5:手帳の記録
さて、一応幽刻についての記録を付け始めた交輪だったが、書ける事実というのは思いのほか少なかった。一応手帳に記した確定事項を読み返してみると、
一、 今後この現象を幽刻と名付け、呼ぶこととする。
二、 幽刻とは周囲にあるものが皆一様に静止し、幽霊のように半透明、かつ触れることのできない奇妙な状態になる現象を差す。以上の現象が世界的なものなのか、あるいは一定範囲内にとどまるものなのかは不明。
三、 判明している限り、現状この幽刻時に実態を保ち、行動できるのは自分こと工和交輪のみ。自分以外に幽体化せずに残る人間がいるかは不明である。少なくとも今現在自分以外に実体化したままの人間、さらにはそれを含む生物には遭遇していない。
四、 ただし自分以外にも、着ている服や荷物等も一緒に実体化している。因果関係は不明。
五、 幽刻はおよそ一〇三時間ごとに起こるものと推測される。正確な時間は要計測。
六、 幽刻は突入後約二時間で元に戻る。正確な時間はこちらも要計測。
七、 幽刻下では足元の床や地面もまた透過するが、なぜかその上に立つことはできる。具体的な条件は不明だが、重心を預け、体重のほとんどをかけると態勢を問わずその上に乗ることができる模様。
と、この程度。なんというか、『不明』と言う文字がやたらと多く、肝心なことは何一つわかっていないというのが手帳を読んでの交輪の客観的な感想だった。
その後手帳には少しページを開けて、交輪が思いついた疑問点がいくつか書き込まれているが、それらの中でその疑問を解消する方法が思いつくものは極端に少ないのが現状だ。
そのままページを少し先に進めると、そこにはこれまでと今後の予測される幽刻の日時が箇条書きで記入されている。現状予想してあるのは五回先までだが、これらが的中するかどうかが目下のところ一番の関心事だった。
(まあ、って言っても今朝幽刻があったばかりだから、次の幽刻はそれこそ四日後なんだが……)
何を試すにしても、とりあえず四日後まで待たなければならない。
その事実を再認識して、四日と言う日数の長さに嘆息しながら、交輪は繰り返し手帳のページをめくる。
「交輪、反復横跳び、そろそろ君の番だよ」
と、手帳に没頭する交輪に対して、後ろから聞きなれた声がそう告げてくる。
振り返るまでもない。出席番号的にも並び順でも交輪の次に当たるのは木林生基ただ一人だ。
「ところで交輪、君は何でスポーツテストに生徒手帳なんてもってきてるんだい? まあ確かに生徒手帳は常に携帯すべし、みたいなことが書いてあったような気がするけど、そんなもの守ってる人間の方が少ないだろうに」
「ああ、いや、ちょっとしたパズルをな。なかなか難しくて手帳にメモって来たんだよ」
立て板に水で思いついた嘘を吐きながら、交輪は手帳を閉じて持っていたスポーツテスト用の記録用紙と共に持つ。現在交輪たちは、と言うよりもこの学校の全校生徒はスポーツテストと健康診断の真っ最中だ。回る順番は学年やクラス、性別によって異なるが、交輪たちは今校庭でスポーツテストの順番を待っている状態にある。
つまり暇を持て余しているということだ。
「へぇ。交輪ってパズルとか好きなたちだっけ? ちなみにどんな問題? 良ければ僕にも聞かせてよ」
「嫌だよ。これでお前が解けちまったら俺のプライドはズタズタじゃねぇか。こういうのは自分で解きたい質なんだよ俺は」
暇を持て余した木林の要請を、適当な理由をつけて交輪は突っぱねる。本当に手帳に記されている文句を考えれば、まさかこれを他人に見られるわけには行かない。家族を含めた周囲からひねくれ者とみられている交輪だが、だからと言って電波さんとして扱われることには何の憧れも抱いてはいないのだ。
「ええっ……、いいじゃないかケチだな。そういうならせめて雑談にでも付き合ってくれよ。さっきからその手帳に交輪を取られちゃってヒマでしょうがないんだから」
「わぁったよ。っと、そろそろ俺の番みたいだから話は次の待ち時間な」
そう断りを入れて、交輪は並ぶ係りの一人に用紙を渡し、言われるがままに反復横跳びをこなしていく。
出てきた記録は、可もなく不可もなく。平均を下回らなければそれでいいという、交輪の性根がそのまま反映されたような記録だった。
用紙を受け取って近くに置いていた手帳も手に取り、交輪はすぐ後に同じく反復横跳びを始めた木林が計測を終えるのを待つことにする。
「……ん?」
と、そうして待ちながらふと気付く。何となしに視線を向けた先、校庭を挟んで校舎のちょうど反対側の雑木林の中に、見慣れない建物が一つ立っていることに。
