2-1
まずい、まずい。
自分の馬鹿さ加減が本当に嫌になる。
今日は何をやってもうまくいかない。
事の発端は昨日まで今日の授業のレポートの存在を忘れていたことに始まる。
思い出したのが昨夜の十一時過ぎ。
それから慌ててノートを繰り、参考文献を広げて何とか書き上げたのが朝の五時少し前。
書き終えて気が緩んだのか、座椅子にもたれていたらいつの間にかうたた寝してしまい、気が付いたら十時を回っていた。
慌てて部屋を飛び出し自転車をこいでも時すでに遅し。
十時半からの授業は残すところあと三十分。
もう教室には入れない。
昼休みに教授の部屋に直に持って行ったら何とか受け取ってもらえたが、追加のレポートを課せられてしまった。
今度こそ忘れまいと午後からの授業が終わった後に図書館でレポートを書いていたらいつの間にか外は真っ暗になっていた。
外へ出るとものすごく寒かった。
木枯らしが吹きすさんでいて鋭く頬に突き刺さってくる。
天気までが僕に意地悪だった。
今日ばっかりはこの坂が恨めしい。
目の前の空に浮かんだオリオン座をキッと見据えて僕は両手にスーパーの袋をぶら下げだらだら坂を小走りに駆け上っていた。
今日はテーマは無し。
とにかく早く帰って夕飯の準備をしないと、先生がお腹をすかせて待っている。
スーパーの袋に入っているのは白菜、白ねぎ、春菊、しいたけ、えのき、豆腐……。
そう、今日は鍋にすることにした。
これが一番手っ取り早い。
しかもおいしいからこういうときにはうってつけだ。
マンションから女性が坂を下ってくるのが見えた。
街灯の薄暗がりでもその毛皮のコートと水色の派手なスーツは目に付いた。
どうやらこれから商売の時間らしい。
高いピンヒールのコツコツという音が過度な存在感を持って辺りに響いている。
「あら、お帰り」
意外にもその水商売風の女性が僕の顔を見て声をかけてきた。
当然お水の人に知り合いはいない。
僕を誰か別の人と間違っているのではないだろうか。
近くによると目もとの化粧がおぞましいほど濃く紅く引かれた艶のある口紅がいやらしく見えた。
夜に咲いた毒の花という印象だ。
鼻の奥に甘ったるい香水の匂いがからみついてくる。
僕は自然を装いつつ少し目を凝らして女性の顔を眺めた。
「あっ、こんばんは」
やっと分かった。相手は102号の住人だった。
朝たまにゴミをゴミ置き場に出すときに会うと声を掛けてくれるのを僕は思い出していた。
しかし、そのときの彼女はノーメークだし、くたびれたパジャマを着て髪をカーラーで巻いたままで気だるそうな雰囲気を漂わせている中年女性という印象しかなかったから、今眼前の良い意味で言えば大人の色気がぷんぷん漂う女性とは頭の中で結びつかなかった。
女は化粧一つで化けるものだとつくづく感じる。
この人はいったいいくつなのだろうかと僕は心の中で小首をひねった。
腕時計を見ると八時を過ぎていた。
僕は年齢不詳女を見送って部屋へ急いだ。
先生は既に僕の部屋の前で寒そうに身を屈めて待っていた。
何もそんなところで待っていなくても自分の部屋で待っていてくれれば呼びに行くのに。
二階の通路は北風が強い。
寒空の下、腹を空かせて待っていたのかと思うと何とも不憫だった。
先生は僕を寒さに強張ったような笑顔で迎えてくれた。
「自分の部屋にいると、くさくさしてね」
だからってこんなところにうずくまっていなくても。
僕はすぐにドアを開け先生の部屋の中に招き入れるとコタツとエアコンのスイッチを入れた。
「先生の部屋に土鍋ってありますか?」
「あるよ。何?今日は鍋?」
「そうしようかと思って」
寒さで強張っていた先生の顔が一気にほころんだ。
「そりゃあいい。今日はまた格別寒いからね」
日本人はつくづく鍋が好きだと思う。
