6
キャンパス内の食堂で昼食をとり、いつものように大講義室に向かうと人影はぽつぽつとしかなかった。
まだ時間が早かったかと思ったが、そうではなかった。
教壇のホワイトボードに赤色で大きく「本日の阿部教授の講義は休講」と書かれている。
僕は立ち止まってその癖のある極端に右肩上がりの字を眺めながら考えた。
今日の講義はこれで終了してしまった。
夕食を作るにはまだ早すぎる。買い物は昨日済ませてあるから必要ない。
食堂に戻ってコーヒーでも飲み直そうか。
図書館に行ってレポートを仕上げようか。
それともこのまま講義室に残って昼寝でもするか。
結局僕は帰路に着くことにした。
今日は昨日までの寒さが嘘のような小春日和で柔らかい日差しを浴びながらとぼとぼと歩くのも気持ちがいい。
南天の鈍い陽光が裸の木々の隙間を縫って僕の背中を包むようにじんわり脚を伸ばしている。
キャンパス内にある緑地の日光に暖められた土を踏みしめるとこの季節特有の湿っぽい匂いがふんわりと立ち昇ってくる。
真冬の底に眠る自然の微かな胎動を聞いたようだった。
周りの冬枯れの景色が今日は薄化粧を施したようにほんのり色づいて見える。
僕はわざと摺り足気味に大きな歩幅で闊歩しその足音で時を刻んだ。
こんな日に急いで帰るのは時間の無駄遣いだ。
時の流れに耳を澄ましてゆっくりと足を摺ればそれだけ時間がゆっくりと流れていく気がする。
目を閉じれば空中遊泳しているように足先が軽い。
僕は思わず地面に寝転がりたくなった。
寝転がってあの太陽を抱きかかえてみたい。
温かくて無邪気な太陽がしつこく僕の顔を舐めまわしてきたら、どんなに気持ちいいだろう。
部屋に着いたのは午後二時過ぎだった。
相変わらずインスタントだがコーヒーを淹れて僕は窓際に腰を下ろした。
少し遠回りをして寄った本屋で買った二冊の本を鞄から取り出す。
一つは名も知らない外国の作家のものだ。
有名な人なのかどうなのかさえも分からないが、何となく買って欲しそうな顔をしているように見えたから手にとってみたのだ。
もう一冊は先生の小説だ。
本屋の隅にある官能小説の小さなスペースに先生の処女作品が何冊か積んであったのを見て、僕は改めて先生が本当に作家だったことを実感した。
街中の普通の本屋にこうして他の作家と同じように先生の本が並んでいるのを見ると、僕の知っている先生が非現実的な幻のように思えてくる。
本の裏表紙に載っている白黒の先生の写真は緊張していたのか表情の固い横顔を撮ったもので、どことなく普段の柔和な先生とは印象が違うように思った。
このまま売れっ子になってしまったら……。
先生はあの古くて薄汚いサクラビルから出て行ってしまうだろう。
もう気軽に話しかけられるような人ではなくなって遥か遠い声も届かないところへ駆け上がっていってしまう。
先生の処女作を喜ぶべきなのに僕は寂しいような苦い気持ちさえ味わいながらレジに向かった。
店員のおばさんに代金を払うときに僕は作品の中味を思い出して恥ずかしいと人間は本当に顔から火が出るものなのだと初めて知った。
本の表紙は白衣を纏った半裸の女性がずるそうにこちらを見つめている絵だった。
一昨日先生は出来上がったばかりの短編集を僕にくれようとしたが、僕は丁重に断った。
「こういう内容のものは嫌い?」と先生は今にも泣き出しそうな顔で肩を落としたので、僕は慌ててそれを否定した。
僕は本屋で先生の小説を買いたいと思ったのだ。
本屋に並んでいるものを買うことで先生を作家として尊敬したかった。
そしてその本に先生がサインしてくれたら何と素敵なことだろうか。
僕がそう言うと先生は僕の気持ちを分かってくれたようだった。
「今のうちに格好いいサインを考えておくよ」
先生は今頃サインを一生懸命考えているだろうか。
僕は本を裏返しにしてコタツの上に置いた。
表紙の艶かしく舌を覗かせ流し目を送ってくる半裸の女性がまるで僕を挑発しているようで、どうにも落ち着かないのだ。
僕は窓を背にしてコーヒーを一口飲み、未知の外国作品の一ページ目を開こうとした。
そのとき誰かが部屋の呼び鈴を鳴らした。
しかも立て続けに二回。
