1-2

 十日前の夕方も僕はここでカレーを作っていた。


 もうすぐ出来上がる、火を止めて少し寝かせておこうと思ったそのときチャイムではなくドアをノックする音が聞こえた。

 それは身体ごとドアにぶつかったような重く硬い音だった。

 僕はドキッとして身体を強張らせてドアを見つめた。


 僕の部屋に訪問者などめったにない。

 知り合いが僕を訪ねてきた経験などまるでないのだ。

 あるとすれば新聞や宗教の勧誘ぐらいで僕はその手の勧誘を無碍に断る術を知らないので大抵居留守を使うことにしている。

 今は台所の明かりが外に漏れているので居留守は使えない。

 いったい誰だろう。

 勧誘だとしたら上手く断れるだろうか。

 あの押しの強さにはいつも閉口してしまうのだ。

 どうにも断りきれなくて必要もないのに二紙も新聞をとっていた時期がある。


「決して、怪しい者やありません。強盗とか押し売りとかの類とちゃうんです。ほんまです。ちょっと開けてもらえませんか」


 か細いが早口で切迫感のある男性の声だった。

 声色を作っている印象はなく芝居を打っているようには思えなかったが僕は玄関に出るのを躊躇った。

 怪しい者ではない、と言われて素直に信じろと言う方が無理な話である。

 ドアをノックして「怪しい者だ」と名乗る人などいるはずがない。

 少し関西っぽい訛りがあるのも気になるところだ。

 関西人がみな怪しいというわけではないが耳慣れないイントネーションに親近感は湧いてこない。

 僕はドアの覗き穴から外を見た。


 レンズの向こうには誰も見えなかった。

 確かに誰かがこのドアをノックして、開けてくれ、と言ったはずなのだが。

 いたずらだったのだろうか。

 深呼吸をした後に鉄製の厚く冷たいドアの向こうに僕は恐る恐る声を投げかけてみた。


「どちらさまですか?」


 しばらく待ってみたが反応はなかった。

 やはり誰かのいたずらだったのかもしれない。

 このまま放っておこうか。

 しかし、そんなことは出来ないのは分かっていた。

 新手の勧誘術なら相手の思う壷だが、このままでは咽喉に刺さった魚の骨のようにいつまで経ってもドアの向こうが気になって仕方ない。

 僕は意を決してゆっくりとドアを開けた。


 首だけを出して外を見てみると、眼鏡をかけた細身の男性が壁を背に両手を腹に当てて座り込んでいた。

 どうやらこの人が僕を呼んだらしい。

 寝ているのだろうか。

 ぴくりとも動かないその様子はいかにも生気なく少しずつ広がりつつある夕闇に同化して消えてしまいそうだ。


 もう日は沈み西の空がかすかに茜色に染まって見えるだけだ。

 北風にドアが押されて寒さに思わず身をすくめる。

 こんな寒い日に玄関先でにらめっこなどしていられない。

 話があるなら早くしてほしい。

 いつまでもここに座り込んでいられるのは迷惑だ。


「あの……。どうかしました?」


 僕の問いかけにその男はようやくゆっくりと顔だけを起こした。

 長めの前髪が風に揺れる。

 焦点の合っていないようなぼやけた眼差しで眼鏡越しに僕の顔を仰ぎ見ている。

 口の周りの無精ひげに違和感があるが男の顔に見覚えがあった。

 何度かこのマンションで顔を合わせている人だ。

 このマンションの住人というのは嘘ではない。

 だが、それ以上のことは知らない。

 その男が僕に何の用だろうか。

 回覧板は持っていないようだった。


「これから夕食ですか?」

「ええ、まあ」

「カレーですか?」


 これだけ台所から匂いがこぼれてくれば聞かなくても分かるだろう。

 男は顔は憔悴しきっていたが僕が頷くと目だけは爛々と輝かせた。

 次の瞬間、男はさっとその場に座りなおして正座になり手をついて僕を見上げた。


「失礼は承知でお願いします。私にカレーをごちそうしてもらえませんか?」


 驚くと言葉が出なくなるということを僕は生まれて初めて体験した。

