2-2
首筋に容赦なく北風が吹きつける。
お腹も空いてきた。
こんなところでいつまでも突っ立っているわけにはいかない。
僕はゆっくりチャイムを鳴らして覗き穴から僕の顔がよく見えるようにドアの正面に立った。
耳を澄ますとドアの向こうに人の気配が近づいてきた。
僕は息を殺して応答を待った。
「はい。……どちらさまですか?」
強い北風に紛れてしまいそうな女性のささやき声がドア越しに聞こえてくる。
「し、下の202号の者なんですが、見覚えのない物がベランダに落ちてたんで、ひょっ、ひょっとしたらこちらの洗濯物ではないかなって思って持ってきたんですけど」
清廉潔白をアピールするために出来るだけはきはきと答えようとしたのだが、緊張して上手く話せたかどうか自信が無かった。
証拠の品としてドアレンズにブラジャーを見せるかどうか迷ったがやめておいた。
顔の前にブラジャーをぶら下げる自分の姿を想像するとあまりにも情けなかったからだ。
今にも雪が降ってきそうなほどの寒さなのに、極度の緊張で脇に汗がにじんでいく。
ゆっくりとドアが開いた。
十五センチほど開いたドアのチェーンの向こうに突然の来客を訝る少し怯えた表情の女性が見えた。
彼女は事務職をイメージさせる襟の少し長い白のブラウスに落ち着いた感じの黒っぽいグレーのパンツスーツを着ていた。
あまりくつろいでいた様子はない。
仕事から戻ってきて間もない感じだ。
彼女の足元には僕を睨み付けるような目で黒っぽいトレーナーを着た三、四歳の男の子が立っていた。
母親を悪者から守るつもりなのであろうか。
彼女は息子にすがるようにその手をしっかり握りしめている。
「これなんですけど」
今にも噛み付きそうな男の子にぎこちなく微笑みながら僕は淡いピンクのブラジャーを彼女の前に差し出した。
彼女は少し驚いた様子を見せ、僕の手から素早くブラジャーをもぎ取るように受け取ると何も言わず逃げるようにドアを閉めてしまった。
バッターン、という大きな音が僕の鼓膜を痛いほど振動させる。
ドア越しに男の子の「いいの?」というあどけない声がする。
僕はあまりのあっけなさに寒さを忘れていた。
部屋に戻ると美味しそうに湯気を立ち上らせている鍋と僕からの報告を待つ先生がいた。
部屋の暖かさが心地よかった。
僕は鍋を突付いている先生に事の次第を報告した。
自分が受けた仕打ちを言葉にしていると徐々に顔が熱くなってくるのが分かる。
「やっぱり男の子は母親を守る気持ちが強いんだな」
先生は男の子の勇姿に妙に感動した様子だった。
「あんな閉め方しなくてもいいと思うんですけどね」
全てを話し終わって僕は先生に拗ねてみた。
彼女からは礼の一つも言われるのが筋合いというものだ。
それなのにあんな風に思いっきりドアを閉めるなんて。
「まあ仕方ないって。夜分に来訪者が自分の下着を持ってきたんだからびっくりしたんだよ、きっと。女性の下着を手に出来たんだからこっちが礼を言っても良いぐらいじゃない?ベランダに落ちてきたブラジャーがきっかけで二人が出会う。面白いじゃん。こりゃ良い作品が書けほふはほ」
こんなことまで先生は官能小説のネタにしようとしているらしい。
楽しそうに熱い豆腐を頬張っている先生が今日は何とも憎らしかった。
僕としてはどうにも納得がいかなかった。
汗をかくほど緊張して届けてあげたのにあの仕打ちはない。
あの男の子の目には僕は母親をいじめる悪者と映っていたかもしれない。
今後、階段ですれ違ったりしたときはどんな顔をしていれば良いのだろうか。
こんなことなら先生が言ったように黙ってもらっておくべきだった。
鍋は良い具合に出来上がっていた。
僕は緊張から解き放たれたせいか急に空腹を感じ鍋に向かって箸を伸ばした。
そのとき僕の部屋の呼び鈴が鳴った。
「お客さんのようだね」
空耳であったらという淡い希望は先生の一言で霧散した。
今度はどこかの誰かが僕の部屋を訪れたのだ。
どうもこのチャイム音には慣れない。
