8:幽体桜とマヨネーズ

 交輪とて別に、ただの過失で飲み物を買い忘れたわけではない。

 むしろ飲み物を買ってこなかったのは、その後のことを考えての計算の一つだった。何しろ四月十九日のこの日、昼の十三時という時刻は交輪が迎える五回目の幽刻の予想時刻だったのだから。


「とりあえず十三時二十三秒、予想通り幽刻突入っと。まあ、十三時ピッタリってわけじゃなかったのは予想外と言えば予想外だが、それ以外は大方予想通りだな」


 一〇三時間ごとという自身の予想が当たっていたことを確認しながら、交輪は突入時間の記録を自身の生徒手帳にキッチリと書き込んでいく。この幽刻について何をどう調べるかはまだ決めていないが、とりあえず幽刻の正確な突入時刻と突破時刻を記録することで正確に時間を計って行こうとは前回の幽刻を超えたあたりで決めていた。後の調べものはとりあえず学内をうろつきながら考えていくつもりだ。


「にしても、ふっふっふ……。木林の奴め、うまい返しをしたなどと思っているだろうが……。この勝負、俺が勝ったな!!」


 時計から目を話して片手に下げた、もともと弁当を入れていたビニール袋の中身をのぞきこみ、交輪は思わぬ幸運で買うことができたその商品にほくそ笑む。

 中に入っているのは、普通の紙パック牛乳とマヨネーズ。そう、マヨネーズである。恐ろしいことにこの学校、小型のマヨネーズを自動販売機で販売していたのだ。

 当然、木林に持ち帰るための『飲み物』として迷わず購入。マヨネーズが飲み物にカテゴライズされるのかには交輪も疑問を抱いたが、直接啜ることもあるものなら飲み物にカウントしてもよかろうと強引に結論付けた。もとよりこんな良さげなネタをわざわざ手放す気は毛頭ない。


(さて、今日はまずどうするべきか。とりあえず時間の計測は毎回やるとして、後は幽体化の特性についてか……。この前はとりあえず上に立つことはできるってことまではわかったけど、どうして立てるのかがいまいちよくわからないままだからなぁ)


 一応今すぐ落っこちる心配はないと結論付けられたものの、ではなぜ落ちないのかは今のところ謎のままだ。理由がわからないということは、いったいどんな落とし穴が待っているかわからないということであり、不安要素ではあるのだ。できればなぜ落ちないのか、その理由をある程度解明しておいて、落ちない確信を万全のものにしておきたい。


(さて、そうなるとまずは『おいてみる』系の実験が最初かね……。物はとりあえずこの紙パック当たりで……、ん?)


 飲み終えた牛乳のパックを手にそんな考えをめぐらしていた交輪の視界に、ふと予想していなかった、奇妙な人影が複数映る。

 なにかと思い焦点をそちらに合わせてみると、どうやら壁の向うに数人の女子生徒が幽体化しているようだった。

 半透明になった壁を透かして見る限り、どうやら彼女たちは動いているわけではないらしい。

 そう、動いてはいないのだが。


「動いてないってことは動いてる途中で止まったってことなんだろうが……、おいおい、なにやってんだよこいつら……」


 思わず不快気に、交輪がそう言葉を漏らしてしまったのは無理もない。

 壁を通り抜けた、校舎のちょうど裏側にいたのは四人の女子生徒。どうやら交輪と同学年らしいメンバーだったのだが、問題なのは四人のうちの三人が残る一人を取り囲み、さらに言えばそのうちの一人が囲んだ一人の髪の毛を掴んでいるのである。

 はっきり言ってただ事ではない。と言うか、校舎裏と言う地理的条件も相まって、あからさますぎるとさえ言えるような現場だった。


(……つうか、なんだかこいつら見覚えがあるな。ひょっとして同じクラスか?)


