8-2
僕はドアの影でためらった。
306号では売春が行われていたのだ。
そんな場所に足を踏み入れるのは犯罪に加担するようでどうも気がひける。
それにたった一度ではあるが盗聴した相手の顔を見ることになるかもしれないと思うと、あのときの興奮と嫌悪の気持ちが思い出されて気恥ずかしい。
それでもいつまでも寒い外にいるわけにもいかず、仕方なく鼻をすすりながら僕は部屋の中へ入った。
何もないと言っていいほど殺風景な部屋だった。
間取りは僕の部屋と同じだが、およそ生活の臭いが感じられない。
人間の出入りが少ないせいか、空気が流れることなく澱んでいる気がする。
台所には冷凍室のついていない小さな冷蔵庫が低い音で唸っている。
奥の部屋にはテレビデオが卑猥なタイトルのビデオテープと一緒に転がっていた。
ベッドだけが大きく立派でこの部屋の意味を暗示しているかのようだった。
そのベッドの上に生きているとは思えないほど血の気の無い表情の裸の女が毛布に包まって座っていた。
ボーイッシュなボブカットの髪を今時の高校生らしく茶色に染め、顔には派手気味な化粧を施している。
本当は童顔で可愛らしい子なのだろうが、きつめのアイラインや目に痛いピンクの口紅が彼女の纏っている雰囲気にすれたものを感じさせる。
シーツは乱れベッドの周りに彼女のものと思われる破れたセーラー服と赤い上下の下着が散乱していた。
彼女は呆然と目を見開いたまま身を包む毛布の端をぎゅっと掴み小刻みに震えている。
さっきの男に指で絞められたのだろうか、首にうっすらと赤黒い痕が残っている。
「大丈夫ですか」
女はこくりと力無く頷いた。
全然大丈夫ではなさそうだ。
乱れた髪も直さず毛布の隙間から陰部が覗いているのも気付いていないらしい。
若々しく伸びる白い足の間にある黒く輝く茂みを直視できず、僕は部屋の中を見回した。
ガスコンロもないのでは湯も沸かせない。
僕は一端自分の部屋に戻った。
一番大きいマグカップにたっぷりコーヒーを淹れて再び306号に戻り、一向に震えの止まる様子のない彼女に手渡した。
彼女は礼を言う余裕も無いようで飢えた子供のようにマグカップを僕からひったくると、両手で挟むように持ち一口飲むと頬に当てた。
「温かい」
彼女はちびりちびりと半分ほど飲んでようやく呪縛から解かれたように大きく息をついた。
少し顔色に生気が戻ったように見える。
僕が下に行っている間に下着だけは身に着けたようだ。
毛布の隙間から赤いブラジャーの肩紐が見える。
透き通るような白く若い肌にはその血の色のようなラインが映えすぎて違和感があるように思った。
先生は自分と僕をこのマンションの住人だと彼女に簡単に紹介し、それから質問を始めた。
「あの男は知り合い?」
先生の問いに彼女は首を横に振った。
「知り合いじゃないけど、今日で三回目」
「前にも二度会ったことがあるんだね」
「会ったっていうよりも、やったっていう感じ……」
自分よりも若い女性が恥じらいもなく平然と「やった」と口にすることに僕は戸惑いを感じたが、先生はなるほどという表情で頷いた。
「彼について何か知ってることない?」
彼女はあっさり「さあ」とだけ答えた。
深く考える素振りも見せずまるで他人事のように気のない返事をする彼女に僕は苛立たしさを覚えた。
「名前とか、住んでるところとか知らないの?思い出してみてよ」
僕が詰問口調で先生と彼女の間に割って入ると、彼女は僕を馬鹿にしたような一瞥をくれてコーヒーを飲んだ。
「あのね、金を払ってセックスするのに名前とか住所とか教える奴がいると思う?出来る限り自分のことを知られたくないと思うのが普通でしょ。毎回毎回乱暴で下手くそなのを我慢してきたけど、さすがに今日は頭に来て『その歳にもなって女の扱い方も知らないの?』って言ったら殺されかけたの。ただ、それだけ」
僕は水の流れのように澱みのない口調の彼女に言い返す言葉が見当たらなかった。
