10:新たな入刻者

 幽霊と化した世界の片隅で、不気味な人影が立ち尽くす。

黒い文字でできた不可解な体に、顔面にスマホのようなディスプレイを張り付けたその人影が、その顔面に次々と文字を流して交輪の混乱に拍車をかける。


『ワロタ』 『説明よろ』

『なにこれ』


『どうしろと?』

  『いみふ』


『クワ?』



「……あ?」


 まるで動画サイトのコメントのように右から左へと流れていく文字たちを目で追って、そうしているうちに交輪はその文字の中に自分の名前と同じ二文字があることに気が付いた。

 まるで顔面のディスプレイを突きつけるようにして立ち尽くす文字を固めたような黒い影。

 だが顔をこちらに向けているということは、人間ならば視線は当然こちらを向いているということであり、それはつまり相手がこちらを視認しているということだ。

 この相手に目などあるのかもわからないが。

 しかしこの相手は、今間違いなく工和交輪という少年を認識している。

 それも名前を呼んだということは、こちらの名前をあらかじめ知ったうえでだ。


「……なんだおまえ? 俺にはそんなデジタルなツラの知り合いはいねぇぞ」


 未知の存在に警戒を強めて身構えながら、交輪は意を決して影に対してそう呼びかける。

 対して、呼びかけられた側である影の方は何も答えない。

 特に何か声を発することもなく、ただ顔面のディスプレイを交輪へと向けたまま、身動き一つせずにその場に立ち尽くしている。

 もしや顔に流れる文字に何かメッセージのようなものがあるのかとも思ったが。



『カオス』

『いったい何が始まってるんです?』  『なんちゅうこった』

  『ちょっと何が起きてるかわからないです』

 『これはすごい』 『なんか出た、なんか出た! なんか出た!!』

        『どうしてこうなった』

   『え、なにこれこわい』   『異常事態ってレベルじゃねぇぞ』

『世の中詰んだ』 『何もかもがおかしいです』『あー、びっくりした』

                『わけわからん』



(なんだ……? こいつも困惑してる?)


 困惑、あるいはそれはむしろ混乱なのか。

 画面の中を次々に流れるそれらの文字を見て、交輪はなんとなくそんな印象を相手に抱く。

 まるで不特定多数が人間が発した言葉の中から、驚きに類する言葉を集めて流しているような、そんな画面上の文字の数々。

 ところどころにネットスラングのようなものが混じるそれを眺めながら、交輪は直感的にこの相手が会話の通じない存在なのだと理解して、警戒から距離を取ろうと一歩後退する。

 見せた動きはたったの一歩。幽刻という環境故の性質なのか、まともな足音さえ響かない。

 だというのに、対する文字の影がその瞬間に見せた反応はあまりにも劇的だった。


『AA?』


「は?」


 びくりと体を震わせて、目の前の文字の塊のような体ががくがくと痙攣するように震えだす。

 何かまずいことをしたかと、ぎょっとして身構える交輪だったが、しかし直後に影が反応しているのが、交輪に対してでないことに気が付いた。

『AAだ』『AAがいる』『ア行ちゃん確認』『AA(笑)』『AA』『AAだAA』『ボインちゃん』『どうしてこうなった』『AAなぜここに』『クワ』『きっと彼女も幽霊』『ア行必死だな』『生意気な』『ア行のくせに』『AA』『wwww』『aiue』『うける』『アイウエ』『なぜいる』『アイウエ』『アイウエアオイ』『アイウエアオイ』『アイウエアオイ』『アイウエ』『アイウエアオイ』『なんであいつが』『アイウエアオイ』『あいうえあおい』『アイウエアオイ』『アイウエアオイ』『アイウエアオイ』――。


(--アイウエ、アオイ――!?)