「鍋」という言葉を耳にしただけで皆顔がほころぶ。
暖かい、楽しい、美味しい。
鍋という響きに次々と良いイメージが浮かんでくるのは僕だけではないと思う。
先生は軽やかな足取りで自分の部屋に帰っていった。
寒さも忘れたかのようだった。
僕は材料を次々と切っていった。
何の考えも要らない。無造作に切るだけだ。
ドアが開いて浮かれ気味の先生が土鍋を持って入ってきた。
「ずいぶんと大きな鍋ですね」
先生の持ってきた土鍋は一家族が食べられるぐらいの大きなものだった。
「そう?学生時代に買ったやつでさ、あのころは酔っ払って闇鍋で靴べら食べたこともあったなぁ」
先生も大学生のころは大勢の友達とはしゃいでは賑やかに鍋を囲んだのだろうか。
靴べらを口にして目を白黒させる様子は僕が知ってる穏やかで周囲の物事に動じない先生からはどうにも想像できない。
押入れからカセットコンロを取り出してコタツの上に置いた。
コンロに買ってきたカセットボンベをセットして点火する。
紫がかった青い炎は輪を描くように広がり暖かい熱を勢いよく噴き上げた。
水炊き用のスープを注いだ鍋をカセットコンロの上に設置する。
切った材料を次々に花を活けるように鍋の周りに並べる。
並べてみると、どう考えても二人では食べきれない量だと分かる。
「鍋も大きいですけど、具も多すぎたみたいですね」
「なんなら明日も鍋でいいよ」
率先して白菜を入れながら先生が楽しそうににっこり笑う。
こんなあどけない笑顔を見たのは初めてだった。
鍋の持つ力は偉大だ。
コタツにカセットコンロと鍋。
これだけで何となくほっとした気分になれるのは何故だろう。
湯気越しに向かい合うと自然と笑いもこぼれてくる。
「鍋にソーセージ入れるの?」
シイタケの横に並んでいるソーセージに先生は驚いたようだった。
鍋には生まれ育った家庭独特の味がある。
鍋にソーセージは我が家では欠かせない。
鍋の様々な具からでる旨みを吸い込んだソーセージはお勧めの一品だ。
「入れたことないですか?おいしいんですよ。……ん?」
僕は先生の背後の窓の外に何か白いものが落ちたように見えた。
一瞬のことで何が落ちてきたのかは判別できなかった。
「どうかした?」
先生が僕の目線を追って窓の外を振り返り、また僕に顔を戻した。
「今、何か白いものが落ちてきたような……」
僕は首をひねりながら答えた。
先生がコタツに足を突っ込んだまま身体を伸ばして窓を開けると、ベランダの手すりに白い何かが引っかかっているのが見えた。
辺りが真っ暗闇なのでその白い物体がまるでその場に浮いているようだった。
「何だろ?」
先生は寒そうに立ち上がってベランダへ身を乗り出し、その白い何かを指先に引っ掛けて手繰り寄せた。
先生が手にしているものは薄くピンクがかったブラジャーだった。
花柄の模様があしらってあるようだが、ものがものだけに僕はそうしげしげと見るわけにはいかない気がした。
悪いことはしていないのに何となく後ろめたさまで感じてしまう。
「Bの65。ちょっと小さいな」
さすがは先生だ。このシチュエーションでも落ち着き払っている。
「上の階の洗濯物でしょうか」
先生は窓から外に出てベランダから少し身を乗り出して上の階を覗きこんだ。
「どうやらそうみたいだね。今日は風が強いから飛ばされてきたのかも」
「上の階は302号ですね」
302号は母子家庭だ。
母親はまだ二十代前半に見える。
まだ顔に幼さがあるような可愛らしい人で、何も知らなければ彼女が一児の母だとはとても信じられないだろう。
息子が三歳ほどの背格好だから、もしかすると十代で出産したのかもしれない。
僕は以前からその母子家庭に気になることがあった。
母親が子供を毎日のように叱りつけているのだ。