浅はかな奴だ。
考えもなく誰彼無しに肉体関係を持つからこんな目に遭うんだ。
憤りから思わず口をついて出そうになる彼女への蔑みをぐっと飲み込んで、僕は努めて冷静な声を出した。
「『それだけ』って言い方はないだろ。僕らが来なかったら君は今頃本当に死んでたかも知れないんだぞ」
「そんな恩着せがましく言わないでよ。確かにこの人には助けてもらったけど、あんたは何をしてくれたのよ」
そう言われれば何もしていない。
犯人を捕まえることもなく無様に通路で突き飛ばされてひっくり返っただけだ。
しかし、風邪をひいて身体がつらいのに、自分の部屋とを往復して熱いコーヒーを淹れてきてやったのだ。
そんな言われ方をされる筋合いはない。
「売春なんかしてるからこんなことになるんだろ」
「まあまあ村石君、冷静に」
先生が僕をなだめようと笑顔で僕の視界に入り込んでくる。
先生に間に入られては僕も何も言えなくなる。
「うるさいわね。その売春を盗み聞きしてるのはどこの誰よ」
僕は顔が真っ赤になってカッと熱くなり全身から汗が拭き出すのを感じた。
急激に頭に血が昇ったのか、身体全体がふわっと浮き上がったような感覚を覚える。
盗聴のことを彼女はどうして知っているのか。
先生もさすがに驚いた表情で彼女を振り返った。
「気付いてたの?」
先生は自分の膝に手をやり彼女の顔と同じ高さまで自分の目の位置を下げて問いかけた。
「何となく気配でね。下手な男とやるときはセックスに集中したくないからどうしても他のところに神経をもっていっちゃうの」
「そうなんだ。……怒ってる?」
「ううん。今日だって隣の部屋にいてくれたから助けてもらえたんだし……。エッチするのは気持ちいいし、その上お金までもらえるんだから止められないけど知らない人はやっぱり怖いの。今日みたいなこともあるしね。だから誰かが側に居て聞いていてくれてると思うと安心だし、それに、聞かれてると思うと興奮して濡れちゃうの。私が興奮すればお客さんも喜ぶし一石三鳥よ」
彼女は男の僕が耳を覆いたくなるような卑猥な言葉を平然と言ってのけると、寒そうに毛布を掴みなおしてしっかりと全身を覆った。
僕は空恐ろしくなった。
世の中何か間違っている。
妹と同じぐらいの高校生が快楽の手段として男の身体を求め、しかもそれを他人に聞かれることでより快感を覚えていると平然と口にする。
興奮すれば自分がどうなるのかを知っていて、どうすれば興奮が得られるのかも体得済み。
この若さで性欲と快楽を思うように操作できると誇示したいような口調だ。
「大分顔色が良くなってきたね」
「うん。温まってきた」
彼女は先生の言葉には素直に頷くようだ。
どうして先生はこう人の扱いが上手いのだろうか。
「名前、聞いても良い?」
「ゆう。結ぶっていう字一字で結。いい名前でしょ。結構気に入ってるの」
そう言ってにっこりと笑う彼女はやはりまだあどけなかった。
口元に出来る笑窪が思わず微笑み返したくなるほど愛らしい。
しかし、毛布の隙間から見える胸元にはしっかりと谷間が出来ている。
身体は十分に大人なのだ。
彼女になら高い金を払ってでもという男はたくさんいるだろう。
「結ちゃんか。結ちゃん、話は戻るけど、さっきのお客さんはいくつぐらいか分かる?」
「年?そうだなぁ。四十は超えてるかなぁ」
「背は高くないけど、結構がっしりしてたよね」
「そうだね。お腹は出てなかったし、特に足が引き締まってたよ。外回りの仕事なのかな」
「なるほどね。結婚してそう?」
「してないと思うよ。あんなに下手くそじゃ誰も結婚してくれないよ、きっと」
自分の子供と言っても良いぐらいの年若な高校生に軽い調子でこんなことを言われたら大なり小なり殺意を抱くだろう。
彼女に掛かったら男の尊厳も意地もあったものではない。
「犯人捕まえたい?」
「ちょっと、先生」
僕は慌てて先生と結との間に割り込むようにして先生の肘を掴んだ。