 突如、急激に画面の文字を一人の人物で埋め、不気味に痙攣し始めた文字の陰の姿に、慌てて交輪は背後の階下、校庭近くの道路を歩くクラスメイトの方へと視線を向ける。

 当の青衣は、当然こちらには気付いていない。

 とは言え、それでも交輪の声は聞こえていたのか、きょろきょろと周囲を困惑したままに見回して、声の主を探しているようにも見える。

 この二人が互いを認識したらどうなるのか。頭をよぎるその疑問に、しかし交輪は全くと言っていいほどいい予感を感じなかった。青衣がこちらを認識する分にはいいかもしれないが、今交輪の間近にいる文字の影の様子はどう考えても尋常ではない。

 両者を遭遇させてはいけなかったと、今さらのようにそう思う。

 今からでも両者を引き離すべきなのではないかと、そんなことを考えながら視線を戻して、直後に交輪は自分のそんな考えがすでに手遅れであることを理解させられた。


「――おわ!?」


 とっさにその場を飛びのいて、交輪は机などを透過しながら幽体の床へと倒れ込む。

 直前まで交輪がいたその場所を、文字の影が猛烈な勢いで走りぬけ、机や近くの生徒の体を透過して、その向こうの空中へと人間離れした速度で跳躍する。


「――なっ!?」


 飛び退いていなければ思い切り激突されていた。

 そんな突然の行動に驚きながらも、慌てて交輪はその場を立ち上がり、影が飛び下りた窓のそばへと、自身も周囲のものをすり抜けながら走り寄る。

 半ば予想していたことではあったが、見下ろした下の道路では四階から飛び降りたはずの影が何事もなかったかのようにアスファルトの路面へと着地していた。

 むしろ先ほどの困惑していたときの様子と違い、その姿勢からは迷いが消え、代わりに前かがみになってどこか獣じみた凶暴な雰囲気を漂わせている。

 どうやら青衣もこの異常な存在が落ちてきたことには気が付いたらしい。明らかに人間離れしたその存在を認識すると、困惑し、おびえた様子でそれが落ちてきた上方、つまりは交輪のいる方へと視線を向けて――。


「よそ見すんな!! 逃げろ!!」


 交輪がどなりつけたその瞬間、同時に影が再び動き出す。

 先ほど見せた異常な速度で、怯え立ちすくむ青衣に向かって容赦なく。


「走れ!!」


 階下の青衣にそう叫びながら、交輪は急ぎ踵を返し、途中で自身の机の上にあったペンケースを掴んで教室を走り出る。

 ペンケースをポケットに突っこみながら壁を透過し、地上へ向かう階段を目指して、まだ混乱を頭に残したままとにかく下へと走り出す。


「ああ、ったくよぉッ!! いったい何がどうなってんだ……!!」


 次々と巻き起こる異常事態に悪態をつきながら、交輪は急ぎ階段を駆け下り、途中からもどかしくなって数段をまとめて勢いよく飛び下りた。


(これなら……!!)


 地面が幽体化している影響なのか、着地の衝撃が弱まっていることを両の足で確認しながら、交輪は勢いの良い踏切と共に、階段の踊り場から三階までを一気に飛び下りる。

 さすがに四階から飛び降りればどうなるかわからないが、これくらいの高さならば十分に許容できる衝撃だ。そのことだけを確認すると交輪は一切の躊躇をせず次の踊り場へ、そして二階の廊下へと連続で跳躍を繰り返す。

 何はともあれ時間が無い。先ほどの影の正体についてはさっぱり見当もつかないが、飛び下りる前のあの様子を見れば、安全で友好的に付き合えるお友達とは到底思えない。なぜ間近にいた交輪ではなく、はるか下の青衣の方へと向って行ったのかは不明だが、放置すればあのクラスメイトが危険にさらされるのは火を見るよりも明らかだ。


「これで行ってみて感動の再会的ハグでもしてたらとんだ笑い話なんだが……、ああっ、もうっ!! 何をやってんだろうなぁ、俺は!!」


 二階の廊下からその下の階段の踊り場へと飛び下り、その勢いも収まらないままに交輪は壁へと突進、そのまま踊り場の壁をすり抜けて、その向こうの校庭側の道路へと飛び下りる。

 わざわざ昇降口を経由して遠回りするつもりなど毛頭ない。考えてみればさっきだって、わざわざ廊下になどに出ずに直接教室の壁を走り抜けてしまった方が早かったのだ。

 今さら後悔してもしょうがないと断じながら地面に着地し、同時に周囲を見回して、先ほど上から見た位置に視線を向けてあの影とクラスメイトの居場所を探し求めて――。


 直後に道路のある土手を降りたグラウンドで、影に首を絞めあげられ、宙づりにされる青衣の姿を目の当たりにすることとなった。


「な――」


 両足が完全に地面を離れ、すでに暴れることすらできなくなって力なく宙で揺れている。

 かろうじて両手で影の腕を引きはがそうともがいているようだが、しかしその抵抗は傍から見ていてもあまりにも弱々しく、実際全くと言っていいほど効果を表していなかった。

 もはや力尽きる寸前、数瞬後には手遅れになるというそんな光景。


「――にを、してんだそこの黒いのォォォォオオッ!!」


 目の当たりにした光景に一瞬で交輪の視界が真っ赤に染まり、幽体の大地を蹴った交輪の体が信じられない勢いで影のいる方向へと跳躍する。


(――うぉわ!?)