僕は反射的に時計を見た。
二時半になろうとしている。
この時間に先生が来たことはない。
先生が呼び鈴を鳴らすときは必ず一回、ゆっくりと鳴らす。
僕は直感的に先生ではないと思った。
新聞か宗教の勧誘だろうか。
とりあえず僕は座ったまま息を潜めてドアの向こうの物音に集中した。
訪問者はもう一度呼び鈴を今度は続けざまに三回軽やかなリズムで鳴らした。
小学生ぐらいの子が友達の家に遊びに来た時のような鳴らし方だ。
これは新聞屋ではない。
妙に親近感を感じさせる。しかしこんな馴れ馴れしい人を僕は知らない。
僕はりょう君のことを思い出した。
りょう君ならこういう鳴らし方をするかもしれない。
だとすると朋子さんもいるのだろうか。
僕は急いでドアの側まで行った。
ドアレンズから外を覗いて見たが誰も見えなかった。
やはり新聞の勧誘だったのだろうか。
胸の高鳴りが急速にしぼんでいく。
冷静に考えれば朋子さんはこの時間は働いているはずだ。
りょう君も保育園にいるだろう。
こんな時間に遊びに来るはずがない。
僕は小さく息をついてドアに背を向けようとした。
そのときまた鈴がなった。今度は一回。ゆっくりと。
先生がふざけているのだろうか。
作品が出版されて少し浮かれているのかもしれない。
僕は鍵を外してゆっくりドアを開けた。
すると向こうから不意に誰かがドアを引いた。
結果、ノブを掴んでいた僕は体勢を崩して靴も履けないままドアの外に投げ出されてしまった。
コンクリートの堅く冷たい感触が靴下を通して伝わってきた。
慌てて何かに掴まろうと手をばたつかせている僕を見て誰かが笑っている。
「由紀!」
笑っているのは妹の由紀だった。
高校の帰りなのか、制服に水色のダッフルコートを着ていた。
コートの裾からまぶしいほど白い脚が伸びている。
いまどきの高校生らしくこの季節にもかかわらずミニスカートに紺色のハイソックスだ。
寒さのせいだろう。よく見ると太腿がうっすら紅い。
「どうしたんだ、急に?」
僕は許してもいないのに「寒い、寒い」と勝手に部屋に上がっていく妹の背中を追った。
「やっぱりね。想像どおりだわ」
僕の質問は完全に無視してバーバリーチェックのマフラーを首から外しながら由紀は部屋の中を見回して大きく頷いている。
コートを脱ぐと制服のブレザー越しに豊かな胸のふくらみが分かる。
ちょっと見ないうちに由紀の身体は大人の女性のものになっていた。
ふと僕は先日の305号での出来事を思い出してしまう。
あのときの娼婦も確か高校生だった。
由紀と同じ高校生が自分の性を売り物にして男から金をせびり取っている。
いまどきの高校生は精神的な面はわからないが身体はもう立派な大人になっているのだ。
僕は久しぶりに会った由紀に女を感じてしまい思わず目を反らしてコタツに入った。
「何が想像どおりなんだよ」
「殺風景な部屋。女っ気が全然ないのね」
「ほっとけよ」
こいつはいったい何をしにきたんだろうか。
まさか母に頼まれて晩御飯の差し入れを持ってきたわけでもないだろう。
由紀はこちらの詮索など知らん顔でコタツの中に脚を伸ばして一息ついている。
「お母さん、お兄ちゃんがいなくて寂しそうよ。会社の方も上手くいってないみたいだし。早く卒業して帰ってきなよ」
「無茶言うな」
こちらがいくら頑張ったところで大学というところは四年が経たないと単位がそろわないシステムになっていることぐらい由紀にもわかるだろうに。
しかし、母のことを引き合いに出されると僕はそれ以上強く言えなかった。
母は今、父が遺した会社の社長をしている。
父は生前、僕に社長職を継がせることを公言していたし、母もそのつもりだったようで、父が急逝すると母は僕に社長職に就くように説得したが、高校生の僕は固辞した。
父は当然知らないままだったが、僕は会社の社長になんかなりたくない。
好きでもない父の跡を継ぐなんてまっぴらだと思っている。
それにいきなり高校生の僕に大手企業の社長を任せると言われても土台無理な話しだ。
母は毎日顔を合わすたびに僕を説得したが、何とか大学を卒業するまでは自由にさせてくれという僕の希望に渋々承知した。
