第十九話 同期(シンクロナイズ)
『
先に動き出したのは、彼女の実力を知り尽くしているヘルムホルツ陣営だった。
彼らは一斉にホツトスポツトと化したその場から離脱してゆく。それは『訶梨帝母』の声が直接聞こえていた範囲に留まらず、
『
『神白狼』は動かない。
そこで『神君』が『神白狼』を背中に担ぎ、退避の流れに従ってミツドランド王国の城壁直下まで移動した。城壁に
「雄一、大丈夫か?」
答えはない。
これが『神白狼』の始末に負えないところで、非常事態になると
過去二回の出撃時もそうだった。安全地帯に移動させてしばらく待っていれば解除されるが、今は非常事態が継続中である。こうなってしまうと取り得る手段は限られていた。
教授は彩に言った。
「反応がない。個蟲達が共有概念からの情報伝達経路を遮断しているのだろう。こうなったら個蟲同士の直接接続による接触を試みるしかないが、その間は
「分かりました――が、その直接接続自体に危険はないのですか?」
「ある。個蟲は生体融合者を守ることを最優先としており、そのためには最大限の力を発揮する。だから、場合によっては接続した途端に異物扱いされて『神白狼』の防衛機能による一斉攻撃を受けるかもしれない。抗原抗体反応というやつだな。普段なら誰もそんな馬鹿な自殺行為はやらないだろうよ」
「そんな危険なことをどうして今ここで――」
「どうなるかはやってみなければ分からない。それに、このままでは沢山の犠牲者が出るし、我々も無事では済むまい。今ここで
「――分かりました」
「済まない」
手早く謝罪して、教授は『神君』を『神白狼』に向かい合わせるように座らせる。
大きく深呼吸をすると、教授はアイコンではなく声で指示した。
「
それと共に『神君』の胴前が上に滑る。同時に『神白狼』の胴前も上に滑る。
互いの個蟲が勢いよく触手を伸ばして、絡まりあった。
彩はその様子を見て、微かな羨望を感じる。そして、そのことに気づくと頭を激しく振った。
(こんなことにまでいちいち嫉妬するなんて、最近の自分はどうかしている)
顔が赤らむ。
ともかく自らの役割に専念しようと、彩は『訶梨帝母』がいた方向を見つめた。
『神君』と『政宗』が『神白狼』と共に退避している最中から、
今ではそれが本格化し、『訶梨帝母』が立っていた辺りには激しい水蒸気と煙が立ち上っている。
(これでは狙いが付けられない。むしろ攻撃の邪魔じゃないの)
しかし、喰人への恐怖心からだろう、無差別連続攻撃は収まりそうにもない。
さらに、事態を把握しているはずのミツドランド王国側から何の攻撃も行われていないことに、彩は強い憤りを感じた。
この期に及んでもまだ静観である。生体装甲部隊がレイルガンを無効化したとしても、前線にミツドランド近衛兵が出陣したかどうか怪しい。
遥か向こうに、ヘルムホルツ共和国陣営が残ったレイルガンを大慌てで設置している姿が見える。
(どっちが守備隊なのかしら?)
そんな疑問を抱きながら、彩は『政宗』の大太刀を正眼に構えた。
*
教授は白い空間に浮かんでいた。
これは『神白狼』側の
生体装甲の開発初期から個蟲を直結した情報伝達は試みられていたが、生体融合者同士の結びつきが強い場合にしか成功しなかった。彩には言わなかったが、教授自身は一度も試みたことはない。実験環境で数例を観察者として見たことがあるだけである。
(さて、これからどうしたものか)
直結状態では、連絡する者が連絡される者の世界に入り込む。従って、相手の世界のルウルに無条件で従わなければならない。
白血球を模した不定形のものに取り囲まれて窒息する。
夢魔のようなおどろおどろしいものに頭から一飲みされる。
淫らな男達に力づくで嬲られる。
いろいろと悲惨な状況を想像をしていたものの、こんな空虚さの中に取り残されるとは思ってもいなかった。大歓迎されるとは思っていないが、何か分かりやすい反応があってもよいのではなかろうか。
そんなことを考えていると、目の前の空間に泡が沸き立った。
それは、三歳ぐらいの幼児の姿となる。
閉じていた目を開くと、彼は質問した。
「お姉ちゃんは敵なの? それとも味方なの?」
何故か違和感を感じる。
日頃の雄一の姿を思い描くと、答えはそれではないような気がするのだが、正解は思い浮かばない。
とりあえず、教授は相手に下駄を預けるような答え方をしてみる。
「今はどちらでもない。君の対応による」
「じゃあ、何か隠していることはあるの?」
「ある。でも、君が信用できる人ならば話してもよい」
「殴ったりすることはあるの?」
「好きな人にはあるかもしれない。そうでなければ触りたくもない」
「無視したりすることはあるの?」
「ある。振り向いてほしいときは特に」
「自分が嫌いになることはあるの?」
「あった。今はやめている」
「死にたくなることはあるの?」
「あった。今はやめている」
「誰かを殺したくなったことはあるの?」
「あった、ような気がする。昔のことなので忘れた」
「お姉ちゃんは敵なの? それとも味方なの?」
「今はどちらでもない。君の対応による」
