第二十話 別離(セパレイト)

 触手が荒れ狂っていた。

 

 上空にいた索敵系の使役獣エンプロイメント・ビイストが捕食されてしまったため、クレイタアの底の様子は分からない。ただ『喰人クラウド』の触手が空中を掻きまわすさまが、縁から見えているだけである。

 そして、その触手の見える長さが次第に長くなっていた。つまり、『喰人』はクレイタアの斜面を昇っていることになる。

 また、次第に触手の表面やその動きが明確になっていた。ということは、『喰人』は彩に近い側の斜面を昇っていることになる。

 彼女の背中を悪寒が走った。『訶梨帝母ハアリテイ』自体が既に化け物だったのに、それがさらにランクアツプしているのだから始末に負えない。

 レイルガンによる攻撃がことごとく弾き飛ばされたため、最前から魔法攻撃マジカ・アタツクが再開されていた。しかし、視覚情報ビジユアル・インフオメイシオンのない遠距離攻撃が当たる訳もなく、その流れ弾が先程から彩の周囲にも降り注いでいる。

 当然退避すべきところだが、『神白狼ヂンパイロウ』と『神君シンクン』が動かない以上、彩に選択肢はない。

「なによもう、こんなところで二人仲良く、いちゃいちゃと絡み合ってさぁ」

 彩は意味のない非難をするが、自分だけ一人で逃げようとは思わなかった。

 雄一は『訶梨帝母』と勇敢に渡り合って破れ、ここに横たわっている。

 教授プロフヱサアは、その彼を決死の覚悟で迎えに行った。

 それを置き去りにするような心根を彩は持ち合わせていない。『政宗マサムネ』は大太刀を構えるが、しかしその切っ先は震えていた。

「まったく、見ていられないねぇ」

 急に左手の方向から声がした。

 彩は驚いてその方向を眺める。

 すると、『訶梨帝母』配下の生体装甲バイオ・アアマが二体、彩のほうに向かって歩いていた。

「何よ、さっきの喧嘩の決着をつけようというのなら、ちょっと待ってて頂戴。先に何とかしたい相手がいるのよ」

「ほう、そいつぁ奇遇だね。俺たちもちょいと先に止めなければいけない相手がいるもんでね。決着はその後でお願いしたいね」

 彼はそう言うと、クレイタアのほうを向いて剣を構える。その切っ先も震えていた。

「何よ、そっちだってぐだぐだじゃないの」

「当たり前だろ、相手は俺たちが全然敵わなかった姉御だぜ。しかも命令無視、行く先の邪魔をしたとあっちゃ、どんなに恐ろしい折檻せっかんをされるか分ったもんじゃない」

「折檻とは、又随分と古臭い表現ね」

「おう、これでも元は国文学者だ。古いのには強いぜ」

「名前は?」

進藤浩二しんどうこうじ。連れはアーノルドだ。強そうな名前だが、元は公認会計士だから、期待するなよ。あんたは?」

安藤彩あんどうあやよ」

「どっかで聞いたことがある名前だな、ええと……ああ!? お前、マジであのAAかよ」

「マジというのは国文学者としてどうなのかしらね」

 二人が剣を震わせながら軽口を交わし続けていると――


 魔法攻撃が止んで、急に辺りが静かになる。


『政宗』は大太刀を握り直した。

 本番だ。怯えている場合ではない。そう思うと震えがとまる。

「おお、こいつぁすげえぜ」

 進藤は彩の様子に心から感心する。しかし、彼の震えは収まらない。

 縁からは不穏な空気と不粋な触手が流れ出している。

 魔法攻撃の余波である煙の向こう側から、『喰人』の頭が覗いた。

 生体装甲の望遠機能を使っているから近くに見えるだけで、実際にはまだかなりの距離がある。にもかかわらず、威圧されるような感じがした。

『喰人』がこちらを向く。彩の背筋に悪寒が走り、それは現実の脅威となる。


『喰人』は走り出した。

 彩は視界を通常倍率に戻す。

 しかし『喰人』は急速に接近して、みるみるうちに望遠時と変わらない大きさとなった。

 彩は身構えた。

『喰人』は彼女の迎撃体勢などお構いなしに突撃してくる。

