9:変化

「兄さん。高校生活はどうですか?」


 夕食に際して、向かいに座った妹の工和織亜くわおりあから、その日交輪は唐突にそんな質問を受けた。

 特に脈絡があるわけではない。スーパーの惣菜を口に運んでいて突然ぶつけられた質問である。


「なんだよお前。人の高校生活に興味があんのか?」


「興味と言いますか……、兄様と姉さんが家を離れ、両親も共にゴールデンウイークにも帰れないとわかった今現在、兄さんが道を過たないかどうかを心配できるのは私だけかと思いまして」


 特に悪びれることもなく、しれっと兄を小ばかにしたような口を利く妹の姿に、交輪は条件反射のようにちょっかいを出すべく、己の箸で対面の皿の豚肉生姜焼きを狙う。

 当然、そんな正面からの一撃がこちらの手の内を知り尽くした妹に通じるはずもなく、やすやすと相手の箸によって防がれ、そのまま二本と二本、計四本の箸が空中で激突を繰り返し始めた。


「大きなッ、お世話だ妹よ。つか、親父たちってゴールデンウィーク帰ってくる予定だったっけ、かッ!!」


「兄さん。一応家族なのですから両親が帰って来る日くらい覚えていてください。そんなんですから、今私にこんな心配をさせているの、ですっ、あむ」


「って俺の肉ッ!!」


 一瞬の隙を突き、交輪の皿から肉を一切れ掠め取って自分の口の中に投げ込んだ妹の姿に、交輪は怒りの声を上げながら箸を伸ばして逆襲の一撃を妹の皿へと向ける。

 だが突き出された箸は見事に妹の箸によって叩き落され、最終的には交輪が豚肉を一切れ奪い取られるという敗北のみで決着がついた。実に不本意だった。


「それで、どうなのですか? 私としては兄さんに何かあれば兄様や父さんたちに連絡しなければならないかとも思っていたのですが?」


「お前は俺の監視役かよ。別に普通だよ普通」


「そうなのですか? それにしては随分浮かない顔をされていたようですが」


 そんな顔をしていたのかと思わず交輪は顔をしかめる。自分がそんな顔をしていたらしいこともそうだが、それを妹に見破られたというのもなかなか癪だった。普通ならば心配されているのかと感謝するところなのかも知れないが、人間の小ささを自認する交輪には二つ下の妹に弱みを見せるのが嫌で仕方がない。


「本当に大丈夫ですか? クラスに溶け込めず、孤立した挙句に見当違いの恨みを周囲や社会に抱いていませんか? 挙句復讐とか正義の鉄槌とかお寒い、実態はただの犯罪でしかない行為を計画したりは? 当たっていたならすぐさまそう言ってください。兄様のお手を煩わせることもありません。この場で私が兄さんに引導を渡します」


「お前の方が俺の殺害計画立ててんじゃねぇか」


 否、この妹は心配すらしていなかった。手にした箸で肉を貫いて己の決意をわかりやすく見せつけ、直後に豚肉を口に運んで茶碗から米を口に運ぶ。米に関してはともかく、生姜焼きを刺して食べるのは完全にマナー違反だった。まあ、先ほど箸でチャンバラをやらかした身としてはいまさらだが。


「ったくよぉ、俺としてはむしろお前がそのうち兄貴に捕まるんじゃねぇかと心配になるわ」


「もし犯罪者となってもそれで兄様に捕まえてもらえるなら本望です。そういう意味では、本当に捕まりそうな姉さんや兄さんには軽い嫉妬を覚えますね」


「一緒にすんなこの変態共」


「冗談はともかく」


 パチリと、オリアは唐突に自分の箸を自分の前だけにある箸置きにおいて、交輪の顔を真面目な顔で見上げてくる。背こそ平均と比べても低いものの、兄妹に共通するつり目のせいでその威圧感は結構なもので、馴れていない人間ならたじろがせるくらいの効果がその表情にはあった。