そのまま壁際に連行する。
「何、何?」
「いったい、どうするつもりなんですか?」
先生は結に「警察に通報するか?」とは訊かないで、先ほどから犯人のことについて結から根掘り葉掘り聞き出そうとしている。
何やらきな臭い。
探偵の真似事でもしようというのだろうか。
そんな危ないことをしてせっかく軌道に乗り始めた本業に支障を来たすようなことがあってはならない。
「犯人捜しもおもしろいかなって思ってさ」
「やっぱり。ダメですよ、そんな危険なこと。そういうのは警察の仕事です」
「だって、警察に通報なんてできないじゃん。そんなことしたら売春してた結ちゃんだって捕まっちゃうんだよ」
「だからって、先生が顔を突っ込むことじゃないじゃないですか」
「乗りかかった船だろ。それに小説のネタにもなりそうじゃん。村石君も一緒に探偵ごっこしない?」
先生はもう完全に乗り気だった。目が爛々と輝いている。
「そんなこと言われても」
「見てごらんよ。あんなに痕がつくほど首絞められて。結ちゃんが可哀想だとは思わない?」
僕は先生の肩越しに結を見た。
確かに結の白い首筋に浮き上がっている指の痕は生々しく痛々しい。
僕も犯人をこのままのうのうとさせておくのは歯がゆいような気になってくる。
結は右手の人差し指をその小さな唇に添えて思案顔を浮かべている。
悩む姿も可愛らしい。
自分の魅力を知っていての素振りなら全く末恐ろしい。
これからも彼女によって何人もの男が狂わされることになるだろう。
「やっぱ別にいいや。今日は運が悪かったと思うことにする」
「え?」
あっけらかんと笑う結に僕と先生は同時に驚きの声をあげた。
「運が良くって失神するほど気持ちいいときもあれば、今日みたいな日もあるわ。お金ももらってるわけだし。お客さんは大事にしないとね」
「それでいいの?」
半ば未練がましくすがりつくように先生が結の顔を覗き込む。
「うん。私が怒らしちゃったっていうのもあるし。結局今日は本番やってないから、なんだか逆に悪いことしちゃったかも」
結の言葉は実に爽やかだった。
彼女には彼女なりの商売観があるようだ。
お金をもらった以上はその額に見合うサービスを施す。
相手に満足させることにこだわりめいたものを持っている。
結なりのプライドなのだろう。
「何だか今日の売り上げは使いにくいなぁ」とつぶやく結が好ましくさえ思えてくる。
「あっ、雪だ」
いつの間にか窓の外では雪が降り出している。
空から落ちてくる一ひら一ひらがかなりの大きさだ。
天気予報を信じれば今晩中降り続くことになる。
明日の朝、ドアの向こうにどんな景色が広がっているか楽しみでもあり憂鬱でもあった。
「私、そろそろ帰る。積もったら嫌だもん」
「帰るって言ったって、どうやって」
僕は部屋に散乱している結の衣服を見つめた。
この破れたセーラー服では外に出られないだろう。
「朋子さんに服拝借できないかな」
「でも、朋子さんにこの状況をどう説明しましょうか」
「そうだなぁ」
僕と先生が思案に暮れている間、結は毛布に包まりながら制服をかき集め何やらごそごそやっている。
毛布からルーズソックスを履いた足が伸びた。
スカートも穿いたようだ。
セーラー服は壁際に転がっていたプラダのリュックサックに突っ込んだ。
「私なら大丈夫よ。コートがあるから平気、平気」
結は裸の背中をこちらに向け、素早く白いダッフルコートを羽織るとこちらに向き直り、ほらねと得意そうに笑った。
確かにコートを着てしまえばその中の様子は周りからは分からない。
マフラーを巻けば首筋の痣も隠れてしまう。
誰も彼女がコートの下にブラジャーしか着けていないなどとは思わないだろう。
「でも、きっと寒いよ。雪が降ってるし風邪ひかない?」
「大丈夫だって。若いもん。それにこの格好で外を歩いてたら刺激的じゃない?身体が火照ってくるわ。今、便秘中だからお腹が冷えて下痢になったら丁度いいし」
