8-1

「におうね」


 いつもより早い時間に現れた先生は僕の部屋に上がってからずっと眉間に眉をひそめて腕組みをしている。

 僕はいつものように先生にマグカップでホットミルクを出して自分の部屋の中を見回した。

 別段臭気を発するようなものは無いように思う。


「何か臭いですか?」


 最近風邪気味の僕は鼻が詰まって思うように臭いを嗅ぎ取れない。

 だから僕には分からなくても先生には何かにおいがするのかもしれなかった。

 僕はティッシュで思い切り鼻をかんだ。

 少し鼻が通るようになる。

 しかし、次の瞬間にはもう鼻水が空気の通り道を塞いでしまう。

 鼻が詰まると頭もぼうっとしてくる。

 頭の中に靄が張ったような状態だった。


 風邪のひき始めは一週間前、朋子さんとタクシーで病院に行ったときだ。

 タクシーを降りた時に気がついたのだが、あのとき僕は部屋着のままで防寒具と言えそうなものは何も着ていなかった。

 朋子さんの様子に気をとられていて自分のことまで気が回らなかったのだ。

 雪の中へ飛び出した朋子さんを追いかけたときには僕は半ば風邪をひくことを覚悟していた。

 首筋から入り込む雪の冷たさと言ったらなかった。


 検査の結果、予想通りりょう君に問題はなかった。

 検査が終わって母親の顔を見たりょう君は元気に朋子さんの胸に飛びついていた。

 二人の微笑ましい様子に安心したときには既に僕は背筋に悪寒を感じていた。

 そして予想通り僕は風邪をひいたのだった。

 朋子さんに笑顔が戻ったのは嬉しいが、この風邪は長引きそうで気が滅入る。

 寝込むところまではいかなかったのだが、その分いつまでも治らない。

 常に鼻が詰まっていて息苦しい。

 今日は特に身体全体が重い気がする。

 僕は先生の向かいに座りコタツの中に足を伸ばした。


「お隣さんのことだよ」

「お隣さん?」


 そう言えば今日から隣の部屋つまり僕の部屋と先生の部屋に挟まれた203号に誰か引っ越してきたようだ。

 朝からひっきりなしに家具やら電化製品やらが届いている。

 入居者ともそのうち通路で顔を合わせることになるだろう。

 今度は独身者だろうか。それともやはり夫婦だろうか。


 ふと前の住人だった若夫婦を思い出した。

 彼らが出て行ってもう一ヶ月以上が過ぎている。

 彼らは元気にやっているだろうか。

 今度は愛し合っても隣に音が漏れないところに引っ越したのだろうか。

 今度入居する人は前に住んでいた若夫婦のことは当然知らないだろう。

 僕や先生もそのうち新しい入居者を見慣れ前の彼らのことは忘れてしまうに違いない。

 そういうことを繰り返してサクラビルは歴史を重ねてきた。

 いずれ僕もこの部屋を出て行くときが来る。

 僕もこのサクラビルの歴史の一部になるのだ。

 そのときがどういう形で訪れるのか今はまだ想像もつかない。


「餃子でも作ってるんですか?」


 引越し餃子とは聞いたことがないが。

 何が面白いのか先生は僕の言葉にぷっと吹き出した。


「そのにおうじゃないよ。何だか怪しいってこと」


 僕はますます分からなくなって先生と同じように眉をひそめた。

 すると左の鼻から鼻水が垂れそうな感じがして慌ててティッシュに手を伸ばした。

 気を抜くと鼻水がつーっと出てくる。

 かんでもかんでも切りがない。

 いい加減鼻の下がひりひりしてきた。


「どこらあたりが怪しいんですか?」


 別段怪しいところなど思い当たらない。

 当人に会ったこともないのだから怪しいも何もないのだが。

 先生は小首を傾げてぶつぶつと言い出した。


「今ここに来る途中に顔をあわせたんだけど、四十歳ぐらいのカップル二人きりだった。子供はいなかったんだよね」


 それがどうしたと言うのだろう。

 たまたま今日は二人きりだっただけかもしれないし、百歩譲って子供に恵まれなかった夫婦だったとしてもそんな夫婦など珍しくない。

 現に101号の水野さんも中年夫婦で二人の間に子供はいない。