 誰かに手をついて見上げられたことも、作ったものを食べさせて欲しいと言われたことも初めての経験だった。

 この人は一体どういうつもりなのだろうか。

 グレーのセーターにジーンズという格好にくたびれた感じはなく食い物に困った物乞いには見えない。

 彼の華奢な肉付きから強盗というイメージもわかない。

 彼の真意をつかめず返答にまごついていると、彼はジーンズのお尻のポケットから黒い皮製の財布らしきものを取り出して僕に見せた。


「私、二件隣の205号の榊原、言います。一昨日の晩から何も食べてへんのです。何とか外に食べに行こうとドアを開けたんですけど、おたくの部屋からのカレーの匂いを嗅いだ瞬間もう動けなくなってしまいました。お金ならここにあります。どうか私にカレーをごちそうしてください」


 男は僕の手にぐいぐいと財布を押し付けてきた。

 言葉遣いは丁寧だが必死の形相だ。


「怪しいもんやありません。他意もありません。このお金も私が働いて稼いだきれいなお金です。どうぞお納めください。どうぞどうぞ」


 強引に財布を押し付けられて「それでは遠慮なく」ともらうわけにもいかない。

 僕は観念してとりあえず男を部屋に上げることにした。

 いつの間にか西の空も闇に包まれている。

 いつまでも日の暮れた寒空の下で押し問答などやっていられない。

 第一、こんなやり取りを誰かに見られたら恥ずかしくて仕方ない。


 男を部屋に上げてからほんの数分で僕は人間の偉大さを知ることになった。

 人はこんなにも食べられるものなのだ。

 そしてこんなにも食べられるほどお腹を空かせることが出来るのだ。


 こたつに座った男の前に作りたてのカレーライスとスプーンを置くや否や彼はものすごい勢いで飛びついた。

 その勢いは暴走という言葉がぴったりで食べるというよりは飲み込むといった感じだった。

 正座で上品に座っている下半身とカレーを次々と頬張る上半身とのギャップがおもしろい。

 まるで手と口で行うスポーツのようだ。

 口の周りやセーターの下に着ている淡いブルーのカラーシャツの袖が飛び散るカレーで汚れていくのも彼は全く気づいていないようだ。

 僕は目の前で巧妙な手品を見せられているように半ば口を開き加減で男の食いっぷりに見入ってしまっていた。

 この口はブラックホールにつながっているのかと思いたくなるほどそれは異様な光景だった。


 カレーを作るときはいつもかなり多めに用意して食べ残した分は冷凍しておくことにしているのだがあっという間に鍋の底が見えてきてしまった。

 明日の分も炊いてあった炊飯器の中のご飯はすっかりなくなってしまった。

 四杯目のお代わりを出したとき、空になった炊飯器を見つめて僕は五杯目を要求されたらどうしようかと内心焦り始めていた。

 しかしさすがにその事態は免れた。

 男は四杯目を食べ終えるとようやく我に返ったように皿とスプーンを置いてコップの水を一息に飲み干して大きく息をついた。


「こんなに食べたのは生まれて初めてです。いやぁ、大変美味しかった」


 僕もこんなに食べる人を見たのは初めてです。


 細身の彼の身体のどこにあれだけのカレーが入っていったのか不思議で仕方ない。

 ただ、美味しいと言ってもらえると何だかむず痒いようなうれしさがこみ上げてきた。

 癖になりそうな喜びだった。

 僕は美食を追及する料理人の気持ちが何となく分かるような気がした。


 男は急に居住まいを正し眼鏡のずれを整えさらさらの髪を撫で付けて僕を正面に見た。


「大変失礼いたしました。非礼をお許しください」


 彼は丁寧に深々とお辞儀した。

 「いえいえ、とんでもない」と僕もお辞儀を返した。

 確かに僕の夕食はなくなったが不快な気分にはならなかった。

 何故だか清々しい感じさえある。


「私、榊原大輔と言います。三十二歳。一応、作家のはしくれです。大して売れてませんけどね」


 さっか?


