2:入学初日

 当然のことながら、その後の交輪の精神状態は入学式の間もその後も、完全に心ここにあらずと言うありさまだった。

とは言え、それに対して交輪は惜しいことをしたとまではみじんも思っていない。恐らく周りの同級生たちも大人たちの退屈な説教など右から左に聞き流していたことと思うし、自分たちの代表である新入生代表がよもやこんな場で落語を一席披露したとも思えない。恐らく毎年恒例の新入生を迎える退屈な通過儀礼が保護者を交えて行われただけであろう。

 むしろ交輪にしてみれば、我ながらあんな事態の後によくぞ入学式に出席したと褒めてやりたい気分ですらあった。

 屋上から慌てて戻ったため遅刻寸前になり、『トイレに行こうとして道に迷った』などと言い訳をする羽目になったが、あんな事態を教師に向かって必死の形相で説明などしようものならば、それだけで入学早々、相当に悪目立ちすること請け合いである。今後三年間過ごす高校での生活に過度な期待こそなくともそれなりの安定と言う展望を抱いている交輪にとって、そんな選択肢は最初からないのと同じだった。


(真剣にあんなこと訴えたら、それこそ頭がおかしいと思われるか、それとも夢でも見たですまされるか……)


 夢でも見たのではと考えられるのが、恐らく一番交輪にとってダメージの少ない解釈になるだろう。そう考えながら、一方で交輪は心中でその可能性を本気で検討する。

 もしかしてあれは、自分が見た白昼夢だったのではなかろうか。そう考えた交輪だったが、しかし直後に首を横に振ってそれを否定した。


(もしそうだとしたら、今度はいきなり屋上に移動していた理屈に説明がつかなくなるし、それに……)


 思いつつ、交輪は左手首の腕時計と教室前方の壁にかかる時計を見比べる。入学祝にと兄から送られたその時計は、入学式前に確認したときには確かに時間もあっていたというのに、現在では示す時刻が二時間もずれていた。

 遅れていたのではない。進んでいたのだ。まるでこの時計とその持ち主だけ、他人よりも二時間余計に時間を過ごしていたとでもいうように。


(今んところ、こいつが唯一、あの時間があったことを示す物証か。まあ、俺の頭がおかしくなって、つじつま合わせのために時計の時間を“見間違ってる”って可能性もないわけではないが……)


 思いつつも、しかし交輪にはその可能性を疑う気はさらさらなかった。

 と言うか、そんなもの疑いだしたらキリがない。自分が筋道の通った思考ができていると、そう自覚できる段階で捨てておくべき考えだ。


「やあ。入学早々そんなむつかしい顔してどうしたんだい?」


 と、時計を見つめながらそんな考えを脳内で繰り広げていた交輪に対し、聞きなれた声がそう問いかける。顔を上げてみてみると、同じクラスになっていた中学時代の友人が、軽く髪型を変えただけの少し変わった姿でそこにいた。


「おお、森か。久しぶりだな」


「森じゃなくて木林こばやしだよ。同じ木が三つでも、僕を構成する木に上下関係はないんだよ」


「縦書きにしたらあんまり変わらないと思うがな。まあ、本当に久しぶりだな。少し老けたか?」


「まだ最後に会ってからひと月もたってないけどね。その会話は数十年後に同窓会で会った時にでもするべきだ。……まったく。相変わらず君の生態はひねくれているね、交輪」


 呆れたようにそう嘆息する友人の姿にほどほどに満足し、交輪はほどほどのところでこの相手をからかうのを切り上げる。

 同じ中学だった友人、木林生基こばやしいくもと。以前にも中学の一年と三年の時に同じクラスとなっていた彼との再会は、しかし彼自身が思っているのと少し違う感慨を交輪へと与えていた。

 というのも、


「そういえば交輪、さっき体育館に行く途中で僕の声が聞こえなかった? 入学式前に君を見かけて声をかけたと思ったんだけど……」


「……いや、俺はトイレに行こうとして迷ってたから覚えがないが。どうかしたのか?」


「……いや、交輪だと思った人影に声をかけたら、そいつがいきなり消えちゃってさ。……気のせいだったのかな……?」


 それは絶対気のせいではなかっただろうと思いながら、しかし交輪は口では『気のせいだろう』と友人めがけて断言した。

 これに関しては別に交輪が捻くれているからではない。まさか『声をかけられて振り返った瞬間、お前が幽霊に変わってたから、生きてるやつを捜しに屋上まで行ってた』などと真実を告げることなど到底できないからだ。

 まさかそんな曖昧な目撃談だけで、この親友があんな真相にたどり着けるとはさすがに思わないが、しかしあまり長く話して変なボロを出すのも嫌なので早々に話題を切り替える。


「そういえばお前、それは髪型を変えたのか? お前ってそういうことを気にする奴って印象がなかったんだが……?」


「ん? ああ、これね。『お前も高校生になるんだから少しはおしゃれしろ』って姉さんにね。まあ、自分でも少し自分の生態が固まってきてたような気がしてたんで、たまには自分らしくないこともしてみようかと」