「十代の恋人同士のようにぴったり寄り添いあってさ。言葉なんていらないっていう感じで見つめ合ってどこかへ出かけていったよ」


 先生は納得いかない表情だ。

 口から十センチぐらいのところでマグカップを持ったまま「おかしい、おかしい」と連呼している。

 思案顔で一向にホットミルクには口をつける様子がない。


 そういう夫婦がいてもいいと思う。

 中年になっても十代のように愛し合っているなんて素敵なことだ。

 無言で母を睨みつけている父を見ることはあったが、言葉もなく愛を秘めて見つめ合っている両親を僕は見たことがない(そんな二人を見たら気持ち悪かっただろうが)。

 その夫婦は子供がいないからいつまでも恋人同士の感覚でいられるのかもしれない。


 先生は何が気に入らないのだろう。

 四十代の夫婦間に愛など無いと思っているのだろうか。

 他人の幸せに嫉妬するような人ではないと思うのだが。


「二人とも左手の薬指に指輪をしてたな」


 結婚しているなら当たり前だ。

 先生の言いたい事が未だに見えてこない。

 先生が手にしているホットミルクから立ち上る湯気のように掴み所が無かった。

 ミルクはそのまま冷めてしまいそうだ。


「男はゴールドで、女はシルバーの指輪」


 なぞなぞだろうか。

 先生は次第に僕を試すような目になってきた。


「引越しの業者を見てないんだよね」


 引越しの業者が引越しの日に来ていないのはおかしい。

 しかも夫婦は先ほど昼の三時頃に出かけていったのだから今日はもうこれ以上何も来ないと言える。

 僕は何となく先生の言わんとすることが分かってきた気がした。


「家具やら電化製品やらは全て新しく買い揃えたみたいだったな」


 これで僕にも全て理解できた。

 先生は「夫婦」とは言わずに「カップル」と言った。

 妻でも夫でもなく男と女なのだ。


「お隣さんは恋人同士のような夫婦ではなくて、夫婦のような恋人同士なんですね」


 先生は大きく頷いて紅茶をすすった。


「あれはきっとダブル不倫だよ。203号室は二人の秘密の隠れ家として使うつもりなんだな」

「隠れ家、ですか」


 先生が言うのだから間違いないだろう。

 さすが先生だ。ここに来る途中にすれ違っただけでそこまで見抜いてしまう。


「きっと、ベッドの中では熱く燃えるんだろうなぁ」


 また始まった。

 先生の中でお隣の中年カップルはあられもない姿にされているのだ。

 長めの髪を掻き揚げ目を細めて遠くを見る先生は爽やかに見えるが、その実、考えていることは爽やかさとは対極にある。

 急に僕の身体から力が抜けていくのは風邪だけのせいではないようだ。


「おっと、もうすぐ四時になるね」

「何かあるんですか?」

「ちょっと約束があるんだよ。305号に行く約束が」


 305号と言えばあの盗聴のための部屋だ。

 今日もどこかの男が306号で女を買うのだろう。

 そんなところで先生は一体誰と待ち合わせているというのだろうか。


「俺が約束したわけじゃないんだよ。306号で再会を約束しているのをこの前盗み聞いたんだ」


 先生はにっこりと微笑むと湯気も立たなくなったホットミルクを一気に飲み干し、やおら立ち上がると僕に向かって「じゃあ、また後で」と軽く手を挙げた。

 先生はこれから一仕事するような精悍な顔つきで部屋を出て行った。


 僕はもう盗聴はこりごりだった。

 僕にとって盗聴は性欲の充足と言うには刺激が強すぎる。

 良心は痛むし、何といってもそわそわして落ち着かない。

 先生が自分の作品のために参考資料にする分には何も言うつもりはないが、僕はもう305号に足を踏み入れるつもりはなかった。


 今日も外は寒い。

 昨晩のニュースでタレント気取りの女性天気予報士が「明日はとっても寒くなります。昼過ぎからは雪が降り出します。平野部でも大雪に注意してください」と深刻さの欠片も感じられないとびきりの笑顔を湛えて伝えていたのを僕は思い出した。


