1:幽霊に変わる瞬間
その瞬間、世界はあまりにも唐突に、それまで貫いてきた己の在り方を放棄した。
なんの前触れもなく周囲から音が消え、世界が静止して周囲のものすべてが幽霊へと変わる。
「……は?」
四月二日、入学式の会場となる体育館に向かう途中で、
入学式の会場である体育館に向かう途中、誰かに呼び止められて振り返った直後のことである。
振り向く先では同じ中学の出身だった友人が、まるで幽霊のように透き通って、時間を止められたかのように固まっていた。
「……あ、あり?」
肩でも叩こうとしていたのか、背中でもはたこうとしていたのか、はたまた共に体育館に向かう他の生徒たちの中で手を高々と掲げて、どこかの大統領の就任演説の物まねでもしようとしていたのか、まあ最後はないであろうそんな中途半端な、右手を少し上げかけたようなそんな態勢で、中学時代に何度も会話を交わしたその友人は完全に固まってしまっていた。
よく見ると、髪の毛が若干跳ねている。
もしかすると軽めの高校デビューでも果たそうとしていたのかもしれない。
「いや、そうじゃなくて……」
現実逃避で脱線しかけた思考を無理やり戻し、交輪は改めて目の前の異常事態に向き直る。
否、異常事態があるのは目の前だけではなかった。
驚くべきことに、少し視線をずらしてみれば、周りを歩いていたはずの他の生徒たちも、その友人と全く同じように固まり、透き通っていたのである。
自分と同じ年代の、恐らくは全員がこれから交輪にとって同級生になるであろう少年少女たち。
さっそく友人を作ったのか、それとも交輪のように以前の友人と再会したのか、ところどころにいくつか、小規模ながらもグループができているその生徒たちの群集が、今は皆、真新しい制服を纏ったまま、これからの新しい生活に対する期待と不安を胸に抱き顔に出したまま、しかしその一瞬を切り取ったような形で皆一様に固まってしまっている。
わずかな身じろぎもせず、一言の声も漏らさずに。
先ほどまでの各所で聞こえていた会話の声が一切聞こえなくなり、まったく音がしない状況に、耳が無音というサイレンによって全力で異常を訴える。
「……っていうか風の音すらしないって……」
周囲の状況に愕然とする。現象に対して理解がちっとも追いついてこない。
よく見れば固まり、透けているのは生徒たちだけではなかった。
いや、別に生徒だけでなく教師も、などと言う話ではない。実際体育館の入り口で生徒の誘導を行っている髭面の教師も同じように固まって透けてしまっているが、しかし透けているというのならその教師以外にも、彼が生徒を招き入れている体育館自体がそうだった。
と言うか全てがそうだった。背後に見える先ほどまで彼がいた校舎も、道のわきに見える樹木も、波状の板が打ち付けられた通路の屋根も、それどころか地面に転がる石ころ一つとっても、遠目に見えるだけでも全体的に色が薄く、もっと言えば淡くなり、少し近づいて見てみるとその向こう側が透けて見えている。
幽霊でも見ているような気分だった。
いや、それどころか、幽霊しか見えないという状況だった。
「なんだよこれ……、何が起きたってんだよ……!!」
じわじわと冷たくなる背筋にほとんど本能的に声を上げ、交輪は必死になってそう周囲に呼びかける。
出した声が予想以上に大きく感じる。周囲で音を発するものが全くないため、比較対象を失った唯一の音がその存在感を存分にアピールしているのだ。
そしてその事実だけで、今は動いているものが一切ないのがすぐわかる。
恐らくは人も動物も、鳥も虫も植物も、細菌もプランクトンもカビもバクテリアも、石も土も建物も水も空気も空すらも、皆同じように静止して、同じように透けているのだろう。
世界が幽霊に変わっている。そのあまりにもスケールの大きすぎる事実が、今の交輪には全く聞こえてこない音だけでよくわかる。
「……おい、誰か。誰か返事しろよ、おいッ!!」
元の生徒たちの中へ飛び込み、先ほど自分に声をかけてきた友人のもとへと走り寄り、交輪は勢いのままに彼の肩へとその手を叩きつける。
いや、叩き付け“ようとした”。
焦っていたため少々強く、力加減を間違えて『痛い』くらいの反応があるくらいに。
だが振り下ろしたその手は、右手を挙げたままの友人の肩に触れることなく、それどころか彼の肩を、その下の右半身を突き抜けて、本来ならば内臓があるはずのその場所を通過して、彼の腰あたりからその体内を抜け出てきた。
そこだけ少し温度が違う、空気の層にでもふれたような感触だった。
「……、……は、はは……。なにお前、いつの間にそんなことできるようになったの? できれば俺にもやり方教えてくんない? いつかかくし芸とかで使うから……」
そう口にしながらも、しかし視線はすり抜けた右手に向けて逸らすことすらできず、交輪はよろよろと、友人の幽体から遠ざかる。