いや、どんな音色でも誰かの来訪を知らせる音に慣れることはないだろう。
聞くたびに心臓が一気に縮む感じがする。
友達も数えるほどしかいない大学生の僕の部屋を訪れる人に僕の生活に良い影響を与える人などほとんどいないと僕は知っている。
榊原先生は例外中の例外なのだ。
あの母親も僕が押した呼び鈴を聞いたときにこんな胸苦しさを感じたのだろうか。
母子家庭にもろくな来訪者はいないだろう。
きっと僕よりも心細くてびくびくしながら玄関に出るのだろう。
そう考えると少しは心のわだかまりも溶ける気がした。
玄関に向かうと思いがけず女性の声が聞こえてきた。
「あの、上の302の橋本です」
慌ててドアを開ける。
そこには先ほど僕が訪れた302号の母子が並んで立っていた。
彼女はジーパンにタートルネックのセーターを着ていた。
先ほどの格好との違いからか少し幼くなったような印象だ。
肩まで伸ばしていた髪もポニーテールに括っていてどこかかわいらしさを感じる。
男の子は先ほどの挑戦的な眼差しではなく、はにかんだ様子で母親の太ももに抱きつき僕を見上げていた。
彼の黒のトレーナーとスニーカーには同じテレビアニメのヒーローが描かれている。
お気に入りのキャラクターなのだろう。
「先ほどはすみませんでした。お礼も言わずにドアを閉めてしまって。……その、あまり部屋に誰かが来るっていうのに慣れてなくて……。返していただいたものも、その、あんなもので……。動転してしまって何て言ったら良いのか分からず……」
恐縮しているのか何度も前髪を撫でつける様子がかわいらしい。
彼女にまとわりついていた男の子は母親の様子が普段と違うのかきょとんとした表情で彼女の顔を見上げている。
「全く気になさらなくて結構ですよ」
そう言ったのは僕ではなかった。
いつの間にか先生が僕の背後に立っていて彼女に向かって微笑みかけている。
面白がっているのだろうか。
きっとまた小説のネタを求めてのことだろう。
今、先生は何を想像しているのだろうか。そう考えると少し怖かった。
「私はこの村石君の知り合いでこのマンションの205号の住人です。榊原と言います」
「初めまして、橋本です」
突然の挨拶に戸惑った様子を見せながら彼女は先生に会釈した。
「こんばんは」
先生は膝に手をやり目線を下げて男の子に挨拶をした。
男の子は照れたように母親の後ろに回りこんで顔を半分覗かした。
彼女が何回か促してようやく「こんばんは」と口の中で小さく返事した。
「お利巧さんだね。もうご飯は食べた?」
子供の扱い方が分からない僕とは違って先生は妙に子供慣れしている。
「まだ」
彼は母親の顔を窺いながらそう答えた。
「そう。じゃあお腹空いたね」
先生はわざとらしく微笑み、顔を上げて母親の方を見た。
「ご飯はもうできてるんですか?」
「いえ、さっき帰ってきたばかりでまだこれからなんです」
「だったらどうかな。ね、村石君」
先生は意味ありげに僕の名前を大きく呼んだ。
先生の意図することが全く読めない。
「一緒にどうですか?私と村石君も丁度今からご飯なんですよ。今日は鍋なんです」
「そんな、とんでもない。ご迷惑でしょう」
「そんなことはないですよ。ねえ村石君」
先生は僕の顔を見てにっこり笑った。
そういうことか。今日はやけに先生が積極的だ。
余程面白い妄想が先生の頭の中に膨らんでいるのだろう。
小さな子の面倒をみるのは苦手だが慣れていないだけで迷惑というわけではない。
材料も多いので二人増えたぐらいが丁度いい人数かもしれない。
先生が望むなら僕はそれでも良かった。
「ええ、材料も多く買いすぎてしまって困っていたところですから。それに鍋は人数が多い方が楽しいですし」
僕は先生に合わせて母子を夕食に誘った。
ブラジャーも何かの縁だと思えば上の階の人と仲良くなっておくのも良いかもしれない。
それに何と言っても彼女はかわいかった。
それでも当然のごとく彼女はまごついていた。