 そして、間合いの遥か先から触手を伸ばしてきた。

 それは高速度で飛来する。

 彩は自分に直接向ってきた一本を躱し、ノラを狙ったらしき一本を切断する。

 しかし、対応できたものはそこまでで、残りの従者ジウサ達を根こそぎ持っていかれた。

『喰人』は急に方向を転じると、変わらぬ勢いで走り去る。

そして、いく先々で触手を伸ばしては、獲物を刈り取ってゆく。

彩は足の震えが止まらない。

「くっ! ノラ、下がりなさい!」

「しかし、御主人様マスタア――」

「命令です! 貴方まで失うのは辛すぎるから!」

 ノラは無言で退いた。

 他の状況がどうなっているのか確認したかったが、目を逸らした途端に第二波が襲い掛かってきそうで、彩は目が離せない。進藤とアーノルドもどうやら躱したようだ。

 しかし、これがさらに接近した状態になっても、無傷でしのぐことができるのか。

 自信はなかった。

 彩がそんなことを考えながら身構えていると、後方から、 

「エリイ、ミキ、タンポポ、カオル、フワ、全員集合せよ!」

 という、機備機備きびきびとした声がした。

 ヨルだった。

「これから全員で御主人様マスタアを守る! 各自の判断で『喰人クラウド』及び『喰人』の触手を攪乱せよ。そして、喰われる時は必ず一人ずつだ。それで御主人様が起きるまでの時間を稼げ!」

「「「「了解!」」」」

「――って、あなたたち何を言ってるの!」

 思わず彩は目を逸らして、雄一の従者ジウサ達を制止しようとしたが、ヨルの様子を見て口を噤んだ。

 ヨルの足は小刻みに震えていた。

 御主人様の承認を得ずに従者が指示を出すことは禁忌タブウに該当する。その反動が現れていた。これでは彼は動けない。自身が獲物の第一候補となる危険を顧みずに、ヨルは指示を出したのだ。


 雄一の従者ジウサ達が、お互いに広めの間合いをとって陣形を整える中、『喰人』は戦場を縦横無尽に駆け回って、頻りに触手を伸ばしては捕食を繰り返していた。

 まずは空腹を満たすのが先なのか、一つところに留まることがない。ぎりぎり触手の届く範囲まで接近しては、獲物を確保して走り去る。触手の向かう先は顔が向いている方向へ一点集中しており、先程の第一波は非常に不運だったことが分かった。ちょうど真正面の手頃な位置に、彩が立っていたから、『喰人』は襲ってきたのだ。

 もう少し間合いをあけていれば、あるいはもう少し横に逸れていれば、いきなりの先制攻撃だけは避けられたのに、と彩は奥歯を鳴らす。

『喰人』の捕食行動には脈絡がなく、手当たり次第に目についた動くものを口に入れているようだった。触手自体は高速ではあるものの、距離をとれば目に捉えられないほどのものではない。従って、身を躱したり、切断したりすることは可能であるものの、絡め取られてしまえば逃げ道はない。かなり大きめの使役獣エンプロイメント・ビイストが手足を葉多葉多ばたばたとさせながら引き寄せられてゆくのが見える。

『喰人』は小さな獲物は口から、大きな獲物は胴前どうまえを開いて全身で取り込んでいった。

武装妖精アーマード・ピクシーと使役獣って、あんなに御主人様に忠実だったかな」

 進藤が呟く。進一の従者のことだ。

「俺は早い段階でどっちも失ったから、よく覚えていないんだが」

「私も最近になって転写トランスレイトされたので、確かなことは言えないけれど、雄一君と従者ジウサの関係はかなり特殊だと思う」

 彩は『喰人』を目で追いながら答えた。

 御主人様マスタアと従者だけでなく、従者相互の結び付きも強い。

 命令への絶対服従は当たり前ながら、禁忌タブウを犯してまで御主人様を守ろうとする従者は聞いたことがない。そして、その従者の指示に従って身を捨てることを厭わない他の従者達というのも稀だろう。多分、雄一に意識があったら、絶対許すはずのない自己犠牲を、彼らは自らの意思で選択している。

