11:文字の影


「あ――」


「――グァッ!!」


 肺から空気と呻きが漏れて、交輪の体が幽体化した茂みを透過しながら地面を転がる。どうやら先ほどの意趣返しとばかりに、今度はあの影が交輪めがけてタックルしてきたらしい。

 急ぎ起き上がってみれば、背後ではすでに倒れ伏す青衣の、そのすぐそばまで文字の影が迫ってきていた。

 青衣の方も言うことを聞かない体でなんとか起き上がろうともがいていたようだが、影はまるでそれをあざ笑うかのように足を持ち上げ、力任せにその背中を踏みつける。


「あぐッ――!!」


 悲鳴を押しのけて空気が出てきたような声が漏れて、青衣の体が勢い良く地面へと叩き付けられる。

 これが実体を持った地面の上であれば、青衣の顔と胸が強かに地面に打ち付けられていたところだった。幸い地面が幽刻の幽体であったがゆえに幽体化した地面に顔を沈められるだけで済んだようだったが、しかしいかに幽刻であるとは言っても背中を踏みつけ、踏みにじられて平気でいられるわけではない。


「……う、くぁ……、い、痛……」


 影の体重から逃れようと、苦悶の声を漏らしながらもがく青衣だったが、しかし影は一向に青衣にかける体重を緩めず、まるでいたぶるように彼女の細い体を踏みつけ続けている。

 意思と呼べるものがあるのか定かではない影だったが、しかし踏みつける少女の弱々しいあがきには何か思うところが有ったのか、顔面のディスプレイには『メシウマ』や『nrnr』などという嘲笑うようなネットスラングがどんどんその数を増やしていっていた。


「……の、野郎、いい加減にしやがれよッ!!」


 目の前で行われる蛮行に、交輪は意を決してポケットに手を突っ込み、そこに入れていたペンケースの中から一本のカッターナイフを引き抜いた。

 先ほど教室を出る際に、危険を感じて武器として持ってきていたカッターナイフ。

 武器と言うにはあまりにも貧弱な刃物だが、しかしこの場で武器になりそうなものなど他にはない。何しろ幽体化してしまっていて掴めるもの自体がほとんどないのだ。いかに貧弱だろうとも、今頼れるものはその貧弱なこれだけだ。


「テメェその足どけやがれぇッ!!」


 カッターの刃をいっぱいに引出し、交輪はあらん限りの力を込めてその刀身を影の胸へと突き立てる。

 体ごと体当たりするように刺しに行ったため、交輪の体重によって影は後ろによろめき、青衣の上からどかすことができた訳だが、しかしながら、逆に言えば交輪が影に対して与えられたダメージはそれだけだった。

 雲か霞とまではいわないまでも、まるで砂山に刃物を突っ込んだような奇妙な手応え。

案の定影は自分の胸に突き立つ刃など気にも留めず、ぶつかってきた交輪の存在を鬱陶しがるように自身の腕を振り回した。


「――ごあっ」


 刃を抜き、後退しようとする交輪の顔面に影の腕が直撃する。

 拳ではなく腕の部分が当たったためあご骨を圧し折られる事態は避けられたが、しかし影の力は異様に強く、交輪は踏みとどまることすらできずに再び路面へと投げ出されることとなった。


「う……ぐ……」


 呻きながら、それでも交輪はすぐさま幽体の路面に手を突き、立ち上がろうと力を込める。

殴られたことで怯むより先に頭に血が上る。朦朧とした意識が遅れて痛覚を認識し、痛みに対する恐怖よりも先に何をしてくれているんだという怒りが交輪の中で湧き上がって、しかし直後に交輪の目に飛び込んできた物品が、そんな交輪の反骨精神に水を差すこととなった。


 交輪の右手、そこに握ったままだったカッターナイフが、根元部分で圧し折れてその刀身を丸ごと失っていた。


「――なっ、あ――!!」


 蹲ったまま慌てて周囲を見渡し、交輪の視線はすぐに折れてそばの路面に落ちていたカッターの刃を見つけ出す。だがそんなものを拾い上げたところで今の状況はどうにもならない。

 頼りないとはいえ、それでも唯一の武器が失われてしまったのだ。ペンケースの中にはかろうじてシャーペンなどは存在しているが、そんなものでこの影に対抗できるとはとても思えない。


(――クソッ、武器……、なんかないか、武器になりそうなものは――!!)


