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『宮間洋介を本日付で、クオリティーライフエージェンシー日本支部関西地区Bブロック実務部門特別監査官に任命する』


 そんな辞令を僕が頂戴したのは、おおよそ一週間前のことだった。


 僕に辞令を持ってきた上司は「この年で特監か。大出世だな」とえびす顔を浮かべていた。どうやら自分の部下が足早に出世街道を登り始めたことが、彼にとって誇らしく思えたらしい。


 僕はお得意の仏頂面を浮かべながら、適当に感謝の言葉を並べていた。上司に対して不満なんてないし、自分のことのように喜んでくれる彼を好ましく思うのだけれど、僕に言わせればこの程度の出世は当然のこと。

 パンツを脱いだらノーパンになるくらい、とてもとても当然のことだったので、あまり感慨を覚えなかった。それよりも職場が移る前に終わらせておくべき自分の仕事がすぐに浮かんで、その処理に関してあれこれと考え始めていた。


 職場中に僕の辞令を喧伝する上司を尻目に、僕はノートパソコンのディスプレイに表示された作成中の書類を眺めながら、机の脇に置いてあったマグカップに手を伸ばした。世界で最も安っぽい味で有名なインスタントコーヒーの苦味に、思わず僕は顔を顰める。


 それにしても出世か。思っていたより早かったな。今更のように事実を認識した後に、再びコーヒーを口元に運んだ。そして、再び顔を顰める。こんなに酷い味だけれど、僕はこの安っぽさが嫌いじゃなかった。


 今年で僕は二十八歳になる。

 あの大災害の二年後に生まれた。

 変化しなければならない必要性が生じてから二年後に、僕は生まれた。


 当時は復興ベイビーズ、次世代を担う子どもたち、人類の希望なんて奇妙な名前が僕らには付けられたけれど、そんな祈りなんて関係なく、僕らは大人へと成長した。今までの世代と同様に、世の中を回すカラクリの一部になったということだ。

 江川裕二の乱と呼ばれる大災害から、人類は大きく変革した。それは悪い方向に進んだのかもしれないし、良い方向へと進化したのかもしれない。世界は人の心に対して、無視することのできない情況に追い込まれたのだ。


 技術的な側面を考慮するならば、停滞していたかもしれない。大災害直後の技術水準は、三十年を経過した今でも一線で用いられるほど、僕らの世界は停滞した。一部の例外を除いて進歩の針を静止させて、変化するために足踏みをしたのだ。


 人に優しく。

 人の心に優しくなるために。

 多くの規約や法律や条例が生まれ、様々なアクティビティが創造され、それ以前の今までとは異なる仕組みが備えられた。人間を辞めたくなるようなシチュエーションを生み出さないために、人類は必死に社会を変革したのだ。


 例えば江川裕二のようなケースを再び起こさないために、男性は二十五歳までに童貞を卒業することが義務付けられたり、そのために性教育が災害前よりも格段に充実したり、異性とのコミュニケーションを潤滑にするためのサービスが発展したり。

 おかげで大災害直後と比較すると、人類を辞める人間は95%も減少した。災害直後は魑魅魍魎の凄まじい世界と化していたらしいが、三十年経って平穏を取り戻しつつある今では、地震や台風よりも珍しいほどである……少なくとも公的には。


 僕が働いているクオリティライフエージェンシー(以下QLA)も、そうやって生み出された数々の新しい機関の一つだった。そして世界で最も、この手の問題に対して積極的な公的機関であり、最大の勢力と成果を誇る実務部隊でもある。


 大災害によって再編された国連の機能の一部であるため、従って普通の組織や企業では得られない多くの特権が、この機関には与えられている。つまり、非常に人気の高い職場ということだ。給料面はもちろんのこと、なにより社会の役に立っているという実感が解りやすい形で得られるという点も人気の理由だろう

 よって、機関内には意識の高い人たちが妙に多いのだけれど、僕は社会に対して高いリテラシーを持っていないし、世の中がどうなろうと少しも気ならない性格の人間だった。


 だから微妙に職場で浮いてしまっているのだが、辞令から解るように仕事だけは人一倍の成果を上げている。まぁ、それも当然のことなのだけれど。

 僕は単純に証明したいだけなのだ。自分の性能を。僕の有用性を。


 この機関へと就職したのも、それが僕らの世代にとって最も優秀であることの証となるからだ。国内最高学府を次席で卒業した僕は、同世代の誰しもが羨むこの機関へと配属となった。ペーパーテストの成績だけで飯を食ってやると決意した子供の頃。僕は、見事に初心を貫徹したのだ。