 守りたくなる何かが雄一にはあるということだ。


 彩がそこまで考えた時、『喰人』の視線が再び彩を捉える。

「来る!」

 身構えた時には既に間合いを半分詰められていた。

 触手が伸びる。これも先程より速い。

 その一つをエリイの火焔が焼き切る。

 次の一つをミキの氷柱が貫く。

 さらなる一つをタンポポの雷撃が焦がす。

 加えてカオルの土壁が弾き返す。

 それでもすべての侵攻を抑えることは出来ない。

 すり抜けた触手は禁忌により身動きがとれないヨルへと襲いかかる。

 彩は自分に向かってきた触手を捌くことに手一杯だ。

 ヨルは動かない。

 動けない。

 触手が彼を補足する寸前――


 フワが触手を跳ね返した。


 こちらも『喰人』の動きに負けず劣らず速い。

 触手は絡めとる力には優れている。

 しかし、レイルガンよりは物理的な威力に劣る。

 フワは触手に巻き取られないように、その先端の進行方向に対して直角に面を構成していた。


 その回の攻撃は成果なしに終わる。そのことが不本意だったらしい。『喰人』は間合いの先で頭を傾げた。

 そして、再び彩のほうを向く。どうやら、本格的に『喰人』の関心を惹いてしまったようだ。今までの手当たり次第の動きが止まり、武道家が隙を窺うように腰を落としている。

「あーあ、これは不味いかも」

「確かに。次は奴も本気で来そうだな」

「策はある?」

「ない、考えるだけ無駄」

「そう、それでは各々で」

「ああ、それでお願いがあるんだけど」

 進藤の声が先程までと変わった。

「こんなときに? 早く言いなさいよ」

「生き残れたらデートしてくれ」

「……あなた馬鹿なの?」

 彩はあきれた。この修羅場で言うことではない。

 しかし、進藤はあくまでも真面目な声で答えた。

「俺はマジだぜ」

 彼は剣を握り直す。

「安藤彩とデートできるのなら、俺は今ここで奇跡だって起こせるような気がする。リップサービスでも構わないから、お願いだから承知してくれ。そうすれば約束した以上、あんたは絶対に俺よりも先に死ぬことが出来なくなる」

 その声音で彩は気がついた。最後の一文が彼の本心であり、前半部分は枝葉でしかない。

「――了解。楽しみにしています」

「そうこなくちゃ!」

 歓声を挙げる進藤の視線の先で、腰を落とした『喰人クラウド』は触手をすべて体内に格納した。これでは触手の動きを予測できない。まるで母親の格闘技術を継承したかのような用意周到さだ。


 まるで母親の格闘技術を継承したかのような――


 その言葉を繰り返した彩は寒気を覚える。

 まさか、補食したからといって、その能力までを受け継ぐことが出来る訳がない。彼女はそう思うものの、目の前の『喰人』の佇まいは、どう見ても格闘家のそれである。

政宗マサムネ』は大太刀を正眼に構えた。いずれにしてもここは生き残りをかけて全力であたるしかない。教授プロフヱサアが雄一を連れて戻るまでは。


 教授には何か秘策があるに違いない。


『喰人』の気配が変わる。

 身体を低く倒して、右足を前に出している。

(来る!)

