(2)


 少し癖があって、ふんわりと伸ばされたセミロングのピンク髪。丸くて大きな茶色い瞳を、不機嫌そうな形に歪んだ目蓋がデコレートしている。薄い唇。線の細い鼻と輪郭のライン。

 彼女は自分を姫路綾子と名乗っていた。そして、レリーフであると自分を謳っていた。後者に関しては僕にとって、とても重要な情報だった。この部署に特別監査官として転属した僕にとって、仕事上の重要な存在だということだ。


「……や、やぁ。とても元気そうだね」

 水揚げされたマグロの品でも定めているような彼女の視線に窮屈さを感じ、僕はようやく口を開いた。沈黙は、おそらく二分ほどだったと思う。


「初めまして。今日からこの基地に特別監査官として赴任した宮間洋介だ。君は、その、レリーフ部隊の関係者なのかな?」

 言葉は流暢に出てくるが、内心では滝のような汗が流れている。彼女は女子中学生で、普段の僕がコミュニケーションを取らないような種族なのだ。会話のネタが見当たらない。僕は彼女と、何を話したらいいのだろうか。

「言ったじゃない。私はレリーフ部隊――この関西地区Bブロック実務部門の偉大なるエースだって。同じことを二度も言わさないでちょうだい。グズとノロマとバカが私は嫌いなの。可愛げがあれば許せるけどね」

 どうやら彼女は、年長者に敬意を払う気がないようだ。一回りも年上の僕へと、まるでクラスの男子でもあしらうような態度で接してくる。


「少なくともバカじゃないと思うな。その点だけは保証するよ」

「そういうヤツが一番のバカなのよ」彼女はいよいよ眉を潜めて告げる。「自分がバカじゃないって言うヤツに、今までバカじゃなかったヤツはいないわ。お利口なフリをしているバカが、世の中で一番の害悪なのよ」

 なにやら思い当たるフシがあるらしい。「そうよ、そうに違いないわ」と自分の言葉に頷いている。誰だか知らないが、面倒な経験則を彼女に植え付けてくれたものだ。僕は少し頭が痛くなってきた。偉そうな口調。自信ありげな態度。唯我独尊と顔に書いたような表情。


 どれもこれも、僕が苦手にしていることだった。けれど、不思議と不快な感じはそれほどしない。これだけ好き放題に暴言を吐かれながらも、その内容にストレスを感じないのだ。

 どうしてだろう、と思った。何か理由があるのだろうか、と探ってみた。答えは案外簡単で、彼女の声音が原因だろうという結論はすぐに出せた。これだけ酷い物言いをしているというのに、姫路綾子という女子の声は、妙に落ち着いていて奥ゆかしい。

 この年令の女児特有の甲高い犬の鳴き声とは違って、彼女の声音は透き通った鈴の音のようだった。暴言と声の質のギャップに妙な魅力が溢れている。どうやら僕は声にフェチズムを感じるらしい、という新しい事実を飲み込みながら、同時にコーヒーカップの中身も一気に飲み干した。


「それで、君はなんの用で僕のオフィスに顔を出したんだ?」

 心機一転。コーヒーを飲み干すことである種のリセットをかけた僕は、積極的に彼女へと話しかけてみる。会話は見当たらないし、声色以外の全てが気に食わないが、だからといって無下に追い払うわけにはいかない。


 彼女の告げた言葉が正しいのならば、僕と彼女は仕事面で非常に重要な関係性を求められる。僕のスケジュールを確認するに、彼女と面会をする予定は組まれていない。だから、何かしら切迫した事情が生じて彼女は僕のオフィスに顔を出したのだろう。

 と、僕は予想してみたのだが……。


「特にないわ。新しい特官が来たらしいから、その顔を拝みにきただけよ」


 十四歳の女子に計画性など皆無だった。ここでようやく、僕は極めて深刻な情況に自分が陥っていることに気がついた。僕の処世術の基本は、建前に100%依存している。常識や良識というものを参考に、人との距離感を保っているのだ。


 けれど目の前にいる姫路綾子は、とても気分屋の人格を持っているように思えた。彼女が何を告げるかは、彼女が口を開くまで解らないのだ。社会人としてのいろはが、彼女の中には備わっていないのだ。