躾の一環なら僕も何とも思わないのだが、どうも彼女の声の響きには躾以上のものがあるような気がしてならない。
夜中に子供の泣き叫ぶ声が辺り一面に響き渡ると僕は子供の身体を案じてしまう。
紙面に「虐待死」という文字が躍ることも最近は珍しいことではない。
よその家庭のことに口出ししたくはないが、この寒空のベランダに泣きじゃくる幼児を閉じ込めたりしている様子は虐待という言葉を想像せざるを得ない。
「お母さんがよく子供を叱ってるよね」
先生も泣き声は気にしているらしく真剣な顔で僕の言葉にゆっくり頷いた。「少し度が過ぎてる感じがするなぁ。お母さんの方に大分ストレスが溜まっている感じだね。育児ノイローゼかもしれない」
「育児ノイローゼ?」
「最近子供に暴力を振るう親が増えているだろ?言っても聞かない子供にいらいらしてせっかんするんだってさ。自分に余裕が無いんだろうな。子供のすることだからとは思ってても行動は逆になってしまう。優しく叱るんじゃなくて、暴力に頼って言うことを聞かせようとする。他人の俺たちには分からないことだけど、……きっと彼女の苦労も並大抵のものではないんだろうな」
僕と先生はブラジャーを目の前にして深くため息をついた。
果たしてこの女性の下着をどうしたらいいのだろうか。
「どうします?」
「この際だから天からの恵み物としてあり難くいただいとくか」
顔色一つ変えない先生の言葉は本心なのか冗談なのか分からない。
「そんなことしたらただの下着泥棒じゃないですか」
僕が慌てても先生はいたって平気だ。
まるで僕が慌てるのを楽しんでいるようにさえ見える。
「じゃあ返しに行くしかないね」
「それはそうでしょう」
「そういうことなら、あとはよろしく」
先生は僕にブラジャーを手渡した。
「ど、どうして僕なんですか」
慌ててブラジャーを押し返そうとしたが先生は受け取ってくれない。
「205号の俺が返しに行くのは変だろ。いくら風が強くても俺の部屋のベランダに届くことはありえないじゃん。この部屋のベランダに落ちてきたんだからこの部屋の主である村石君が返しに行くのが筋ってもんだ」
先生の言うことは確かに理にかなっている。
だが、先生も一緒に居合わせたのだからついてきてくれても良いではないかと僕は目で訴えた。
しかし、先生は涼しい顔でカセットコンロの火加減を調整し野菜をどんどん鍋に入れている。
腰に根が生えてしまったようで、立ち上がろうという気などさらさらなさそうだ。
「鍋は俺が見てるから大丈夫」
先生はもう目さえも合わせてくれない。
どうやら僕は先生に見捨てられたようだ。
女性の下着など手にしたことのない僕はそのピンクの物体を手にしているだけでドキドキしてしまう。
「ベランダから投げ返すっていうのはどうですかね?」
先生は僕の言葉を無視して鍋の様子を眺めている。
返事がないというのは否定されたということだ。
渋々僕は立ちあがった。
僕の背中に向けて「いってらっしゃい」と先生の明るい声が届いた。
間違いなく先生は僕の様子を楽しんでいるのだ。
しかしこの下着を僕はいったいどんな顔をして返せば良いのだろうか。
真面目くさっていてもおかしいような気がするが、下手に愛想笑いなど見せたら余計に悪い印象を与えるかもしれない。
良心で届けているのに白い目で見られたらたまったものじゃない。
あの金きり声で変態呼ばわりされたら果たして僕の手に負えるだろうか。
警察を呼ばれでもしたら恥かしくて僕はもうこのマンションでは暮らしていけない。
畳み方も知らない女物の下着を手に僕は302号のドアの前で暫く思案した。
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