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果たしてこの時間は充実しているのだろうか。
大学での講義を終え、スーパーで買い物を済ませて、僕は今、マンションまでの帰り道を歩いている。
眼前には夕刻の薄暗い東天に向かってどこまでも続きそうな坂道が伸びている。
マンションは坂の頂上付近にある。
この長い坂道は足腰にきついのだが、だからと言って僕はこの坂道が嫌いではない。
だらだらと続く坂道を若干の前傾姿勢で足元に目を落としながら上る。
時間にすれば三分ぐらいだろうか。この三分間に僕は色々なことを考える。
今日もテーマは「充実」だ。
最近ずっとこのテーマで上っている。
充実とは何だろう。
この前辞書で調べたら「内容が十分で豊かなこと」とあった。
何ともあやふやな意味だ。
「充実した時間を過ごしましょう」と人は言う。
僕も常々そうありたいと思っている。
その気持ちは人並み以上だという自信すらある。
しかしその願望が大きければ大きいほどどうしたらいいのか分からなくなってくる。
充実した時間とは何ぞや。
「内容が十分で豊かな」時間。さっぱり分からない。
今、僕は両手に食材を抱え「充実」について考えながら坂道を歩いている。
この時間は果たして充実しているのだろうか。
今日の講義をした大学の教授に「どんなときに充実していると感じますか」と問えば何と答えが返ってくるだろうか。
「研究をしているとき」だろうか。
「講義をしているとき」だろうか。
それとも「趣味のテニスをしているとき」かもしれない。
総じてみれば「好きなことをしているとき」と言えるのだろうか。
だが「好きなこと」をしているからといって必ずしも充実しているとは言えないと思う。
おしゃべりが好きだからといって、取るに足りない話題で延々と長話をしていても充実感はないような気がする。
しかし密かに心に想っている人が相手だったらほんの数秒の立ち話がえも言われぬ満足感をもたらしそうだ。
だがそれも周りからみれば単なる社交辞令の挨拶程度で、とても充実した内容には見られないのかもしれない。
他人がどう思うかなんてどうでも良いと言われてしまうだろうか。
確かに僕が感じる充実の度合いなど他人には分からないのだから、僕が充実していると思えればそれで良いのだろう。
しかし、今充実していると思えてもその充実の連続が何年後かには何と無駄な時間だったのだろうと思うときがくるかもしれない。
同じ人間でも価値観は変わっていくのだからそれはあり得ることだ。
だとしたらなおさら充実とは曖昧なものでしかない。
追い求めても無駄なような気がする。
それでもやはり人間として生きている以上生命あるときを大切にしたい。
時間を大切にするということは充実した時間を送ることに繋がると思う。
特にこの大学四年間は二度とやってこないのだ。
体力はある。頭の回転も人生のピークにあるだろう。
この四年間を充実させるための体内のインフラは整備されている。
後は僕次第なのだ。
僕は充実した大学生活を送っているだろうか。どうも自信がない。
大学の講義は想像以上におもしろくない。
友達づきあいも上手ではない。
もちろん僕のこんな気持ちを癒してくれる恋人もいない。
いつかは小説を書いてみたいという思いがある。
小さい頃から作家になりたかった。
そのために文章が上手くなるからと何かで読んだので新聞のコラムを毎日書き写したり、片っ端からいろんな本を読んだりはしているが、それは中学生の頃からやっていることであり、毎日歯を磨くことと同じように習慣化していて好きな時間ではあるが特別自分が充実できているという自覚はない。
では、どうすれば僕の大学四年間は充実したものになるのだろうか。
僕は今、生きている。
それは医学的な意味で。
つまりこの世に生を受けてはいる。しかし、ただそれだけなのだ。
人生を謳歌しているとはとても思えない。
そう意識する度に僕の心の中に焦りに似た気持ちが生まれてくる。
僕に残された時間はあとわずかしかない。このままではいけない。
今の自分の時間を今客観的に評価するのは難しいのかもしれない。