だがそれがいけなかった。ほとんど無意識に、周囲にまったく気を払わずに後退っていたせいで、突然目の前の景色が、色のついた水面でも通してみたように透き通ったなにかに覆われる。
「なっ、なぁっ!?」
驚きそのまま後ろへと飛びのいて、それによって目の前に女子生徒の顔が現れたことで、交輪はようやく自分がどういう状態にいたのかを自覚した。
あろうことか、今交輪は女子生徒の体をまるまる貫通して、その体をすり抜ける形で通り過ぎてしまったのだ。
いや、それどころか。振り向けば今現在でさえ、自分の左ひじが背後にいた男子生徒の左わき腹を貫通している。
「おわっ――!?」
慌てて腕を引っこ抜くが、しかし腕にも男子生徒にもまるで変化はない。
まるでよくできた立体映像でも見ているようだったが、しかしそれがただの立体映像でないことはもう交輪も嫌というほどわかっている。
「……だ、誰か……」
周囲を見回す。もはや冷静さなど保てない。今起きているこの現象は、明らかに交輪の許容できる範囲を超えていた。
「おい、誰か――!! 返事できる……、動ける奴はいないのか!!」
自分以外に同じ状況に陥っている人間を求めて、そしてあわゆくば、この状況を説明してくれる人間を求めて、交輪は踵を返して足をもつれさせながら走り出す。
これから入学式の開かれるはずだった体育館へと走り込み、その中にいる数百人単位の人間めがけて声を張り上げる。
体育館から出て元来た道を走り戻り、幽体化した校舎内で必死に声を上げて同じ状況の仲間を探し求める。
碌に地図も覚えていない、これから覚えるはずだった校舎内をしらみつぶしに走り回り、触れない扉をすり抜けて部屋の中を一つ一つ確認し、見える人影に片っ端から声をかけて動ける誰かを探し求める。
だが耳に痛いほどの静寂が告げていた。今この世界で、少なくとも交輪の認識できる範囲内で、交輪の呼びかけに答えられる人間など誰もいないのだと。
「……どう、なってんだよォッ!! なんでッ!! なんで皆こんなになってんだよッ!!」
ついには屋上まで行き着いて、幽霊に変わってしまった世界を望みながら、交輪は枯れかけた声を張り上げてそう叫ぶ。
まるで世界が終ってしまったような光景だった。
実際問題、それとほとんど変わらないような状況だった。
「……な、んだよこれ……。世界が終るにしたっていきなりすぎるだろ。尻切れトンボもいいところじゃねぇか……」
屋上の隅に立ち尽くしたまま、目の前の現実を受け止めることすらできぬままの嘆きが漏れる。
実際こんなに唐突で、投げっぱなしのような世界の終わりなど交輪は全く想像したことがなかった。核戦争で生物が滅びるわけでも、空から宇宙人が襲来してきたわけでもない。まるで漫画の連載を打ち切るように、世界そのものを打ち切りましたとでもいうような、そんな終わり方。あまりにも不条理で、理解不可能な現実が、今交輪の目の前に横たわっている。
「もう、ホントに俺しか残ってねぇのか……?」
なぜ自分だけが、他の者達と同じように幽霊にならずに残っているのだろう?
そんな疑問が脳裏を支配し、あらためて交輪は自分の体に注意を向ける。
真新しい、他の同級生たちと同じ制服姿。見える肌も服も持ち物も、まるでそれだけが交輪と共に取り残されたように普段と同じ実体を保っている。少なくとも見た限りでは、周囲と同じような幽体化の影響のようなものは一切見られない。
(なんだって俺だけ、まるで影響なくこんな世界に残ってるんだ?)
なえかけた気力で投げやりにそう考えながら、交輪は視線を自分の体から周囲へと戻す。
そして気付いた。
「……は?」
世界が元に戻っていた。
「え……? あれ……、ええ……?」
あれだけ大騒ぎして駆けずり回っても、動くもの一つ見つけられなかったあの世界が、今では少し見て分かるほど動きにあふれている。
動き出した世界の放つ音が、車の音が、人の声が、風の音色が、確かに今、交輪の鼓膜を心地よく刺激し、周囲の動きを間違いなく交輪へと伝えてきている。
世界はこんなにもにぎやかだったのかと、そんな感慨すら覚えそうになりながら、しかし先ほどまでの光景を知るがゆえに、交輪は突然の問題解決についていけない。
「……いや、だって……、ええ?」
半信半疑で、交輪は目の前にある屋上の落下防止の鉄柵に手を伸ばす。あちこち塗装が剥げてサビすら浮かんだその鉄柵は、しかしその見た目通りの手ごたえを交輪へと返し、己の存在をささやかに、しかし存分にアピールして見せていた。
「もう、わけわかんねぇよ……」
全身をどっと疲れが襲い、思わず交輪は屋上の床へと尻餅をつく。他の者達が元に戻ったのかと言う疑問すら、遠くから聞こえる人の声が解決してくれていた。
まるで最初からあんな現象など起きていなかったとでもいうように、世界はそれまで通りの、憎たらしいまでの平常運転を取り戻していた。
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