 だからこそ今の僕がある。

 そして、これからも僕は続いていく。


 だから僕が機関で出世するのは当然のことであり、今回の辞令も当たり前のことだった。思っていたよりも一年ほど早かったことに少し驚いたが、それは辞令に対するものではなく、人事部が思っていたよりも人を見る目があったことに対してである。

 なんだ、アイツら。就活のさい、阿呆みたいな面接を受けさせてきたのに、ちょっとは仕事をするじゃないか。プルタブの付いていないツナ缶みたいなヤツらだと思っていたけれど、ジップロックくらいには格上げしてやろう。


 人事部への評価を改めると同時に、残り一週間のスケジュールを頭の中で構築する。今、僕が抱えている業務は、ハードに見積もっても四日程度で終わらせることができそうだ。僕のパフォーマンスが最悪だったとしても、五日もあれば片付くだろう。

 機関に所属してからの五年間、多くの時間を仕事に費やしてきた。ここいらで一度、骨身を休めてもいいかもしれない。移動前日は、おそらく祝賀会的な何かしらが開かれるだろうと予想して……よし、決めた。残りの業務を二日で終わらせ、有給を四日ほど利用しよう。


 決断と同時に行動は開始される。僕は機関内のシステムにアクセスし、有給を申請するさいに用いられるクライアントを立ち上げて、三日後から四日間の休みを要求した。数秒のラグが生じた後に、僕の要求は機関の内部システムに承認される。

 面と向かって上司に休暇を申請するよりも、ずっとノンステレスな便利な仕組みだ。災害後に著しく発達した、人の精神をケアする仕組みの一部である。余計なことに煩う必要がないよう、僕らの社会は優しく甘い方向へと進もうとしているのかもしれない。

 一昔前は、有給を申請するだけで村八分の目に遭うなんて組織も存在していたらしいけれど、現代じゃその辺りは行政が凄まじく厳しい目を光らせている。そのおかげで労働者の環境が格段に向上したらしいが……まぁ、あまり多くを今は語る必要もないだろう。


 必要なタスクを想定して、タイムテーブルを脳内で構築した後に、僕は業務へと取りかかった。それからの二日間は、飛ぶような速度で時間が過ぎていった。普段はあまり喋らない同僚の多くが妙に馴れ馴れしく話しかけてきたのが面倒だったくらいで、他の全てが僕の予想通りに進行していった。

 そして四日間のバカンスを適当な温泉宿で過ごした後に、最終日に部署内で行われた細やかな祝賀会へと参加して、僕は新しい部署へと移籍した。「こいつは無愛想だけれど仕事に関しちゃ信頼できる」と赤い顔でスピーチした上司にキスされたこと以外は、パーフェクトに物事は進んでいた。


 転属先は僕の借りているコンドミニアムから電車で反対方面になるだけで、通勤時間はそれほど変わらない。引っ越す必要がなかったのは嬉しいことだ。今までは都心部へと向かう列車に乗っていたけれど、これからは臨海部へと向かう列車に乗ることになる。

 転属初日、それまでとは反転した最寄り駅の景色に不思議な感触を覚えながら、僕は列車に揺られて勤務先へと向かった。僕が以前所属していたのは、機関内でも事務処理を専門としている部門であり、これから向かう先は、かなり実働的な部門となる。


 QLAという機関において、これは慣習とも呼ばれる出世街道だった。この機関はキャリア組と現場採用組に分かれており、僕はもちろんキャリア組で、そして出世するキャリア組は現場での仕事が多い部門へと一度は招聘される。

 今日から僕が配属となる部門は、フィールドワークが専門であり、この機関の中で最も実働的な部門の一つでもある。出世街道から外れたキャリア組は、延々とオフィスワークばかりを担わされることを僕は上司から聞いて知っている。

 だから、こうやって実務部門への移籍は喜ぶべきことなのだ。自分の性能を証明しようとしている僕には、約束された転属なのだ。今までとは勝手の違う環境であることは間違いない。けれど、どのような環境であろうとポジティブに臨むべきだろう。


 QLA日本支部関西地区Bブロック実務部門は、海沿いの閑静なオフィス群の中に存在していた。近くに高校もあるらしく、オフィスに向かう途中で、幾人かの制服の女子高生とすれ違った。