しかし、村石家以外の人間に会社を任せることを驚くほど頑なに拒絶した母は自分が父の跡を継ぐことを決意したのだった。
父は愛人宅で死んだ。
死ぬときまで身勝手な父の存命中には何度も離婚を考えたであろう母がどうしてあれほど父が遺した社長の椅子にこだわるのか僕には分からない。
今でも僕は会社のことは会社のことを良く知っている人に任せれば良いと思うのだが、どうしても母は肯んじないのだ。
母は思いのほか簡単に社長に就任した。
元々父が亡くなる前から母も肩書きだけは取締役だったし、母名義の株も少なからずあったので父名義の株も合わせると株主総会で母に対抗できる人間は誰もいなかったようだ。
父の社長職を僕が継ぐということは、生前から父が口を酸っぱくして言っていたので、社内の重役連中にとっては高校生のガキが中年おばちゃんになっただけで、あまり大差はなかったのかもしれない。
しかし、会社の経営というものは当たり前のことだが簡単ではないようだ。
世間は不況だし、ライバル社は軒並み増えてきて生存競争は激化する一方だ。
父には従っていた重役達も母に対しては態度が違うということも耳にする。
父の死があまりにも急だったために今は静かにしているだけで、隙あらば社長の座を奪ってやろうと思っている人間は少なくないのだろう。
妹に言われなくても母が相当苦労しているということは風の便りで十分分かる。
そんなことは今に始まった事ではないのだ。
「で、何しに来たんだよ」
「理由なんて何だっていいじゃない。可愛い妹が会いに来てあげたんだから少しは喜んでくれてもいいんじゃない?」
由紀が少し拗ねたような甘えた顔つきになる。
僕は妹のこの表情を何度も見てきた。
僕には妹の考えていることが手にとるように分かった。
「金か?」
返事がない。図星のようだ。
母のことは話の切り出しに過ぎないのだ。
こちらの弱みに付け込んでくる妹のやり方は熟知している。
「お前にやる金なんてないぞ。こっちは生きていくだけで精一杯なんだから」
「そんなこと言わないで。お願い、お兄ちゃん。五万、いや三万でいいの。友達とスキー旅行に行きたいの。頂戴なんて言わないわ。少しの間だけ貸して」
由紀は僕に向かって手を合わせてねだってくる。
無論「少しの間貸してほしい」ということは「半永久的に返さない」ということだ。
由紀が僕に金をせびるのは今までにも何度もあった。
こいつは昔から誰に対しても甘え上手で、病的なほど厳格だった父も由紀のおねだりにはいつも目尻を垂らしていた。
手を合わせ、頭を下げて、最後には足元にすがりついてでも金をせびってくる。
二人きりの兄妹なので今まではある程度は要求に応えてきてやったつもりだが、もう僕は妹にはびた一文渡すつもりはなかった。
由紀だってバイトをして稼いでいるのだ。
その給料だけで十分楽しい高校生活が送れるはずだ。
僕はまたあの売春婦を思い出した。
彼女はどうして身体を売ってまでして金が欲しいのか。
一度贅沢を知ってしまうと、それまでの生活にはなかなか戻れなくなってしまうと言う。
豪奢な暮らしに首までどっぷり浸かって彼女は金がなくては生きていけなくなっているのかもしれない。
「そんな余裕ないよ。大体ボードもウェアも最近買ったばかりだろ。何でそんなに金が要るんだよ」
高校生のうちから月に何万もの金を自分の自由にしていては余程自分で自分を規律できないと瞬く間に金に溺れてしまう。
由紀には分別のある人間になってもらいたい。
意識しすぎかもしれないが、僕が由紀に金を渡すことでこれから由紀が転落の一途を辿らないとも言い切れない。
ここはたった一人の兄として、父親の代わりとして由紀のために心を鬼にしなくてはいけないと僕は思った。
「最近じゃないわ!三年も前よ。中学生の頃のウェアなんてもう着れないわ」
「少しは我慢しろよ。バイトしてるんだろ。その金で買えばいいじゃねぇか」
「バイト代は毎日の生活費で消えちゃうの。……ねえ、一生のお願い。今回だけ」
何と軽い「一生」なのだろう。由紀の「今回だけ」は耳にタコが出来る。