 彩がそう確信した時、『喰人』の身体が跳ねた。

 速い。

 今までの動きが準備運動にしか思えないほどの鋭さだ。

 一呼吸のうちに『喰人』は彩の間合いに飛び込んでくる。

 彩は思わず後ろに下がった。

 前の空間を触手が掠めてゆく。

 いつ伸ばされたのか分からない。

 気配すらも感じなかった。

 彩の背中を冷や汗が伝う。

『喰人』は彩には目もくれない。

 真っ直ぐに突進してゆく。

 その先にはフワがいた。

『喰人』は狙いをフワに据えていたのだ。

 この場で最も手強い相手から潰すつもりなのだろう。

 触手が伸びる。

 フワがそれに対して垂直に相対する。

 二者が激突する寸前に――


 触手が二股に別れた。


 二本がまとめられていたのだ。

 フワは辛うじて一方の触手を弾き飛す。

 しかし、もう一方には対応できない。

 フワは絡み付かれ、捕捉された。

 彼は身悶えして脱出を試みる。

 しかし、『喰人』の触手はしっかりと巻き付いており、振り払うことができない。

 このままでは喰われる。


 その時、風が巻き起こった。


 フワを捕捉していた触手は、寸断されて落下する。

 その落下地点には――


神白狼ヂンパイロウ』が立っていた。


「雄一!」

 彩は叫ぶ。安堵のあまり涙が溢れた。

『神白狼』は両腕から伸びた豪剣を、胸元で十文字に重ねる。

 そして、『喰人』に向かって駆け出した。

『喰人』は両腕を前に出して腰を落とす。

 先ほど『訶梨帝母ハアリテイ』が白狼パイロウを迎撃する際にとった姿勢と同じである。

『神白狼』は右腕の剣を下から上に切り上げる。

『喰人』は左の拳で剣の側面を叩いて左に弾いた。

 その力を使って『神白狼』は左手の剣を真横に一閃する。

『喰人』は剣の側面を右の拳で叩き落とす。

『神白狼』は後ろに飛んで間合いをとる。


 彩はその経緯を見て愕然とした。やはり力の差は歴然としている。『神白狼』 の機動性をもってしても、『喰人』には太刀打ちできない。

 安堵の後の暗転。一瞬、目の前が暗くなり、『政宗まさむね』は倒れそうになったが、誰かに腕をとられてそれを免れる。

「あ、有り難――」

 礼を言おうとした彩の声が、途中で止まった。

 そこにはいつの間にか『神君シンクン』がいた。彩だけでなくその場の誰もが、その接近すら捕捉できなていなかった。しかし、彩が言葉を飲んだのはそのせいではない。

教授プロフヱサア?」

 彩は震えた声を出す。『神君』から漏れ出てくる雰囲気が異様だった。

「教授?」

 中に何か別のものがいる。そう彩は感じた。

 助けてもらったにもかかわらず、足が勝手に動いて後ろに下がる。

 威圧感がある。それに圧されて進行方向にあるすべての者が間合いをあけ、その中を悠々と『神君』は歩いてゆく。彩は呆然としながらも、その『神君』の後ろ姿に、威圧感と同時に違和感を感じた。

 何かが欠けている。

 何かが足りない。

 それが何であるのか分かった時、彩はとうとう『政宗』の右膝を地面についた。

「何てことなの、ミザアルがいないじゃない――」

 彩は雄一から、教授とミザアルが別々に行動していることは殆どないと聞いていた。ましてやここは戦場である。御主人様マスタア従者ジウサが離れていることなどありえない。

 彩は『神白狼』が『喰人』と対峙する場所に向かって歩み去る『神君』の後姿を言葉もなく眺める。


 その視線の先で『神君』は爆ぜた。


 *


 その少し前。

 雄一との直接接続ダイレクト・リンケイジから目覚めた教授プロフヱサアは、『神君シンクン』の面前に正座したまま浮かび、心配そうな顔をしていたミザアルに気付いて声をかけた。

