9-1

 いつものマンション前の坂道に差し掛かって僕は今朝の新聞を頭に思い出していた。


 経済面の隅に母が経営する会社と他の食品会社との合併についての記事が載せられていた。


 合併相手には主に冷凍食品を扱っていて一人暮らしの二十代、三十代を狙った「おふくろの味」シリーズが当たり近年目覚ましい成長を遂げている食品会社の名前が挙げられていた。

 記事によればその会社は母の会社と合併して健康食品業界にも参入し、一気に押しも押されぬ国内有数の大企業に仲間入りしたい目論見のようだ。

 記事を書いた人間は合併というよりは母の会社が吸収されるという表現がふさわしいと見ているようだった。

 母の会社は規模としては一日の長があるが、合併相手の食品会社の方には勢いがある。

 かつての成功の思い出にすがるだけのジリ貧企業にとってはその勢いにすがりたい一心だろうと記事は締めくくってある。

 鵜呑みにはしたくはないが、新聞が根も葉もないことを書くとは思えなかった。


 父が興した会社は確かに流行の波を掴んで急成長を遂げ健康食品業界の中ではある程度の地位は築いたが、やはり大手の食品会社と比べると知名度は低く、基盤も弱い。

 良くも悪くも強烈なリーダーシップを発揮して会社を軌道に乗せた父が急逝してからというもの、じりじりと売り上げが後退しているのは否めない。

 母も父の後を継いで頑張ってはいるのだろうが、企業経営に特別の才覚があるわけでもなく、他企業の業界への参入や長引く不況などの影響で僕が思っている以上に会社の経営状態は悪化しているようだ。

 気がつけば今日の天気のように底冷えがして身動きのままならない状態なのかもしれない。


 今回の合併話が会社にとって良いことなのかどうかは僕には判断できない。

 しかし、会社を他企業と合併させるという発想は母の意思ではないことは断言できる。

 あれだけ僕に社長就任を勧め、それがかなわぬと見るや自ら経営に身を乗り出した母だ。

 異常なまでに村石の名にこだわった母が吸収ともとれる合併話を持ち上げるとは考えられない。

 さしずめ母のことを良く思わない他の取締役達が勝手に合併相手を探し出してきて話題だけを先行させ母の一存ではどうにもならないところにまで既成事実を作ってしまおうとしているのだろう。

 どうも今回の合併話には会社内部の権力争いが垣間見えてならない。


 先日久しぶりに会った妹の言葉が脳裏に浮かぶ。

 母が寂しがっている。

 押し寄せる不況の波、冷たい重役連中の目、吸収合併の風説。

 この重荷はもともと虚弱体質の母の小さな身体では背負いきれるものではない。

 心労が重なって母の身体に悪影響を及ぼすことがないと良いが。

 いっそ合併でも何でも進めて会社を他人に任せ母の身を自由にしてやりたいと僕は思う。

 しかし、そんなことをすれば社長の座についてだけは妙に強情なあの母がひどく悲しむのは目に見えている。

 僕が母の代わりに社長に就任すれば母の重荷は軽くなるだろうが、僕の前にはまだ大学生活が二年残されていた。

 母にあと二年間耐える力が残っているだろうか。


 ふと足元から目を上げるといつの間にかマンションのそばまで来ていた。


 マンションの脇にパトカーが二台と救急車が一台停まっていた。

 一人の制服姿の警察官が難しい顔をして無線で何やらやり取りをしている。

 この寒い中一階の通路に人が集まっているのが見えた。

 人の輪は102号のドアを中心に出来ているようだった。


 何があったのだろうか。

 回転するパトカーの赤色灯がただならぬ事態を予想させる。

 毎日寝起きするマンションで警察が捜査するような事件が起きたのだろうか。

 こそ泥なら僕の部屋は何も取るものがないので安心だが。

 救急車が来ているということは人の命に関わることが起きているのだろう。

 野次馬根性というには若干臆病な気持ちで僕は人の輪に向かった。


 人だかりの中から先生が僕を見つけて寄ってきた。


「今日は帰り、早いね」


 この事態に関わらず、やはり先生は落ち着いている。

 この状況でまさか開口一番いつもより帰りが早いことを指摘されるとは思わなかった。


「また午後からの授業が全部休講になったんです。それよりも何かあったんですか」


 恐る恐る聞いてみると、先生は事の重大さを暗示するようにゆっくり一呼吸おいて口を開く。

 僕は先生の口の動きに意識を集中させ生唾を飲んだ。


「殺人事件だよ」

「まさか……」


 思わずそう口にしていたが、先生の顔を見れば冗談ではないことは明白だった。


 自分の住むマンションで人が殺された。

 しかも事件は僕の部屋の真下で起きている。

 誰が、誰を、何のために。

 聞きたいことはいくらでもあるが、あまりにありすぎて咽喉で渋滞して口まで出てこない。


「死んだのは102号の住人で酒井さんという人」


 再び僕は驚いた。

 102号で起こった事件なのだから102号の住人が被害者で当然なのだが、顔を知っている人が殺されたという事実に僕は目を見張った。

 僕は先日すれ違った水商売風の年齢不詳の女性を思い出していた。

 彼女が何者かによって殺されたのだ。

 もう二度と彼女に「お帰り」と声を掛けられることはない。

 そう思うと不意に心の中にひんやりとした空虚なものを感じた。


「どいて、どいて」


 部屋の中からドアを囲んでいた野次馬を煙たそうに睨みながら刑事らしき髪を短く刈り上げた男が出てきた。

 見るもの全てが鬱陶しいとでも言いたげに眉間に皺を寄せ、足元に唾を吐いた。

 まるでテレビドラマに出てくる刑事そのままのひと癖もふた癖もありそうな粘っこいいやらしい目つきをしている。


 僕はその中年の刑事にどこかで会っている気がした。

 どこでだろう。

 刑事と知り合ったことなど生まれて一度もないはずだが。


 彼の後ろから若干青ざめた様子の若い警察官二人が前後になって担架を持ちながらついてきた。

 すっぽりと全体に毛布を被せられた担架には酒井という名のあの女性が乗せられているのだろう。

 毛布の下で目を見開いてこちらを見つめているかもしれない。

 担架が僕の目の前を通り過ぎていくとき僕は毛布の下の青白い死体を想像して身震いした。


「大野さん、ちょっと」


 部屋の中から若い刑事が顔だけを出し担架を見送る中年刑事を風邪気味のような鼻にかかった声で呼んだ。

 「おう」と返事をして大野と呼ばれた刑事は僕の前を通って部屋に引き返していった。

 大野のくたびれたスーツからは強烈なタバコの臭いがした。


「このマンションの住人の方は後ほどお話を窺いに行きますので部屋に戻っていてください。関係ない野次馬はさっさと帰った、帰った」


 面倒くさそうにそう言い捨てると、大野は僕の方に一瞥をくれ「寒い、寒い」とぶつぶつ言いながら102号のドアを思い切り閉めた。

 僕を見る大野の目に何か敵意のようなものが篭っていたようで僕は小首を傾げた。

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