14:おぼろげな新法則

 交輪とて、手帳を拾われた際の青衣の言動で、その可能性は考えていなかったわけではない。

 むしろある可能性を考えていただけに、交輪は今日この日、青衣を問いただして本当に手帳の中身を見ていないのかどうかをはっきりさせるつもりですらいたのだ。その点、自分から自白してもらえた今の現状は、明らかに気が弱そうな女子を問い詰めずに済んだ分楽になったとさえ言える。


「じゃあお前は、昨日の段階ですでに、幽刻について知ってたってことでいいんだな?」


「……はい。でも、まさか本当のことだとは、思って、なくて……」


 いくつかの事項を確認した結果、恐ろしいことに彼女は手帳の中に書いた幽刻についての内容を、かなり正確に把握していたことが判明した。

 さすがに一字一句とまではいわないものの、あの日あの段階で判明していた、手帳に書いてあった内容はすべて頭の中に入っていた。これが普通の知識ならば有り得たかもしれないが、重要度の低い、ほとんど与太話に近い内容であることを考えれば少々驚く記憶力である。


「記憶力は、悪くないんです。一度目を通せば、大体の内容は頭に入りますから……」


 それは悪くないどころか、相当に優れた記憶力ではないかと思ったが、しかし本題はそこではないため、交輪もこの場では口にするのは避けることにする。

 今重要なのは、幽刻について青衣が事前に知っていたというその事実だ。昨日の段階で予想はしていたが、こうなってくるとある仮説が交輪の中でも真実味を帯びてくる。


(いや、それでもまだ不可解なことはあるし、断定はできないか。それよりもまずわかっている情報の共有を優先しとくか)


 その仮説を含む考察を後に回し、まずはとばかりに交輪は自分の生徒手帳を青衣に見せる。そこには以前青衣が見たという情報が一部修正され、加えて新たに二つの情報がすでに記載されていた。

 それらルールの一つ一つを、とりあえずペンで指して確認していく。


一、 今後この現象を幽刻と名付け、呼ぶこととする。

二、 幽刻とは周囲にあるものが皆一様に静止し、幽霊のように半透明、かつ触れることのできない奇妙な状態になる現象を差す。以上の現象が世界的なものなのか、あるいは一定範囲内にとどまるものなのかは不明。

三、 判明している限り、現状この幽刻時に実態を保ち、行動できるのは自分こと工和交輪のみ。自分以外に幽体化せずに残る人間がいるかは不明である。少なくとも今現在自分以外に実体化したままの人間、さらにはそれを含む生物には遭遇していない。

四、 ただし自分以外にも、着ている服や荷物等も一緒に実体化している。因果関係は不明。

五、 幽刻はおよそ一〇三時間ごとに起こるものと推測される。

六、 幽刻は突入後約二時間で元に戻る。

七、 幽刻下では足元の床や地面もまた透過するが、なぜかその上に立つことはできる。具体的な条件は不明だが、重心を預け、体重のほとんどをかけると態勢を問わずその上に乗ることができる模様。


「ここまでのルールで、三に関しては今回のことで訂正を強いられている。まあ、厳密には四もだが。まあ要するにお前、藍上青衣という新しく幽刻に入れる人間が出現したからだ」


 言いながら、交輪は三のルール、その中の『工和交輪』の後に、藍上青衣の名を追加する。とは言え、今できる訂正はせいぜいこの程度だ。原因がわかればそれを書き記すこともできるのだが、それがわからなければこれ以上に書きようがない。

 続けて進むのは、次のページに書かれた二つのルール。


八、 幽体化した物体の上には物を置くことができる。

九、 幽刻突入時に空中にあったものはそのまま静止する。また『八』同様、空中で静止している物体の上に物を置くことも可能。ただしその場合、当然幽刻が明けると同時に置いたものも地面に落ちる。