 僕はこのとき生まれて初めて作家という職業を持つ人間に出会った。

 思わず頬が紅潮する。

 「作家」という言葉の響きだけで僕は目の前の人物に好印象を抱いていた。


 僕は小さい頃から本が好きだった。

 小説を読めばその世界に浸れる。

 主人公になりきることで恋愛も出来るし、悪を挫くことも出来れば、友達もたくさん出来る。

 父の怖い怒鳴り声や母の悲しいすすり泣きも本の世界にいれば耳に入ってこない。

 大きくて暗い部屋の中で一人ぼっちでも本さえあれば寂しくなかった。

 だから将来は小説家になりたいと思っていた。

 読んでいるときと同じように小説を書いている間はきっとつらいことや悲しいことを忘れていられるのだろうと自然と思うようになっていたのだ。


 目の前に小説家がいる。

 僕にとってそれは天にも昇るような幸運だった。


 僕は大学は文学部を選んだ。

 毎日必ず小説を読んでいる。

 文章の書き方を身に付けるために新聞のコラムをノートに書き写すことも欠かさない。

 それもこれも作家になるためだ。

 それが今、憧れの存在である作家と一対一で会話をしているのだ。

 宝くじを当てたような驚きに満ちた胸苦しい喜びに思わず目頭が熱くなるのを感じた。


 爽やかな笑顔、鋭い視線、白く細い手と指のペンだこ。

 なるほど、よく見ればまさにこの人こそ小説家だ。

 眼鏡の銀縁が光り輝いてまぶしい。


「ぼ、僕は村石って言います。村石保。K大学の文学部二回生です」


 思わず声が上ずってしまう。頭の中が真っ白だ。

 せっかく生で本物の作家と対面しているのだから何か話さないともったいないと思うのだが突然のことで何を聞いたらいいのかさっぱり思いつかない。        

 ちょっと待てよ。

 この先生は205号に住んでいると言った。

 つまりは今まで同じマンションで作家大先生と生活していたのだ。

 ああ、僕は何と愚かなのだろう。

 そんな大事な事に気付かずにのほほんと毎日を送っていたなんて。

 知っていればきっとさぞかし充実した日々を送っていただろうに。


「私には珍しく大きな仕事が舞い込んできたんですよ。一昨日の晩、雑誌に載せる小説を書いてくれって大手の出版社から依頼がありましてね。二日間で仕上げて欲しいと言われて、それで飲まず食わずでさっきまで小説を書いてたんです」