 取り囲む三人の顔を順番に確認し、交輪はその顔触れに余計に眉をひそめる。

 どことなく三人の顔に見覚えがある。交輪自身がクラスメイトの名前をほとんど覚えようとしないため名前まではわからなかったが、確かクラスでもやたらとうるさい女子生徒の中にこの三人の顔があったはずだ。

 では、残る一人。この三人に取り囲まれているもう一人は誰なのだろうと顔を覗いて、直後に交輪は顔を確認したことを後悔する羽目になった。


(……、おいおい、お前かよ)


 憂鬱な吐息が言葉とともに漏れる。

 そこにあった顔はやはりクラスメイト。それも交輪のなかで顔と名前が一致する数少ない人間の一人。

 顔を隠す隔壁の一つである前髪を取り囲む一人に掴まれ、真新しい眼鏡の奥の瞳を空虚に地面に落とした藍上青衣が、その場所で時間を止められて幽霊になっていた。


(ったく、意外性の欠片もねぇな)


 この前会話した性格的に、この状況そのものはそれほど意外に感じなかった。しいて言うならまだ入学からひと月もたっていないというのに、もうこんなことを始めているこの三人の方には驚きを覚えたが、しかしこの手の行為にシーズンなどというものが有るという話も聞いたことがない。起きる場所では初日から起きることもあるだろうし、起きない場所では卒業まで起きない可能性もある。まあ、そうは思っていても自分の通う学校でこんな真似をする輩が湧いていることには流石に不快感を覚えたが。


「ったく、嫌なものを見たぜ。今日は運がねぇ。……まあ、お前よりはましなんだろうが」


 眉を顰め、返事などしないとわかったうえで、交輪は目の前の青衣にそう声をかける。

 案の定返事などない。そしてその事実は、その時点で交輪にできることがないということを如実に表していた。


交輪とて態々この手の連中に目をつけられて、これから三年も続く高校生活に余計なトラブルを持ち込むのはごめんである。まあ、自身に危険が及ばない範囲で、例えば幽刻の間だけならば助力するのもやぶさかではないが、しかし幽刻はその性質上見ることはできてもこちらからの手出しは一切できないのだ。ならば彼女に対して交輪ができることなど、何一つとしてないということになる。


 一度は接点こそあったものの、交輪と青衣は結局のところ一度交輪の方から面倒を見ただけの、その一度しか接点の無かった関係性だ。他のクラスメイトに比べればそれでも接点が有っただけいい方だが、しかしだからと言って危険を冒してまでトラブルから守るほどの義理があるわけではない。

 仮にこの件で今目の前にいる女子三人にケンカを売れば、確かに青衣に対する行為はやめさせられるかもしれないが、その結果として交輪の方にその矛先が向く危険がある。


「悪いが、そういう問題は自分で何とかしてくれ。こっちは幽刻の分析で忙しいんだ。今日実験をやり損ねると、次はまた四日後になっちまうからな」


 聞かれるものがいないのをいいことに、身勝手なことを言いながら交輪は静止した藍上にそう言い切って、実際に彼女に背を向け歩き出す。

 そうしてその場を離れようとして、交輪はふと目の前にピンク色の何かが浮いているのに気が付いた。


(……これは、桜か?)


 見まわすと、目の前に浮いているのと同じ物体が周囲一帯に大量にまき散らされている。どうやらすぐそばに生えている桜の木から散った花弁のようだった。今年は開花時期が遅かったとはいえ、木の方はすでにだいぶ花が散ってしまっており、後から緑の葉が生えてピンク色と緑色が半々の状態になっていた。