「これは……?」


「書いてある通りだ。幽刻ではあらゆる物体は幽体化して実体を失うが、人がその上を歩けるのと同様、その上に物を置くこともできる。空中で静止しているものでも同様だ。俺が試した時には、散った桜の花びらの上に物を乗っけてみたんだが、そんなものの上でもしっかりと上に物を乗せられた」


「桜……?」


「まあ、ここまではさほど重要じゃない。今切迫してるのは、昨日起こった四つの現象だ」


 怪訝そうな表情をする青衣に気付かずそう言って、交輪はページをめくり、昨日起きた出来事が書かれた場所を持ち込んだペンで指し示す。

そこには箇条書きで。


一、 幽刻時間内でありながら藍上青衣が実体化。通常時間同様に行動できるようになる。

二、 一とほぼ同時に怪人と遭遇。黒い文字が人型に集まり、その顔面に電子機器のディスプレイを張り付けたような外見。工和交輪にはあまり反応せず、藍上青衣に猛然と襲い掛かる。判断は鈍いが力は強い。胴体は多少傷つけてもものともしないが、顔のディスプレイを破壊すると消滅した。

三、 物体と幽体の融合現象を確認。一回目はペンと手帳。二回目はカッターナイフとアスファルト、三度目は道路標識とカッターの替刃で、三回目においては武器の生成に成功。ただし、この融合は幽刻時間を終わると元に戻るらしく、すべての事例で通常時間に元に戻っていることを確認した。

四、 工和交輪の体に一時的に異変発生。全身が赤く発光し、通常では有り得ない身体能力を発揮。


 提示した四つの記載を読む間、交輪は交輪で昨日のことをもう一度思い出す。

 ちなみに、三で記載されている、幽刻内で交輪が融合させた物体が元に戻っていることは実際に交輪自身が調べて確認済みだ。前の二つはともかく、看板から作った武器に関しては処理に困っていたためそれは助かったと言えるが、しかし根元からぽっきりと折れた看板を見た時には少々ドキリとさせられた。

 事情が事情だけに仕方なかったとも言えるし、そもそも幽刻内でやったことがばれるとも思ってはいないのだが、それでも学校の器物を破壊したことへの罪悪感はさすがにぬぐえない。


 と、そこまで考えたところで、手帳の記述に一通り目を通し終えたらしい青衣に、交輪は一応の確認を取ることにする。


「まず確認なんだが、この中で一つでも原因に心当たりがあるものはあるか?」


 もとよりダメ元の問いかけだったが、案の定青衣は首を横に振って申し訳なさそうに視線を落とす。

 もはやいちいち配慮などしていたら話が進まないと感じた交輪はあえてフォローするような真似はせず、その答えを当然のものとして次の考察へと進むことにした。


「まあそうだろうな。いくらなんでも推測の材料となる情報が少なすぎる」


「あ、で、でも、一つだけ。工和君の手帳を見て、幽刻を知っていた私が、工和君と同じように入ったことには、少し……」


 おずおずとそう言う青衣の言葉に交輪も『ああ』と短く頷き返す。

 実際交輪も、昨日から青衣が手帳の中身を見ていた可能性を見越して同じ可能性を考えていたのだ。


「そうだな。まず一について仮説。藍上青衣、つまりはおまえの幽刻入りについて検証するか。

 幽刻入り、これもこの際だからこれも呼びやすく【入刻】と呼ぶが、その原因としてまず考えられるのが、俺の手帳を見たことで幽刻についての知識を得てしまったことにある可能性だ」


 手帳に【入刻】と言う単語の制定を記載しながら、交輪は青衣に対してまずそんな風に話を切り出す。

 実際青衣の言う通り、たまたま幽刻について伝え聞いていた人間が同じように入刻したと言うのは偶然にしてもできすぎた話だ。

 この二つの出来事の間に何らかの因果関係があると言うのは、まず疑ってかかるべき可能性である。

 とは言え、この仮説にもいくつか疑問点があるのもまた確かだ。


「まず確認しときたいんだけど、二十三日の夜二十時と二十八日の午前三時、あとは、一応十九日の十三時もか。この時間に幽刻が有ったんだけど、この三回の間に入刻したことはないんだよな」