 ゾッとするような量の汗を僕の背中が流している。せめて二十分前に彼女の来襲が伝えられていたら、少しはやりようがあったかもしれない。対人関係において不意に訪れるハプニングは、小5の男子よりも僕は解決能力が低いだろう。

 次の瞬間に何をするか解らない。僕は唾を大きく飲み込んだ。そんな僕の様子とは裏腹に、姫路綾子はオフィス内をふらふらと闊歩し始める。「ちょっと贅沢すぎない、このオフィス」なんて会計でも経理でもないのに、オフィスの内装に文句を言っている。


 恐怖心が僕の心臓を完璧に鷲掴みしていた。解らない、のは凄く怖い。とてもシンプルな反応が僕の脳内を支配する。なにしろ十四歳の女子中学生である。下手に干渉をすれば、セクシャルな問題に発展するかもしれない。そうすると僕のエリート街道が消滅してしまう。

 僕の全神経が彼女の行動を注視している。けれど、解らない。彼女が何をしようとしているのか皆目検討がつかない。コーヒーカップでピラミッドを作って、どうしようっていうんだ、この女。コーヒーメーカーを弄ってなにをしようとしているんだ。バカ、そんなに一気に湯を注いだら……あぁ、やっぱり。お湯が溢れて大惨事を起こしているじゃないか。

 そして僕へとぶつくさと彼女は文句を言い出す。「なによ、このコーヒーメーカー。すっごく使いづらいじゃない!」とりあえずの謝罪の言葉を述べて茶を濁し、僕は事なきを得る。既に脳内はパニック寸前だった。

 一週間ほど射精しなかった精巣だって、これほどパンパンに膨れていないだろう。起こされている物事のタスクを理解するだけで僕の頭はパンッパンだ。眼球から血の汗を垂らしているかもしれない。


 それほど今の僕は切羽詰まっている。あれは、なんだ。あぁ、彼女が雑巾を持ってきたのか。どこからか。大丈夫か、掃除させるのはセクハラじゃないか。いや、違うな。じゃあ雑巾を持たせるのはセクハラか。屈んだ姿勢で雑巾を使い拭き掃除をさせるのはセクハラじゃないか。

 くそう。スカートが短い。なんだ、下着が見えそうじゃないか。見ちゃいかん。見ちゃあ、いかん。薄い水色のパンツなんて見ちゃあ、セクハラで訴えられるかもしれないじゃないか。やめろ、宮間洋介。今オマエは、パンツ見えてるよと注意しようとしただろ。

 二十八歳の成人男性が、仕事上の関係しかない十四歳の女子中学生に、そのような注意を施す行為を、世間では事案というのだ。落ち着け。冷静になれ。10000から7ずつ引いていけ。「どうしたの? なんだか凄く顔色が悪いわ」やめろ、こっちくるな。僕の心配をするな。シャツの第二ボタンを開けたまま、屈んで僕の顔色を窺おうとするな。まだ小さくて膨らみかけ胸の谷間が見えてしまうだろうがあ!

「だ、大丈夫だ。昨日、少し深酒をしてね。その影響じゃないかな」

「そうなの? 大人の人って、本当にお酒が好きよね。飲んで、気持ちよさそうになって、バカみたい」

「違うな。バカになりたいから飲むんだよ」

「なんでバカになりたいの?」

「賢いフリをしないといけないから」

「ふーん、バカみたい」

 こんなときでも冷静さを取り繕っている僕は、自分を褒めてやるべきだろう。帰りに少し高めのアイスを自分へと買ってやろう。今はただ、今を耐えることに意識を集中するべきだ。けれど限界が近いのは解っている。


 既に僕のワイシャツの下は、下着まで滴るような汗をかいている。キリキリする痛みが、頭と胃を刺激する。今すぐに変化が欲しいと思った。この情況を覆すような、大きな変化が望ましかった。誰でもいい。二人きりという空間を、誰か壊してくれないか。

 これほど他人を求めたのは僕の人生でも珍しいことだ。だからそれは僥倖だった。遠慮しがちにされたノックの音。「あら? 誰か来たみたいね」と姫路綾子は飄々と告げる。

 僕は椅子から立ち上がり、オフィスのドアを開けに向かった。人目がないならば間違いなくスキップしていただろう。そう断言できるほどの開放感が、そのノックから齎された。

 そして、ゆっくりと上品に扉を開けた僕は、言葉という概念を失った。


「あ、あの失礼します。姫ちゃんがこちらに……って、姫ちゃんダメだよ! 特監さんの机に腰を下ろしたら!」

 女子中学生をもう一人、僕のオフィスに招いてしまったから。


 いいや。正確に述べるなら、たぶん女子中学生だと思う。そんな風に僕が懐疑的になるのは、きっと新たに登場した彼女のプロポーションが、僕の持つ常識を凌駕していたからだ。