「ああ、そうだ」


 と、そうして散って空中で静止した花びらを目の当たりにしたことで、交輪は自分が行おうとしていた実験に新たな項目を付け加えることを思いつく。


「っと、そうなると実験はここでやんなくちゃな」


 誰にともなくそう言って、交輪はポケットから生徒手帳を取り出し、持っていた牛乳の紙パックを自分のすぐ足元、幽体化した地面の上へとおいて手を離す。


「おお、置けた……。別に物でも地面の上には載せておけるんだな……」


 これは新たな発見だと、交輪は実験の結果を手帳にメモして、次の実験へと移行する。

 とりあえず、地面の上に物が置けることは判明した。

 ならば今度は、地面以外のものの上に物を置くことはできるのだろうか。


「と言う訳で、ちょっとごめんよ」


 届くはずの無い断りを入れながら、交輪はすぐ近くにいた四人、そのうち取り囲む三人の一番手前にいた女子生徒の、その腕の上へと牛乳パックを移動させる。

 まさか自分の手の上に物を載せられるなどとは思っていなかっただろうその女子の手は、当然物を載せやすい状態にはなっていなかったが、しかし交輪はそれでも慎重にバランスを調整して、女子生徒の胸の前で折り曲げられた腕へと牛乳パックを乗せてやった。

 どうやら幽体化した物体の上になら、どんなものの上にでも物は乗せられるらしい。

 いや、だがどうなのだろうか。今乗せたのは牛乳パックと言う個体だったが、ならばたとえば液体などを乗せた場合はどんな状態になるのだろうか。


「おっとしまった。牛乳は今飲み終えちまったんだっけああどうしよう。仕方ない。マヨネーズで代用するか」


 質感は明らかに交輪の望むものではないが、しかし卵や酢を混ぜて作るのだからマヨネーズだって液体だろうと、そんな適当極まりない考えで交輪は袋の中のマヨネーズのキャップを開け、適当にマヨネーズをかける場所を探す“ふり”をする。

しばし周囲を見回したその後、交輪はようやくその場所を見つけたという顔をしてその場所の上へと手の中のマヨネーズを絞り出す。

 ちょうど目の前にいた、三人の女子生徒の頭の上へと。


「ふぅむふむ。どうやらマヨネーズでも同じように幽体の上に乗せられるらしい。これはなかなか興味深い結果だ」


 呟きながら三人の頭上でマヨネーズにとぐろを巻かせ、そうして九割方空になったマヨネーズのチューブを手元に戻す。最後にこの場で行うのは、交輪が先ほど花びらを見て思いついていた実験だ。

 すなわち、空中で静止した花びらの上に物を乗せられるかどうか。


「おお、すげぇな。マジで花びらの上にものがのるぞ……!!」


 比較的近い場所に静止していた二枚の花弁の上に持っていたマヨネーズのチューブを渡しかけるようにおいて、生まれた結果に交輪は思わず感嘆の声を上げる。

 まるでマヨネーズチューブが空中に浮いているような光景。いや、実際チューブを置いている花弁は宙に浮いているのだからマヨネーズも浮いているとみて間違いはない。

 なかなか興味深い結果が得られたと満足し、交輪は結果を簡単に手帳にまとめてもと来た道を歩き出す。


「さぁて、この後どうするかな……」


 自分が行った実験の結果、この場でこれからどんな事態が起きるかなど交輪は“全く考えていない”。

 幽刻が終わったその瞬間、三人は自分の頭にマヨネーズがかかっていることに気が付くかもしれない。

そのすぐ後に、背後に落ちるマヨネーズのチューブを見て自分たちが上からマヨネーズを浴びせかけられたのだとも考えるかもしれないわけだが、しかしそんな事態を今交輪は“全く予想などしていない”。

 まあ、仮にそんなことが起きたらならば、彼女たちはそれまでしていた行為を、それどころではなくなって放り出すだろうことくらいは想像できるが。


「とりあえず体育館にでも行くか」


 階段を上らずに済み、なおかつここから遠い場所として体育館を選び、交輪はそそくさとその場を離れて幽刻の中を歩き出す。


 ちなみにその日、昼休みが終わった後に、なぜか体育もないのに体操着に着替えた三人の女子の姿があった。

 交輪は相変わらず名前など覚えていなかったが、やたらとうるさい三人がマヨネーズがどうしたと騒いでいたのだけは耳へと届いていた。

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