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人が優しく生きるために、世界は進歩の針を止めた。
一部例外を除いたら、僕らの世界に蔓延るテクノロジーは、三十年前の大災害時とそれほど大きく変わっていない。そう、一部例外を除いてだ。その一部例外の全てがQLAという機関に存在する。
分類するならば、それは二つに別けることができるだろう。QLAという機関が、世の中に大きな影響を与えている部門は二つある、ということだ。
一つはデジタイズという精神を数値化するインプラント。
精神的な汚染が一定値を超えた瞬間に人間ではない別の生物へと変貌してしまう今の世界では、その数値を正確に計測するテクノロジーが求められた。そのために生まれた製品がデジタイズであり、世界中の人間がこれを体内に摂取することを義務付けられている。
まるでSFの世界から取り出したような優れたマイクロテクノロジーが用いられており、月に一錠だけピンク色のピルを飲めばOKという利便性。使い捨てのコンタクトレンズみたいなもので、手軽さが一番の売りである。
素材は体に優しい合成タンパク質であり、一ヶ月経てば体内で分解され、排泄物と一緒に体外へとパージされる。機関のお抱え学者によると、肌の美容効果もあるらしいが、その点に関しちゃ僕は懐疑的である。
デジタイズの管理、運用が機関の主な業務であり、先日までの僕もデジタイズの運用――特にそのデータ管理と運用を業務として受け持っていた。世の中からオフラインというものが四つ葉のクローバーよりも珍しくなった昨今では、どこで何をしていようと、デジタイズから摂取者の精神状態がデータとして転送されてくる。
そして、どこで何をするとどのような精神状態になるかを分析し、ソーシャルデザインコンサルタントとして社会に還元するのだ。世間に蔓延るアクティビティとQLAは幾つかの電子マネー決済会社などを間に挟み紐付けされているのだが、これはあまり公的には知られていない。
他の業務としては僕が受け持ったのは、機関が定期的に開催しているメンタル・セルピーの新しいガイダンス作成と、女性の身体を尊重させる会による抗議文への返答と、男だけれどパンティーストッキングを着用しないと切腹したくなる症候群の調査資料の編集などが上げられるが、それはQLAにとって枝葉のように些細な業務だ。
この機関が持つもう一つの大きな影響力は、レリーフと呼ばれる対ヴァリアント専門の特殊部隊であることは間違いないだろう。
ヴァリアントというのは、江川裕二を代表とする人間を辞めた人間たちの総称、もしくは現象そのものの呼称である。
人間を辞めるということは、文字通りの意味であり、生物学的にも我々人類とは一線を為す別の生き物へと変化する。江川裕二のケースならば、彼は人間を辞めて童貞という生物に進化した。
そこで問題となるのがヴァリアント化後に連中が得る超自然的なパワーである。江川裕二の覚醒は、国が一つ消滅した。彼は童帝と呼ばれるほどの個体であり、世界を崩壊させるような凄まじい超常現象をいくつも引き起こしたようだ。
そこまで強力な個体は非常に珍しいのだが、彼ほどではないにしろ、ヴァリアント化後に発揮される超自然的なパワーは人類にとって脅威である。単純な火力兵器では、効率的なダメージを与えられないことが既に証明されている。
そこで出番となるのが、QLAが誇る特殊部隊レリーフだ。レリーフとは、浮き彫りまたは浮き彫り細工という意味の美術用語だ。彼らがそのように呼称されるのは、彼ら自身が人類という枠組みから浮き彫られたような存在だから――ようは、ヴァリアント化した連中と同様に、人類とは異なる生物だということだ。
ヴァリアント化した連中と異なる点は、レリーフが人為的に生み出されたスーパーヒューマンであることだろう。ヴァリアントの大きな問題は、マイナスの精神状態が促す進化であり、それゆえに人類の仇なす怪物と化す。