彼女にしてみれば今日の夕飯を下の階の人間と食べることになるとは今の今まで夢にも思っていなかっただろう。
「ここでご飯食べていかないかい?今から作ってたら遅くなっちゃうよねぇ?」
先生は慣れた口調で子供の方を懐柔しだした。
どう返事したら良いのか分からないらしく彼は母親の顔と先生とを交互に見た。
冷たい北風がドアを揺する。
男の子は寒さに顔をしかめた。
「そこは寒いですから中へどうぞ」
僕の言葉に彼女は決心したようだ。
しゃがみこんで彼に最後の決断を委ねた。
「りょう君。ここでご飯ごちそうになっていこっか?」
りょう君と呼ばれた彼が恥ずかしそうに小さく頷いたところで商談は成立した。
橋本朋子と名乗った母親は初めのうちは緊張した様子で口数も少なかったが、時間が経つにつれ少しずつ固さがなくなり僕たちと忌憚なく話すようになっていった。
もともと明るい性格なのかもしれない。
先生と僕は彼女に軽く自己紹介をして夕食を毎晩共にするようになったいきさつを話した。
先生のことだからほぼ初対面の彼女に対しても何も憚らずに官能小説家と名乗るかとも思ったが、作家ですと答えるに留まった。
官能小説家と聞いたらどういう反応を示すだろうかと内心冷や冷やしていた僕はほっとした。
僕と先生は事前に相談していたわけではなかったが、互いに母子の境遇について触れようとはしなかった。
彼女も自分の過去について深く語ることはなく、自分が二十四歳でりょう君が三歳だということと郵便局に勤めていることだけ話してくれた。
「榊原さんは関西のご出身ですか?」
「分かりますか?」
先生は驚いた様子でそう言った。
朋子さんの指摘に驚いていた。
慣れてしまって分からないだけなのかもしれないが、今日の会話で先生の口調に関西方面のイントネーションを感じるところはなかったからだ。
朋子さんの指摘で僕は先生と出会った日に先生が遣った関西訛りを思い出した。
朋子さんは一度少し首を傾げて考える素振りを見せたが小さく頷いた。
「仕事の関係でこちらに?」
朋子さんの質問に先生は照れたような笑いを浮かべた。
僕は何気なく鍋の中を突付きながら先生の言葉に耳を集中させた。
先生が何故このマンションに暮らすようになったのかは前々から気になっていた。
「それもあるけど、……まあいろいろですよ」
全てが凝縮された「いろいろ」だった。
本当に色々あったということだけは僕の心に強く伝わってきた。
「そうですね。いろいろありますよね」
朋子さんはそう言って何度もうなずいていた。
生きていれば人それぞれ「いろいろ」ある。
僕だってその「いろいろ」を抱えて今を生きている。
三人は各自の「いろいろ」を頭の中に思い出しているかのように少しの間押し黙ったまま鍋を食べ続けた。
先生は子供好きのようだ。
りょう君のために鍋から野菜や肉を取り分け、ふーふーと冷まして食べさせてやっている。
りょう君が何かをこぼす度に朋子さんよりも素早くタオルで汚れたコタツ布団を拭き、りょう君の口の周りを拭いてあげていた。
りょう君はソーセージが気に入ったらしく、取り皿の上で暴れるソーセージに悪戦苦闘しながら、フォークでつき刺して何本も食べた。
先生は野菜をあまり食べたがらないりょう君を優しく叱り、ソーセージをだしにして上手に野菜を食べさせていた。
よく見るとりょう君は靴下まで同じテレビアニメのキャラクターがプリントされたものを履いていた。
余程このアニメが好きなのだろう。
僕は自分が三歳ぐらいのときの写真を思い浮かべた。
その頃の写真に写っている僕は今のりょう君と同じように当時流行していたらしきテレビアニメのTシャツやらトレーナーやらを着ている。
もう全く記憶にはないが、きっと母にねだって買ってもらったのだろう。
子供服売り場であれがほしいと指差して母の袖を引っ張る自分が容易に想像できた。
りょう君もきっとそうなのだと思うと、りょう君が微笑ましく可愛らしく思えた。
