5-1
ここのところ見るからに先生は忙しい。
代役で雑誌に小説を載せて以降は次から次へと仕事が舞い込んできているようだ。
余程ピンチヒッターの出来が良かったのだろう。
先生の部屋にはひっきりなしに出版社の人が原稿を取りに来ている。
そのために先生があまり寝ていないことは一目瞭然だった。
髪はぼさぼさ、服はよれよれ、いつも眠そうな顔で赤い目をこすりながらあくびを連発している。
僕が作る夕食も時間が惜しいとばかりに一気にかきこみ食べ終えるとすぐに部屋に戻って行ってしまう。
僕が作っていない朝、昼はしっかり食べているのだろうか。
とてもそうは思えない。
先生は日に日にやつれていっているように見える。
こんな状態が続けば身体を壊してしまうのは明らかだけど、先生にとって今が一番大事な時期だと思うと僕は何も言えなかった。
僕に出来ることは栄養たっぷりの夕食を作ることだけだった。
今日はニンニクたっぷりの餃子とうな丼と山芋のサラダの予定だ。
食べ合わせにはこだわらず精力のつくものばかりを選んだ。
これだけ食べればスタミナの補給は十分だ。
先生には無理してでも全て口に入れてもらわなくてはいけない。
「村石君、居ますか?」
チャイムを鳴らし玄関で僕を呼ぶのは先生のようだ。
腕時計を見ると四時前。
夕食にはまだ早い。
準備は今から始めようとしていたところだ。
しかし玄関を開けるとやはり先生が立っていた。
心なしか先生の表情が明るい。
目の周りの隈も無くなっている気がする。
「どうしたんですか?今日はまだ早いですよ」
「うん。今日は午前中に仕事が一段落ついてさ。小一時間ぐらい昼寝しようかと思って横になったら思わず爆睡しちゃったんだよね。で、さっき起きて、することないから遊びに来た」
先生はいつもの先生に戻っていた。
少し長めのきれいな髪、たれ気味の優しい目、さわやかな笑顔。
僕は先生を部屋に上げてホットミルクを出した。
熱めのホットミルクは先生のお気に入りだ。
僕は熱を加えすぎることによって表面に出来る膜があまり好きではないのだが、先生は全然気にしない。
逆に膜の存在を楽しんでいるようで吹いたり吸ったりして遊んでいる。
「忙しかったみたいですね」
「おかげ様でここのところ立て続けに仕事が入っちゃって。この前のピンチヒッターで雑誌に載せた小説が好評だったみたいでさ」
「寝る暇もなさそうでしたもんね。目の周りに隈が出来てましたよ」
先生は苦笑して髪をかき上げた。
指の隙間から黒い髪が雪崩れ落ちる。
シャンプーの爽やかな香りが漂ってきそうだった。
「ホント、冗談じゃなく風呂もろくに入れなくてさ……。気がついたらキーボードに手を置いたまま居眠りしてるってことが何回もあったなぁ。我ながらよく風邪ひかなかったと思うね」
「気が張ってたんでしょうね。逆に気が抜けた今が危ないですよ」
「そうそう。昼寝してから少し咽喉が痛いんだよね」
先生は真面目な顔で僕の言葉に頷いた。
一人暮らしの人間にとって風邪は馬鹿にできない大病だ。
寝込んでしまっても誰もご飯を作ってくれない。
買い物に行けなければ部屋の中の食料はなくなっていく。
熱が出たところで氷枕を作るのが自分なら氷を入れ替えるのも自分だ。
寝汗をかいて着替えるということを何度か繰り返していると洗濯物はたまっていくばかりで、そのうち着るものが無くなってしまう。
そして何よりも心細いのがいけない。
このまま誰にも気づかれずに死んでいくのではないかと思うと、あまりの寂しさに叫びそうになる。
いつか死後冷たくなって肉も腐り始めたころに新聞の配達人がポストに溜まっている新聞を不審に思いドアに手を掛け部屋の中の僕の死体を発見するという惨憺たる光景をどうしても思い描いてしまう。
そんな死に方は嫌だと布団から這い出して誰かに電話を掛けようとするのだがそういうときに限って誰も捕まらないものなのだ。
よく考えるとこの部屋には薬らしいものが何一つない。
風邪薬ぐらいは常備していた方が安心だと僕は思った。
ついでに先生に咽喉飴を買ってこよう。
「この一週間で五本の短編を書いたんだけど、今度それが短編集の形で出版してもらえるらしいんだ。言うなれば処女作だよね。出来上がったら一冊あげるからさ、良かったら読んでみてよ」
