのは柄の長い、学校の掃除用備品の中でも比較的使いやすい自在箒だった。ただし若干デザインは気持ち悪く、長い柄の部分は木製のものがそのままで、その先に折る刃式カッターを巨大化した刃が付き、なぜかその峰の部分には箒のものと思われる黒いブラシの毛が生えている。
(……いや、もうこの際使えれば何でもいい)
己の武器の不恰好な様相については早々に諦め、交輪は意識を切り替え、教室内へと投げ出した青衣を回収するべく踵を返す。
だが交輪が青衣の手を再びつかむのと、教室の前後、そして廊下側の三方から合計六体の影が飛び込んでくるのはほとんど同時のことだった。
「――チィッ、なんだこいつら、取り囲んでくるとか、組織立って動いてるのか……?」
抱いた疑問のヒントになるかと顔面を流れる文字の数々を盗み見れば、表示されている文字は『ボッコボコの時間です』、『せーの、って言ったらな』、『AA』、『キモ』、『おうて』、『追いつめたと思ったか』、『爆ぜろ』『ヌッコロス』『氏ね』、『まだだ、降臨まで待て』その他諸々。
いちいち意味までは分からなかったが、攻撃的なネットスラングの中に妙に理性的に、と言うよりも戦略的に戒めようとする言葉が散見している。
しかもどういう訳なのか、攻撃的なスラングはそれぞれの個体で別々に流れているのに、理性的なスラングは複数の個体に同時に、まったく同じ文言が流れていた。
(おいおい、これは、ひょっとするとあの予想が当りか……?)
前回の襲撃の後に立っていた一つの予想。あの影が幽刻において自然発生する現象ではなく、交輪の融合と同じように誰かが引き起こした能力なのではないかと言うそんな仮説が頭をよぎる。
(いや、まだだ。まだそれで決まりとは言えない)
こちらに飛び掛かろうとして、直前に待てを命じられた犬のように動きを止めるという奇妙な反応を見せる周囲の影たちの様子を見ながら、それでも交輪は冷静に自分にそう言い聞かせて自制する。
まだこの影たちが人によって生み出されたものであるとまでは断定しにくい。外見やディスプレイを流れる文言から、発生源は人である可能性は高いが、それでもまだ幽刻と言う環境が生み出した自然発生の存在と言う可能性も残っているのだ。
だが一方で、画面を流れる同じ文言から、この影たちに知性を持った統率個体とでもいうべき存在がいる可能性は高まってきた。
「だがテメェらの親玉はわかってねぇな。ああ、そうだちっともわかってない」
三方を囲まれ、残る一方向では四階のベランダで逃げ場が無いというそんな状況で、それでも交輪はじりじりと迫る影たちを嘲笑う。
そんな交輪の態度を、取り囲む影たち、あるいはその裏にいるかもしれないなにかは訝しく思ったのだろう。画面を流れるスラングの中に『?』のマークがいくつか混じり始めるのを見ながら、交輪は手の中の箒矛を握り直し、同時に掴んでいた青衣を引き寄せ、少女の腰を掴む形でその体をしっかりと抱え込んだ。
「この程度で取り囲んだつもりとか、片腹痛いぜ!!」
言い放ち、飛び込む。
周囲を取り囲む影たちの群れ目がけて、ではない。
自身の足元、幽体化しつつも足場として機能している、しかし本来ならば透けて通れるはずの床面目がけて、そこを通り抜けられると信じて交輪は真下へ身を投げる。
「――ひゃ、ぁ――!!」
弱々しい悲鳴が耳に届くが気にしない。恐怖のためか硬直する青衣を抱えたまま三階の床へと着地して、そのまま周囲の机やいすを無視して壁をすり抜け、一直線に廊下へと、速度を落とすことなく突撃する。
同時に聞こえるのは、今しがた起きたことに対する、驚きに満ちた青衣の声だ。
「な、なんで、どうして――」
「床や地面がすり抜けられないなんてのはただの思い込みだ。本当は足元だって、きっちり幽体化してんだよ」
抱えていた青衣の体を話してどうにか三階の床の上に着地させ、同時に交輪は自分が予想していた幽刻の法則を言い放つ。
前回の幽刻後に頭の中で考えていただけの仮説だったが、実際に入刻して試したことで、仮設の大部分は既に立証されてしまっていた。
「幽刻内での地面は物質として俺達を上に乗っけてるんじゃない。“俺たち自身が”、自分の意思と認識で幽体の上に立ってるんだ」
幾度の入刻の経験とその中で行った試行錯誤、そして前回起きた事件とその際に起きた現象を思い返して、交輪が出した結論がそれだった。
恐らくではあるが、幽刻に置いては交輪達の意思や認識が、様々な事象に対してダイレクトに反映されるのだ。
だから例えば、床や地面を自分たちが立つ足場として認識し、または足場であることを望んでいれば幽体化していても普通に立つことができるし、逆にそれをすり抜けようと思えばあっさりとそれまで立っていた床をすり抜けられる。