(あれ……、あんな建物あったんだな)
幽刻をさまよい、学校中を歩き回った時でも気付かなかった。見たところかなり古そうで怪しげな建物で、遠目にも痛んでいるのがわかるような荒れ方をしている。季節が季節なら、肝試しにでも使えそうな怪しさだった。
「どうしたんだい交輪? こんなところで立ち止まって」
「ああ、お前も終わったのか。いや、あんなところに建物なんかあったんだなと思ってさ」
そうしているうちに反復横跳びを終えて追いついた木林に声をかけられ、交輪は友人にそう返事を返す。
木林は交輪が指さす先に一瞥をくれると、とたんに呆れたような表情になった。
「あったんだなって交輪、あれだよ入学式の日に注意された旧校舎って。もしかして君、話を聞いてなかったのかい?」
「……注意、されてたか? 悪いな。完璧に聞き流してたわ」
そもそも入学式の日の交輪の心境を考えれば、幽刻のことで頭がいっぱいで話を聞く余裕などなかったのだが、そんなことこの友人にも流石にわかる訳がない。木林は再び呆れたような表情を重ねると、親切にもその時の注意を交輪に説明してくれた。
「あの旧校舎、もうすぐ取り壊しの予定なんだけど、老朽化してて危ないから立ち入り禁止だってそれだけだよ。入ったらすぐに床が抜けるとか、地震が起きたら倒壊するとかじゃないみたいだけど、念のためだって」
「なんだ。その程度の危険で入るなって言われると逆に入りたくなるな」
「言うと思ったよ。めんどくさいから止めないけど、バレたらキッチリ罰則もあるみたいだから気を付けてね」
「その気も萎える言い方だな」
その気質を理解する友人にキッチリ丸め込まれながら、交輪は次のテスト会場を目指して歩き出す。結局のところ、交輪の旧校舎に対する興味はこの段階であっさりと失われていた。
さて、問題が起きたのはその日の放課後のことである。
学校が終わり、一度は帰宅の途に就いた交輪だったが、しかし帰る途中で問題の生徒手帳が無くなっていることに気が付いたのだ。
慌てて教室に探しに戻ったのだが、机の周囲をいくら探しても見つからない。
どうやらスポーツテストの最中にどこかにおいてきてしまったらしい。
そうと気づいて先のスポーツテストの道順を思い出しながら、交輪は参ったとばかりにため息をつく。
(ったくどこで置いてきたかな)
木林と会話した際にはあったため、少なくともグラウンドでのテストの途中まで持っていたのは確実だ。とは言え流石にその後は思考が煮詰まったこともあって手帳を見る機会も減ったため、どこまで持っていてどこで置いてきてしまったのかが分からない。
とは言え、スポーツテストの会場はもっぱら体育館とグラウンドだ。これが健康診断があとにくるクラスだったならばそちらもまわらなければならない所だったが、幸いにも交輪たちのクラスは健康診断を先にやって、その後にスポーツテストがあったため、探すべき場所はたったの二か所に絞り込まれている。
(……とは言え、もしも片付けの最中に誰かに見られてたらそれはそれでことだが……)
使った機材を片付けた際、一緒に見つかり、拾われるというのはいかにもありそうな事態である。もっとも、見つけるだけならば特に問題はない。生徒手帳はそのカバーに学生証を入れるスペースがあり、誰のものかわかる名前が顔写真付きで載っているため、帰ってくる公算はむしろ相当に高いのだ。まずいのは中に書いてある、あの電波な考察文章を誰かに読まれてしまった場合である。
電波な文書の作者の名前が、顔写真付きで載っている。
想像するだに恐ろしい、最悪の展開だった。
「とっととあの手帳を回収しよう……」
口に出して階段を降りつつ、今後は幽刻について書く物も変更しようかと真剣に思案する。とは言え、これに関しては交輪の中でも迷うところではあった。なにしろ、幽刻に遭遇しても持っていられる、いつでも持ち歩けるものとして交輪は手帳を選んだのだ。これをたとえ生徒手帳から普通の手帳に変えたところで起きる問題は同じだろうし、大学ノートに変えて家に置きっぱなしにしておけば持ち歩けるというメリットが失われてしまう。いっそスマートフォンのメモ機能でも活用しようかとも思ったが、正直言って交輪はスマートフォンでのタイピングがあまり得意ではない。
そんなある意味でどうでもいい悩みに交輪が頭を悩ませて、教室からまずは体育館に向かおうと階段を下りていると、ふと、階下から誰かがこちらに上がってくるのに気が付いた。
(……ん?)
