4:一〇三時間

 四月十五日・金曜日。朝目覚めたら幽刻だった。

 枕もとの時計を見ると、時刻は午前六時で止まっている。とりあえずベッドで寝ていたにもかかわらずベッドをすり抜けて落ちるような事態になっていないことに気付き、交輪は思わず巨大な安堵にため息を漏らした。

 三回目のあの現象から昨日までの四日間は、ほとんど生きた心地がしなかった。

 いつまたあの現象が起きて、今度こそ床や地面をすり抜けて落下するかもわからないのだ。一度は落ちても大丈夫なようにと、兄が昔使っていた登山用品の中から、命綱替わりのハーネスなど探してみたこともあるが、世界中の物体がすり抜ける状況下でハーネスのカラビナを繋げられる場所などあろうはずもなく、かといってこんな現象、誰かに助けを求めることも不可能で、昨晩の段階で交輪の中からは完全に打つ手が失われていた。

 いつ来るかもわからない幽体化現象におびえて夜も眠れず、しかしそんな状況に体が付いていけずに力尽きるように眠りに落ちたら、目覚めた時がその現象の真っただ中だった。

 この現象を神様が仕組んでいるのだとすれば意地の悪いことこの上ないが、しかし一方で、横になった状態で幽刻を迎え、それでも落ちていくことがなかったというその現実が、交輪の内心にわずかながらも余裕を取り戻させていた。


「頼むぜ神様……。これで落ちたらマジ呪う」


 こんな時だというのに神様に対して祈りではなく恫喝をささげるあたり自分も相当にひねくれていると思うが、しかし心境としては祈りに近いものを抱えながら、交輪は意を決してベットの上から飛び降りる。

 いつもと少し違う床の感触が足裏に返り、交輪は床面への無事の着地を確認。恐る恐る足でベッドの横を蹴ると、足はそのまま幽体化したベッドをすり抜けた。


「とりあえず着ている服なんかと一緒に実体化してるって訳ではない、と」


 かぶっていた布団は実体化しているようだが、そちらもきっちりとベットの上に引っかかっており、すぐさま落ちていく様子はない。

 そこまで確認し、交輪は一度深呼吸して覚悟を決める。

 問題はその先、この次にやる実験だ。失敗すれば本当に落ちかねず、正直やらずに済むならそうしたいような実験だが、しかしだからと言ってここでやらずにまた眠れぬ夜を過ごすのはもっと嫌だった。


「これ逃したら、次がいつになるかもわかんねぇしなぁ……」


 ぼやきながらも視線は決してベッドの上から外さず、交輪は床面を蹴ってベッドの上へと飛び上がる。先ほどまで寝ていられて、しかしその後蹴った時はすり抜けた幽体ベッド。そのベッドはしかし、


「――っ、はっ……!!」


 着地してもへこまず、そのためか少し本来の感触とは違ったものの、それでもすり抜けることなくしっかりと交輪の体重を受け止めた。


「……とりあえず、成功……!!」


 一番の山場を越えたような気分に再び安堵しながら、交輪は気を引き締めなおしてベッドから降り、残る可能性を検証していく。

 時々ベッドに体をすり抜けさせながら、ベッドの上に足をのせたり座ったりと言った動作を繰り返し、思いつく限りの全ての検証を念入りに終えた直後には、世界が実体のある元の世界へと戻ってきた。

 いつも通りの色に戻った世界がまぶしく、外から聞こえる鳥の声と車の音が、今はとにかく懐かしい。


「……とりあえず、落ちる心配はいらなくなったかな……」


 行った検証の結果からそう結論付け、交輪はようやく緊張を解いてベッドに横になる。帰ってくる感触の自然さが、今はただひたすら心地よかった。


「一定の体重をかけると足場として機能する……、いや重心を預けると、か? とりあえず歩いたり立ったり、座ったり寝そべったりしようとすると受け止めるけど、ただ触ろうとしたり、なにも意識していないとすり抜ける……か。あの幽体マジわけわからんな……」