「やあ、ミザアル。戻ったよ」

 ミザアルは愁いに潜めていた眉を安堵と共に開く。

 そして、三つ指をついて頭を下げ、無事の帰還を寿いだ。

「お疲れ様でした。それで――いかがでしたか?」

「いやあ、それが面目ない。私は最後まで男を押し倒すことしかできなかったよ」

「そうですか。まったく御主人様マスタアらしいですわ」

「そうだな、まったくだ」

 二人はお互いに笑い合う。それから沈黙し、見つめ合う。

 短い空白の後で、教授はぽつりと言った。

「ミザアル、最後まで面倒かけるな。すまない」

「謝らないで下さいませ。御主人様マスタアと一緒になれるのでしたら、光栄です」

 ミザアルは痛々しいほどに晴れやかな笑顔で、そう言い切った。


 *


『神君』は、鎧のあちらこちらから触手を伸ばす。

 周囲にあるものを貪欲に吸収しようとするそのあり方は――まさしく『喰人クラウド』だ。

 彩はそれで現在の状況を理解した。

 理解して、涙が止まらなかった。

(この戦争は、大切なものを一体どれだけ失えば終わるのだろうか――)

 この世界の、この場に居合わせた人々を救うためだけに、教授はミザアルを捕食して自らを『喰人』化したのだ。


「不愉快――実に不愉快だな。何だこの空虚さは」

 教授の言葉が彩の頭の中から聴こえてくる。

 彼女は自己防壁セルフ・デイフエンス解除リリイスしたのだ。

「この空虚さを埋めるために喰うのか。まったく不愉快な話だ」

喰人クラウド神君シンクン』――以降、識別のためにそう呼称する――は、触手を戦慄わななかせながら、『神白狼ヂンパイロウ』の隣に並んだ。

「気持ちはよく分かるのだがな。いや、実に空腹だ。手当たり次第に喰いたくなるぐらいに」

『喰人・神君』の触手が伸び、隣に立つ『神白狼』を撫でる。『神白狼』は微動だにしない。

「まったく、耐え難いよ」

 彩はその様子を、不思議な気分で眺めていた。

 全く恐怖を感じない。

 教授が発する言葉の不穏な響きとは裏腹に、『喰人・神君』の触手はとても愛おしそうに『神白狼』を撫でていた。愛撫し、その全体像を脳裡に留めるべく丹念になぞっていた。防壁を解除された教授の心情が、戦場に溢れる。

 それは、永久の別れを惜しむ女の手の動きだった。

 彩は『神白狼』が『喰人・神君』に捕食される恐怖も、教授が雄一に愛おしそうに触れることに対する嫉妬も感じない。それどころか、二人のために今この瞬間が永遠に続いてほしいとすら願った。

 それは、永久の別れを惜しむ女の手の哀しい動きだった。

 しかし、現実は無慈悲かつ容易に二人を分かつ。

「だがな、私はまだ正気だからな。無差別に喰らう気なぞないのだよ!」

『喰人・神君』は触手をすべて格納した。

「まずはお前だ。化け物同士、仲よくしようじゃないか。お前ならば喰い甲斐がありそうだ」

『喰人・神君』は、彩が知る限り初めて腰に帯びていた剣を抜いた。それは『神君』の名に相応しい太刀だった。戦国時代の古強者が好んだ鎌倉の刀鍛冶を髣髴とさせる、反りが強く身幅の広い古刀のような姿が美しい。

『喰人・神君』が自分と同じ存在であることを認めた『喰人クラウド訶梨帝母ハアリテイ』は、面皰マスクを少しだけ上にずらして口を露出させた。口角が上がる。

 笑ったのだ。

 それから『喰人・訶梨帝母』は足を伸ばすと、地面に円を描き始めた。そこが絶対防衛線という意味らしい。始まりの一点に終わりの一点が重なったところで、『喰人・訶梨帝母』は再び腰を下ろして両腕を前に出す。