「実際問題、兄さんはちゃんと友達とかできているんですか? 中学時代は木林さんと言う兄さんの歪な性格にも付いてこれる奇特な方がおられましたが」


「その木林も同じ学校だよ。つか、誰が歪な性格だよ。お前にそれを言われるのは結構心外だぞ」


「奇遇ですね。私も兄さんに心外と言われるのは甚だ心外です。

 ……まあ、それはともかく。では兄さんも別に学校で孤立しているわけではないと?」


「って言うかお前、俺が孤立している前提で話を進めようとすんな」


「……まあ、本人がそう言うならばひとまずは信じておきますか」


 と、そう言ってとりあえずは満足したのか、オリアは再び箸を箸置きから取って食事を再開する。ちなみに交輪の前に箸置きはない。箸置きは単に、オリアが上品ぶって使っているだけの物品である。


「ですが兄さん、何か問題が発生しているのなら……。まあ、私に相談されても困りますので、それこそ早めに兄様にでもご相談を。性根捻じれた兄さんが一人で問題を解決しようとすると、どうしても問題が派手で大きくなりますので」


「誰が性根捻じれただ。つうか、お前が相談に乗るんじゃないのかよ」


「えっ、私に相談するつもりだったのですか? 歳下の妹であるこの私に? 油臭いですよ兄さん」


「それは水臭いの逆って意味なのか?」


 我が妹のことながら、またすさまじい言葉を生み出したものだとそう思った。言葉の内からにじみ出るベタついた印象がまた胸をえぐる。もしも自身の体脂肪率が高めだったら、この言葉だけで立ち直れなかったかもしれないとそんなことを思った。この妹にも十分にいじめっ子の素養がある。


「……まあ、別にねぇよ問題なんて。……俺には」


 思い浮かんだ感想に顔をしかめかけ、交輪は無理やり表情を消してそんな言葉で妹との会話を締めくくる。

 嘘はついていない。実際、交輪自身には特に何の問題も起きていないのだ。


 少なくともこの問題は、交輪の問題ではない。






 五月二日月曜日。時刻は九時五十五分となり、八回目の幽刻までも残り時間は五分を切っていた。


(そろそろ準備しておくか……)


 二時間目の授業を行う教師の動きに注意しながら、しかしさほど警戒することもなく、交輪はポケットから生徒手帳を取り出し机の隅に置く。

 実際問題、幽刻に入る際の交輪の準備など、それこそ記録を残すための最低限の筆記用具の準備くらいの物なのだ。むしろ最近では、それすらもあまり必要ないのではないかとすら思い始めている。


(ああ、そうだ。なんだったら読みかけの本も持って行くか。何しろあれの間は“暇だしな”)


 『暇』と、とても常識外れの全世界幽体化時間を迎える直前には相応しくないことを考えながら、しかし一つの正直な感想として、最近の交輪はあの時間を『暇な時間』と考え始めていた。

 現実問題としてあの時間の最中は、とにかくやることというものが少ないのである。

 もっと正直に言ってしまえば、交輪はすでにこの『幽刻』と名付けた現象に、早くも飽きを覚え始めていた。


(実際あの現象、変化ってもんがほとんどないしな……)


 別に血沸き肉躍る、命がけの冒険を期待していたわけではないが、しかしあの幽刻と言う現象はあまりにもその後の変化がなさ過ぎた。

 発見があったのは記録を付け始めた五回目まで、しかも起きている現象として新しいものは一つとしてなく、その段階での発見も新しい現象によるものは全くなく、すべてそれまでの情報を総合することで発見したものばかりだった。

 一〇三時間ごとに世界が停止して幽体化するこの現象は、確かに常識では考えられない圧倒的に不可解な怪奇現象ではあるのだが、しかし言ってしまえば“それだけ”で、この幽刻の間はとにかくやることと変化がない。

 あまりに変化がなさすぎるため、七回目に当たる前回の幽刻など、幽刻突入時刻が深夜の三時だったことも相まって完全に寝たまま過ごしてしまったほどなのだ。その前の六回目でさえ、暇を持て余して自宅の部屋の中で過ごしていた。


(それに時間が止まっているだけならともかく、みんな幽体化して触れないとなれば何の役にも立たないしな……)


 こっそりと本を取り出し、机の上のペンケースを掴みながらそう思い、そこでふと、交輪は自分が幽刻のことを“つまらない”と感じ始めた本当の理由に気が付いた。


(あいつ、どこ行ったんだろうな……?)