 目の前では、途中で邪魔されたせいなのか文字の影がこちらへと向き直り、妙に緩慢な動きで交輪の元へと近づいてきている。先ほどのような火事場の馬鹿力を自力で起こせるならいざ知らず、どうして何が起きたのかもわかっていない今の状況では予想外にタフで力の強い影にはとても対抗できない。

 だがそうとわかっていてもなお、交輪の周囲には実体として存在するような武器はない。それどころかすぐそばに立つ徐行の道路標識の看板ですら、交輪が掴もうとすればその手の中からすり抜けてしまうのだ。それはつまり、今が幽刻である以上、自分の持ち物以外にはひとつたりとも武器になるものは望めないということである。


 と、交輪がそう思っていたちょうどそのとき。


「――え?」


 交輪の体のちょうど真下で、何かの金属がぶつかり合うような『カキンッ』という硬い音がする。

 どこかで聞いたようなその音に、反射的に音の下自身の手元へと視線を向けて、そこにあった光景に交輪は一瞬、口にできる言葉を失った。


「……なん、で、また」


 震える喉がようやく、そんな言葉を絞り出す。

 見れば、先ほどまで交輪が握っていたカッターナイフ、根元から刃が折れてしまったその本体が、足元の地面、そこにあるアスファルトに突き刺さるようにして融合していた。

 先ほど教室内で、手帳とペンが融合していた時と全く同じ、単に突き刺さっているというだけでなく、まるで溶接したように混じりあってくっついたカッターナイフとアスファルト。

 目の前の光景に、ふと自分の中に何かをつかみかけ交輪だったが、生憎とそれ以上思考を進めることは状況が許さなかった。


「――ッ」


 目前にあった幽体の路面を文字でできた足が踏みしめて、交輪が自分の迂闊さに気付いた時にはもう遅かった。

 直後、地面に伏した交輪の腹部を目がけ、目の前まで迫っていた影の蹴りが容赦のない威力で叩き込まれる。


「ぐぉおっ――!!」


 灰の中の空気を根こそぎ吐き出させるような衝撃に苦悶の声が漏れ、一瞬宙に浮いた交輪の体が勢いのままに背後の幽体の地面を転がり、それでも収まらぬダメージに交輪自身が無意識のうちに体をくの字に折る。


(く……、そ……。この非常時に考え事とか、舐めてんのか俺は……!!)


 内臓をひっかきまわされたような痛みと襲い来る吐き気に苦しみながら、交輪はそれでもどうにか立ち上がろうと己の手足に意識を巡らせる。

 だが受けたダメージ故なのか、焦る意識に反して体には一向に力が入らず、交輪に蹴りを入れてなおこちらに近づいてくる文字の影の存在が交輪の意識の焦燥にさらなる拍車をかけていた。


(まず、い……。どうにかしないと……。くッ、動け。なんでッ、なんで動かねぇ――!!)


 もがく間にも文字の影がゆっくりとこちらに迫っているのが視界に映る。迫る脅威に対してどうにもできない、その事実が交輪の精神を打ちのめし、影が再び交輪を蹴り飛ばそうと足を振り上げた、ちょうどそのとき。


「……あ?」


 迫っていた影の頭に何かが当たる。

直後に地面に落ち得来るのは見覚えのある校内用の上履きだった。幽体の地面に落ちたにもかかわらず、すり抜けることなくその場に残ったその上履きは、入っているラインの色は赤で、それだけでその上履きの主が交輪と同じ一年生だろうことが推測できた。

 いや、本来であればそんな推測すら必要ない。そもそも今この場で、そんなことができる人間など交輪以外にはたった一人しかいないのだから。


「あ、ぅ、あぁ……」


 二人の視線を同時に受けて、上履きを投げつけた体勢で固まっていた青衣がびくりと反応して震えだす。

 長い前髪と眼鏡の向うでこちらを見る瞳に脅えが浮かぶ。

 一目見ただけでは、直前にあんなことをした張本人とは到底思えないようなそんな表情。

 だが実際、彼女の左足には上履きがなく、直後に少女は一目だけ交輪の方へと怯えに満ちた視線を送ると、よろめきながらも立ち上がって足をもつれさせながら背後の校舎へと走り出した。

 それに対し、影の方もまるで交輪の存在を忘れてしまったかのように青衣の方へと向き直り、先ほどの緩慢な動きとは打って変わったスムーズな動きで、逃げる少女の背中を追って獣じみた動きで歩き始める。


(……あいつ、自分が囮になって影を俺から引き離すつもりなのか……?)