「どんな生活してたら生活費で消えちゃうんだよ。俺みたいに少しは質素な暮らしを経験してみろよ」
自分で言うのもなんだが、僕は質素な暮らしをしていると思う。
御世辞にも贅沢とは言えない。
母からの仕送りは頑固に必要最低限にしてもらっている。
バイトをすればもう少し楽な暮らしが出来るかもしれないが、そんな時間があったら本を読んでいたい。
大学の授業はとれる限りとっているので、そのために毎日レポートを書いたり、予復習をしたりしていると、あっという間に時間は過ぎていってしまうのだ。
先生に食事代をもらってはいるが、これはどうしても使う気がしない。
儲けるために料理をしているわけではないし、何だか先生にもらったお金を使うのはもったいない気がするのだ。
「嘘。何て言ったってお兄ちゃんは御曹司で次期社長なんだから、お母さんからお金一杯もらってるんでしょ。質素なはずないじゃん」
「どんだけたかってもだめなものはだめ。諦めろ」
妹の要求をここまで頑なに断ったことはない。
さすがの由紀も断念したのだろうか。
少し口を尖らして口惜しそうに僕を見つめている。
「けち」
「何とでも言え」
「あーあ、こうなったら売春でもしようかな」
僕はカッと頭に血が昇り目を見開いた。
「由紀!お前……」
「じ、冗談よ。そんなことするわけないでしょ」
由紀は僕の形相にびっくりした様子で慌てて手を振り大仰に否定した。
僕は何とか冷静さを装いつつ由紀を睨みつけ精一杯の威厳を誇示した。
由紀は何故か目を合わせようとしない。
「お前、そんなことしている友達でもいるのか」
「そんなことって?」
由紀は完全にしらばくれて左手を顔の側で開いて爪を見ている。
全ての爪にはピンク色のマニキュアが淡く光っていた。
よく見れば眉は形を整え描き足されている。
うっすら化粧もしているようだ。
頬の辺りも少し紅い。
耳には花をあしらった小さなピアスをしている。
由紀はもう自分が女であることを知っているのだ。
僕は不安だった。
女である以上由紀が女としての美しさを求め、女性の艶やかさに憧れ、色香を身に付けていくのは仕方のないことだと分かっている。
分かってはいるのだが、由紀が大人の女性として歩きだそうとしているのを目の当たりにすると僕は何故か落ち着かない気がする。
「その……売春をしてる友達がいたりするのか?」
こういうことは実の妹には聞きづらい。
家族の中では得てして性的な話題は暗黙の了解でタブーになる。
言っている自分が妙に照れてしまい、兄としての威厳が保てなくなってしまう。
「さあ、どうでしょう?」
由紀は張りぼての威厳で照れをひた隠しにしている兄をおちゃらかしているようだった。
僕の問いを無視してコタツの上のものを次々に手にとって弄んでいる。
これ以上何を聞いても答えないつもりらしい。
「お兄ちゃん、こんなの聞いてるの?印象ないわぁ」
由紀が手にしているのはアメリカのハードロックグループのCDだ。
妹の中では僕とハードロックは結びつかないらしい。
毎朝目覚まし代わりに聞いてると言ったらさぞかし驚くだろう。
「何これ!」
由紀は一冊の本を手にして歓声を上げた。
見ると先ほど買ってきた先生の本だ。
つまり由紀は官能小説を手にしていることになる。
由紀はにたにた笑いながら表紙の絵を食い入るように見つめている。
僕はさっと血の気が引いていくのを感じた。
「違う!それは、違うんだ」
「何が違うの?」
由紀は慌てる僕を意地悪そうな目で見つめた。
金棒を持った鬼のように自信満々の顔だ。
僕は無駄と知りつつ抵抗を試みた。
「知り合いの人が書いたものなんだ。知っている人が本を出したんだから買わなきゃまずいだろ?」
「へぇー、こういうエッチな本を書く友達がいるんだぁ」
「そういう言い方するなよ」
「お兄ちゃんもこういう本を読むんだね」
由紀は笑うのをやめ、神妙な顔つきになって頷きながらパラパラとページを繰っている。
僕のイメージとこの手の本はハードロック以上に由紀の中では相容れないものらしい。
俺だって男だからな、などと妹に対して開き直るのも何か違う気がする。
僕はこの状況をどうやって打破するか必死に頭を巡らせた。