 今日は起きてから時間が経てば経つほど悪寒がひどくなってきていた。

 風邪をひきながらも週末まで寝込まずに乗り切れたことで気持ちが緩んでしまったのか、全身が気だるく頭も痛い。

 先生が出て行って部屋に一人残されると、さらに症状が悪化したような気がしてくる。

 僕は体温を測るために押入れから救急箱を探り出してきた。

 熱があれば今日はこのままゆっくり寝ることにしよう。

 申し訳ないが先生には出前でもとってもらうことになるだろう。


 体温計のボタンを押して電源を入れ先の方を脇に挟んだ。

 そのとき携帯電話が鳴った。


 どこで鳴っているのか携帯電話は見えるところにはなかった。

 耳を欹ててみるとどうやら通学に使っているリュックの中のようだ。

 部屋の隅に横たわるリュックまでの二、三歩の距離が今の僕にはものすごく遠くに感じられる。

 僕はコタツに足を入れたまま倒れこむようにして手を伸ばした。

 日頃滅多に鳴ることのない電話がこういう日に限って存在意義を誇示するようにけたたましく鳴り響く。

 身体を思い切り伸ばし爪の先に引っ掛けてどうにかリュックを手繰り寄せる。

 どうせなら切れてしまわないだろうか。

 こんな日は先生以外の人とは話すことも億劫だった。

 緩慢な動作でファスナーを開けごそごそと携帯電話を取り出した。


「はい。村石です」


 誰から掛かってきたのかも確認せずに寝ころんだまま電話に出た。

 こんなときはどうしても不機嫌な声になってしまう。

 自分でも嫌になるほど不快感をあらわにした声だ。

 仕方ない。こんな日に掛けてくる方が悪いのだ。


「橋本ですけど……。もしかして寝てました?」


 僕は自分の耳を疑った。

 全く予想していない人の声だったのだ。

 朋子さんと話をするのは一週間前の病院以来だ。

 慌ててトーンを上げようとするから咽喉に何かが絡まって変に上ずったハスキーな声が出てしまう。


「い、いえ。そんな事はありません」


 電話を握る手が一気に汗ばんでくる。

 体温がさらに何度か上がったようだ。体温計を脇から取り出しコタツの上に置く。「間違いなく起きてます。ええ。こんな時間には寝れませんよ」


 僕の慌てぶりが分かったのか電話の向こうで朋子さんが声を殺すようにして笑っているのが分かる。


「そんなに否定しなくても……。でも、それにしては、ものすごく不機嫌そうな声でしたよ。鬱陶しいっていう感じがひしひしと伝わってきました」


 朋子さんは僕を困らせようとするのか「ひしひし」に力を込めた。


「いや、あの、その、ちょっと風邪をひいてしまいまして。いや、大したことはないんですが、咽喉が少し痛くて、ちょっと声が出しづらいもんですから」

「風邪ですか?そんな時に電話なんかしてごめんなさい。しっかり休んでください。すみませんでした」


 朋子さんの態度がころっと変わった。

 慌てて低姿勢になったかと思うと電話を切ろうとする。

 僕は少しでも電話を長引かせようとさらに慌てて元気を装った。


「いや、本当に大したことないんです。熱も大したことないですし」

「熱があるんですね?分かりました。今は出張先から電話してるんですけど今日は定時に帰れますから看病させてください」

「えっ?そんな、どうぞお構いなく。本当に大丈夫ですから」

「いえ。一週間前のお礼をしようと思って電話したんです。風邪の看病ぐらいさせてください」


 朋子さんは僕に断る隙を与えずにまくしたてて電話を切ってしまった。

 僕は寝転がり天井を見上げて放心していた。

 つい今まで電話越しに朋子さんと話しをしていたと言うのが夢の中の世界だった気がする。

 あまりに意外すぎて現実感がない。

 僕は夢心地で再び体温計を脇に挟んだ。

 するとその瞬間また電話が鳴った。


 僕は慌てて携帯電話を掴みなおした。

 朋子さんかもしれないと思ったが液晶画面の表示には先生の名前が出ていた。


「村石君!」


 通話ボタンを押すと電話の向こうから噛み付くような勢いで先生が呼びかけてきた。


「ど、どうしたんですか、先生」

「村石君、すぐに三階に上がってきてください。大変なんです」

「何が、大変なんですか?先生。先生?」


 電話はすでに切れていた。


 常に冷静な先生が慌てている。

 それだけでただ事ではないのは分かる。

 しかし、身体がいうことを聞かない。恐ろしく身体が重い。

 身体全体が床に引っ張られているような感覚がある。

 僕は立ちくらみに耐えながら這うようにして外へ出た。


 今にも雪が降ってきそうな薄暗い空だ。

 針のように鋭い寒風が頬や手に痛みを伴って突き刺さる。

 触れば冷気で指が引っ付いてしまいそうな階段の金属製の手すりに手をかけながら、動かない身体に鞭を打って三階に上がると、先生が306号のドアを激しく叩いているのが見えた。


「開けなさい。警察だ!」


 先生は気でも違ったのだろうか。

 いつもは自分がピッキングで不法侵入しているくせに、今は警察を騙って他人の部屋に入り込もうとしている。

 それも鉄製のドアを蹴破りそうな勢いでだ。

 あまりの迫力に気圧されて僕は目の前の様子を映画の一場面を観ているように呆然と眺めた。


「開けろ!開けないなら無理やり開けるぞ」


 先生はドアの前にしゃがみこんでポケットを探っている。

 おそらくまたピッキングで開けるつもりだろう。

 いったいどうしたと言うのだろう。

 部屋の中で何が起きているのだろうか。

 状況は全く理解できないがとにかく非常事態であることだけは間違いないようだ。


 先生は例のように針金のような棒をポケットから出して鍵穴に差し込んだ。

 すると急にドアが内側から開いた。

 先生はドアが開く勢いに飛ばされる格好になって通路の鉄製の柵に背中をぶつけた。


「先生!」


 僕が先生に駆け寄ろうとすると部屋の中から衣類を右の脇に抱え左手には靴を手にした白いTシャツ姿の男が猛然と走り出てきた。

 左手に掴んでいる靴で隠しているので顔は見えない。

 背は低いががっしりとした体格で髪を短く刈り揃えた男だ。

 彼はこの寒さのなか裸足で脇目も振らずに僕を突き飛ばして階下に降りていった。

 僕は階段の手すりにつかまりながら必死で身体を支えた。

 僕とぶつかったときに靴下が一足落ちたが男は全く顧みることもせずあっという間に飛ぶように走り去っていった。


「村石君!大丈夫ですか」


 よろよろとこちらにやってきた先生も腰のあたりをさすりながら痛そうに顔を顰めている。


「何とか大丈夫です」


 僕は弱々しく右手を上げて無事をアピールした。

 全く何でこんな目にあわなくちゃいけないんだ。


「とりあえず部屋に入りましょう」


 先生はそう言って306号に入っていった。

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