 視線の先、教室の一番前の、一番窓側の空席を見つめながら、交輪の思考はどうしてもそこにいない女子生徒の行方へと向かっていく。

 もう授業が始まって二十分以上たつというのに、藍上青依はそこにはいない。

 いや、いないというならば。実は彼女の後ろの席にもう一人、体調を崩したという理由で保健室に行ったという生徒がいるのだが、しかし藍上青衣の方はそう言った理由など一切なく、授業が始まる時間にはすでに教室から姿を消していた。

 ここ最近、藍上青衣に対する嫌がらせは、裏に隠れてはいるもののだんだんと見ていればわかるくらいには露骨になってきた。

 実際にやられている場面に遭遇したことはあの時以外なかったが、しかしそれらしい痕跡ならばいたるところで目に付いた。

 今回とて何があったかはわからない。わかるのは一時間目に彼女が机の中を覗いて何かに気付き、教師が怪訝そうな顔をして、そして一部の女子生徒が何やら嫌な笑いを浮かべていたということだ。それが原因であるという証拠はないが、しかし事実として、青依は直後の二時間目が始まる前の十分ほどの休み時間の間に姿を消していた。

 ならば、恐らくはそう言うことなのだろう。


(嫌になるな、ったく……)


 まるで平凡な日常を侵食するように、むしろその平凡の中に当り前のものとして入り込もうとするかのように。藍上青衣を標的とした一部の生徒のそのやり口は少しづつ少しづつではあるものの、教室内で確実にその存在感を増していた。

 恐らく、気づき始めている生徒は少なくないだろう。気付いていて、交輪のように何もせずに黙っている生徒は、恐らくはいないわけではないはずだ。

 交輪自身、それを卑怯だなどとは思わない。実際自分もそうしているから思えないというのもあるが、しかし現実問題、ここで特に仲良くもないクラスメイトのために気炎を上げたとしても、恐らく事態は解決などしないだろう。

 なにより矛先がこちらに向く可能性もある。そうなれば相手にされなくなった青衣は助かるかもしれないが、しかしそれで自分が嫌がらせの対象になったのではたまったものではない。

 前回のようにわからないように助けてやるだけならいざ知らず。

 それだとて、他のものや彼女自身に触れることができない以上限界がある。


「……ふん」


 鬱屈とした気分を溜息と同時に吐き出し、交輪は思い直して机の上に置いた生徒手帳に手を伸ばす。

 ただしそれは、ほんのわずかに、一瞬遅く。



 その瞬間、世界は幽霊と化し、一〇三時間に一度の幽刻がやって来る。



「……やっちまった」


 机の上で手が届かず、触れる寸前で幽体化した生徒手帳を眺めながら、交輪は先ほどとは別の憂鬱を込めて嘆息する。

 手に掴んでいたため、暇つぶし用の書籍とペンケースはこちらの世界に持ち込めたようだが、しかし記録用に使っていた生徒手帳はそれに間に合わなかった。ペンケースからシャープペンを取り出してためしにつつこうとしてみるが、しかしペンは見事に幽体化した手帳をすり抜けて、どころか机すらすり抜けてまったく手ごたえを返さない。


「ああ……、まあいいか。どうせ最近記録することもねぇし。検証するネタも浮かばねぇし……」


 コーヒーをスプーンでかき回すように、ペンで幽体化した手帳をかき回しながら、交輪は幽体化した机に突っ伏してその下に透ける床を見つめて考える。

 もしも。もしも幽体化したものを幽刻時にも実体化させられるのなら、それはそれで話が変わってくるかもしれない。

 もしも、と考えてしまう。もしも幽体化した物体を後からこの幽刻に持ち込めるなら、それこそあのクラスメイトに対して、誰にも知られずに手を差し伸べることだってできるのではないか、と。


「アホらし……」


 そんな条件を付けなければ何もできないというのなら、どのみちできたところでそいつは何もするまい。そんな確信と共に自身に対してわずかに苛立ちを覚えながら、しかし交輪はその願望を捨てられない。