大方鍋も食べ終わり、りょう君がうつらうつらとしてきたので朋子さんは慣れた手つきでりょう君を抱きかかえ丁寧に礼を述べて302号に帰っていった。
朋子さん母子がいなくなっても部屋には彼女たちの残していった温かい雰囲気が漂っていた。
僕と先生は後片付けもほどほどにして缶ビールで乾杯した。
僕はビールの味がまだよく分かっていないが、鍋で火照った身体を潤す爽快感は堪能できた。
先生は一気に半分ほど飲み干し美味しそうに息を漏らした。
「先生は子供好きなんですね」
「別にそういうわけじゃないよ。村石君ぐらいの年のころには本当に子供が苦手だったしね。ただ俺ももう三十二歳だからさ。昔のように子供の意味の分からない振る舞いにもいらいらすることはなくなったよ」
僕と先生は一回り年齢が離れている。
しかし、先生にそこまでの年齢差は感じない。
一緒にビールを飲んでいると先生が頼りがいのある兄のような存在に思えてくる。
妹が一人いる長男の僕は昔から兄という存在に憧れがあった。
長男として、誰かに頼るのではなく自分の力で生きていくことを小さい頃から求められてきた僕は兄がいたらと思うことが少なくなかった。
頼るべき存在の父は物心ついた時から仕事で留守がちで、しかも二年ほど前に突然他界してしまった。
もう頼りたくても頼りようがない。
会社社長の父は家族に厳しかった。
父は三十代でそれまで勤めていた大手の食品会社を辞め、健康食品の会社を起こし当時のブームに乗って瞬く間に世間でもそこそこ名の知れた大手の企業にしてしまった。
そんな有能な父は何事にもワンマン経営で会社でも家庭内でも何か自分の気に入らないことがあるとすぐにカッとなり、時に暴力も珍しくなかった。
家に帰ることの少ない父は家庭のことは全て母に任せ、家庭で何か問題が起こるとその度に母を叱りつけた。
そんな時、僕はなんとか母を守りたかったが、父の怒りが自分に向くことを考えると恐ろしくて足が前に出なかった。
父は僕に村石家の長男として、次期社長として大きすぎる期待を抱いているようだった。
その期待に少しでも逆らうようなことを僕がしでかしてしまうと父からは常に罵声と鉄拳が飛んできた。
優しい言葉など一切ない。
だから僕は小学生のころから優等生を演じ父の前ではその表情に怯え、張り詰めた緊張感を胸に秘めながら指の先、言葉の端々に気を配って父の意にそぐわないことを回避するように生きてきた。
頭ごなしに接してくる父のことが僕は嫌いだったが、相手が親である以上嫌いだからと言って済ますことのできる問題ではない。
自分の感情は押し殺して父の顔色を窺いながら僕は毎日を生き延びてきた。
妹は僕や母に比べると自由奔放に育った。
父から殴られることもなければ、人間性を否定されるようなことも言われない。
妹が泣いているのを見るのは嬉しいはずがないが、いつもあっけらかんとしている彼女の境遇に嫉妬する気持ちが僕の中に育たないはずはなかった。
僕だって泣き言を言いたいときがある。
親の目に怯えず自由を謳歌したい。
僕は兄が欲しかった。
男同士腹を割って話がしたい。
そしてただ何も言わず愚痴を聞いて欲しい。
僕は誰かに頼るということをしてみたかった。
思えば父以外の年上の男性と二人きりで言葉を交わすのは先生が初めてだ。
先生のそばは何とも言えず心地よい。
全てを許してくれそうな安心感が漂っている。
幼いころから人の顔色を窺うのが習慣になっていた僕にとって常に微笑を浮かべているような先生は本心で何を考えているのか全く分からないのだが、僕はそのつかみ所のない懐の深さについついもたれかかって慕ってしまうのだ。
「離婚の原因は何だったんでしょうかね?」
僕はさっきからそればかりを考えていた。
家庭には家庭の事情がある。
それは僕にも分かる。
僕の家庭だって事情だらけだった。
しかし、それでも母は離婚しなかった。
僕の目にも父の言い分があまりに身勝手に思えて何度も「離婚すれば」と真剣に母に持ち掛けたが母が首を縦に振ることはなかった。