「ふむ、ここが今日から僕の職場になるのか」

 駅から十数分ほど歩いた後に、目的の場所へと到着した。オフィスと呼ぶよりも、小規模なショッピングモールに近い見た目をした、三階建ての建造物。キレイに磨き上げられたガラス張りの壁面という洒落たデザインで、休日は若者がカップルで訪れていそうな雰囲気すら漂っていた。

 以前は高層ビルの一角で働いていた僕としちゃ、エレベーターで上階へと上がっていく感触とお別れかと思うと少し寂しくなるが、これはこれで乙なものだと喜ぶことにしよう。中庭にはテラスがあるようだし、フィットネスジムやプールまで完備しているようだし。

 一流ホテルのラウンジのような受付で名前を告げると、事前に通達されていたのだろう。驚くほどスムーズな対応で、僕に新しく割り当てられたフロアへと案内してくれた。


 特別監査官に出世した僕には、個別の執務室が割り当てられる。今まで十数人ほどと同じフロアで業務を行っていたが、今日から個室と個人秘書が僕へと与えられるのだ。秘書なんて必要としていないけれど、これもまぁ偉くなることの代償だと割り切ろう。人を使うことに慣れるべき時が訪れたのだ。


「こちらが宮間特別監査官のオフィスになります」

「へぇ。思っていたより、上品じゃないか」


 十畳ほどの部屋に、ネイビー色の絨毯が敷き詰められていて、マホガニーのオフィステーブルとゾディチェアのセット。ドリップ式のコーヒーメーカーが完備されたカフェテーブルとソファのセット。壁面には二十インチほどのスクリーンが埋め込まれており、おそらくオフィステーブルに設置されたタワー型のデスクトップパソコンで操作することが可能だろう。


「オフィス内のシステムに関するマニュアルは、PC内にインストールされていますが、問題がありましたら受付まで連絡を下さい。担当の者へと連絡を繋げます」

「ありがとう。必要が生じたら、連絡するよ」


 業務用の笑顔を互いに浮かべた後、彼女は自分の持ち場へと戻り、僕はゾディチェアへと腰を下ろした。アメリカ医学療法士会公認の健康チェアである。当たり前だが、座り心地は悪くない。さっそくコーヒーを一杯ドリップして、窓の外の景色を見つめてみる。

 臨海部だけあって、そして僕の部屋運が良いためか、窓からは少し離れた海辺を存分に見渡すことが可能だった。さすが人類のメンタル面を担保している機関である。この辺のセンスは、やはり磨かれているようだ。


 とはいえ、いつまでも心地よい気分に浸っているわけにもいかない。パソコンを立ち上げて、機関内のシステムにアクセスさせる。テクノロジーってヤツは本当に素敵だ。有り難いことに、ある一定のレベルまでは以前の職場と同様の環境が保たれている。

 問題になるのは、それとは別にQLA日本支部関西地区Bブロック実務部門専用のシステムである。これだけオフィス全体が広く、そして以前のキャリア部門とは全くことなる業務を担っているのだから、以前とは違うソフトウェアに慣れ親しまなければならない。

 案内してくれた女性が言っていたのは、おそらくこちらのシステムだろう。まぁ、猿にでも解る簡単便利なマニュアルがインストールされていることだろうし、僕ならば今日中に操作方法くらい覚えることが可能だろう。


 メールクライアントを立ち上げると、僕宛に新着メールが届けられていた。なんだろうと思いながらメールをクリックすると、どうやらQLA日本支部関西地区のエリアマネージャーから……つまりは、僕の新しい上司からである。

 メールには、オフィスについた後にメールを見たら連絡をしてくれと端的な指示が書かれていた。どうやら彼はQLA本部があるバンコクに出張で飛んでいるらしく、直接会うことが今はできないようだ。

 これが、この部署に転属となった僕の最初の仕事だった。花樹沢柾という重々しい彼の名前をクリックして、ビデオ通話を選択すると、彼へとラインが繋がれる。コール音が数会鳴った後、ナイスミドルとしか呼びようのない紳士がディスプレイに映された。


「おはようございます。今日から赴任となりました宮間洋介です。よろしくお願いします」

『あぁ、宮間君だね。話は聞いているよ。とても優秀な若手らしいじゃないか。実務部門は常に人手が不足していてね、君のような人材は非常にウェルカムだ』


 それから僕らは他愛もない世間話を幾つか交わした。別に難しい話なんてしていない。世間で人気なスポーツの結果、タイの天気の話、今年の日本は梅雨入りが早そうだなんてこと。特に意味なんてない。

