5-2
こうやって待つことが先生の作品のネタ作りに何の意味があるのだろうか。
もう吐く息の白ささえ分からないほど部屋の中は闇に包まれてしまった。
視界が遮られてくると余計に聴覚が敏感になる。
僕は鈍いギターの響きの向こうに何かを聞きとろうと懸命に耳を澄ました。
まもなくまた靴音が聞こえてきた。
今度はスニーカーだろうか。
歩くリズムは早いが摺り足気味でだらしなく聞こえる。
靴音はやはり306号の前で途絶え少し間をおいてドアをゆっくり三回ノックする音が聞こえてきた。
「また誰か来ましたよ」
僕は壁に近づけ耳をそばだてた。
スリッパのパタパタという音が聞こえる。ドアの開く音。
「あら、随分と若いのね」
若い女性の声だ。
「だめですか?そっちだって高校生なんでしょ?大して変わらない」
後から訪ねてきたのは男性だ。
声変わりはしているがどことなくまだ幼い感じがする。
口調は大人ぶっているが中学生ぐらいかもしれない。
女の方は高校生か。
「へー。真面目そうなのにね……。まあいいわ。どうぞ、中へ入って」
ドアが閉まる音がする。何やら後ろ暗い響きだった。
「それじゃ、いただくものを先にいただいておくわ。ちゃんと持ってきた?」
男と女。初対面の男が女に渡すもの。
「先生。ここって……」
先生のおぼろげな輪郭が小さく頷いたように見えた。
ここは売春宿なのだ。
つまり先生は売春の現場を盗み聞きしてネタを得ていたのだ。
同じマンションの一室で売春が行われていたのも驚きなら、それを先生が知っていて盗み聞きをしていたのも驚きだった。
僕は胸が高鳴り手に汗が滲むのを感じた。
それは売春という犯罪を知ってしまった緊張感からか、他人の情事というプライバシーを盗聴していることに対する罪悪感か、あるいは単純に性的な興奮なのか。
いつの間にか303号からのギターの音色は僕の耳に入ってこなくなっていた。
僕は306号に集中していた。
「三万円確かに。それじゃ始めよっか。ベッドがいい?それともお風呂?」
始まる。女の慣れた口調が艶かしい。
僕は生唾を飲んでカラカラに渇いた喉を鳴らした。
これ以上聞いてはいけない気がする。
これは犯罪じゃないか。
知らない方がいい。君子危うきに近寄らずだ。
しかし、僕の耳はどんなかすかな音も聞き逃がさないぐらい壁の向こうに奪われてしまっていた。
あまりに興奮している自分が恥ずかしい。
今ここでこの場を離れなければ自分がどうにかなってしまいそうだ。
「先生、僕失礼していいですか。こういうのはどうも……」
「折角だからもう少しどう?今出て行ってはばったり朋子さん達と会っちゃうかもしれないし」
先生は聞かなきゃ損だとでも言いたげだ。
確かにここで出て行って通路でばったり朋子さんと会ったら目を合わせられる自信がない。
いつもならまもなく朋子さんが仕事から帰ってくる時間だ。
もし朋子さんにこの階で何をしていたかを問い詰められたら、僕は上手に嘘をつけるだろうか。
「じゃあキスしよっか」
若い女が挨拶をするように言う。
壁の向こうにいる二人のシルエットが浮かんで見えるような気がして、僕は思わず目の前の壁に釘付けになった。
306号の情景に虜になってしまっている自分を先生に悟られまいとすればするほど僕の息遣いは荒くなってしまう。
他人がキスをするのを生では見たことがない僕は壁の向こうで行われていることに対してこんなに自分が興奮していることに驚き、そして羞恥した。
「306号は岡田という男性の名前で借りられてる。どうやらそいつが売春を仕切っているようだね。つまりまず女性を買いたい男性が岡田氏に仲介料の金を払う。岡田氏は女性に連絡してこの部屋にスタンバイさせる。岡田氏からここの住所を聞いた男性がこの部屋を訪れる。岡田氏は手広くやってて他にもこういう部屋を何件か借りているみたいだよ。今日の彼女の声は何回も聞いたことがある。高校生のようだけどベテランだ」
先生は相変わらず怖いくらい冷静だ。
聞き慣れているからだろうか。
それとも仕事柄これぐらいの刺激では興奮することはないのだろうか。
「キスぐらいでそんなに固くならないで。ここに座って」