『喰人・神君』はゆっくりと前に出た。

 と同時に、雄一の声が『神白狼』から発せられる。

「エリイ、ミキ、タンポポ、カオル、フワ、ヨル、下がって! それにヨル、無理をしてはいけないよ」

「すまぬ、御主人様マスタア……」

 その声を最後に崩れ落ちたヨルを、フワが柔らかく受け止める。

 フワに丸く包まれたヨルと、四人の武装妖精アアマド・ピクシイは、城壁まで後退した。

 それを見送ると、雄一は続いて、

「彩さん、迷惑をかけてご免なさい」

 と声を出す。

「――まったくよ、二人がいちゃいちゃしている間、こっちは大変だったんだから」

 状況の耐え難い重さを少しでも和らげるために、彩はあえてそう不満を漏らした。

「本当に有り難う。彩さんのお陰で教授と随分ゆっくり話をすることができました」

 雄一はそう言って、再び戦場のほうを向いた。

 彩は彼の声の響きにおののく。

 そこには、哀惜、咆哮、慟哭、悲憤、慷慨――あらゆる哀しみを抑え込んで重ねた上に、覚悟が載せられていた。

(貴方たちは一体何をしようとしているの?)

 この先に起こることを、できれば彩は知りたくなかった。


「私はそもそも格闘家ではないからな」

喰人クラウド神君シンクン』は右腕に持った太刀をぶらぶらと無造作に下げながら、ゆったりとした足取りで『喰人クラウド訶梨帝母ハアリテイ』に近付いた。

「そんなに守りを固められると、どうしたらよいのか見当もつかない」

 その力みのない歩みに、『喰人・訶梨帝母』の急襲を避けるために退却を余儀なくさせられていたヘルムホルツ共和国の兵は、足を止めて遠巻きに状況を見守り始めた。ミツドランド王国の城壁内からは何の反応もない。

『喰人・神君』は、そのまま互いの触手が届く間合いの中に踏み込む。

「単に速さの問題であるならば、『神白狼ヂンパイロウ』以上の速度が出せない私はお呼びではない。そして力の問題であるならば、貴様の上を行くものはここにはおらぬからやはりお呼びではない。しからば技の問題であるならばどうだろうか。もちろん、貴様にも親から受け継いだ技があろうが、私には私の得意分野で培ってきた技がある。それで貴様と勝負するしかない」

『喰人・神君』は、両腕で太刀を持ち、頭上に振り上げる。

「さて、真正面からの剣に対して、貴様は一体どう対応するのかな?」

 そのまま『喰人・神君』は、『神白狼』並みの素早さで剣の間合いに入り込むと、太刀を真っ直ぐに振り下ろす。

 何のてらいもない、ただの真っ向唐竹割りである。

 両腕を前に出した『喰人・訶梨帝母』は、あえてその太刀筋の下に潜り込み、太刀の左側を右の掌底で叩く。

 太刀は逸れて『喰人・訶梨帝母』の左側を流れた。

「これなら――」

 左に逸らされた力を利用して、『喰人・神君』は身体を回転させながら太刀を水平方向に回す。

 右方向からの一閃に備えて、『喰人・訶梨帝母』は左の掌底と右の拳を構える。

 そこに太刀が回されてきた。

「――どうする?」

 太刀は常識では考えられない動きをした。

『喰人・神君』は両手首の力の配分を微妙に変化させて、太刀の刃の向きを絶えず変化させていたのだ。

 無論、これでは切れるかどうかも分からない。

 最悪、太刀の側面でもいいから『喰人・訶梨帝母』に当てるつもりの、出鱈目な作戦である。

 常識的な攻撃パタアンしか継承していなかった『喰人・訶梨帝母』は、不規則極まりないその太刀に常識的な対応を試みる。

 すなわち、太刀筋を読み切り、両掌で挟んで抑え込んだ。

 不規則ならば固定するまでのこと。

 それに抑え込んだ上での力技ならば、負けることはない。

『喰人・訶梨帝母』はそう判断したのだろう。

 格闘家の戦術としてはそれで正しい。

 が、『喰人・神君』はさらに暴挙に出る。

「馬鹿め、引っかかりおったな」

『喰人・神君』は即座に太刀を手放すと、その両腕を『喰人・訶梨帝母』の胴にしっかりと絡みつかせた。

 そして、高らかに宣言する。

直接接続ダイレクト・リンケイジ!」

『喰人・訶梨帝母』と『喰人・神君』の胴前どうまえが跳ね上がり、中から互いの触手が飛び出して複雑に絡み合った。

「わはははは、これで身動きがとれまい。最初から言っているであろう? 私は格闘家ではないから、剣の使い方なんか皆目見当もつかんし、振り回したところで様にもならん。せいぜいが貴様のようなやつの裏をかく程度の使い道しかないのだよ」