「多分俺がさっきから使ってる赤熱強化や融合現象も理屈としては同じなんだろうな。詳しい原理はまだわからない部分が多いけど、少なくとも発動の引き金になっているのは俺達の意思ってことなんだろう」
言いながら、交輪は困惑する青衣の手を左手で引いて、右手に箒矛を掴んだまま幽体の壁を抜けて廊下へと進み出る。
できることならこのまま逃げ延びて校外に出てしまいたいところだったが、しかし生憎と状況はそこまで甘くはないようだった。
「――チィッ、ここにもか――!!」
三階の廊下に飛び出した交輪たち二人に向けて、廊下をうろついていた三体の影が一斉に振り返る。
どうやらこの影たちがいるのは交輪たちがいた四階だけではないらしい。いったいこの校内にどれだけうろついているのか、そんな考えをすぐさま頭の中から追い出して、交輪はとりあえず目の前の敵に対処するべく動き出す。
「遅れずについて来い、藍上――!!」
左手に握っていた手を手放しながらそう呼びかけ、その言葉にどうにか青衣が反応するのを横目に見ながら、交輪は影たちへと突進しながら両手で握っていた箒矛を振り上げる。
幸い、影たちは力は強いが反応は鈍い。
相手が迎撃の態勢を整える前に一気に距離を詰め、まずは一番近くにいた影の顔面を振り下ろした矛で叩き割る。
「トロくせぇッ――!!」
すかさず矛をもう一度振り上げ、今度はこちらに気付いて掴み掛ろうとしていた文字の影に対し、力任せに横薙ぎの一閃をぶち込んだ。
確かにそこにいるはずなのに妙に手応えの薄い文字の塊は、しかし攻撃の効果はあったようで、胴体部分で真っ二つになり、上半身と下半身に分かたれてそのまま廊下へと転がり落ちる。
残るは一体。そう判断して二メートルほど先にいる影に矛先を向けようとしたちょうどそのとき、背後に何かが落ちるような気配がして、同時に押し殺したような悲鳴が聞こえてくる。
驚き、振り向くと、背後にいた青衣が二体の影に力任せに取り押さえられ、その怪力によって無理やり幽体の床に組み伏せられるところだった。
「――ッ、藍上!!」
慌てて交輪が踵を返し、青衣を取り押さえる二体の影に斬りかかろうとするが、しかしそんな交輪の動きを何かが足を掴んで阻害する。
なんだ、と思って真下を見れば、先ほど両断し床を転がった影の上半身が、腕だけで這いずって交輪の両脚へと手を伸ばしていたのだ。
「うおォッ!!」
さらに背中から衝撃が交輪を襲い、目の前の青衣同様、交輪もまた床目がけて力任せに組み伏せられる。
「ぐあっ!!」
「工和君――!!」
影たちの力は異様に強い。女子である藍上の腕力はもちろんのこと、まともに力比べを行えば男である交輪ですら対抗しがたい馬鹿力だ。しかも床の上に押さえつけられたこの状態、どう考えても力任せに振り払うという選択は取れそうにない。
「――って痛ってぇなテメェら!! 腕もげんだろうが放しやがれ!!」
それでも必死に抵抗を続ける交輪に対して、どこからかどんどん影が集まり、取り押さえる個体が二体に増えて、残る影たちがギャラリーのように周囲をぐるりと取り囲む。
すでに視界に入る影の数は十体を超えている。いったいどこからこんなに集まっているのかと視線をさまよわせれば、同じ階の廊下を歩いてくる個体とは別に、上の階から天井すり抜けて廊下へと着地する個体も何体かいた。
痛みに耐えて歯を食いしばり、自身を取り押さえる影たちを見渡していた交輪は、しかし直後に影たちの態度が急に変わったのに気が付いた。
それまで交輪と青衣に向けていた意識が急にそれ、代わりにそのディスプレイの顔面が全員そろってすぐそばにあった階段の方向を仰ぎ見る。
「ハーイ、みんなちょっとストップね。まだあちこちに散ってるみんなが集まり切ってないからさ」
目を見張る。
交輪のものでもなければ青衣のものでもない。誰もいないはずの幽刻に響き渡る第三の声。
同時に目の前にある階段の上から誰かが下りてくるのが見えてくる。
同学年のものと思しき色の真新しい上履き、まだ着崩されていない女子生徒のスカート姿。ただし、彼女が決してこちらの味方ではないことを示すかのように、その隣には他の影たちとは明らかに違う、体の各所に広告かバーナーのようなものを張り付けた、特別な印象を受ける文字の影が一体追従していた。
二人が、あるいは一人と一体が階段を降りてきたことで、影の体に張り付いたバーナーからは【
同時に、それを従えるどこかで見たような生徒の顔も。
「……よお、変わったお友達だな、
「言ったよねぇ工和君。私の名前はシラミじゃなくてシロミだって。『愛されるかわいいシロミちゃん』なんだ、ってさ」
そう言って階段を降り切り、交輪たちの目の前に交輪たちのクラスの委員長、愛川白美が姿を現した。
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