女がベッドを軽く叩いたようだ。
すぐにベッドがきしむ音がした。
女の言葉に男が素直にしたがったようだ。
「童貞なの?」という問いかけに男は返事をしなかった。
返事をしないのは認めたということだ。
「いくつ?」
「十五」
「中三?受験シーズンじゃないの?」
「別にいいだろ」
中学三年生。
僕も中学三年生の時はまだ童貞だったが、セックスをしたいからと春を買うようなことは思いもよらなかった。
多感な時期ではあったがセックスという行為や女性の身体に得体の知れない恐怖感も抱いていた。
それだけ心も身体もまだ未発育だったのだろう。
しかし、彼はセックスがしたくてここに来た。
中学生の頃の僕が持っていた恐怖心にはすでに打ち勝っているのだ。
彼がませているのだろうか。
それとも今の中学三年生はセックスを経験していて普通なのだろうか。
隣の部屋で行われていることが売春であり、売春は犯罪であるという意識は僕の中で完全に遠のいていた。
もっと音を、もっと声をという欲望にいつの間にか僕は支配されていた。
「いいわ。力を抜いて。怖がらなくてもいいのよ。私が全部教えてあげる。ほら手を貸して」
僕は少年のまだ節くれだっていない白く頼りない手を想像した。
色情に染まったその手はどこに向かっているのか。
不器用に震えるその指は何を捉えたのか。
「ゆっくりよ」「焦らずに」「優しくね」と諭すような女の口調がまるで壁を隔ててこちら側にいる僕を老獪にリードするようでいらだたしい。
時折上げる喘ぎ声まで計算づくのようで憎らしかった。
生身の女に向かって初めて漕ぎ出した少年の必死の荒い息遣いが聞こえてくる。
「痛いっ!ちょっと、痛いわ」
「あっ、ごめん」
「っもう。もっと優しくしてって言ってるでしょ」
突き放すような女の言葉で306号の右肩上がりに熱されて膨張していた空気が一気に冷えて萎んでいくのが分かる。
沈黙が気まずい。
こうなると少年が可愛そうだった。
人間には余裕が大事だと僕は痛感した。
「こういうケースは初めてだなぁ。いつもはおじさんが相手だから彼女も戸惑っているみたいだね」
中学生が童貞を捨てるために金を集めて娼婦に走るなんて聞いたことがない。
売春とはやはり金を持ったおじ様が若い女を買うというのが一般的な構図なのだろう。
壁の向こうから金属がこすれる音がした。
「タバコ吸うの?」
「悪い?」
「……」
女の取り付く島のない返事が帰ってくる。
言外の「あんたが下手だからいらいらしてくるのよ」という響きが文字となって目に見えるようだ。
「……でも未成年でしょ。良くないよ。健康にだって悪いし……」
「あんた、売春だって犯罪なのよ。そっちの方が罪が重いわ」
女の言うとおりだった。ここに来てタバコを咎める少年の発想は幼かった。
「きっと彼はタバコに対して悪いイメージを持っているんだね。僕は絶対にタバコを吸わないって心に決めているような感じがする。思春期の面白い発想だな」
言われてみれば僕もタバコに対して悪いイメージを持っている。
僕の父はチェーンスモーカーで、それこそまさに次から次へとタバコに火を付けた。
父と一緒にいるとたちまち部屋の中は白い煙で充満し毒されていない空気は部屋の隅のほうに押しやられ、僕や妹は吸うたびに咽喉に痞える空気を仕方なく甘受していた。
父のそばに行くといつもタバコ臭く、空気が悪い。
顔をしかめて見せると不遜だと父に怒鳴りつけられるので平然を装っていたが、内心はむせ返りたくなるほど辟易としていた。
ヤニで黄色くなった父の歯を見るたびに寒気がして鳥肌が立ったものだ。
だから僕は小さい頃からタバコだけは吸うまいと心に誓っていたのだ。
この少年も似たような経験をしてきたのかもしれない。
「したいんでしょ。だったらしっかり私の言うとおりにしてよね」
女の口調が命令的になった。主導権は完全に女のものになっていた。
「返事は?」
「……わかったよ」
男というのは悲しいほど単純な動物だ。
初めて女の裸を目の前にしながらお預けを喰らっている彼には抗う術はない。
彼は自分が金を払っているという事実を忘れてしまっているようだ。
