6:藍上青衣

 正直に言ってしまえば、交輪の中で藍上青衣という少女はそれほど印象に残っている相手ではなかった。

 確かに名前こそ母音縛りで覚えやすく、だからこそ交輪も名前を思い出すことができたのだが、しかし逆に言えば名前以外の要素で思い出すことができないくらいには、この少女は教室内でも影が薄かったのだ。


 交輪とてクラスメイトとの付き合いがいいとは言い難い人間だが、藍上青衣と言う少女も相当にコミュニケーションが苦手な少女のようだった。

 話す言葉はたどたどしく、いちいちこちらにビクついていて話の途中でしょっちゅう言葉に詰まる。

 それでも、交輪にしては辛抱強く彼女がふらついた理由を聞いてみると、どうやらいつもはかけていた眼鏡を壊してしまったらしい。

 いったいどんな経緯でそうなったのかは頑なに言おうとしないためわからなかったが、本日掃除当番で残っていたという彼女は、その過程で眼鏡を壊し、結果まともに歩くことさえも困難になったそうだ。


「距離感が、わからないんです……」


 交輪に手助けされながらどうにか階段を上りきり、交輪の質問に対し、青衣はそう回答する。

 彼女曰く、眼鏡なしでは地面との距離感があいまいで、階段などの段差は特に躓きやすいらしい。まあ確かに、足元があいまいと言うのは形こそ違えど交輪も最近経験していたことではある。なにかにつかまらなければ歩けないというその恐怖は、交輪にしてみてもあながちわからない気分ではなかった。もっとも交輪の場合つかまれる場所そのものがなかったのだが。


「すみません、でした。えっと……」


「工和だ。同じクラスの工和交輪。一応席はお前の列の一番後ろな」


「クワ……、くん?」


 名前を憶えていなかったのか、あるいは顔の判別がついていなかったのか、恐らくは両方なのだろうなと予想していると、しかし前者に関しては少し違ったらしく、青衣はブレザーのポケットから何やら取り出して交輪へと渡してきた。


「あ、あの、工和君、これ……」


「あん? 生徒手帳……、ってこれ俺の?」


「……えっと、体育館に、落ちてて」


 受け取って確かめてみると、差し出されたそれは確かに交輪の生徒手帳だった。わざわざ中を改めるまでもない。生徒手帳の外側には交輪の顔写真付きの学生証が収められている。


「掃除の途中で、見つけて……」


「ああ、なるほど。お前の掃除当番の場所って体育館だったのか」


 言われて、彼女が生徒手帳を持っていた理由に納得する。やはり交輪が手帳を忘れたのは体育館だったらしい。どうやら彼女は掃除の途中でそれを見つけて、拾っておいてくれたらしかった。

 しかしそうなると、当然交輪には懸念しなければいけない事項がある。


「ところで一つ聞きたいんだけどさ、お前これの中身見たか?」


「え?」


「いや、この中に何をメモってるとか……、ああいや、何でもない」


 言いながら、自分が余計な墓穴を掘っていると気づいて交輪はすぐさま口を噤む。これで青衣が何も見ていなければ、交輪は余計な疑念を青衣に抱かせるだけのことだ。


「――あ、あのッ!! えっと、中は、見て、ないです。その、目が、見えなかったから……」


「……ああ、そう」


 そうして交輪が追及を避けようとしたその時、何かに気付いたらしき青衣があわてたようにしてそう口走る。ただしその回答ははっきり言って無い方がよかった。これで何も言わずになかったことにしてくれれば、交輪は見ていないだろうと自分に言い聞かせてこの場を去ることができたのだから。


(いや、目が見えなかったんだったら、どうして学生証で俺の名前とかわかったんだよ)


 それ以前に、足元すらまともに見られない人間に、果たして落し物が見えるものなのかも少々怪しい。

 そんな風に青衣の言葉の致命的な矛盾に心の中でツッコミを入れながら、しかし交輪は深く追及することを避けて口を噤んだ。気を使ってなのか、それ以外の理由なのかはわからないが、せっかく相手がなかったことにして話を進めないでくれているのだ。わざわざこの話題を掘り返して、これ以上墓穴を掘り返すこともないだろう。