 土手を一気に飛び下りただけにとどまらず、そこからさらに十メートル近くあった彼我の距離を一気に半分以上詰める大跳躍。

 あまりに常識外れな自身の跳躍に一瞬驚きを得た交輪だったが、しかしそんな驚愕は目の前で繰り広げられる暴挙の存在で一瞬にして脳内から吹っ飛んだ。

 生憎と考え込んでいる時間はない。今交輪がするべきは異常な跳躍に驚くのではなくその力を利用して――。


「その手ぇ放せ、この黒ずくめがぁ!!」


 着地の次の瞬間もう一度大地を蹴りつけ、その爆発的な勢いそのままに、青衣を絞殺さんとする影へと目がけ渾身のタックルをぶち込むことだった。


「んぬぉぁらァァアアアアアッッッ!!」


 雄叫びをあげ、交輪は影の胴体、青衣を吊し上げてがら空きになっている横っ腹に勢いそのままに激突する。

 自身を弾丸として叩き込むほとんど破れかぶれのような一撃は、交輪自身にもそれなりのダメージをこうむらせたものの、どうにか影の手から青衣を解放し、影自体を跳ね飛ばすことに成功していた。

 幽体の地面に自身も墜落しながら、しかしそれでも交輪は倒れてなどいられないと地面に手を突き、立ち上がる。


「……ハァ、……ハァ、……痛ってぇ……。ったく、何がどうなってやがる!!」


 影と激突した右肩あたりを押さえ、腕全体を軽く動かして無事を確認しながら、交輪は思わずそうぼやく。

 痛みに呻き、体の無事を目でも確認しようと視線をやって、そしてそうしたことで交輪は自分の体にも奇妙な変化が起きていることに気が付いた。


「――なんだこれ」


 見れば、肩を抑える交輪の体が、全身赤く輝くオーラのようなものに包み込まれていた。

 全身にまとわりつく、まるでドライアイスの煙のように吹き上がる赤い輝き。そんな輝きが交輪の見る目の前で、徐々にその光を失って薄れゆくようにして消えていく。


(なんなんだよさっきから……。これ以上、こんな変な事態に増えられても反応に困んだよ)


 立て続けに起きるこれまでにない現象の数々に、強いストレスを感じて交輪は八つ当たりのような言葉を心中で叫ぶ。

 先ほどから異常事態続きで、すでに交輪の脳味噌はパンク寸前だ。今のタックルにしたとてなぜこう異常なまでの力が出たのかもわからない。火事場の馬鹿力と言ったっていくらなんでも限度があるはずだ。


(……いや、今はそれどころじゃない)


 迷走しかけた思考を現実へと向けなおし、交輪は倒れた影に注意を払いながら背後に倒れるもう一人へと急ぎ走り寄る。


「おいっ、おい無事か!? しっかりしろ!!」


 影の腕から解放され、地面に投げ出された藍上の体は奇妙な形でグラウンドの地面に浮かんでいた。

 浮かんでいる。奇妙な話だが、目の前にあったのはそう言った方が相応しい状況だった。

 はたから見ると普通にあおむけの状態で横たわっているように見える青衣の体なのだが、しかしよく見ると背中側と両の手足がわずかに地面をすり抜け、沈み込んでいて、近くで見るとまるで水面に浮いているような、そんな状態になっている。

 まさかこのまま沈み込んでいくということはないと思ったが、しかしどのみち意識の有無などを確認する必要があったため、意を決して交輪は横たわる青衣の体を幽体の地面に手を突っ込むようにして下から支え、抱き起す。