「お前の姉貴はいいよな、うちの姉貴とはそのへん大違いだ」


「……あれ? 交輪にいるのってお兄さんじゃなかったっけ?」


「……ああ、兄貴の間違いだ。忘れてくれ」


 そういえばあの姉はいないことにしているのだったと今更のように思い出し、交輪は慌てて口を噤んでそれ以降の追及を拒絶する。

 対する木林も、これ以上の追及は無駄だと経験から悟っているのか、肩をすくめただけで話の継続を諦めた。物わかりがいいのはいいことである。


「まあいいや。そういえば交輪は新しい学校に対する印象はどうなんだい? このクラスの人間とかで特に印象に残ってるやつとかいた?」


「別に……、今のところ特にって感じだよ」


 木林のそんな質問に、交輪は気のない返事を返してやり過ごす。

 実際印象も何も、入学式直前に怪奇現象に遭遇したというこれ以上に印象に残っていることなど何もないのだ。入学式もその後のクラス内での自己紹介も、結局交輪は心ここにあらずの状態で過ごしてしまっている。もはやクラスメイトに対して、自分がどんな自己紹介をしたのかも覚えていない。

 だがそんな交輪の裏事情を知らない木林には、交輪のその返事が随分と意外だったらしい。


「え!? 本当に!? 誰も印象に残ってないの?」


「なんだよそのリアクション、誰か派手な奴なんていたっけか? そもそも自己紹介程度で分かることなんて、それこそ外見と名前くらいだろうが。まあ、お調子者とかはある程度性格も知れるだろうが……」


「いやでもさ、その名前と見た目に結構個性的なのがいたじゃないか。んー例えばさ、あそこにいる僕の隣の席の女子なんて相当個性的な名前だったよ」


「どんな名前だよ……」


 気の無い問いかけで交輪が木林の示した方を見ると、確かにそこには一人、女子生徒がまだ席に残っていた。

 出席番号六番である工和の席は窓際の一番後ろという特定の人種には垂涎ものの絶好の位置だったわけだが、出席番号順に並べられている現在の席順で、さらにその列の一番前であるということは、すなわちこのクラスの出席番号一番であるということだった。

 そしてそんな交輪の予想を肯定するように、木林はその予想をさらりと上回る情報を口にする。


「出席番号は、たぶん、“不動の”一番。それが彼女、藍上青衣あいうえあおいさんだよ」


「うわぁお……」


 木林の情報を聞きながら、一番前の席で一人帰り支度する女子生徒に焦点を合わせ、交輪は思わず感嘆の声を上げる。確かにそんな名前なら、印象に残らない方が難しい。


「まさかの母音縛りかよ……。すげえ名前を付ける親もいたもんだな……。まあ苗字は流石に先祖から受け継いだもんだろうけど」


 言いながら、ここで初めて交輪は件の生徒の後ろ姿を観察する。肩にかかるくらいに伸ばした髪を、顔の両側で縛って垂らした、言ってはなんだが名前に反して地味な生徒だった。今とてクラスのあちこちでいくつかのグループが出来上がっているのが散見できるにもかかわらず、彼女だけは一人黙々と帰り支度を整えている。


「ちなみにどんな字を書くんだ?」


「えっとね、こんな字だね」


 そう言って差し出された名簿の文字を見て、次の瞬間には交輪は『ああ、なるほど』と納得する。字を見てみればなんてことはない。確かに珍しい名前だが、あながち遊び半分につけた名前というわけではなさそうだった。


「なんだい? 突然納得したような顔で」


「ん? なんだお前。この名前の意味もしかして解ってないのか? お前国語の成績そんなに悪くなかっただろ」


「どころか得意科目だけど、藍上さんの名前がそれに何か関係があるのかい?」


「適当な厚さのことわざ辞典をめくってみればわかるよ。それほどページはめくらなくてもいいはずだぜ」


 何しろ名前もことわざもア行である。辞典に載っているその言葉も、かなり最初の方のページにあるはずだ。

 そんなことを思いつつ、交輪は木林に向けていた視線をもう一度件の人物、藍上青衣へと向けなおす。

 すると交輪のその視線に気づいたのか、これまでずっと背を向けていた彼女が妙におどおどとこちらに振り向いた。

 視線が交錯、したかどうかは交輪にはわからなかった。何しろ彼女の眼もとは、やけに分厚いメガネと長い前髪によって二重にガードされていたのだから。

 ただし、その後の彼女の態度は、目など見なくとも非常にわかりやすい物だった。

 自身が注目されていると知って居心地悪そうに顔をそらし、そのまま荷物を詰め込んだ鞄を抱きしめるように抱えて足早に教室を去っていく。たったそれだけでどんな性格かがある程度想像がついてしまう、わかりやすすぎる反応だった。


「悪いことしちゃったかな……?」


「さあな……」


 肩をすくめる木林にそう応じながら、交輪は胸の内に一つだけ感想を抱く。

 あんな名前の割に随分と生きにくそうな性格の女子だな、と、この時交輪はその女子生徒についてそれくらいにしか思わなかった。

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