「『彼女はゆっくりと自分の茂みの向こうに手を這わせていった。一番敏感な部分を露わにして俺に示そうとしている』、だってー。お兄ちゃん、エッチ」
「返せよ!」
僕が手を伸ばすと由紀は背中に本を隠した。
「返して欲しい?」
由紀の目が怪しく光る。次に何を言うかは兄の僕でなくても分かりそうだ。
ピンポーン。
またしても玄関のチャイムが鳴る。
僕の考えが正解だと言わんばかりのタイミングだ。
「誰か来た!」
何故か由紀が嬉しそうに立ち上がった。
おそらく先生だろう。
今日はいつもよりも少し早い登場だ。
あまり先生に妹を見られたくはなかったが仕方ない。
何を思ったのか由紀は僕に先んじて小走りでドアに向かった。
「はーい」
由紀がドアに手を伸ばそうとしている。
「おい。何でお前が出るんだよ」
「いいじゃない、兄妹なんだから」
言うが早いか由紀は鍵を外しドアを開けた。
そこには案の定先生が立っていて、ポカーンと口を開けて僕と妹を見比べている。
「お取り込み中?」
どういう意味ですか、と問い返したくなる。
先生はきっとまた淫らな想像をしているに違いない。
「初めまして。いつも兄がお世話になっています」
由紀がしおらしく先生に向かってお辞儀をする。
何を勝手に挨拶しているんだ。
「妹さん?」
「まあ、そんなものです」
仕方なく僕は先生に妹を紹介した。
「そんなものって何よ」
由紀は口を尖らせて睨むように僕を見上げた。
その光景に先生がにんまり笑っている。
「榊原と言います。お兄さんにはいつもお世話になっております」
「村石由紀です」
先生も由紀に付き合ってお辞儀をしている。
何となく居心地が悪い。家族を知人に見られるのは恥ずかしいものだ。
「あれ?その本は」
「あっ、これは兄が買ってきたエッチな本です。兄もこっそりこういう本を読んでるんですよぉ」
妹は恥も外聞もない。
初対面の男性に臆面もなく大きな声で「エッチな本です」と言い切ってしまう。
こんな娘を持つ母はきっと大変だろう。
「余計なこと言うなよ。お前、もう、帰ったら?」
僕は妹を小突いた。
由紀が不愉快そうに眉根を顰める。
何とかして妹を帰らさないと。
これ以上由紀が同席していると何を言われるか分からない。
これも由紀の作戦なのかもしれないが。
「本当に買ってくれたんだね」
先生の言葉に僕は小さく頷いた。
嬉しそうに微笑んでいる先生と僕を妹は交互に見つめた。
「あっ、この人がこのエッチな本を書いた人なの?爽やかな感じなのに、人は見かけによらないわぁ」
「お前、失礼だろ」
僕は慌てて先生に謝った。
出来の悪い妹を持つと本当に困る。後でもう一度しっかり謝っておかないと。
「正直で面白い妹さんだね」
「よく言われます」
由紀は頭を掻いてにんまりと笑った。
さすがに先生は全く機嫌を損ねることなく楽しそうに微笑んで由紀を見つめていた。
僕は背筋が寒くなるのを感じた。
今、先生はあの微笑の裏で何を考えているのだろう。
先生は人を見るとき必ずその人の性生活について妄想している。
今もきっと由紀の淫らな姿を想像しているに違いない。
僕は先生に「ちょっと」と目配せをして、由紀を部屋の奥に引っ張った。
「もう、お前帰れよ。これやるから」
僕は財布の中からなけなしの福沢諭吉を一枚取り出して由紀に握らせた。
「これだけ?」
由紀は不満そうに財布の中を覗きこんだ。
財布の中にはもう数千円しか入っていない。
由紀が思っているような贅沢な暮らしなど僕は無縁なのだ。
由紀は諦めたようでブレザーの胸ポケットに一万円札をねじ込んでコートとマフラーを身に付けた。
「それじゃ、帰るね」
由紀は僕に手を振ると先生にお辞儀してさっさと帰っていった。
本当に金をせびりに来ただけなのだ。
何とドライな妹なのだろう。
本当に血のつながった妹なのだろうかと不安になる。
「可愛らしい妹さんだねぇ。村石君を慕ってるのがよく分かったよ」
「生意気なだけですよ。今日も金をせびりに来たんです」
僕はため息交じりでそう答えた。
「お金なら俺が貸してあげたのに……」
先生がまた良からぬことを考えている。
僕の妹まで作品のネタにするつもりなのだろうか。