 働き出してから解ったことなのだけれど、一部の特殊な専門職を除くと、最も重要な業務って円滑にコミュニケーションを行うことらしい。

 こいつは傾向と対策でどうにかなる――ようは、銘文化されていないけれどテンプレートが存在しており、つまりはペーパーテストと同じ塩梅なので、僕にとって得意分野だった。それ以外の会話になると、どうにも上手くいかないのだが。

 けれどもまぁ、初めて顔を合わせた上司と、それほど混みあった話をするわけでもないので、特に問題は生じず十分ほどが経過した。そして、そろそろ仕事に響くからと花樹沢マネージャーが告げたので、解りましたと僕は答えた。


『君の業務に関してだが、君専属の秘書に必要な情報は伝達してある。かなり優秀な女性だ。おそらく問題はないと思うよ』

「了解しました。確認が取れしだい、メールにて一報します。朝早くに失礼いたしました」

『いや、いいんだよ。これも必要な仕事だからね。君には期待しているよ。あぁ、そうだ。宮間君。最後になってしまったんだが、一つ確認してもいいかね?』

「はい、なんでしょうか」

『君は童貞じゃないだろうね?』

「童卒は国民の義務です。十八歳の時分に、国立童貞卒業センターにて必要な処理を行っています」

『ロリコンじゃないね?』

「四十を超えた妙齢の女性しか性的な対象に感じません」

『うん。君は本当に優秀だ』


 花樹沢マネージャーは深く満足そうな笑顔を浮かべ、通話を切った。僕はマグカップに入れておいたコーヒーを口に深み、以前とは違う上等な味わいに舌鼓を打ちつつ、振り返って窓の外の景色を再び眺めた。

 そんな時間を五分ほど堪能した後に、オフィス内のスケジュールを確認すると、どうやら僕専属の秘書は既に出勤しているようだった。ここは上司となる僕から声をかけるべきだろうか。とりあえず僕の部屋に呼び寄せるべきだろうか。オフィス施設の地理を把握していない僕が徘徊するよりも、そちらのほうが合理的に思われた。

 花樹沢マネージャーへと連絡した際に用いたクライアントと同じものを再び立ち上げ、僕の個人秘書として登録された代々木静という女性の名前をクリックする。いや、正確にはクリックする直前だったと思う。


 僕が初めて手に入れた部下へと連絡する直前に、個室のドアが酷く乱雑に押し開けられた。ヤクザのカチコミだって、もう少し上品だと思えるほど、ソイツの行動はガサツで荒く、なによりもエネルギーが充満していた。

 思わず落としそうになったカップを急いで掴み直し、冷静さを取り戻すよう努めながらテーブルへと置く。ここは実務的な部門であり――つまりは、多くの現場を出入りする叩き上げ部隊の総本山なのだ。

 ならば、ドアをド派手に開け放つ輩もいるだろうと分析し、やれやれ手洗い歓迎じゃないかと余裕を浮かべながら顔を上げた僕の目に映った光景を見て――今までの人生で晒したことのないようなアホ面を僕は見事に晒してしまった。


 制服でラッピングされた女子中学生。

 どこから、どう見ても、パーフェクトに女子中学生だと断定できる人物が。

 やたら不機嫌な顔でドアの前に立っていたのだ。


「ふーん、アンタが新しい特官?」

 そして偉そうな口調で僕へと尋ねてくる。


 コイツが秘書として配属された代々木静氏だったなら、本日付で左遷してやるところだが、彼女のプロフィール写真を見ると、目の前の女学生とは全く違う外見をしている。だったら、コイツは誰なんだ。予期せず人物の登場に僕の頭は混乱し始めた。

「すまない。君は誰なんだ」

 これ以外に尋ねることなんて一つもない。

 それなのに「えらくつまらない質問ね」とソイツは不機嫌そうに眉を潜め、品定めするように僕を観察した後に、仁王のように立ち塞がって僕へと告げた。


「姫路綾子よ。QLA専属の対ヴァリアント専門特殊部隊・通称レリーフ日本支部関西地区Bブロック実務部門の偉大なるエース、姫路綾子よ。姫でいいわ。今日からアンタをコーディネーターとしてこき使ってやるから覚悟しなさい」

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