「じゃあ、こっちへ来て足を舐めなさい」
「足を?」
「嫌なの?」
少年は言うことを聞くしかない。
少年は女の足を爪の先から舐めることになるだろう。
この女にはサディスティックな性癖があるのかもしれない。
「ほら、今度はこっちの足よ」
「はい」
「丁寧に舐めなさいよ」
女は女王様気分で完全に調子に乗っている。
僕は金を払ってまでして女に跪き足を舐めさせられている少年の普段の生活を察してみた。
元来気の強い性格ではないのだろう。
両親の言うことをよく聞いて、真面目に中学三年間学校に通い、夕方からは塾にも行き、有名高校、有名大学に進学するために毎日毎日机にしがみついて勉強しているのかもしれない。
そんな受験勉強の最中に夜な夜などうしても下半身に神経が向いてしまう。
目の前の問題に集中しなくてはいけないのだが、分かっていても手が股間に伸びてしまう。
友達が話している猥談が気になって仕方がない。
そうしていつの間にか妄想だけが肥大して他の事が手につかないほどになってしまったのだろうか。
「もう舌が痛いよ」
余程熱心に舐めまわしているのだろう。
唾液が枯れてしまうほど一心不乱に。
しかし一度優位に立った女は許そうとはしない。
「つべこべ言わないの。ほら。今度は太腿を舐めさせてあげるわ」
女の官能的な口調が僕にその柔い大腿を思い浮かべさせる。
白く芳しく瑞々しい脚。
舌と唇に伝わるその弾力を想像して僕は初めて少年をうらやましく思った。
この壁を叩き割って少年にとって代わりたい。
しかし、僕は物音一つ立てられない。僕はただの聴衆でしかない。
「ねえ」
「はい」
「フェラって知ってる?」
「……知ってる」
「して欲しい?」
女が絡みつくような甘い声を出す。
僕はじれったい少年の答えを待った。
はいと返事をしろ、して欲しいと言え。
僕は思わず声に出しそうになって、ぐっと咽喉に力を入れた。
そのとき反対の壁の方から子供の泣き声が聞こえてきた。
どこかで聞いたことのある声。
声は壁からではなかった。
りょう君がベランダで泣いているのだった。
「何回言ったら分かるの!どうして一人でできないの。お母さんは忙しいのよっ!」
朋子さんが声を荒げてりょう君を叱っている。
りょう君の泣き声は一段と大きくなった。
あの朋子さんがまるで叫ぶようにりょう君を叱責している姿はどうしても僕には想像できない。
何かにとりつかれたような朋子さんの声は僕の知っている彼女とはまるで別人だった。
こんなに固くしちゃってるのね。
おかあさん!おかあさん!
あっ、ごめんなさい。
何よ。もういっちゃったの?
こんなに出しちゃって。
ちょっとそこのティッシュで拭きなさいよ。
りょう!静かにしなさい!
僕は急にいたたまれなくなってしまった。
りょう君の泣き声と淫靡な嘆息とは相容れない。
屠殺場で断末魔を聞きながら優雅なフランス料理を頬張る気にはなれないように僕はこの部屋にこれ以上はいることができなかった。
「僕、帰ります」
僕は言うや否や部屋を後にした。
先生は僕を止めようとも追いかけようともせず声もかけなかった。
302号の前を僕は逃げるように足音を消してこそこそと走った。
部屋に帰るや否や僕は空きっ腹にビールを注ぎこんだ。
食道がカッと焼けた。
内側から濡れたトランクスが冷たかった。
二人の会話に感じてしまったのだ。
興奮が冷めていくにつれ傷ついた自尊心が顔をもたげ僕は何だか泣きたくなった。
先生はまだあの情事に耳をそばだてているのだろう。
僕には官能小説家の気持ちは分からない。
窓の外からは相変わらずりょう君の泣き声が聞こえる。
僕は冷蔵庫にもたれてりょう君が泣き止むのを待った。
今日はまた一段と寒い。
三階の風はりょう君にとって身を切るような冷たさだろう。
いつまでもベランダで泣いていては身体が冷え切ってしまう。
僕は早く朋子さんが優しく窓を開けてりょう君を暖かい部屋の中へ迎えてくれるよう願った。
しかし、ただ願うだけで何も出来なかった。
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