 部屋の中でいろいろと検証して、そうして至った結論がそれだった。とは言えこの推測が正しければ、とりあえず交輪は足元の心配をしなくていいはずである。

 そして、そんな結論が出てみると、心に余裕ができた分思うこともある。


「あの現象、本当に一体何だってんだ?」


 内心に湧き出すのは、危機感に突き動かされてのものともまた違う純粋な興味と、工和交輪という少年特有の反発意識。

 入学式で最初に行きあってから都合四回遭遇することになった、世界の時間が止まり、そのすべてが幽霊のように半透明になりすり抜けるという、今のところ交輪しか認知していない異常事態。

 その正体がいったい何なのか。それがいったいないを意味して、何を原因に起こっているのか。

 ここまでこの事態に振り回されて、それでこの現象になんの反発も抱かないほど、交輪という少年は従順でも素直でもない。

この現象の正体を解き明かしてやることで、なんとなく鼻を明かしたような気分になろうとするのが、むしろ交輪という少年の本来の性質だった。


「……とは言え、ここで考えたくらいで分かるならこの四日間苦労はしてないしなぁ……」


 考え込みながら起き上り、何の気なしに部屋を見渡して、ふとその視線が机で止まる。机の上に立てられた、小さなカレンダーを眺めていたら、一つ気づいたことがあったのだ。


「そういえばこの現象、四日ごとに起きてるか……?」


 最初にこの現象に行きあったのが、忘れもしない四月の二日。次が六日でその次は十日、これだけ見れば、見事に四日ごとにこの現象は起こっている計算だ。


「……いや、それを言うなら今日は十五日で五日目だし……。それに朝だったり午後だったり夜だったりと時間もバラバラ……、待てよ?」


 額に手を当て、それだけでは思い出せず指先で額を叩き、交輪はなんとかその時の記憶を思い出そうと奮闘する。

 最初の二日、この現象が起きたのは入学式の少し前、ちょうど時間にして午前の九時前後だった。

 六日は下校途中。ここ最近覚え始めた生活パターンを思い返せば、恐らく夕方の十六時頃だったのだろう。

 十日はおそらく夜の二十三時ごろ。これも生活パターンからある程度割り出せる。

 そして今、四月十五日のこの時間。


「現在の時刻は午前六時。各時間の差はみんなそろって七時間ほど……。今回の時間は前回から日付をまたぐ時間だから……、この現象が起きてから次までの時間は……!!」


 四日と七時間。すべて時間に換算すると“一〇三時間”。

 簡単な計算でその数字をはじき出し、思わず交輪は口元に笑みを浮かべる。

 不可解だったこの現象の発動周期が、今、かなり確かな形で導き出されたのだ。ほんの少しではあるが、やられっぱなしの状況に一矢報いたような、そんな気分にもなって来る。


「これは記録か何かを残しておいた方がいいな……」


 この現象が起きた各時間を思い出す手間を考えて、交輪はそう考えながら机の周りに目を向ける。

 もしかしたら後で読み返して、何かわかることがあるかもしれない。

 それでなくとも今回のように得られた情報を細かく記していけば、それが後々何らかのヒントになるかもしれないのだ。なにやらそう考えると何かの研究でも始めるのかと思ったが、しかし現状、あの状況下で動けているのは交輪しかいないため、あの現象を研究できるのもまた交輪以外に誰もいない。


「んー、とりあえずノート……に記録すると持ち歩きにくいか? できればあの現象が起きても持っていられるくらいの大きさの……となると手帳か。そういや入学んときに生徒手帳が配られてたな……」


 鞄の中から入れっぱなしになっていた生徒手帳を引っ張り出して、とりあえず今はこの手帳で我慢するかと自分を納得させる。

 学校の生徒手帳となると校則などが書き込まれているため余白のページはかなり少ないが、それでもそれなりの量の情報は書き込める。もしもページが足りなくなったら、それこそあとからどこかで手帳を買ってくればいい。


「さて、まずは何と書くべきか……。そういえば記録を付けるとなればとりあえずこの現象にも名前がいるな……」


 少し考え、思いついた文句に苦笑いしながらも交輪は手帳にペンを走らせる。







 今日から記録を付けようと思う。


 この記録は、自分こと工和交輪が出会うこととなった不可思議な現象について、判明した事実を順次記録していくものである。


 現状、この現象についてわかっていることは多くない。


 ただ一つわかっていることがあるとすれば、始まりがいつであったかということと、この現象がこれからも起こるであろうということだ。


 そう、この現象はきっとまた起こる。


 今から四日と七時間後の、一〇三時間後の【幽刻】に。


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