先生の本が出版される。
先生の本が日本中の書店に並ぶのだ。
僕は改めて先生を尊敬しなおした。
先生が何だか眩く見える。
僕のような人間が先生と対等に話をしていても良いのだろうか。
先生を近くに見ているだけでこそばゆいような快感を覚えてしまう。
「一応、『禁断の関係』ってのが全体を通してのテーマになってる。親子に始まって教師と生徒、刑事と犯人、僧侶と尼僧、医者と患者……。一番書いてて面白かったのが教師と生徒かな。レズものにしたくって教師も生徒も女にして電車内で教師が生徒に触られるってのを描いたんだけど我ながら自信作だよ」
思い出した。
先生は官能小説家だった。
濃い言葉をさらりと言ってのける先生の爽やかな口調が実にアンマッチだった。
「しかしよくそんなにネタが思いつきますね」
僕はこれが不思議で仕方なった。
先生のように次から次へと作品を仕上げていく作家という人種の頭の中はいったいどうなっているのだろうか。
書きたいことがどこからか無尽蔵に湧きあがってくるのだろうか。
指が独自の思考回路を持ち先生の脳とは無関係に勝手にキーボードを叩いているのかと思ってしまう。
「ちょっとついてきて」
先生はちょっと考え込んだ様子を見せると僕をどこかへ連れて行こうとした。
一度決めると後には退かない先生はニヤニヤ笑いながら半ば強引に僕を外へ引っ張り出した。
先生が向かった先はサクラビルの三階だった。
朋子さんとりょう君が住んでいる302号の前を通って305号の前に先生は立ち止まった。
以前先生から305号の部屋には誰も住んでいないと聞いたことがある。
先生は口の前に人差し指を立てて僕に声を出さないように注意してからドアのノブの前に屈みこんだ。
僕は先生が何をするのか想像もつかず、ただ言われたとおり物音を立てないように静かに先生の横にしゃがみこんだ。
二人で声を押し殺していると何だか先生と秘密を共有しているような気がして、僕はいったい何が始まるのかと先生の行動をわくわくして見守った。
先生がシャツの胸ポケットから取り出したのは二本の金属製の細い棒のようなものだった。
先生はその二本の棒を素早くドアの鍵穴に差し込んだ。
ピッキングだ。
先生はこの305号の鍵を開けるつもりなのだ。
いつになく真剣な眼差しで鍵穴を覗き込んだり音を聞いたりしている先生に無駄な動きはない。
その慣れた手つきはこの方法での侵入が一度や二度ではないことを物語っている。
「ちょっと、先生」
思わず声が上ずりそうになる。
これは犯罪ではないか。
僕は慌てて前後左右に視線を飛ばし誰もいないことを確認した。
「止めましょうよ、先生。大体、どうしてピッキングなんか出来るんですか?」
先生は僕の問いを無視して作業を続けた。
僕は完全に怖気づいていた。
当然ながら不法侵入の経験などない。
たとえ空室であっても自分の部屋ではない以上見つかればただではすまないと思う。
しかし何か言おうとすると先生はまた人差し指を立てて僕に沈黙を要求する。
こうなると僕にできることは息を殺して誰か来ないか辺りを見回すことだけだ。
坂の中途にあるサクラビルの三階から見る景色はなかなかのものだ。
眼下に開けた町並みが一望に見下ろせる。
しかし、見晴らしが良いということは自分の姿も周りから見やすいということだ。
坂を誰かが上ってくる。僕は咄嗟に姿勢を低くした。
階下でドアが開き足音が聞こえてくる。
僕はいたたまれなくなってさらに身を小さくした。嫌な汗が脇を伝う。
今302号の部屋のドアが開いたらどうしよう。
朋子さんに見られたらこの状況を何と弁解したら良いのだろうか。
もとより弁解の余地などあるはずがなかった。
朋子さんは犯罪者或いは変質者を見る白い目で僕を軽蔑するだろう。
そんなことになったらと思うと気が気じゃない。
ガチャという小さく鈍い音に僕は振り返った。
先生は満足げに立ち上がり、まるで自分の部屋に入るかのように澄ました顔でドアノブを捻った。
軽いキィという錆付いた音とともに驚くほどわけもなく305号の鉄製のドアは開いた。