 とにかく乳がデカかった。

 とんでもなく乳がデカかった。


 戦車の砲弾だってもうちょい慎ましく飛んで行くぞってくらいに、迫力とリアリティを持った巨乳が部屋の中に飛び込んできたのだ。だのに、相反して背は小さく、豆柴のようなキュートな顔立ちをしている。

 短めの黒髪。手首にはライトグリーンのシュシュ。なんだか偏差値の低そうな喋り方で、姫路綾子と対比すると、何もかもが正反対のように思えた。


 そんな彼女が、僕のデスクに腰下ろしてご機嫌そうにコーヒーを飲んでいる姫路綾子の下へと駆け寄った。どうやら彼女の態度に難色を示しているようだ。

「なによ、夕張。アンタも好きな様に寛いだら? このオフィス、けっこう居心地が良くて悪くないわよ」

「はうう。ダメだよ、姫ちゃん。ここは特監さんのオフィスだよ。用事もないのに勝手に入っちゃいけないって佐々木さんも言ってたし……」

「大丈夫。佐々木さんなら甘いものでもプレゼントしたら許してくれるわ。ねぇ、知ってる。あの人、二十六歳なのに恋人ができたことないんですって」

「だ、だ、ダメだよ、姫ちゃん! そういうプライベートなことを勝手に言っちゃ……」


 もしかしたら僕は前世で世界を一度くらい滅ぼしたのかもしれない。そんな考えが不意に過ぎった。でなければ、こんなにも凄惨な目に遭う理由が解らない。唐突に現れた二人の女子中学生は、僕のオフィスで漫才リサイタルを始めやがった。

 静謐な朝の空気は完全に霧散した。今、僕のオフィスに敷き詰められているのは、二人の女子による山もなければ谷もない非常に無為なお喋りの声だけだった。

 誰か僕の脳味噌を取り出して、培養液の中に数十年ほど浸してくれないだろうか。静な場所で、何かを煩うこともなく、朽ち果てるまで浮かんでいたい。


 唯一の救いは、彼女たちが織りなす面倒な会話に僕が巻き込まれていないという事実なのだが、それもあっさりと打ち砕かれた。もちろん姫路綾子の手によってである。

「失礼というなら、アンタのほうが酷いじゃない。私は新しい特監にちゃんと自己紹介をしたわ。けれど、アンタはどうかしら?」

 余計なことを言ってくれる。僕は内心で舌打ちをした。音波だけで太陽系が崩壊するくらい、派手な音が僕の中で鳴り響いた。けれど誰もそのことを察してくれない。当然ながら、この夕張と呼ばれた巨乳の女子中学生も同様である。

「そ、そうだよね。今からでも遅くないかな?」

「大丈夫よ。私がこうも好き放題に振舞っているのに、怒鳴り声を一つも上げないもの。きっと優しくて心の広い人だわ」


 どうやら彼女は沈黙を肯定だと受け取るタイプのキャラクターのようだ。そして、彼女の行動を静止させるには、怒鳴り声の一つでも上げなければならないらしい。知りたくないことを知ってしまった。僕は他人を怒るのが、とにかく苦手な人間なのだ。

 夕張という少女はヤツの言葉を健気に受け取ったらしく、少し恥ずかしそうに照れながら、てくてくと僕の下へと駆け寄ってきた。今さら自己紹介もクソもあったもんじゃないという本音を隠しながら、僕は極めて社交的な態度を取るよう懸命に自分へと言い聞かせる。


 僕が常識的な人間であったことを彼女たちは感謝しなければならないだろう。僕がモラルよりも自分の気分を優先する人間だったなら、この場は既にブラットバス。即サバト。悪魔を召喚するための生贄に彼女たち二人を捧げて、秘密の六芒星に祝詞を唱えている最中だっただろうから。