「ところでお前、眼鏡を壊したって言ってたけど、壊した眼鏡は今も持ってるのか?」


「……え、も、持ってますけど……」


「見せてみろ」


 交輪がそう催促すると、青衣はたじろぎながらもおずおずとブレザーのポケットからメガネを取り出し、交輪に見えるのようにその残骸を差し出してくる。

 とは言え、実際に見てみるとその眼鏡は酷いありさまだった。

 元々は黒縁の酷く地味な眼鏡だったようだが、いったいどんな壊し方をしたのかフレームは折れてレンズは二つとも割れていて、素人目に見てもとても直りそうにない。


「酷いな。落として踏んづけでもしたのか?」


「え、ええ……。その、不注意で」


「顔の一部ならもっと大切にしやがれ。お前、鞄は教室か? とって来るからとっとと行くぞ」


「……え? 行くって、あの、どこに……」


「メガネ屋だよ。決まってんだろうが。とりあえずメガネ屋までは送ってやる」


「え……、でもそんな、悪いから――」


「――手帳、拾ってもらった礼だ。ついでに中を見られてたなら口止め料な。オラ、ぐずぐず言ってないでとっとと行くぞ。そもそもお前一人じゃ、まともに家に帰りつけるかどうかも怪しいだろうが」


 有無を言わさずそう言い切って、交輪は自分たちの教室に青衣のカバンを取りに戻る。

 これが藍上青衣と言う同じクラスの女子生徒との、交輪が持った初めての接点だった。






 聞けば青衣の行きつけの眼鏡屋と言うのは、普段交輪が利用している学校の最寄り駅から三駅ほど電車で移動した駅の駅ビルの中だった。交輪の家の最寄り駅とは反対方向になる場所だが、物心つくころからこのあたりに住んでいるだけあってそれなりに利用してきた駅である。他の線への乗り換えや、映画館などの娯楽施設も充実している駅で、買い物にも便利なため、幼いころからそれなりに訪れたことがある。

 電車で移動して駅に下りたち、改札を通って駅ビルの中へと入る。電車の乗り降りや階段などで、まともに歩けない青衣の手を引いて歩くのはそれなりに人目も引いたが、あの手帳の内容を口外されるくらいならばましだと、自分自身にそう言い聞かせて割り切った。


 メガネ屋にたどり着き、青衣が適当に眼鏡を選んで注文する。

 意外だったのは、眼鏡という奴が意外と出来上がるまでに時間がかかる代物だということだった。

 じゃあそこらに並んでいる眼鏡は何なのだという感じだが、老眼鏡などならともかく、青衣のような近視用の眼鏡というのはレンズの準備も必要なため若干時間がかかるものらしい。

 一応、三十分ほどで眼鏡はできるということだったが、しかしやはりできるまで待つ必要はあるようで、交輪達はできるまでのその時間を同じ建物内にあったファーストフード店でつぶすことにする。見栄を張って喫茶店と言うのも考えたのだが、見栄でしかないそんなものに金をかけるのも馬鹿らしいと即却下した。連れの少女の見るからに細そうな神経が、そんな場所に連れ込まれて耐えられる気がしなかったというのも理由としてはあったのだが。


「メガネ、あんな地味なのでよかったのか?」


「は、はいっ。……だ、大丈夫、です……!!」


 交輪の斜め前の席で、軽く声をかけられただけで青衣の体がびくりと跳ねる。

 メガネ屋まで引っ張っていく間まではよかったのだが、店で待つことにして飲み物だけ頼み、席についてからは万事この調子だった。

 正面でも隣でもなく、斜め前に座っている時点で相当に心の距離を感じる。ずっと顔を伏せ、前髪で必死に視線を隠して動かない青衣の姿勢は、ここまで来るともはや見事と言ってもいいほどの心の閉ざし方だった。

 とは言え、そんな自分の態度を青衣自身もまずいとは思っているようで、何やら必死に、そして無理矢理に話題をつなげてくる。


「大丈夫、ですッ!! 眼鏡、地味でも……、あんまり派手だと、し、死んじゃいますから……!!」


「どんな死因だよ」


「そ、それに、すぐ壊れちゃいますし……」


「いや、もっと大事にしろよ。なくちゃ困るならなおさらだろ」


「……う、うう……」


 交輪の言葉にいよいよ進退窮まったような顔をして、青衣が絶望的な顔をして再び顔を伏せてしまう。交輪としては軽いツッコミ程度の意識だったのだが、どうやらこの少女は交輪の言葉を大真面目に受け取ってしまったらしい。