上がってきたのは、一人の女子生徒。上履きの色や制服の様子などから、交輪と同じ一年生なのが読み取れる。顔は前髪に隠れて見えなかったが、どうにもどこかで見たような印象がある生徒だった。
まあとは言え、それはこの際どうでもいい。問題だったのはその女子生徒がかなり尋常でない様子だったということだ。
(……おいおいッ――!!)
覚束ない、つま先で足元を一歩一歩探るような足取り。手すりに縋り付くようにして、それでようやくといった感じの危うい歩き方。
そんな見ているだけで危なっかしい、今にも階段から転げ落ちてしまいそうな足取りに、流石の交輪もギョッとする。いくらなんでもこれで事故でも起きたら寝覚めが悪いと、一声かけてから手を貸そうと考えて。
「おい――」
「――え?」
唐突に掛けられた声に女子生徒が顔を上げ、同時に視線が上がったことで足元がおろそかになったのか、踏み出した足が階段を踏み外した。
「――ぅあ」
「――っぶねぇ!!」
とっさに、両腕を伸ばし、前向きに倒れ掛かる少女の体を受け止める。腕を階段と少女の間に滑り込ませ、どうにか階段に倒れ掛かるのを防ごうとして。
差し出した両腕に、何やら柔らかい感触がそれぞれ接触した。
「……ぉぅ」
屈んで両腕を差出て人間一人を受け止めるという、なんだかバレーボールのトスのような態勢を自嘲しかけて、そこで自分の冷静な部分が「そうじゃないだろう」と交輪を現実に引き戻す。
腕に当たる感触が柔らかい。その正体が何なのかがなんとなく想像ついてしまうがなかなか嫌だ。――よもや自分にこんな漫画的な事態が起きるとは、イヤイヤ、掌で触れているわけではないからセーフだろう、などと頭の中で呪文のように自分に言い聞かせて視線を下げると、そこには受け止めた少女の見開かれた眼が二つもあった。
それも相当な至近距離。前髪の防壁すら乱れて消えて、遮るものの無い視線が一瞬の間交錯する。
(あれ……? こいつどっかで見覚えが……)
と、そんな思考の脱線も、堕ちいった状況はおちおち許してはくれなかった。
目の前の二つの瞳が徐々にうるみ、同時にその周囲の顔色が真っ赤になって、直後に目の前にあった顔が交輪から一気に遠ざかる。
「――ッ!! ――やッ、ご、ごめんなさ――」
「危ねぇッ!!」
慌てて立ち上がり、今度は後ろ向きに倒れかける少女の腕を、交輪はとっさに伸ばした手でギリギリ掴み取る。
手すりを掴み、足を踏ん張ってどうにか二人分の体重を支えながら、とりあえず交輪は少女を引き戻そうとして、同時に見覚えのある女子生徒が誰であるかにようやく気が付いた。
「お前、……確か藍上、だったか……?」
「え?」
驚きの表情で、目の前の少女がこちらを見返してくる。以前見た二重防壁のうちの一枚である眼鏡こそなかったが、前髪で顔を半分覚したおさげの少女は、どうやらクラスメイトの藍上青衣で間違いないようだった。
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