 もしも、もしも、もしも。

 益体もなく考え続け、それに苛立ち、しかしそれでも考えずにはいられない。

 そして、そんな時だった。机に突っ伏す交輪の耳に、突如として『カキンッ』という耳慣れない、まるで金属同士をぶつけたような音が飛び込んできたのは。


「――!? な、なんだ!?」


 机から飛び起き、周囲を見回して交輪はすぐさまその音のもとを探し回る。

 この幽体化した世界で、交輪は自分が立てる音以外に他の音を聞いたことがない。

それは時間が停止し、自分以外のものが全く動いていない以上当たり前の話なのだが、それではいったい何があんな音を立てたのかと見回して、そうしてようやく交輪は自分の手元で一つの変化が起きていることに気が付いた。


 見れば、自分の握るペンと生徒手帳が、歪に一つに融合していた。



「……は?」


 生徒手帳の中心に、突き刺さるような形で、しかしただ突き刺さっているのとは明らかに違う形で融合しているペンを見つめ、交輪はしばし唖然としてそれを見つめ続ける。

 まるで飴細工を溶かし混ぜ合わせたような、そんな奇妙な接合部分。恐る恐る指先で触れてみると、先ほどから掴めていたペンだけでなく、手帳の方にもちゃんと触れて、つまむことができる。


「……なんだ、これ?」


 この幽刻と言う現象に行きあって、本当の意味で初めてと言えるその変化に、しかし交輪はただただ戸惑うことしかできなかった。

 そしてそんな交輪に対して容赦なく、二番目の異変はやって来る。


「……え?」


 今度の異変はすぐ左、窓の外の、その下の地面の方向だった。

 視界の端で何かが動くという、普通ならばなんということはない、しかしこの幽刻内では有り得なかったその現象に驚き、反射的にそちらに視線を向けて、交輪は透けた壁と床の向うに、いるはずのない一人の人間の姿を見て取った。

 顔そのものは、前髪に隠れてよく見えない。だが前髪の向うにさらに眼鏡で二重の防壁を構えた女子生徒となれば、交輪にはたった一人の人間しか頭に浮かんでこなかった。


 見間違うことなどあろうはずもない。藍上青衣がそこにいた。


(動い、てる……?)


 不安そうに両手を胸の前で組み、おどおどと周囲を見回しながら歩くその姿を見下ろしながら、交輪は反射的にそのまま立ち上がる。

 当然、立ち上がったその体は、机と椅子を見事なまでにすり抜けていた。

 周囲の生徒たちも、いつもの幽刻と変わらず、透き通ったまま静止している。

 だというのに窓の外には、こちらには気付かず、困惑した様子で幽体化した校内をさまよう藍上の姿がある。


(どうなってんだ……? あいつも、入れた? いや、でも、この前見た時はあいつだって……


 混乱に拍車がかかる。

 立て続けに起きたこれまでにない変化に、しかし困惑する交輪はうまくその現象を理解できない。

 ただひたすらに困惑し、そしてそんな交輪のすぐ後ろで、最も歪な第三の変化が現れる。


「――っ!?」


 背後で気配を感じて反射的に振り返り、交輪は今度こそそこにいる人影の姿を見て絶句した。

 いや、これを“人”影と呼んでいいのかは疑問だった。何しろこの相手は自分や地上の藍上とは違い、そもそも人には到底見えないなにかだったのだから。


「――、――、――」


 シルエットだけ見るならば、それはどうやら人間の女のようだった。

 それも交輪の周りの女子たちと同じ、スカートをはいた制服姿の人間にも見える。

 だがよく見るとその体は細かい文字が大量に寄り集まってできているようで、ところどころに見覚えのある文字やアルファベットらしきものが見て取れる。そして文字が大量に寄り集まり、重なり合って作られた人の形のその顔面部分にだけ、なぜかスマートフォンの画面のような四角い面が、スマホの画面と同じようにブルーライトを輝かせていた。


(なんだ、これは……!!)


 自分の手の中で、第一の異変が動揺に込めた握力にきしむ。


(なんだ……、これは……!!)


 背後の地上で、第二の異変が当てもなくさまよっている。


「……いったい、何だってんだよ、お前……!!」


 思わず言葉を投げかけたその先で、前のめりに立ち尽くす第三の異変がその顔面をゆっくりと交輪の方へと持ち上げる。

 人とは到底思えない、黒いディスプレイのその顔面に、まるで交輪に対して突きつけるようにその文字が表示された。




『ワロタ』

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る