「先生!」
「冗談だよ。冗談」
全く冗談には思えない。
僕は夕食の準備にとりかかった。
野菜を冷蔵庫から取り出し蛇口をひねる。
水が勢いよく飛び出してステンレスの流しを叩きつける。
僕はふと妹の言葉を思い出した。
母が寂しがっている。僕の帰りを待っている。
大学に入って一人暮らしを始めてから電話は何度かしたことがあるが実家に帰ったことは一度もない。
電車で小一時間もすればすぐに実家なのだが僕の足はどうしてもそちらには向かなかった。
したがって、もう二年近く母の顔を見ていないことになる。
僕が帰らない理由は簡単だ。
母の顔を見ると決心が揺らぐと分かっているからだ。
幼い頃から絶対的な父の教育方針の下、父の顔色ばかりを窺って生きてきた僕には自分の意思など存在しなかった。
高校を卒業したら父の会社に入り、いずれ父の跡を継いで社長になる。
それ以外に僕の存在価値は無いかのごとく父は振舞ったし、僕もそれ以外に考えることが出来なくなっていたし考える必要もなかった。
父のロボットのような僕は、父の希望を叶えるためというよりも父の制裁から逃れるために父の意に反するような行動や結果を無くすためだけに専念した。
年齢を重ねることによって僕の内部に細々と根を張り出した自我もそれまでの強力な刷り込みの前には無力だった。
高校を卒業したらもう後には退けないとは分かっていたが、僕は高校に入学しても相変わらず父の目を正面に見ることすら出来ない従順なロボットだった。
その父が急逝して僕は飼い主を失った犬のようになすすべなく立ちすくんだ。
手かせ足かせが無くなった自由の身と言うよりは、糸の切れた凧のように、あるいは大海原に漂う枯木のように自分が何とも不安定な存在に思えた。
そうして僕は決心した。
初めて勇気を奮い起こして自分の欲求を抱いたのだ。
何とか母を説得して僕は大学に入学しその四年間に自分の人生の全てを賭けるつもりで一人暮らしを始めた。
一人で生活をして百パーセント自分と向きあえる環境を作りたかったのだ。
大学の自由な空気に触れて、死してなお僕の心を喰らい続ける父の呪縛から解き放たれたいと思った。
はっきり言って僕は父の会社に対して興味なんか全く無い。
自分に会社を経営していく能力があるとも思えない。
それも一つの生きる道だとは思っていた。
しかし、それは僕の前に伸びている数ある道筋の一つにすぎない。
ただ流れに任せて父の後を継ぐということだけはどうしても避けたかった。
大学四年間で自分の選択肢を見極める。それが僕の決心だった。
母の苦労は知っているつもりだ。
風の便りだけでも親子だから十分に想像できる。
できることなら父の鉄拳から僕を庇い続けてくれた母にこれ以上苦労なんかさせたくない。
悠々自適の生活を送って欲しい。
しかし、そのためには僕が母に代わって社長にならなければならない。
母ももう若くはないし、もともと丈夫な方ではない。
神経をすり減らす仕事に就いて気苦労が絶えないだろう。
きっと白髪も増え、やつれて、皺も隠し切れないぐらいに深くなっているに違いない。
そんな母を見たら僕はもう我儘を言えなくなってしまう。
自分の身勝手さに罪悪感でいっぱいになってしまうだろう。
僕は何かで読んだ野口英世の母のことを思い浮かべた。
歴史に名を遺した偉大な医学者の老母はろくに読み書きができなかったという。
しかし異国で暮らす息子に手紙を書きたい一心で老いた彼女は一生懸命勉強をして何とか平仮名でなら文章を書けるようになった。
そうしてその彼女がやっとの思いで綴った息子宛の手紙の末尾は「かえってきてくだされ、かえってきてくだされ」と結んであったという。
「西日がきれいだね」
いつの間にか台所は窓から差し込んでくる紅い光で包まれていた。
先生は「ちょっと部屋に忘れ物を」と言って出ていった。
僕は冷たい水に手をさらして野菜を洗った。
すぐに指が赤くなって鈍く痛み出したが僕は執拗に野菜を洗った。
指の骨まで冷え切っていくのがわかった。
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