 まぁ、その手の人たちは、現在じゃほとんど消滅してしまったため、そんな心配なんて杞憂でしかないのだけれど。


「あ、あの私、夕張っていいます。東雲夕張。QLA専属の対ヴァリアント専門特殊部隊・通称レリーフ日本支部関西地区Bブロック実務部門に所属していて、だから特監の下で働くことになります。よろしくお願いします!」

「あぁ、こちらこそよろしく。今日から特別監査官としてこの部署にきた宮間洋介だ」

 挨拶を終えると同時に彼女は手を差し出してきた。握手を意図していることは明白だったので、僕はその手を握り返した。

「宮間さん、宮間さん、ちゃんと名前を覚えないと……」握った手を見つめながら夕張は告げる。「私、色んなことを覚えるのが苦手で、だから宮間さんには迷惑かけちゃうかもしれませんが、頑張ります! ちゃんと、できるだけ精一杯」

 言い終えると同時に上げられた瞳は、強い灯火が輝いていて、彼女の内面が持つ純粋さが非常にストレートに表現されていた。その手のイノセンスが苦手な僕は「あぁ、期待しているよ」なんて誤魔化しながら、あまり上手ではない笑顔を浮かべてみた。


 何かしら言葉をかけるべきかもしれない、と思った。彼女はこうもダイレクトに自分を見せているのだから、それに報いるような言葉が必要な気がした。けれど、何を告げたらよいのか少しも解らない。


 やはり僕は人付き合いが致命的に苦手なのだろう。ぶんぶんと手を振る彼女を見て、苦笑を浮かべるだけだった。もういっそのこと乳のサイズでも聞いてやろうかという考えが過ぎったが、変に開き直らず自制を留めた自分を誇りに思うべきかもしれない。

 そんな僕らの姿を、姫路綾子は苦虫でも噛み潰したような顔で眺めていた。「どうせ特監なんて……」と小さく漏らしたように聞こえた。彼女との今後を考慮するなら、それは聞き逃すべきではない声音だった。

 けれど、とにかく今は、僕のキャパシティの許容量が既に擦り切れ一杯。彼女の言葉の本意を確かめることよりも、普段は接することのない若い女性とのコミュニケーションから開放されることに、思考の全てが向けられていた。


 PCのスピーカーから呼び出し音が聞こえてきたのは、そういうタイミングだった。デスクに腰掛けていた姫路綾子がディスプレイを覗き込み「佐々木さんからよ」と僕に告げた。


 佐々木秘書が僕へとコンタクトを求めてきたようだ。抜群のタイミングだった。どうやら仕事ができる女性らしい。初めて持つ部下に対して好印象を抱くと同時に、彼女からの呼び出しに応答するべく、夕張の手を離してデスクへと向かった。

「秘書からのホットコールって、なんだかスケベなニュアンスがあるわね」

「ひ、姫ちゃん!? ダメだよ、そんなこと言っちゃ」

 彼女たちの軽口に付き合う義理もないだろう。僕は仕事だからと部屋を出て行くよう指示を出して、そして椅子に腰を下ろした。そして、さて秘書からのファーストコンタクトに答えるべくキャッチアイコンをクリックした瞬間に――


 ――その瞬間に、施設内にて警報音が鳴り響き始めた。この施設のオペレーターであろう女性のアナウンスも聞こえてくる。

「コード108発生、コード108発生。レリーフ部隊は指定のポイントに集合してください。繰り返します。コード108発生」


 アナウンスと呼応して、ダラダラと部屋から出ていこうとしていた二人の様子も急変した。


「夕張!」

「うん、解ってるよ。姫ちゃん」


 勢い良く駈け出した二人の少女。この職場に赴任したばかりの僕だろうと、面倒な情況が訪れたことが理解できる解りやすいアナウンス。コード108が何を示唆しているのか知らないが、そういうときのためのマニュアルがPCの中にインストールされている。

 けれど、そのマニュアルを読むのは少し後になりそうだ。回線の向こう側にいる佐々木女子から、次のような言葉が飛び込んできた。


「はじめまして。秘書の佐々木と申します。着任早々ですがコード108――ヴァリアント化シークエンスがレベル3を計測しました。レリーフ部隊の出動が要請されます。宮間監査官にはQLA規定事項58により現場の同行と、レリーフ部隊出動の許諾申請の受理をお願いします」

「すまない。もう一度、ゆっくりとした口調で復唱してくれ」


 慌ただしい職場だな、なんてことを僕は思った。

 それ以外に言葉が見当たらなかった。

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