 青衣の意図をそう推察して、同時に交輪は離れていく影の存在に思わず安堵する。

 誰の目にも明らかな、影の敵意を交輪から自分に向けるようなそんな行動。だが、そもそも逃げる青衣の足取りは誰の目にも明らかなほど頼りなく、おぼつかないものだった。


 当然そんな走りで、竜昇に向かっていた時よりも明らかに動きの良くなった、黒い文字の影のその手から逃れられるはずもない。


「――ぅあッ!!」


 直後、交輪は一気に青衣の背後へと距離を詰めた文字の影が、彼女の髪を後ろから乱暴に鷲掴みにしてその逃走を引き留める。


「――っ、いあ――!!」


 髪を掴まれたまま背後へ思い切り引っ張られ、その痛みにたまらず青衣が悲鳴を上げる。

 だが、影が行うその凶行はそれだけにはとどまらない。掴んだ髪を引っ張り、引き寄せた青衣の頭をその手に捕らえると、まるでドッチボールでも投げるようなフォームで彼女の頭を真横へと力任せに振りかぶった。

 容赦なく叩き付けられるその先にあるのは、今まさに青衣が逃げ込もうとしていた校舎の壁。


「止せ――!!」


 顔面を頭部ごと砕きかねない凶行に、思わず交輪も声を上げる。

 だが予想に反して、叩き付けられようとしていた青衣の頭はそのまま校舎の壁を透過して、勢い余った影の腕によってそのまま体ごと真横へと投げ出された。


「……ハァ、……ハァ、……ハァ、」


 考えてみれば当然ともいえる結果に、しかし交輪の全身からどっと汗が噴き出し始める。血の気が失せる。体の中心で心臓がひっきりなしに嫌な音で騒いで息が切れる。

 そしてもう一つ、直後に身の内の内臓の底から、激烈な感情が勢いよくあふれ出す。


(―-野ッ郎ォォォォオオオッ……!!)


 幽体の地面に倒れ、間近の地面睨みながらギリギリと歯を食いしばる。

 影の暴挙が、青衣の行動が、そして何より、あんな状態の青衣にこの敵を任せたいと思ってしまっていた自分自身の弱気が、今の交輪耐え難いほどに腹立たしかった。


 見れば、校舎の壁をすり抜けて、投げ出された青衣は、投げ出されたその態勢からほとんど動かなくなってしまっていた。

 危機的状況に耐え兼ね、気を失ってしまっているというわけではない。現に青衣は顔だけは影へと向けて、恐怖に震えながら影の姿を見つめている。

 ただ、その顔に浮かんでいるのは、すでに諦めてしまっているかのようなそんな表情で。

 なぜだか交輪には、その表情が心の底から気に喰わなかった。


(クソッ――。考えろ、どうすればいい。どうすりゃこの場を、あのふざけた黒ずくめを止められる……!!)


 力の入らない四肢に強引に力を籠め、痛む体で強引にでも立ち上がろうと奮闘しながら、同時に交輪は頭の中で必死にそんな思考を巡らせる。

 文字を固めて作ったようなあの影の体には、半端な攻撃は全くと言っていいほど効果が無い。現に先ほどの火事場の馬鹿力に任せたタックルも、カッターナイフによる攻撃もあの影にはまるでダメージを与えられていなかった。

 こうなってくると、少なくとも交輪が徒手空拳で殴りかかかったくらいではどうにもできない。もっとそれらしい、決定的な力を持った武器がいる。


(けど無理だ。この幽刻下で、手持ちのもの以外の武器なんてそもそも触ることすらできない……)


 先ほどとまったく同じことを考えて、自分の思考が堂々巡りをしていることを嫌が応にも自覚させられる。

その自覚に引きずられるようにして、交輪の視線が無意識に先ほど同じ思考をしていた、まさにその場所へと辿るように向かって――。


(あ……ん……?)


 その場所にあるものを視界に収めて、ふと交輪は自分の中で何かが繋がったような、そんな感覚を確かに覚えた。

 視線の先にあったのは、先ほど交輪のすぐそばで融合してしまったカッターナイフ。

 そしてナイフと融合したことで、確かに幽体から物体へと変化している、アスファルトの路面の存在だった。

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