「おい、大丈夫か? 俺の声がわかるか? おいッ!!」


「――ぅ、ゴホッ、ゲホッ、……ぅあ、ゴホッ、ゴホッ」


 交輪の呼びかけに対して激しくせき込み、苦しげに呼吸を繰り返すクラスメイトに、それでも交輪は思わず安堵の息を吐く。

 たとえ苦しかろうとも生きているならまだましだ。少しばかり躊躇しながらも苦しそうなその背をさすってやると、幸いにも青衣が呼吸を整えるのに、それほど時間はかからなかった。


「おい、大丈夫か?」


「……ぁ、……く、工和、君?」


「どうやらモノホンの幽霊にはならずに済んだみたいだな。いや、幽刻内でこの言い方は本気で紛らわしいか」


「ユウコク……? 幽霊って……、っ――!!」


 朦朧とした様子でそう呟き、直後に先ほど自分がどんな目に遭ったのかを思い出したらしく、体がびくりと跳ね上がり、両手で胸と喉を押さえるようにして、触れる体が震えだす。

 流石の交輪も、こんな状態の女子にいつもの調子で当たれるほど鬼ではない。できれば青衣が落ち着くまで少しくらい時間を取りたかったのだが、しかし生憎と交輪達を取り巻く状況は、それを許してはくれないようだった。

 それの存在に気付いて立ち上がりながら、交輪は堅い口調で青衣に向かって呼びかける。


「……藍上、とりあえず立て。まずは逃げるぞ」


「……え?」


 いつの間にか立ち上がり、顔面の不気味なディスプレイをこちらに向けた黒い文字の影が、すでにこちらに襲い掛かるべく攻撃体制をとっている。

 先ほど交輪がかなりの速度でタックルをかましたというのに、どうやらこの文字の人影はまだまだ動き回る余裕があるらしい。



『なに今の?』 『うぜぇ』   『どうしてこうなった』

 『飛びすぎ。ワロタ』

『キモイ』      『輝いてた』

『偽善乙』 『うぜぇ』


「……なあ藍上。もしかしてコイツお前のお友達か? だとしたら名前とか人柄とか紹介してくれるとうれしいんだが」


「し、知らない……。知りません、こんな人」


「……だよなぁ。そもそもコイツが人かってのも甚だ疑問だし」


 引き攣る口元で軽口をたたきながら、交輪は目の前の文字影の顔面で、徐々に流れる言葉の内容が攻撃的なものに変わっていくことに焦りを覚える。

 この正体不明の文字の塊が、どういう訳か青衣に対して強い害意を持っているのはこれまでの行動でよくわかった。

 しかも今回のこれは同級生からのいじめなどの比ではない。先ほどの躊躇のない首絞めを考えても、その害意がすでに命に関わるレベルであることは嫌というほど理解できる。


「……立て、逃げるぞ藍上」


 脅威を感じてそう声をかけ、交輪はいまだ荒い呼吸を繰り返す藍上の細い右腕を掴んで肩に担ぎ、腰に手をまわしてスカートのウェスト部分を掴んで無理やりに立ち上がらせる。

 普段ならば躊躇してしまいそうな密着具合だが、今の交輪にはそれを気にする余裕もない。思った以上に軽い藍上の体に肩を貸して、もつれる足を半ば引き摺るようにしてとにかく急いで校舎へと向かう。


「――っ、藍上。自分の足でもきっちり走れ。こんな速さじゃ到底逃げきれねぇ!!」


「ご、ごめんなさっ――!! あ、あしが、足がうまく――!!」


 恐怖に竦んでまともに走れなくなっているらしく、焦った声を上げながらほとんど走れない青衣の様子に交輪は内心で舌打ちする。先ほどのような非常識な馬鹿力を交輪が出せれば問題は解決するのだろうが、生憎と今の交輪にあの時の力の兆候はかけらも見られなかった。


(クソ、さっきの火事場の馬鹿力はどこに行ったんだ!!)


 務めて思考を冷静に保とうと努力しながら、交輪は藍上に肩を貸したまま土手を駆け上がる。ほとんど二人分の体重を交輪一人で土手の上まで引っ張り上げて、そしてそこまでが交輪に出すことができる限界だった。


 土手を登り切ったその直後、背後から猛烈な衝撃が二人を襲い、今度は交輪達二人の体が校舎近くの茂み目がけて勢いよく吹き飛んだ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る