しかし今の時間が充実していると思えなければ漫然と大切な時間を浪費しているようで罪悪感に苛まされさえする。
ああ、僕はどうすれば良いのだろう。
充実した時間を過ごしたい。
そうこうしているうちにマンションの前まで来てしまった。
マンションの名前はサクラビル。
築年数は僕と同い年の二十歳でベージュの色調の外観はくすんでしまって古ぼけてはいるが鉄筋コンクリートなので結構丈夫そうだ。
三階建てで二階の202号が僕の部屋だ。
部屋を見上げると僕の部屋の南隣の203号から住人が大きな段ボールの箱を持ち出しているのが見えた。
マンションの脇に目をやると小さめのトラックが停まっていて荷台に幾つか段ボール箱が積んである。
どうやら引越しらしい。
203号の住人は確か二、三ヶ月ぐらい前に越してきた若い夫婦だ。
もう出て行くのだろうか。
階段を下りてきた夫の方が僕に気づいて会釈をしてきたので僕も軽く頭を下げた。
「引越しですか?」
「ええ。短い間でしたがお世話になりました」
本当に短い間だった。
名前も知らずじまいで、お世話をした覚えなど全くない。
言葉を交わしたのもこれが最初で最後ということになる。
階段を上がっていくと奥さんの方も下りてきた。
思っていたよりも美しい女性だった。
僕は思わず二日に一度は必ず夜中に壁越しに聞こえてくる若い女性の声を思い出した。
壁が薄いのもあるのだろうが、声もわざとかと勘繰りたくなるほど大きくてこっちが恥ずかしくなるぐらいに鮮明に聞こえてくる。
最近では少しは慣れてきたがやはり若い僕がそれを冷静に聞き流せるはずがなく、そっと耳をそばだてながら膨らみきった股間に右手をあてがうことはしょっちゅうだった。
あの声の主がこの人だ。
そう思うと僕は頬がカッと熱くなるのを感じて顔を起こすことが出来なかった。
伏目気味に会釈して奥さんとすれ違った。
彼女の髪から甘い果物のような匂いが漂って僕の鼻腔をくすぐる。
僕は消えゆく薫りを追いかけるようにそっと思い切り鼻から空気を吸い込んだ。
たちまち僕の股間はこらえようもなく反応してしまう。
僕は小走りで駆け上った。
階段を上がりきって、トラックに向かう奥さんの背中に視線を落とした。
服の下にある細身の裸身を思わず妄想してしまう。
もうあの鳴き声を聞くことも、その声に感じて股間を膨らませることもない。
僕は何だか大人への階段を一つ上がったような気がした。
彼女のおかげで少し大人になれた。
いやこの別れで無理やり大人にされてしまったのか……。
なんとなく寂しい思いとともに感謝に似た気持ちが湧いてきて名も知らぬ彼女の後姿をいつまでも見ていたかったが、夫の方が階段を上がってきたので僕は急いで自分の部屋の鍵を開け中に入ってドアを閉めた。
ドア越しに彼の力強い足音を聞くと切ないような気持ちがした。
胸を刺激するぴりぴりとしたこの微かな痛みは何だろう。
僕は後ろ髪を引かれる思いでドアから離れた。
スーパーの袋から食材を取り出す。
玉ねぎ、人参、ジャガイモ、牛肉。
今日のメニューは朝から決めていた。もちろんカレーだ。
この料理は食べることも然ることながら作ることも僕は好きだった。
幾つかの工程を経て少しずつ出来上がっていく様子はいつも僕を夢中にさせるのだ。
最後に茄子を取り出して全部だ。
僕のカレーに茄子は欠かせない。
これもお袋の味と言えるのだろうか。
母の作るカレーには必ず茄子が入っていた。
茄子がカレーの味をその実に凝縮するのだ。
噛んだときに溢れ出てくるその濃厚な味わいが何とも言えない。
米をとぎ炊飯ジャーをセットしてまずは人参、ジャガイモに取り掛かる。
ピーラーで気持ちよく剥く。
ジャガイモの芽は逃してはならない。
剥き終わったら少し大きめに切って水に浸しておく。
次に玉ねぎを切る。
この玉ねぎというやつは曲者だ。切り出したら涙が止まらない。
コンタクトをしている人は涙が出ないと聞いたことがあるが僕は現代人には珍しく視力が良くて裸眼を保っている。
従って今日も涙を流しながら玉ねぎを切る。
カレーには欠かせないのだから仕方がない。
肉を一口大に、茄子は輪切りにしておいて早速玉ねぎを炒め始める。
弱火でじっくり炒めなくてはならない。
顔を上げると台所の窓ガラスが西日に紅く染まっていた。