「……は。はい。えっと、二十八日に関しては、寝ていた時間なので分かりませんけど……」


「まあ、そうだよな」


 一応交輪としても、十九日については青衣が幽体化しているのを自分の眼で見て確認している。

 二十八日は本人の言う通り気付かなかった可能性があるにしても、二十三日の二十時という時間ならば入刻を自覚できてもいい時間だ。


「もし幽刻の知識が引き金になったとするなら、なんで十九日の時点ですぐに入刻できなかったんだって問題が残る」


 そう、この知識による入刻仮説において、最初にぶち当たる壁というのがそこなのだ。

 知っただけで入刻できるのならば、青衣はその数日後にあった五回目の幽刻、あのクラスメイトの女子三人に囲まれていたあの時点で、すでに入刻で来ていたはずなのである。

 加えてもう一つ、この仮説を考える時に不可解な点がある。


「第二の問題点、そもそも俺は実際に入るまで幽刻についてなんてまるで知らなかったしな……」


 これも早い段階で、この仮説の対論として頭の中にあった事実だ。

 交輪は別に、幽刻についての知識を持って入刻したわけではない。交輪にとって幽刻の存在は青天の霹靂で、だからこそ交輪は幽刻について調べた情報を手帳にまとめるようなまねをしていたのだ。幽刻についての知識が入刻の引き金になっていると考えるには、そもそも交輪の存在がその仮説を否定してしまう。

 とは言え、青衣の入刻と幽刻の間に、まったく関連性が無いと断ずるのも少々躊躇われる。


「まあ、そもそもの話、たった二人の事例だけで条件を絞り込むのはさすがに無理があるか……」


 極端な話、入刻のための条件が複数存在していて、交輪と青衣では満たした条件が違うという可能性もあるのだ。正直今の段階では、どんな条件だったとしても究明するのは少々難しいと言わざるを得ない。


「あ、あの……」


「あん? なんだよ」


「え、えっと。それじゃ、手帳を見ただけだと、入刻、しなかった可能性も、あるんでしょうか?」


「……ふむ」


 青衣の言葉に、交輪はその可能性を真剣に吟味する。

 幽刻についての事前知識を持っていた青衣が幽刻に入れたことがただの偶然と考えるのは少々早計だが、しかし幽刻の知識の存在が入刻への決定打になっていないのは恐らく確かだろう。そうでなければ次に迎えた幽刻に青衣が入国できなかった理由に説明がつかなくなってしまう。

 知識の存在が入刻の条件と関わって来るのかどうかはいまだ不明だが、少なくとも知識だけで入刻できる訳ではないのは恐らく間違いない。


「……そうだな。そもそも次の幽刻で入刻できなかった時点で、それは少なくとも間違いないと思う」


「そう、ですか」


 交輪の答えを聞き、なぜか青衣は少しだけ安心したような、がっかりしたような顔をする。

 その表情に疑念を抱きつつも、しかし考えることがほかにもあったため、交輪は次へと話を進めることにする。


「まあそれでも、知識が入刻の引き金になってる可能性がある以上、迂闊に幽刻のことを人に話すのはやめた方がいいだろうな。それでなくとも幽刻は話自体が電波な内容なんだ。信じてもらえなくて変な目で見られるのも考えものだし、ヘタに入刻させて危険に巻き込んでもまずい」


「危険に、巻き込む……」


「第二の異変。あの影の怪物の件があるからな」


 交輪の言葉に、ただでさえ不安げな青衣の表情がさらに暗く曇る。やはり彼女にしてみれば、あの影の存在は恐怖の対象なのだろう。


「最初に断言しておくが、少なくとも俺が経験してきた昨日以前の幽刻の中で、あんなのに遭遇したことは一回もなかった。それ以前の七回で、一度もだ」


「……相当に珍しいもの、と言うことでしょうか」


「さぁな。遭遇確率自体が相当に低い存在なのか、単に条件を満たしていなかったから遭遇しなかったのか、はたまた別に理由があるのか……。だがどんな要因であれ一度は起きた現象だ。同じ条件を満たしてしまうことで、二度目以降が起きないと考えるのは愚考だろう」