「子はかすがいなのよ」と母は口癖のように言った。
「僕達がいるから離婚できないんだね」
僕は目を伏せるしかなかった。
自分が母の手枷足枷になっていると思うと僕はやりきれない気持ちだった。
母の幸せを願う僕の存在そのものが母を身動きできなくしているのだ。
しかし、母は僕の言葉を優しく否定して言った。
「そうじゃないのよ。あなた達のような素晴らしい子供の父親だと思うからあの人とも暮らしていけるのよ」
母の言葉が今でも耳の奥に響いている。
そんな風に考えられる母は誰よりも強いと思った。
あんなにつらい思いをしている母が離婚しなかったのに、その離婚を選んだ朋子さんにはどんな原因があったのだろうかとどうしても思わずにはいられない。
「原因は分かんないけど、離婚をするにしろしないにしろそういう選択をしなくてはいけないというのはとてもつらいことだよね。彼女は週に何回か夜も仕事に出るみたいだよ。郵便局の給料だけじゃ生活が成り立たないんだろうね。離婚の選択をしたときに彼女が今の生活苦を想像していなかったとは思えない。それでも離婚を選んだ彼女の選択を俺たちが否定することなんかできないな」
先生はまるで僕の気持ちを見透かしているかのようだった。
やはり先生は大人だと思った。
先生の観察力には改めて恐れ入った。
「しかし、夜中に聞こえてくる金きり声が朋子さんの声だとはとても思えないなぁ」
先生は首を傾げて言った。
僕も同感だった。
先ほどまで一緒に鍋をつつきあった朋子さんは美しく穏やかで慈愛に満ちた母親だった。
彼女の今日の様子は毎晩のようにヒステリックなまでに声を荒げて子供を叱りつけている女性のイメージとはあまりにかけ離れている。
あの声は別の部屋からだったのかもしれないと自分の耳を疑いたい気さえしてくる。
「昨日の晩もベランダに閉め出されてたよね」
何度言ったら分かるの、と叱りつける母親の声と「お母さん、お母さん」と泣きじゃくる子供の声。
夜の十一時を回り少しずつ明かりも消え始めた住宅地に聞いているのがつらくなるほどに響き渡っていた。
「僕も聞こえました。夜の十一時すぎでした。こんな時間に何も外に出さなくってもと思いましたよ」
「俺はあまりに不憫で気になって外に出て見たんだよね」
先生は二本目のビールのプルタブを開け一口飲むと俯いてしまった。
「ベランダで泣いていたのは間違いなくパジャマ姿のりょう君だったよ。お母さん、お母さんって泣き叫んでるんだけど、部屋の中はカーテンまで閉められてた。カーテンの隙間から見えたのは間違いなく朋子さんだったな」
「そうですか」
先生が嘘を言っているはずがない。
しかし、僕はどうしてもあの金切り声をあげて子供を叱りつけている女性が先ほどりょう君の手を握り締めてドアの向こうから怯えるように僕を見ていた朋子さんだとは思えなかった。
思いたくないというのが正直なところなのかもしれない。
僕は半分ほど残っていた缶ビールを無理やり飲み干した。
ぬるくなったビールは炭酸が喉に痛いだけで全く美味しいと思わなかった。
一口目に味わった爽快感などすっかり忘れてしまっていた。
先生が自分の部屋に戻ってしまうと僕の部屋は祭りの後だった。
過ぎた時間が楽しければ楽しいほど、終わった後の寂寥感は心により大きな穴を穿つ。
怖いほど静かな部屋の中でコタツの周りの座布団の上に寂しさという悪魔が形を成して見えるようだった。
僕は思わずその場に座り込んでしまいそうで台所に戻って蛇口を思い切り捻った。
勢い良く流れ出た水の柱がシンクを強く叩きつける。
僕は痛いほど冷たい水に両手をさらしながら幸せの抜け殻のような大きな鍋を渾身の力を込めてゴシゴシと洗った。
冷たさで徐々に指の感覚がなくなっていったが、僕は一心不乱にたわしを動かした。
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