 いつの間にか榊原先生の言葉から関西訛りは消えていた。

 出身は関西でたまたま先ほどは地の部分が出てしまったが普段は標準語を話すようにしているということだろうか。

 ふとそんな疑問が頭を掠めたが、それはすぐに消えてしまった。


 締め切りに追われてペンを揮う。

 夢にまで見たシチュエーションだ。

 それを榊原先生は実践している。

 疲れを滲ませながらも満足げなその表情は仕事をやり遂げた男の顔だ。

 男の僕が見てもその横顔にうっとりしてしまう。


「それは、大変でしたね」


 相槌を打ちながら、何かが足りないと僕は考えていた。

 そうだ、コーヒーだ。

 小説家にはコーヒーが似合う。

 先生はきっとその美しい指で洒落たコーヒーカップをつまみ無限の彼方を眺める。

 そして凡人には理解できない深遠で哲学的な言葉を口にするのだ。

 僕は慌てて立ち上がり台所に向かった。


 口惜しいことに我が家にはコーヒーを注ぐのにはマグカップしかなく受け皿の一枚もない。

 これでは雰囲気がまるでないではないか。

 僕は思わず舌打ちして地団駄を踏んだ。

 早速明日買いに行かなくては。


 「どうぞ」と僕は先生の前にマグカップに注いだコーヒーを差し出した。

 コーヒーから立ち上る湯気が先生には似つかわしい。

 先生が熱さに顔をしかめつつその苦い大人の飲み物を啜るのを僕は固唾を飲んで待った。


「申し上げにくいのですが……」


 僕が出したコーヒーを前にして先生が眉根をひそめてうつむき加減だ。

 どうしたのだろう……。

 僕は先生の愁眉の原因を必死に考えた。

 そうか。

 先生が飲むのはこんな安っぽいインスタントコーヒーではなく、豆を挽いて淹れる本格的なコーヒーなのだ。

 僕は自分の目線で物事を考えていたことを恥じた。

 何と浅はかなことをしてしまったのだろうか。

 僕は穴があったら入りたいほど自分の迂闊さを呪った。


「すみません。今日はこんなインスタントものしかなくって……」


 消え入りそうな僕の言葉に先生は大げさにかぶりを振って否定した。


「そうではありません。……恥ずかしながら私はコーヒーが飲めないんです。苦いコーヒーを飲むと寒気がして全身に蕁麻疹が出てくるんです」


 先生は背中を掻き毟り寒そうに自分の両腕を抱いた。


「えっ?」


 猫が鰹節を好きなように小説家は皆コーヒーが好物なのだと僕は思いこんでいた。

 作家も人間なのだからコーヒーが苦手な人がいてもおかしくはないが……。

 鰹節が嫌いな猫もいるのだろうか。

 何となく僕は寂しいような残念な気持ちになった。

 興奮していた僕の頭の中に冷えた隙間風が吹き抜ける。

 急に部屋の中に気まずいような雰囲気がはびこってきた。


「お金……食事代払います。お幾らお支払いすればよろしいですか?」

「そんな、お金なんて結構ですよ。誰かに食べさせようと思って作ったわけではありませんから」

「そういうわけにはいきません。無理やり押しかけてこんなに美味しいカレーライスをごちそうになったんです。幾らか払わせてください」


 先生は財布を手に僕の言葉を待っている。

 しかし、いくら?と聞かれてもお金をもらうつもりでカレーを作っていたわけではないから即座に返答できない。

 レストランでカレーを頼んだらいくらぐらいだろうか。

 一皿で千円もしないだろう。

 でも僕のカレーでレストランと同じ代金をもらったら日本中のレストランの店長に申し訳ない。


「本当にいいんです。こんなカレーぐらいでお金をいただくなんて……。それよりも僕は先生と知り合いになれただけでうれしいんです。僕もおこがましいですが作家志望です。だから先生のような本当の小説家の方とお近づきになれただけで、胸が躍るような気分なんです。カレーの代金は結構ですからこれをきっかけに僕と仲良くしてください」

「そんなこと言っていただけると私もうれしいんですけど、私なんか大した作家じゃありませんよ。その日暮らしの売れないダメ小説家です。私なんかと知り合いになってもろくなことがありませんよ」


 そんなことを言われると余計に引き下がれない。

 第一、僕だって相手が今をときめく売れっ子作家だったら尻込みして「友達になれ」だなんてそんな大それたこと口に出来るはずがない。


「少ないですけど」


 先生は財布から一万円札を抜き出し僕の前に置いた。


「こ、こんなにいただいたら怒られちゃいます」

「誰に?」


 日本中のレストランの店長に、と言いかけて口を閉ざした。


「誰ってわけではないんですけど……でも僕のカレーが一万円だなんて、やっぱり」

「こんな時間におしかけた迷惑料も入っています。それに今回の仕事で次からも仕事がもらえそうですから今はちょっと余裕もあるんですよ。ここは黙って受け取ってください」


 優しい目でにこやかにそう言われても僕は受け取りたくなかった

 。先生とはこれから深い付き合いがしたかった。

 貸しを作りたいというわけではないが、ここで代価をもらってしまうことで今日限りでさよならという形になってしまうことが怖かった。

 それとも僕なんかと近所付き合いするのが迷惑なのだろうか。

 そうかもしれない。

 近所付き合いを大切にする人ならもっと昔から知り合いになっているはずだ。


「僕なんかと知り合いになるのは面倒ですか?」

「そんな……、とんでもない。私の方こそ村石さんと知り合いになれてうれしいんです。端くれでも作家なんていう商売をしてると家に引きこもりがちで一日中誰とも話さない日が珍しくないですから、時々自分の孤独さに気が狂いそうになるときがあります。世間から隔離された、どの組織にも所属していないふわふわとしたシャボン玉のような不安定さが何とも恐ろしいときがあるんです」