お腹の周りを大きく撫でる結に先生は大きな声で笑い出した。
彼女のたくましさには笑うしかないという気持ちは僕にも理解できた。
先ほどまで生きているかどうか疑いたくなるようなひどい顔色でうずくまっていた彼女はもうどこにもいない。
まかり間違えば今頃このベッドの上で彼女は息絶えていたかもしれなかったなどとは到底信じられない話だ。
ころころと笑う彼女は存分に人生を謳歌していて何の悩みもなさそうに見える。
実際悩みのない人間などいないことは僕だって知っている。
結だって見ず知らずの男に殺されかけたのだ。
きっと心に深い傷を負ったに違いない。
それでも気丈に振る舞い何事もなかったようににっこりと笑う彼女の強さは僕には真似できないと思った。
彼女なら今日の出来事を明日には友人に笑い話として語っているかもしれない。
「握手してくれませんか」
先生は右手を彼女に向けて差し出した。
それが単に知り合った記念でも、高校生の肌に触れたいためでもないことは僕にも分かった。
先生は彼女が対人恐怖症や男性恐怖症に陥っていないかどうか確認しているのだ。
彼女は差し出された右手に一瞬強張った表情を見せた。
反射的に身をすくめたのが肩の動きで分かる。
やはり男の手というものに対して恐怖心が出来てしまったのだろうか。
しかし、彼女はひるまなかった。
すぐに右の掌を軽くコートの脇腹で拭うような仕草をして、笑顔を添えて先生の手をとった。
次いで彼女は僕に向かって右手を差し出して握手を求めた。
これも単なる握手ではない気がした。
彼女は僕に握手を求めることで生死の境をさまよった恐怖を克服しようとしているのかもしれない。
僕は結を真似て脇腹で掌を擦ってから彼女の手を握った。
彼女は僕の仕草に笑って僕の手をしっかりと握り返してきた。
彼女の瞳にはもはや微塵の曇りもない。
その笑窪には若々しい生命力が漲っているようだった。
「この仕事続けるの?」
僕は敢えて「仕事」と言った。
その言葉が結にとって一番しっくりくるだろうから。
彼女は屈託のない笑顔で頷いた。
「当然。こんなにいい仕事他にはないわ」
結はプラダの黒いリュックサックを肩にかけ、鍵を手にして「出ましょ」と歩き出した。
「最後に一つ、聞いてもいいかな?」
玄関に向かう結の背中に向けて先生は最後の問いを投げかけた。
結は玄関でローファーを履きながら「なあに?」と問い返した。
「結ちゃんって、何歳なの?」
そんなことを聞いてどうするのだろうか。
確かに結は小柄で童顔ではあるが、胸の膨らみは十分で中学生には見えない。
「二十歳。大学二年生よ」
結は事も無げに言って玄関から出て行った。
僕は狐につままれたような感覚で開いたままのドアの向こうを呆然と見つめていた。
そこから結は確かに帰っていった。
しかし僕は幻を目で追っているようなあやふやな気持ちになった。
今の今まで高校生だと思っていた女の子が実は僕と同い年のれっきとした大人の女性だった。
俄かには受け入れがたい事実だった。
大きなガムを飲み込めと強要されているような気分だった。
どうにも喉の奥に入っていかない。
「やっぱりな」
先生は爽やかに笑って結に続き外に出て行った。
先生はいつから気付いていたのだろうか。
この三人の中で知らないのが僕だけだとしたら何とバツの悪いことか。
すっかりだまされている僕を二人は心の中で笑っていたのだろうか。
「閉めちゃうよ」
ドアの影から結が顔を出して鍵を鳴らした。
その向こうから雪混じりの寒風が入り込んできて気付け代わりに僕の頬を叩く。
僕は風邪をひいていたのを思い出した。
すっかり全身から力が抜けてどっと熱が上がった気がする。
せめてもの救いはこれから朋子さんが看病に来てくれるということだ。
僕は再び這うようにして二人に続いた。
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