 教授は更に胴を密着させる。

 直接接続はしたものの、相手の心裡シンリに飛び込むことができるほどの関係は確立のしようがない。従って『神白狼』と『神君』のような全機能停止を伴う結合状態には至らず、『喰人・訶梨帝母』と『喰人・神君』は、依然として自立した動きが可能である。

 そこで『喰人・訶梨帝母』は即座に『喰人・神君』の切り離しにかかるが、お互いに重装・守備型であることが裏目に出て、至近距離からの打撃では有効打にならない。

『喰人・訶梨帝母』の拳が『喰人・神君』を乱打するが、鎧に阻まれて効果がなかった。 

「無駄だよ」

『喰人・神君』が言う。

生体装甲バイオ・アアマの機能と弱点については、誰よりも私がよく知っている。これが私の最大の武器だ。格闘家の精神に拘って懐まで招きいれて、手まで止めてしまったのが運のつきなのだよ」

 彩はその言葉を聞きながら、少し前に教授プロフヱサアが話していたこととの矛盾点を感じる。

 その時、彼女はこう言っていたはずだ。

個蟲ゾイド生体融合者パイロツトを守ることを最優先とするため、場合によっては接続時に抗原抗体反応による一斉攻撃を受ける可能性がある」

『喰人』同士だから大丈夫、ということはないはずだ。むしろ、『喰人』だからこそ抗原抗体反応もランクアツプしている可能性がある。

『喰人・神君』がそのことを裏付ける。

「うははははは、個蟲ゾイドが噛みよるわ。しかし、もう遅い。貴様が私を喰いつくす前に、我々は揃ってあの世行きだからな」

 そして『喰人・神君』は叫んだ。


「雄一、頼んだ! やつは私の目の前にいるから、このまま並べて斬ってくれ!」


「な、何を言ってるの!?」

 彩は狼狽した。彼女は雄一に自分を斬れと言うが、そんなことが雄一にできるはずが――


神白狼ヂンパイロウ』は黙って駈け出した。


 右腕からひときわ巨大な豪剣が伸びている。その躊躇ためらいのない動きに、彩は彼と彼女の間でそれが既決事項となっていたことを知る。

 きわめて合理的な判断。

喰人クラウド』に対抗できるのは『喰人』だけである。従って、誰かが『喰人』にならなければならない。だから教授はミザアルを捕食した。

『喰人』となった以上、彼女はもう教授プロフヱサアには戻れない。そのままでは、彼女は『喰人』として自分を失ってしまうから、脅威が増加するだけである。だからここで切り捨てる必要がある。

『喰人』は二体おり、一方が他方を押さえつけなければならないから、同時に二体を両断する必要がある。二体の生体装甲バイオアアマを両断できるのは『神白狼』だけである。ゆえに雄一は教授を斬らなければならない。

 実に理にかなっている。理にかなっているがゆえに、哀しい。

「雄一! 私は嬉しいぞ、お前の手にかかって死ねるなら本望だ! 私がまだお前を覚えているうちに、化け物になってしまう前に私を斬れ!」

 なるほど、自己防壁セルフ・デイフエンス解除リリイスされていたはずだ。彼女は自分の心を曝け出すことで、雄一の躊躇いを断ち切り、その場に居合わせた全員に「自分が雄一に望んだ」ことなのだと分かるようにして、邪魔が入らないようにしたのだ。