「分かります」


 その気持ちは何となく分かる気がした。

 僕も眠る前なんかに考えることがある。


 このまま明日になって目を開けることなく死んでしまったらいったい誰がいつ気付いてくれるのだろうか。

 自由気ままな大学生。一人暮らし。友達も恋人もいない。

 大学という、あるのかないのか分からない曖昧で極めて大まかな組織に辛うじてしがみついてはいるが、はっきり言って僕という個体は世間から取り残されてしまっている。

 世の中の人は全てが他人で誰も僕を見てくれてはいない。

 すれ違う僕という人間が生きているか否かに興味はない。

 個としての僕はあまりにちっぽけで、消しゴムのカスのようにある程度集めなければ存在が成り立たず、つまんで捨てることすらかなわないような存在なのだ。


「ここでこうしておしゃべりをして久しぶりに血の通った人間と温かい会話をしてる気がしてるんですよ」

「だったらなおさらこのお金はいただけません」


 僕は気持ちよく一万円を押し返した。これが友情の第一歩だ。


「分かりました。これは返していただきます」


 先生は一万円を財布に戻して今度は千円札を取り出した。「じゃあ、これで食事を作っていただけませんか?別に特別なものでなくていいんです。村石さんが毎晩食べるものを私にも食べさせていただければ。一食千円のバイト。いかがですか?」


「僕が先生の夕食を?僕の、料理と呼べないようなものでもいいんですか?」

「村石さんの料理の腕前はなかなかのものですよ。さっきのカレーは味加減がとても良かった。お願いできませんか?」


 考えてみるまでもない。

 料理の腕に自信など全くないが、一人分が二人分になっても作る面倒は変わらない。

 普段から一人で食べる食事に侘しさを感じていた。

 憧れの作家先生と知り合いになれてしかも毎日食事を一緒に出来るなんて。

 僕の生活が一気に彩りを得ていくような気がする。


「喜んでお引き受けします」

「良かった、引き受けていただけますか。じゃあ、この千円は今日のカレー代です」


 先生は満足そうに微笑んだ。

 今度は僕も遠慮せずに押し頂いた。


「しかし、大変ですよね。二日間も飲まず食わずとは」

「今回は特別です。ピンチヒッターだったんですよ」

「誰かの代わりということですか?」

「ええ。本来は下根先生って方が書く予定だったんですが、ある事情で急にその先生の作品を載せることが出来なくなってしまったようで」

「ある事情?」


 僕が首を傾げると先生は僕の方に少し顔を近づけて小声になった。


「逮捕されてしまったんですよ」

「逮捕?」

「強制わいせつ罪で」

「きょうせいわいせつ?」


 僕が一オクターブ高い声で驚くと先生は満足げに口を開けて笑った。


「こんなこと言っていいのか判りませんけど、聞くところによると先生は常習犯だったようでね。少なくないんですよ。やっぱり実体験は作家が作品を書く上で重要なファクターですから。よりリアルな描写に迫るには実際に体験するのがやはり近道なんです」

「でも、強制わいせつを常習していたってことは……」


 僕の中で何かが崩れていく音がした。

 榊原先生の声がやけに遠くに聞こえる。


「下根太一先生はレイプモノのスペシャリストですから。僕はまだ何が得意っていうものがないんですが、今回はソフトSMで書いてみました。やはりSMは読者の食いつきがいいですからね。女性も興味のある人が多いようで」

「官能小説なんですか……」


 榊原先生が爽やかに笑っている。

 その笑顔はスポーツをした後の心地よい疲労感をイメージさせる。

 まるでポルノとは相容れない笑顔だ。

 僕には先生という人が全くつかめないでいた。

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