9-2

「見つけたのはこのマンションの大家さんなんだって」


 寒そうにコタツに両手両足を突っ込んで先生が事件の説明をしてくれた。


 大家と言われても全然顔が思い浮かばない。

 このマンションのオーナーとは契約のときに一度会っただけだ。

 二年近く顔を合わせていないことになる。


「酒井さんは二ヶ月間家賃を滞納していて、大家さんが今日催促に来て部屋の中で死んでる酒井さんを見つけたらしい。鍵が掛かっていないもんだから部屋の中に入ってみると奥の部屋で酒井さんが倒れていたと……」


 僕は思わず身をすくめ先生に負けないぐらいコタツに入り込んだ。

 マンション内の各部屋は同じつくりだから、丁度僕と先生が座っているこの真下あたりで酒井さんが死んでいたことになる。


 大家も大変だ。

 殺人事件など起こってしまったらマンションのイメージは最悪だ。

 店子は気味悪がるだろう。

 僕も夜中になったら少し怖い気がする。

 102号はこれからどうなるのだろう。

 部屋の荷物を親戚に引き取らせたらクリーニングしてまた誰かに貸すのだろうか。

 それとも開かずの部屋として怪談話の一つでもできあがるのかもしれない。


「誰が犯人なんでしょうか」

「部屋の中の詳しい様子は分からないけど、酒井さんは背中を何箇所も刺されて死んでたんだって。箪笥やら押入れやらは荒らされていたみたいだけど……」

「ということは」

「手口は強盗に見えるけど、顔見知りの犯行かもしれない。酒井さんの滞納は珍しいことじゃなかったみたいなんだ。家賃を滞納する人の家に泥棒に入っても何もないよね。部屋を荒らしたのは物取りに見せかけるためじゃないかな」


 先生は眉根をひそめいつにも増して舌の回転が良く、事件を冷静に分析していく。

 先生のようにいつも落ち着いて行動できる人は刑事に向いているのかもしれない。

 先生には人を見る目もあるし、まさにうってつけの職業のように思える。


「ここ二、三日で、下の階からの争い声や悲鳴なんかなかったよね」

「えっ?殺されたのは今日じゃないんですか?」

「警察官が喋ってるのを盗み聞きしたんだけど、死後二、三日経ってるんだって。この寒さのおかげで死体の腐敗はあまり進んでなかったみたい」


 つまり昨日、一昨日と僕は死体の上で生活していたことになる。

 僕は気が遠くなるような思いだった。

 先生が言うように殺人事件を連想させるような物音は聞こえなかったから気付かなくても仕方がないのだが、それにしてもこんな目と鼻の先で人が死んでいるのに何も知らずに暢気に暮らしていたとは、今さらながら気味が悪い。