レリーフに所属する彼らは、人為的に生み出された超人であり、手術と薬で調整された人工的な存在である。けれど見た目や性格は普遍的な人類と何も変わらない。普通の人とは違って、特別な力が備わっているだけである。
しかし当然ながら、人権派と揶揄される一部の政治家やNPO法人から、レリーフの存在が非人道的であると糾弾する声が上がっている。そして、QLAに働いている僕が言うのもなんなのだが、この意見には僕も賛成していた。人類のためとはいえ、薬と手術で人間を改造するなんて間違っていると思うから。
けれど、現時点において、レリーフ以外にヴァリアント化した連中への効率的な対抗手段なんて存在せず、国の一つを犠牲にしてまで守るべき道徳法則も見当たらないので、許容せざるを得ない現実というものが存在する。
よってQLAが、それらの批判に対応するべく、多大なリソースを支払うことで妥協点を生み出しているのが昨今だ。多くの抗議文への回答や、理解を得るためのシンポジウムの開催などは、僕が前の部署にて受け持っていた業務でもある。
「着任早々、申し訳ありません」
「いや。君の責任じゃないよね」
落ち着いた声で彼女は話す。女性にしては背が高く、長い黒髪をゴムで括っており、洒落たなデザインの眼鏡をかけたクールでスマートな彼女が、今日から僕の部下となった佐々木静の持つ外見だ。
シックでクラシカルなデザインの黒いセダン。その後部座席に僕は座っている。運転席では佐々木女子がハンドルを握り、軽快な速度で指定されたポイントへと向かって車を走らせている。
「これから現場へと向かいます。宮間監査官には、現場にて指定された業務にあたっていただきます。具体的な業務内容をご存知でしょうか?」
「いや、君から教えられるようエリアマネージャーから伝達された。僕はこの部署において、機密とされている情報について何も知らない状態だよ」
「解りました。必要な項目を手短に説明します」
「お願いする」
一応ながら補足しておくが、僕がレリーフについて何も知らないのは、職務怠慢いう理由ではない。そもそもレリーフの詳細は、同じ機関で働いている僕にすら開示されていない点が多々とあるのだ。世間一般へと公開されている情報しか、クレームに対応していた僕ですら知らない。
僕が知っているのは、レリーフに所属している連中が、自分から好き好んで特殊な存在へと変化したこと。そしてレリーフという部隊が、女性だけで構成されている特殊な編成であることの二つである。
従って、女性の権利を主張する団体からQLAは格好の的にされがちなのだが、志願制であることを盾に事なきを得ているのが現状である。そうやって文句を言われるのも公的機関の仕事であると僕は思っている。この手の問題に関して、全ての人から理解される瞬間なんて、きっと永遠に訪れることはないだろうから。
けれど風当たりが強いだけではない。大災害後の社会において、自己犠牲は凄まじい美徳だと人類全体に浸透しており、よって一定数の志願者がQLAへと訪れてくれているらしいが――さて、ここからが本題である。
「レリーフは女性のみで構成された部隊ですが、その中でもより実践的な部隊は、12歳~28歳という年齢制限が基本的に課されています。これは我々の持つ技術的な限界であり、同時に人道的な理由に基づいています。
28歳を超えた女性は普通の人間――つまりはレリーフ化する以前の状態に生物学的にも現象学的にも帰納することが義務付けられており、よって部隊の平均年齢は必然的に低下します。関西地区Bブロック実務部門における平均年齢は25歳と八ヶ月で……」
「ちょっと待ってくれ。レリーフは普通の人間に戻れるのか?」
唐突な真実が告げられた。思わず僕は彼女の話に口を挟んでしまった。佐々木女子は少し眉を潜めた後、淡々とした口調で続きを語り始める。
「はい。正確には、戻らせざるを得ないと言うべきでしょう。レリーフ化の技術は未だに不安定であり、多量の経験値を得たレリーフが人間に対してどのような反応を示すのか――つまり、人間ではない彼女たちが人間のために職務を全うし続けた結果、どのような状態に至るのか、という点において非常にネガティブな予想が強いため、年齢的な制限を設けざるを得ない状態です」