 その意図を理解した『喰人クラウド訶梨帝母ハアリテイ』は、自身の背中にある装甲を跳ね上げた。

 中から触手が飛び出す。

「させるか!!」

喰人クラウド神君シンクン』も背中の装甲を跳ね上げて触手を出し、抑え込みにかかる。

 しかし、『喰人・訶梨帝母』の触手がわずかに早かった。

 間を摺りぬけたいくつかの触手が『神白狼』に向かって伸びる。

 それに絡め取られてしまうと、この作戦は水泡に帰す。

『神白狼』は身をひるがえし、触手を躱す。

 触手はそれを追う。

『神白狼』は触手を剣で一閃する。

 断ち切られても根元が必死に『神白狼』を押さえようとする。

 両者の目まぐるしい動きに彩の目はついていけない。

 哀しい現実ならば自分もその責を負ってやりたいが、これでは足手まといにしかならない。

『喰人・神君』が吠える。

「まったく往生際が悪い! 大人しくせんか!」

 その声に若干の焦りが混じる。

「いろいろと時間がないのだ! さっさと覚悟を決めろ!」

 次第にその色が濃くなる。

『神白狼』が吠える。

「教授、まだいる!?」

「おお雄一、いるにはいるがな、もう持たない」

「有り難う、すごく楽しかったよ、会えて嬉しかったよ」

「私もそうだ、楽しかったぞ」

「もっと話をしたいよ、一緒にいたいよ」

「私もそうだ」

「絶対忘れない」

「そ、う――」

「教授!!」

 雄一の叫びが戦場に響き渡る。

 彩は何が起きているのか分からなかった。

(教授が消えた? ということは『喰人』が二体?)

 彩は混乱した。

 そこに雄一の叫びが被さる。

「亜里沙! 君はいるのか!!」

『喰人・神君』が答える。

「いるわ、でも私ももう時間の問題。私がいるうちに斬って頂戴。貴方のことを覚えているうちに、貴方にお礼が言えるうちに斬って頂戴!」

「分かった!」

『神白狼』が叫ぶ。

 彩も聞いたことがあった。

 亜里沙は教授の本名だと。

 しかし、どうしてここでその名が呼ばれているのか分からない。

 なんとか理解できたのは、教授という存在が消え去ったことだけ。

『神白狼』が駆ける。

 触手が乱れ飛ぶ。

 両者の駆け引きが続く。

「雄一、有り難う! とても楽しかった、そして嬉しかった」

『喰人・神君』が吠える。

「亜里沙、僕もとても楽しかった、有り難う」

「このまま貴方の荷物をいつまでも半分持たせてほしかったけど、もう駄目」

「約束は守る」

「ああ、有り難う。でも、時間がない。今のうちに言わせて頂戴。私は貴方を――」

『喰人・訶梨帝母』が全身から触手を放出した。

「くっ!」

『喰人・神君』が同じく触手を放つ。しかし遅い。

 無数の触手が『神白狼』に殺到する。


落下フオウル春麗チユンリイ!!」

落下フオウル、モミジ!!」


 二つの声がして、上空から火炎が吹き付ける。

 その下にあった触手は焼き切れて、『神白狼』の前に空間が現われた。

 さらに彼の左右を並走する影がある。

「『ロン』と『白蓮ビヤクレン』!」

 二人は剣を振り回して『神白狼』に近付く触手を薙ぎ払ってゆく。

「行け、雄一!」

 劉の声。

「はい!」

 雄一は二人の間隙を抜けて加速した。

「ああ――」

 亜里沙は後ろから迫る雄一を感じる。

「有り難う、約束通りね。これで言える」

『喰人・神君』は『喰人・訶梨帝母』の腰を締め付け、身体をさらに密着させた。

「愛してる、雄一、そして――」

 圧倒的な切なさが聴く者の胸を締め付ける。

 その中で『神白狼』は豪剣を水平に薙いだ。


「ありがと … 」


「僕もだ、亜里沙――決して忘れないから」

”の泡が二つ、風に流されて消えた。

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