 扱いに困ると、そんな感想を抱きながら、交輪は途絶えた話題を諦めてまた別の話題を振ってみることにした。

 幸い、こうして彼女と直に会話する機会を得たことで、交輪としては一度聞言えておきたいこともあったのだ。


「青は藍より出でて藍より青し」


「――え?」


「お前の名前、藍上青衣ってのの由来、このことわざであってるか?」


 問いかけると、斜め前に座る青衣が前髪の向うで目を丸くする。青衣は何も答えを返せなかったが、その反応だけでとりあえず正解なのだろうという予想はついた。

 青は藍より出でて藍より青し。衣を染めるのに使われていた染料に藍草と呼ばれる植物が有り、この藍草から出た色は藍草そのものよりも青かったことから、もっぱら師匠を弟子が越える、などの意味で使われている言葉だったはずだ。

 交輪も初めて藍上青衣という名前を聞いた時こそ、母音尻のその名前に驚いたものだが、しかし藍より上の青い衣とかくと聞いた時何となく納得したのを覚えている。

 一見酔狂な名前に聞こえるが、字を見れば意外にまっとうな由来を持つ名前なのである。


「確か努力の大切さみたいなのも意味してる言葉だったし、あとは親を超えろみたいな意味もあったのかね……」


「良く、わかりましたね……。あんまり、わかる人いないのに……」


「いや、単に指摘しなかっただけなんじゃね? それほど使われる言葉じゃねぇけど、かといって知ってる奴も少ないって訳でもねぇんだし。

……ってかよ、今の高校に、それを指摘してきた奴っていなかったのか?」


「……一人だけ、います」


 交輪としてもかなり踏み込んだ質問だと思っていたが、しかし意外にも、帰ってきたのは微かな笑みさえ混ざったそんな言葉だった。

 正直交輪としては、この少女が回りとまともな人間関係を築けているのかさえ心配になっていたのだが、しかしその表情を見る限りではその心配はどうやら杞憂だったらしい。


「一人だけ、近くの席の人が気付いてくれて、それから少し話すように……。掃除当番も、その人と一緒だったんですけど」


「……そうかよ」


 どうやら本当に大丈夫なようだとそう思い、交輪は軽く笑ってこの話題を切り上げる。

 性格と態度で心配していたが、本人がこう言っているのなら大丈夫なのだろう。そもそも竜昇とてそれほど友人が多いわけでもないし、それに彼女のここでのあの態度が、交輪自身にも原因が無いかと考えると実は否定しづらくなる。

 実際、親戚の子供に顔を合わせるたびに泣かれているような交輪である。不本意ながら性格的相性というのもあるだろう。


「……っと、そろそろ眼鏡、できてる時間だな。準備がよければ、そろそろ行って見るか?」


「あ、いえ。後は、一人で大丈夫です。ここからなら、店までは一人でもいけますから」


「そうか? まあ、大丈夫だってんなら俺はこれで帰るけどよ」


 確かに、今いる店とメガネ屋の間には階段などの段差もないし、距離もそれほど離れてはいないので今の青衣でも行くことは可能だ。ここで帰ってしまうのも薄情かとも思ったが、しかし本人がいいと言っているのに無理についてくのも少々押しつけがましいというものだろう。


「あ、あの……。今日は本当に、ありがとうございました」


「ハッ、別にいいよ。言ったろ、手帳拾ってもらった礼と、口止め料代わりだ。もし手帳な中見てたって言うなら、あの中身のことは誰にも言うなよ」


 礼を言う青衣に背を向けて、プラプラと手を振りながら交輪はそう言って自身の帰路につく。交輪にとっては改めて礼を言われるのも気持ち悪いと、相手の謝意を適当に受け流そうというそんな態度だったのだが。

 しかしだからこそ、青衣に背中を向けていた交輪は気付いていなかった。

 交輪を見送り、そして『誰にも言うな』と言われた青衣の表情が、交輪の見えない所で確かに曇っていたことに。

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