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「203号の夫婦が引っ越したみたいですね」


 僕はカレーライスを頬張る先生の横顔を盗み見ながら、わざと世間話を切り出した。


 一口目の先生の表情が気になって仕方ない。

 上手くできているかどうか。

 今日で十食目だが僕は毎回先生の顔色を窺っている。

 先生は僕の気持ちを知ってか知らずか毎回同じように美味しそうに食べてくれるのだが、僕の作るものがいつも美味しく出来ているとは思えない。

 時には口に合わないものもあるはずだ。

 そんなときはどこがいけないかはっきり言って欲しいと僕は思っている。

 はっきり言われたら間違いなくショックだろう。

 泣きそうになるかもしれない。

 だがどこが悪いかも分からずに毎晩夕食を提供し続けるのも自分が納得できない。

 そういう葛藤を胸に抱きながら毎回息を殺して先生の顔色を窺っているのだ。


 今日のカレーはどうやら先生の口にあったようだ。

 何となくだがスプーンの動きが軽やかに見える。

 先生は本当にカレーライスが好物なのかもしれない。


「あぁ、そうそう。昨夜遅くまでごそごそやっていると思ったら引越しだったみたいだね。深夜に聞こえてくるあの奥さんの声は何とも艶っぽかったんだけどなぁ。もう聞けなくなるのかと思うとほんと残念だ」


 職業柄か先生はこういうことを何の照れもなく平気で言う。

 僕は思わず俯いてしまった。

 「そうなんですよ」と相槌を打つわけにもいかない。

 かと言って平然と知らない顔を作れる自信もなかった。

 あの奥さんの甲高い鳴き声が脳裏に響く。

 快感を訴えさらに快感を求める動物の咆哮。

 先生もあの声を聞いて自慰にふけっていたのだろうか。

 それとも先生ほどの大人になるとあの程度の刺激では僕のように我を失うほどの興奮とは無縁なのだろうか。


「実を言うとさ、あの声が俺の想像力を刺激してくれて、おかげで書けた作品もあったんだよ。世話になったけど結局あの人の名前も知らないままだったなぁ」

「そう言えば未だに僕はこのマンションで先生以外に名前を知っている人はいませんよ」


 僕は何とか話を変えることに成功した。

 少し顔が赤らんで脇の下に汗をかいているのを洞察力の優れた先生には悟られてしまっているだろうか。


「俺も村石君以外は知らないよ。ここに住んでもう七年になるけどね」


 七年住んでいても下の階の人の名前も知らないでいる。

 それでも何の支障もなく日々過ごしている。

 現代人は孤独だ。それは病的と言っても良い。

 自由を求めいつの間にか孤立し気が付けば四面楚歌に思えてしまう。

 他人が疎ましい。自分しか話し相手がいない。

 そんなときに一端マイナス的な思考に陥れば後は螺旋を描いて止めどなく落ちていくばかりという気がする。


「それって寂しくないですか」

「村石君は寂しいの?」

「そりゃあ、やっぱり一人暮らしは孤独ですよ。時々ふと実家に帰って母親や妹とたわいもない世間話をしたくなります。本当は家が嫌で嫌で、半分飛び出してきたような形ですけど」

「確かに孤独で一人ひとりが孤立してるよね。でも俺なんかはこのマンションの住人全員が知り合いだったら息が詰まってやってけないな」

「え?どうしてですか?」


 先生はうーんと唸って顎に手をあて考え込んだ。

 そんな格好が絵になる人だと僕は思った。


「現代は比較社会なんだよね。月収、財産、地位、名誉、出世、健康、環境。様々なものさしで人と人を比べてる。嫌でも社会に出るとこういういろんな種類のものさしと共に生活していかなくちゃいけない。そんな比較などしたくないって思っても周りが勝手に比較してしまう。他人と自分とを比較するということは自分と他人は違うという事実を鮮明にするよね。だから周りと比べながら生きていくということは自分をどんどん孤独に追いやるということになる。もしこのマンションの住人が全員知り合いだったとしたら、そういう比較を壁一枚隔てたところでやることになるんじゃないかな。朝から晩まで、下手をすると寝ているときまで自分を孤独だと意識していることになる。つまり知人と生活するということは自分を孤立させることになると思うんだ。想像するだけで指先から冷えてくるな」


 先生の言葉の意味は良く分からなかったが、僕は先生の中に何か暗く冷たいものを感じた。

 常に冷静だが、それはときに冷徹ささえ感じさせる。

 先生は他人を一定の半径から近づけないように見えない障壁を身に纏い、心の動きを人に悟らせないような仕草を常に演じているような気が僕にはするのだ。

 先生は不思議な人だ。

 先生はこのマンションにどうして引っ越してきたのだろうかと僕は思った。

 七年前に何があったのだろうか。

 消えてしまった関西訛りにはどういう意味があるのだろうか。


「話が変な方向に向いてしまったな……。もちろん村石君のことはかけがえのない友人だと思ってるよ。それに名前は知らないし付き合いは無いとは言え七年間も住んでるからそれなりにここの住人のことについて知識もあるしね。仕事柄、人のことを観察するのは癖になってる」


 先生の仕事柄の観察というものは単なる他人の外見の観察とは違う。

 観察の後には必ず想像が付いてくる。

 気の強そうな目もとの引き締まった女性を見ると荒い縄で縛って天井から吊るしてみたいだとか、あの汗をかいてあくせく働く腹の出た中年男性は夜になると赤ちゃんプレイで哺乳瓶をくわえているだとか……。

 真面目な顔をしてそういうことを口にするからこちらとしてはどういう顔をして良いのやらさっぱり分からない。


 それでも先生はやっぱりよく観察していた。

 七年も住めば当たり前なのかもしれないが、一日中部屋の中にいることが多いせいか住人の生活リズムが手にとるように分かるらしい。


 先生によると引っ越していった203号は夫が肉体労働者で妻は公務員なのだそうだ。

 夫は毎朝の出勤時の極端に裾の広がったニッカボッカの格好で、奥さんは洗濯物の事務服で分かったらしい。


「コスプレしたらあの事務服の地味さが逆に淫靡な感じを醸しだしてそそるんだろうなぁ」


 僕はまた返答に窮してしまった。

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