「なるほど。だったら、その事実はどうして世間へと公開されていないのさ」
「理由は二つあります。一つは不安定な技術であることを公開したところで、余計な弊害を生み出す結果にしかならないからです。もう一つは、普通の人間だと思っていた相手が元はレリーフであったことを受け止められるほど社会が成熟していない、と我々の上層部が判断したからです」
「待ってくれ。現状として、レリーフは普通の人間と変わりのない社会生活を送れているはずだ。少なくともQLAのガイドラインには、そのようなことがオフィシャルに明記されている」
「当然です。一部の例外を除き、レリーフ部隊のメンバーはQLAにおいて最高レベルの機密事項です。そのために多くのコストを機関は費やしていますから。差別意識を齎せるような存在を、平然と世間に溶け込ませるほどQLAは脳天気な機関ではありません」
「あぁ、なるほど。つまりはこういうことだ。身近な知人にレリーフがいないと確信できているからこそ、レリーフという存在が世の中に受け止められている側面がある。しかし、そこで仮にレリーフが普通の人間に戻れることが周知されてしまっては、疑心暗鬼を生じてしまう。もしかしたら自分の近くにいるあの人は、人間ではない違う生物ではないかと」
「詳細を知らない人にとって、ヴァリアントとレリーフの間に違いなんて存在しません。よく解らない自分とは異なるもの、程度の認識でしょう。よって我々はデリケートに情報を扱うしかありません。もちろん、改善するべく努力は行っていますが」
「レリーフ化における技術的な問題に関しても?」
「そちらに関しては、これ以上の進展は望めないと思います」
「なんでさ。可及的速やかに解決すべき問題じゃないか」
「死に行く技術だからです。ヴァリアント化という現象自体が、大災害直後と比較して95%減少しました。この数字は、おそらく限りなく100%に近い状態まで近づくことが予想されます。それに……」
「それに?」
佐々木女子の口が不意に閉ざされた。今まで流れていた流暢な彼女の言葉遣いからはかけ離れた、とても深い沈黙が彼女の唇に膜を張った。その沈黙の正体を知らない僕は首を傾げたが、理由に関して追求する気にはなれなかった。
先程から自然に会話を熟しているが、どうにも不愉快な気分が僕の中には渦巻いている。碌でもない話ばかりが彼女の口からは齎される。大災害以後の社会が生み出したネガティブな部分が僕の目の前で開示されているからだ。
ヴァリアント化という病に感染した社会が生み出した、残酷な仕組みの一端だ。志願制とはいえ、若い女性の人生を消費することによって、社会全体に秩序と安全が担保される。佐々木女子が口を噤んだのはきっと、もっとどうしようもない話を僕に告げなければならないことを自覚したからだろう。
そんな話を積極的に聞きたいと僕は思えない。だから僕は彼女が二の句を継げない今のほうが、心地良く感じるほどだった。それにレリーフに関する問題だけを拝聴するわけにもいかない。
彼女は僕に、僕の仕事に関して具体的な説明を行う義務がある。
そして僕にも、それへと耳を傾ける職業上の義務がある。
それなりの高給を頂戴しているのだ。そのことに彼女も気づいてくれたらしい。こほん、と小さく咳払いをして、再び彼女の口が開かれた。
「それよりも、宮間監査官には特別監査官という役職に関して、そして必要とされる業務事項に関してレクチャーしたいと思います。ちょうどよいことに、現場へと到着しました。特別監査官として、最初の仕事に取り掛かりましょう」
告げると同時に、車は緩やかに速度を落としていき、とても上品に停車した。彼女の持つ人格の一面が垣間見えるほど、とても丁寧な停車だった。僕は知らぬ間に取り出していたスマートフォンをポケットへとしまい、窓の外へと視線を向けた。
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