 きっと酒井さんはもっと早く見つけて欲しかっただろうに。

 僕を恨まないでくださいよと思わず手を合わせた。


「運の良い方じゃない?大家さんが来なけりゃもっと発見が遅れてたよ」


 大家さんが発見しなかったらどうなっていたのだろうか……。

 僕は102号で酒井さんが腐敗していく中、何も知らずに生活している自分を想像した。

 そのうち下の階から生ゴミの腐ったような臭いがしてくる。

 変に思って最初に102号を訪れるのは僕かもしれない。

 鍵の掛かっていないドアを恐る恐る開けると、強烈な死臭と共に腐りきって白骨化し始めた死体とそれに群がる無数の蛆虫を見つけることになる。


 僕はそこまで想像して首を大きく横に振った。

 全身に鳥肌が立って酸っぱい不快感が胃を突き上げてくる。

 口の中に唾液があふれてきた。


「村石さーん」


 部屋のドアを無造作にノックする音が聞こえた。

 玄関に向かうと「先ほどの刑事ですが」と投げやりな感じの声が飛んできた。

 ドアを開けると先ほどの大野という名の刑事と若い刑事のコンビが立っていた。

 大野が背広の内ポケットからチラッと黒いものを見せる。

 はっきりとは見えなかったが警察手帳のようだ。

 善意の第三者に事情を聞くのなら、もっとはっきりと手帳を示して身分を証明すべきだと僕は思った。

 どうも大野という人間に好意を覚えられない。


「お前がやってみろ」


 大野は後ろの刑事にそう言って僕と先生から顔を背けるように後ずさりし、向こうを向いてタバコに火をつけた。

 言われて若い刑事が手にした手帳に目を落としながら僕と先生に対面した。


 真面目そうな刑事だと僕は思った。

 彼の真っ直ぐ太い眉やきりりと引き締まった口がそう思わせるのかもしれない。

 ただ、目が充血していて何となく顔色が悪い。

 鼻にかかった声は風邪のせいだろう。

 僕は思わず一歩身を退いた。

 治りかけの風邪がぶり返したらたまったものではない。


「あなたが村石さんですね。こちらは?」

「205号の住人です」

「ということは……榊原さんですね」


 先生はこくりと頷いた。

 ふんふんと刑事は何やらメモをとっている。

 その向こうで大野はこちらに背を向け西日に向かって煙を吐いていた。

 その後姿はやはりどこか見覚えがある気がした。


 風の向きで煙が若い刑事の顔にまとわりつき彼は何度も咳を繰り返した。

 それでも大野は全く気にする素振りを見せない。

 メモを取っていた刑事が一瞬手を止めて目の端で大野を睨むのを僕は見逃さなかった。

 この二人はチームワークが良いとは言えそうにない。


「この二、三日で下の部屋から悲鳴とか言い争う声なんか聞きませんでしたか?」

「特に何も」


 僕はゆっくり首を振った。


「生前酒井さんとは面識がありましたか?」

「道ですれ違ったり、ゴミを出すときなんかに挨拶したりする程度です」

「榊原さんはいかがですか?」

「彼と同じです」

「特に親しくはなかった、と。他にこのマンションで酒井さんと親しかった人って知りませんか?」


 僕は水野君江が死んだ酒井さんと口論していたのを思い出していた。

 親しくはないがある種深い仲だとは言えるかもしれない。

 僕は口にはしていなかったが、酒井さんが殺されたということを聞いてからずっとあの夫婦のことが気になって仕方がなかった。


「わかりません」


 僕が黙っていると先生がはっきりと答えた。

 先生はわざと水野夫婦のことを黙っているのだ。

 あれだけの騒ぎを起こしたのだから彼女達の仲を警察が知るのは時間の問題だとは思うが、僕も先生に従って頷いた。

 自分の言葉で大野に水野さんと殺人事件が結びつくようなことは伝えたくない気がした。


「何箇所も刺されていたんですか?」


 先生が僕の前に身を乗り出すように出てきて刑事と向き合った。


「そうですね、背中に七箇所、腕に四箇所」

「凶器は?」

「まだ見つかってないのではっきりとは言えませんが、どこの家庭にでもあるような果物ナイフだと」

「おい、べらべら喋るな、横山」


 大野がタバコを足でもみ消しながら、からみつくような目で僕と先生を覗きこんできた。「おたくら本当に何も知らないんですね?何か思い出したらすぐに警察に連絡くださいよ。それじゃ、どうも」


 横山と呼ばれた若い刑事は小さな声で大野に謝り、僕と先生に向かって「ありがとうございました」と軽く頭を下げてドアを閉めた。


 僕はこれ以上大野という刑事に階を上がって欲しくないと思った。

 あの大野の毒々しい目に凝視され人の悪さが臭うような口調で問いただされたら、大人しい朋子さんは何も言えないだろう。

 やましいことがなくてもきっと後ろめたいような不快な気持ちにさせられてしまうに違いない。


 僕は大野と組んでいる風邪気味の横山という刑事が憐れな気がした。

 あの大野と組んでいてはストレスがたまって風邪の悪化は避けられそうにない。


「気になるのは101号の水野さん夫婦だね」


 刑事がいなくなると先生はボソッと言った。

 やはり先生はわざと伏せていたのだ。

 あの場面で水野君江の乱心振りを話せば彼女が犯人だと示すようなものだ。

 あの夫のことを思い出すと、とてもそんな真似はできない。

 会社ではリストラにあい、妻は気がふれて殺人を犯したとあっては我が身の不幸を呪わずにはいられないだろう。


「実は一昨日から水野さん夫婦を見かけないんだよな」


 先生は苦渋に満ちた顔でつぶやいた。

 先生も彼女のあの酒井さんに対する恐ろしいまでの嫉妬心が殺意に変わったとしてもおかしくはないと思っているようだった。

 仲直りを口実に酒井さんの部屋に上がり隙を見て酒井さんの背中にナイフを突き立てる。

 取り付かれたように背中に何度もナイフを振り下ろす彼女を想像することは難くない。

 警察が水野君江に的を絞り捜索に掛かるのはそう遠くないだろう。


「そう言えば、あの大野って四角い顔の刑事、見覚えない?」


 先生も同じことを思っていたようだ。

 とすると、大野はこのマンションに関係がある人間ということになる。


「僕もそう思ったんですけど、どこで見たのか全然思い出せないんです」


 マンションの住人だったら顔ぐらいは分かっているし、この辺りで刑事の世話になるような事件が起きたこともない。

 テレビや雑誌に出ていたわけでもないだろうし。


「三階だよ」


 僕はハッとして手を叩いた。

 数日前306号から飛び出してきて先生と僕を突き飛ばして逃げた殺人未遂犯の姿が頭の中にひらめいたのだ。

 背格好、あの短く刈り揃えた四角い頭は確かにそっくりだ。

 刑事なら身体が引き締まっていて当然だ。

 「外回りの仕事」と見切った結の目も確かだったと僕は感心した。


「あの男!あの男、刑事なのに買春なんかして、挙句に殺人未遂まで……」

「刑事も人間だからね」


 人間という言葉で片付けてしまうには僕にはいささか抵抗があった。

 そんな理屈がまかり通ったらこの世に秩序など存在しなくなってしまう。

 しかし、先生は「秩序が壊れるから面白いのだ」とでも言いたげに微笑を湛えている。


「法を守るべき刑事が欲に溺れて娼婦を買う、か。なかなかおもしろい」


 先生は遠い目線になって物思いに耽り出した。

 先生の妄想の中であの大野という中年の刑事はどんな世界に堕ちているのだろうか。


「今日は夕ご飯いらないよ」


 いきなり立ち上がったかと思うと先生は飛ぶように自分の部屋に戻っていった。


 先生はこれから何時間か妄想を文字に具現化する作業に没頭するのだろう。

 僕は完全に自分の世界に篭りきる先生を想像する。

 ペンは氷の上を滑るように踊り、命を吹き込まれた無数の紙は羽を広げて舞い上がる。

 僕は一度先生の執筆中の様子を覗いてみたいと思った。

 その背中に神が降り立つ様子が見えるような気がするのだ。

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