僕は先日回っていた回覧板に挟んであった「空き巣に注意」のチラシを思い出した。
「まさか先生が……」と疑りながらもここまできたら先生について部屋に入るしかなかった。
部屋の中には何もなかった。
空き部屋なので何もなくて当然なのだが、何一つ飾りのない部屋は見ていて気持ちが良かった。
僕は二年前にサクラビルに引っ越してきたときのことを思い出した。
あのとき僕は何もない部屋の中央に座り周りを見回して、どこに何を置こうかと空想に耽っていた。
自分の好きな物を好きな場所に置き自分のためだけの空間を作れる喜びと真っ白いキャンパスに初めて色を落とすときのような緊張で妙に息苦しかった。
真っ白いのは部屋だけではなかった。
自分の生活そのものが「一人暮らし」という名の未知との遭遇だった。
先生はまた僕に喋らないように人差し指で合図をして壁のそばに座り僕を手招きした。
僕が先生の側に腰を下ろすと先生は小声で話しかけてきた。
「ここが空き部屋だということは前にも話したから知ってるよね」
僕は声を出さずに頷いた。
どこからともなく御世辞にも上手とは言えない鈍いギターの音色が聞こえてくる。
「隣の303号は村石君と同じく学生さんで今部屋にいるようだから物音をあまり立てないように」
このマンションは壁が薄い。
集中して耳を澄ませば隣の部屋の会話を聞きとることも出来るくらいだ。
聞こえてくるギターは303号の住人が弾いているのだろう。
ならば少しくらいの物音では気付かないだろうが、用心に越したことはない。
かと言って物音を立てるようなものはこの部屋には何一つないのだが。
先生は黙って腕時計を見ている。
僕が隣から覗きこむと先生は僕に腕時計を示した。
「今、四時半だね。あと三十分もしたら俺が何故ここに村石君を連れてきたか分かるよ」
そう言うと先生は壁にもたれ目を閉じて身動きしなくなった。
どうやらこのまま時が来るのを待つ気らしい。
僕は先生に見放されたような気分で落ち着かず何もない部屋の隅々に目をやった。
暖房もない、カーペットも敷いてないこの部屋では吐く息も白い。
こんなところで何を待てというのか。
赤みがかった窓の外は一足飛びに暗くなってきている。
冬の夕焼けははかない。
あと三十分もしたら明かりのないこの部屋は闇に同化してしまうだろう。
十分、十五分と過ぎていく。
相変わらず先生は目を閉じたままだ。
「何が起こるんですか」と尋ねても先生は決まって微笑みを浮かべるだけで何も言ってはくれない。
こちらが黙っていると先生は無表情に目を閉じたままなので眠ってしまったのかと不安になってくる。
303号からの相変わらずリズム感のないビートが僕の神経を少しずつ逆なでる。
僕は所在無く立ち上がって窓の外を見下ろした。
三階から見る景色は二階の僕の部屋からのそれとは少し違って見えた。
全てが少しずつ小さく見えて街の模型を見ているような感じがする。
冬の寒さのせいだろうか。
立ち並ぶ家々が白々しいほど人工的に見えて人の気配が感じられない。
僕は背筋が寒くなった気がして再び先生の横に腰を下ろした。
部屋の中は加速度的に明るさを失い先生の輪郭がぼやけてきた。
白い壁に先生の影が滲んでいる。
そのとき部屋の前の通路を歩く靴音が聞こえてきた。
軽やかな足取りは若い女性を連想させる。
その靴音は徐々に近くなり、僕たちがいる305号を通り越して306号の前で止まった。
鍵を開ける音に続きドアを開閉する音が聞こえてきた。
僕の心臓は一気に高鳴った。
先生がゆっくり目を開いた。
いよいよ待ちに待ったものが現れたのだ。
「隣の306号は借主は居るけど、この部屋と同様誰も住んではいないんだ」
僕は先生の言った意味がよく分からなかった。
誰も住んでいないのなら今の靴音は何だったのだろう。
306号には何があるのだろうか。
誰が何をするための部屋なのだろうか。
「不思議な話だろ?もう少しすれば分かってくるよ」
先生は僕の心理を見抜いてか、そう言うとまたすぐに目を閉じてしまった。
先生は再び石像のように動かなくなった。
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