グラス・スリッパーズ

山田屋

(序)

 その気になれば、誰だって人間を辞めることができる。


 二十一世紀初頭。

 その現象は何の前触れもなく、人類の内から発生した。


 ファースト・ケースである江川裕二はシンガポール在住の日本人だった。

 彼の父はアジア圏において名の知れた個人投資家であり、幼い頃から裕二は経済的に非常に恵まれた生活を送っていた。


 現地のインターナショナルスクールを卒業した後に、本人たっての希望で日本の有名私大にて経済学を勉強した。大学卒業後にイギリスの名門ビジネス・スクールへと通い、経営学の学位を修得。

 英語と日本語はもちろんこと。二種類の中国語を喋り、そしてフランス語とスペイン語を操る完璧に鍛え上げられたエリートとして育った彼だが、二十九歳にして未だに誇れるような職歴がなかった。


 父が運営する投資ファンドにて、名ばかりの役職は頂いているものの、この一年間は職場に顔を出したことがない。家から外へと出かけたこともない。それどころか、部屋から踏み出した記憶さえ、彼の中にはなかった。

 どうしてこうなったと彼は頭を抱えていたらしい。小さい頃からそうだった。自分がどこで何をしていようと、漠然とした不安が纏わりつき、誰と喋っていようと断絶されたような孤独を感じていた。


 今年で三十歳になるというのに、働いた経験なんてない。友人と呼べる存在もいない。恋人なんて当然いない。それどころか、女性と付き合ったことなんて一度もない。童貞のまま三十代へと突入しようとしている。

 毎日が苦痛の連続だった。偉大な父の背中、時間が経過していくプレッシャー、何も変わらないのに年齢だけを重ねていく自分。SNSで見かける順調に人生を送っている同級生たち。


 だのに、自分は部屋に引きこもっている。

 未だに童貞を引きずっている。


 もうすぐ今日が終わろうとしていた。明日になれば、彼は見事に三十歳の童貞になる。体から炎が噴き出しそうな焦燥感。きりきりとした痛みに苛まれる内蔵。

 二十代の彼に残された最後の時間で、自分の半生を彼は振り返った。

 そういえば、小さな頃から周りに馬鹿にされ続けていたような気がする。お世辞にも要領が良いとは呼べない子供だった。足は遅いし、消極的な性格だし、顔だってあまり整っていない。


 致命的な状態に至らなかったのは父親という偉大な存在のおかげだろう。彼の名誉と富みのおかげで、大半の問題は解決できた。経歴だけを見るならば、どこに出しても恥ずかしくない男として成長した。

 もちろん裕二自身も最低限の努力だけはしてきたと思う。現に彼は五ヶ国語を操り、経営学の学位を持ち、学生時代に経済誌からインタビューを受けたこともある。けれど、この始末。この現状。


 何が悪かったのかと彼は薄暗い部屋の中で叫んだ。自分自身が望んで選んだ人生ではないけれど、乗せられたレールの上を奔りながら懸命に努力してきたというのに、どうして自分は何一つも得ることなく、今ここで苦しんでいるのだろうか。


 そして、なにより。

 どうして俺は童貞なんだ、と。


 その一点に現状の全てが集約されているような気がした。

 周囲の人間、全てに憎悪を抱かざるをえない。彼らの何倍も努力してきた俺がどうしてこんな目に遭っているのに、アイツらは幸せそうなんだ。隣に恋人がいるんだ。たいして苦労もせずにセックスをすることができるんだ。


 あぁ、そうだ。セックスがしたい。セックスがしたくてしたくて堪らない。女性のおっぱいというものに吸い付きたくて頭が割れそうだ。女性器を生でガン見したい。脇とか膝裏とか、液状になるまでペロペロしたい。

 世の中は本当に不公平だ。俺が完璧に童貞だっていうのに、何人も女を侍らしている男がいる。見た目だけチャラチャラしたクソみたいなヤツらが、可愛い女の子と好き放題にセックスしている。

 それなのに俺は童貞だ。女性とキスどころか手をつないだことさえない。これからもできる気がしない。風俗に金を落とすのも嫌だ。初めては好きな人がいい。処女で文学少女で眼鏡っこで口数の少ない優しい女の子がいい。

 けれど、そんな子は現れなかった。この三十年間、世界のどこにも、そんな子は存在しなかった。いるのは量産されたようなビッチの塊と、自己顕示欲を拗らせた意識の高いスイーツと、ホモ好きの変態と、脳味噌が空っぽの馬鹿ばかりだ。

 くそったれ。生きていて楽しいことなんて一つもない。童貞だから、人間扱いさえされない。ネットのコミュニティで誰かに話しかけても、童貞ってだけで馬鹿にされる。童貞ってだけで、敬遠される。俺が何したってんだ。

 あぁ、セックスをしていないからか。


 彼の思考は徐々に深淵へと導かれ、もはや正常さは失われていた。刻々と時間は過ぎていく。三十歳への扉が開こうとしている。童貞のまま、彼は誰一人の女性と性的な関係を持たないまま、三十歳の成人男性へと成長を続けていく。


 そして、時が訪れる直前。

 彼の思考は終点へと達した。


 こんな苦しみを背負ってまで、自分は人間であるべきなのだろうか。この世界において、童貞は人間として扱われない。だったら、どうして俺はまだ人間らしい生活を望んでいるのだ。人間らしい幸福を望んでいるのだ。そんなものを望んでも無駄だ。


 そんなものは、けっして俺に与えられない。

 なぜなら俺は、既に人間として扱われていないのだから。

 それなら人間なんて――

 ――人間なんて辞めてしまえ。


 この瞬間、人類に新たなパラダイムが与えられた。精神がついに肉体を超越した瞬間だった。地獄の底まで憎悪を覚えた魂は、世界へと仇なす悪鬼を生む。憎しみ、恨み、欲すれば、人はいつだって人間を辞めることが可能となったのだ。

 世界はこの事実に震撼し、同時に即効性の高いシステムを導入することが求められた。精神的な充足と、劣等を抱くような因子の排除。マジョリティと競争原理だけで回転していた地球の仕組みを、見直す機会が訪れたのだ。


 その代償として、一つの国家が消滅した。多くの混乱が齎された。不安が可視化された社会の秩序が保たれるまで十年、安定するまで更に十年、明確なシステムが恒常的に動き始めるまで十年の、計三十年が失われた。

 そして三十年後の今日本日。

 物語の幕は開かれる。

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