夕飯にはまだ時間がある。
ゆっくりと丁寧に作り上げよう。
玉ねぎが狐色になってきたところでジャガイモと人参だ。
牛肉も加えるとあたりに美味しそうな匂いが漂い始める。
炒めている間に鍋で湯を沸かす。
湯が湧いたら勢いよくフライパンのものを鍋に移す。
急に見た目にカレーらしくなってきた。
後はジャガイモや人参が柔らかく煮えるまで待たなくてはならない。
今のうちに洗濯物を入れてしまおう。
一人で暮らすということは日常生活における責任が全て自分に帰属することになる。
毎朝誰が起こしてくれるでもなく、食卓にご飯ができているはずもない。
掃除も僕自身がやらなければ部屋の中は際限なく汚くなっていく一方だ。
部屋の隅に埃がたまるのは本当に早い。
浴室のカビの繁殖力にはびっくりさせられる。
洗濯をサボっていると明日着る下着もないというときもある。
自由を求めて一人暮らしをする人は多いだろうが、逆に自由から生まれる忙しさに縛られることにもなると気づくのは僕だけではないはずだ。
しかし、僕はその自由による束縛を心地よく感じている。
炊事洗濯は大変だということは分かった。
しかし、そのことで僕は生きていることを実感している。
食べ終えた後に残る皿の汚れ、起きぬけのじっとりと湿っぽい布団、埃を吸い取る掃除機の音、籠にたまっていく洗濯物の山。
それらは自由という名の足枷であり、僕の生命活動の証とも言える。
外から戻ると、この部屋に染み付きつつある僕の匂いを感じて全身の細胞が落ち着きを取り戻し静かに呼吸するのが分かる。
ああ、僕はこの部屋の中で間違いなく生きているんだと確認できることが嬉しく感じるのだ。
つまりその分僕が一般社会から取り残された存在であるということが言えるかもしれない。
恋人もなく友達も少ない僕にとってはこの部屋の外は見ず知らずの他人だらけの世界であり、一歩進むごとに異邦人としての疎外感を味わわせられる何とも生き難い空間だ。
この202号だけが僕に自分の存在を実感させてくれる唯一無二の最後の砦なのだ。
洗濯物をとり入れ所定の位置に仕舞ってから鍋の中を覗き込む。
菜箸でジャガイモを突付くと大分柔らかくなっているのが分かる。
もうルーを入れてもいいだろう。
箱からルーを取り出し小さく割って鍋に落とす。
お玉でかき混ぜると慣れ親しんだカレーの臭いが台所中に広がった。
最後の仕上げの茄子を浮かべる。
これで一件落着。
あと少し煮込んだら火を止めしばらく寝かせて置くだけだ。
腕時計を見る。六時十八分。まもなく先生が現れるころだ。
タイミングよくご飯も炊き上がった。
予想に違わず台所の窓の前を人影が横切った。
すぐに部屋の呼び出しチャイムが鳴る。やっぱり先生だ。
「んー、いい匂い。部屋の外までカレーの匂いが漏れてきてるよ」
「先生、すいません。また、カレーにしちゃいました。ほんと、レパートリーが少なくて」
「いやいや、とんでもない。こっちが無理なお願いをしてるんだから作ってもらえるだけで感謝してるよ。それに俺、村石くんのカレーが大好物でさ。あの茄子が忘れられないんだよね」
先生は少し長めのさらさらとした髪を掻き揚げ鍋に鼻を近づけて大きく空気を吸い込んだ。
眼鏡を曇らせながらも満足そうな笑顔を浮かべている。
その顔を見ただけで僕もうれしくなってしまう。
誰かのために料理を作って喜んでもらう。
僕はそこに何とも言えない喜びを覚えてしまった。
今まで気付かなかったが、料理は結構向いているのかもしれない。
もしかするとこの感覚が充実感という奴なのだろうか。
まだ確固たるものではないが、少なくとも先生と過ごす時間は無駄ではない気がしている。
「この匂いをかぐとあの日を思い出しちゃうね。ああ、急に腹減ってきた」
先生が大げさに顔を顰めて腹を抱えながら炊飯ジャーに歩み寄った。
蓋を開けるともうもうと白い湯気が立ち上る。
先生は嬉しそうに僕を振り返った。
あの日とは先生が初めて僕の部屋に訪れたときだ。
思い返せばもう十日も前のことだが、何だか昨日のことのように思えてしまう。
それだけ僕の中であの日の印象が強く残っているのだろう。
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