 流石に一匹見つけたら三十匹いるとまでは思わないが、一度でも遭遇してしまった以上、二度目の遭遇が無いと考えるのはただの油断だろう。

 あの存在が幽刻内を徘徊している存在なのか、あるいは何らかの条件を満たしてしまった相手の場所に現れる何かなのかはわからないが、再び現れる可能性がある以上、次回以降を見越して何らかの準備をしておく必要がある。


「まあ幸い、攻略の糸口が無いわけじゃない。あの影が顔面叩き割れば消えるってのは今回のことで分かったし、対抗手段についても三番と四番の現象がある」


 物体と幽体の融合と、全身を赤く輝かせての身体強化。火事場の馬鹿力では説明がつかない不可解な現象だが、しかしあの影に対抗するうえでは非常に重要な武器となるものだ。

 後問題となるものが有るとすれば、その方法だ。


「とりあえず、こっちも暫定的に三を融合現象、四を赤熱強化とでも名付けてみた。とは言え、これについてもわからないことが多くてな。

 三の融合現象に関してなら一応仮説は立ってるんだが、それでもその仮説で合ってるのかちゃんと検証した訳じゃないし、四の方に到ってはほとんど無意識の発動だったからなおさらだ。昨日の感じだと、たぶん条件さえ揃えばまた発動できるとは思うんだが……」


「条件……」


 交輪も昨夜、家でこのときのことを思い出していろいろ仮説を立ててみたが、やはりというべきか明確に条件を満たす行動や、周囲の変化などがあったとはどうしても思えない。

 唯一昨日の段階でそれまでになかった変化が有るとすれば、それはあの騒動の渦中にあった交輪自身のメンタルの変化だけだ。


「メンタル……、感情か……」


「……え?」


「いや、そういえば赤熱強化を使った時、どっちの時もかなり頭に血が上ってたと思ってな」


 キレると強くなる、あるいは覚醒する、と言うのは、交輪がよく読む漫画などでもかなり王道的な展開だ。交輪としてはそう言う王道的な、ある意味では使い古された展開を己が体現したと考えるのは、どこか恥ずかしく背中がかゆくなるような感覚があったが、しかし検証するとそれが一番わかりやすく、的を射た答えであるようにも感じられる。


「けどもしもそうだとしたら、融合現象の方は何だってんだ? あっちは全部の時にキレてたわけじゃないし……、いや、でも幽体化してるもんをこっちに持ち込みたいっていう意思みたいなものが引き金になってる節はあるから、そういう意味では理屈としては近いのか……?

 だとしたら次の幽刻での検証は、まずはそのあたりの切り口から攻めてみるか……」


「え? 検証、ですか……?」


 なにげなく交輪が発した言葉について、何かを感じたのか青衣がビクリと敏感な反応を見せる。

 だが交輪にしてみれば、この二つについての検証は可及的速やかにこなしておかなければいけない至上命題だ。いつまたあの怪人と遭遇するかもわからない現状、対抗手段の確率はむしろ急務と言ってもいい。


「ああそうだ。次回の幽刻、五月六日の十七時に、今度は二人で入刻してこれらの仮説を検証する。悪いが付き合ってもらうぞ。どのみちこの日はゴールデンウィーク明けで学校もあるんだ。授業の後に待ち合わせてその後二人そろって入刻する」


 困惑の表情を見せる青衣に対し、交輪は有無を言わさぬ口調でそう言い放つ。全てを語り終えて手帳を閉じると、交輪はすぐそばに置きっぱなしにしていたコップの中身を、勢いよく喉の奥へと流し込んだ。

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