沈黙。
幼児の視線には何の感情も籠っていない。
過去の似たような事例では、確か「正しく答えることができれば、それなりの反応がある」はずだった。
どこかで答え方を間違えたのだろうか。しかし、自分の気持ちを素直に答えたはずだと思う。
だから、これで拒否されたのならば仕方がない、と教授は腹を
そこで亜里沙の瞳から涙が流れ落ちる。
嫌。
嫌よ。
拒否されたくない。
本当は拒否なんか、絶対にされたくないんだから。
他の誰かさんならばともかく、雄一には絶対拒否されたくない。
拒否されたら、自分はこれからどうしてよいのか分からなくなる。
次から次へ涙を零しながら、亜里沙は途切れ途切れにその気持ちを声として紡ぎ出した。
「ごめん、なさい――本当は、私がどうか、じゃなく、貴方に、味方に、なって、ほしいの」
幼児は黙って近づいてきた。
涙を流し続ける亜里沙を見上げて、その左手を両手で優しく握ると、
「こっちにきて」
と言って、強く引っ張る。
亜里沙は泣き続けながら、素直にその導く方向へと誘われていった。
*
彩は、火炎と氷柱と雷撃と土石流が渦巻くホツト・スポツトを凝視していた。
これは、いくらなんでもやり過ぎだと思う。
これだけの集中砲火を浴びて
『
それに対する攻撃として過剰すぎはしまいかと思っていたところで、攻撃の手が急に緩んだ。
彩はヘルムホルツの共有概念を使えない。
だから、彼らがどうしてここで攻撃を止めたのかは分からなかった。
爆心地は既に大きく窪んでいた。だから、彩が立っている位置からは、下がどうなっているのか直接見ることは出来ない。
そこで、
斜め上からの映像らしいが、水蒸気と煙が厚く垂れ込めていて、なかなかその先の見通しが効かない。
徐々に衣が剥ぎとられていき、やっと見通せるようになったその先には――
『訶梨帝母』が屹立している。
しかしながら、装甲の殆どは無残に剥がれ落ちていた。その下の
(あれで生きていられる訳がないじゃない……)
彩が『訶梨帝母』の惨状に絶句していると、視界の隅にヘルムホルツ陣営の動きが入った。
中継画像からそちらに切り替えてみると、彼らは爆心地の端にレイルガンを据え付けて、下に向かって発射する寸前であった。攻撃を停止したのはレイルガンの照準を定めるためだったのだ。
そこまでやるのか、と彩は呆れる。
その視線の先でレイルガンが閃光を発した。砲弾が飛んだらしいが、この位置からは見えない。
ただ、その直後に中継画像の中にある『訶梨帝母』の残骸から、右肩部分がごっそりと欠けていた。
続いて、隣のレイルガンに二発目が準備されている。
直撃したならばこれで『訶梨帝母』はお終いだろう。
教授がわざわざ捨て身で直接接続したのが無駄になりそうだが、はたしてどうやったら接続を解除できるのだろうかと、彩はぼんやり考える。
その向こうで、光が躍った。やはり砲弾は見えない。
視線が自然に『訶梨帝母』の中継画像を向く。
その砲弾は『訶梨帝母』の左手で受け止められていた。
*
当然ながら、
そして、雄一の心裡では通路という概念が簡略化されているらしく、どこをどう移動したのかが分からない。そもそも移動したかどうかも怪しいのだが、僅かな時間経過の後に亜里沙が辿りついたところには、普通にいつもの雄一が立っていた。
彼が視界に入った時には既に、案内役の幼児の姿は消えていた。その事務的なそっけなさが、いかにも彼らしい。
雄一は、
亜里沙の様子に驚いた雄一は、急いで走り寄ると、
「大丈夫、亜里沙?」
と声をかける。
ここからの亜里沙の変化は激しかった。
「雄一こそ大丈夫なの、怪我してない?」
と、彼女は泣きながら雄一の安否を確認する。
「うん、なんともないよ」
「そう、よかった」
そう言いながら彼女は、大泣きしていた自分に気づく。
何だか気恥ずかしくなり、大急ぎで話を逸らした。
「その、もしかして泣いているから
「そう……だけど」
「なんだか凄くむかつく」
彼女はそっぽを向くが、実際は照れ隠しである。しかし、普通の顔をしている雄一を見ていると次第に腹が立ってきた。
「何度声をかけても反応がないから、怪我をして意識を失っているんじゃないかと心配したのに。あるいは暗闇の中で一人で落ち込んでいるのかと思ったのに」
と急に尖った声になる。
「心配かけてご免なさい」
雄一にそう素直に謝られて、今度は急に居心地が悪くなった。
「あ、謝らなくてもいいのよ。べ、別に貴方が悪い訳ではないんだから」
「でも、亜里沙、泣いていたから――」
醜態のことを蒸し返されて頭に血がのぼる。
「ちょ、その、それは関係ないし! そう、その、ここまで来るために苦労したから、ちょっと気が緩んだだけなんだから」
「そう……なんだ。じゃあもう戦闘は終わったんだね」
ここでやっと彼女は、こんな悠長な会話をしている場合ではないことを思い出す。
「そんなことを言っている場合じゃないのよ、事態は現在進行形で急激に悪化していて、今まさに最悪の事態に陥っているの!」
「え? なんでこんなに時間がかかっているの? 正確じゃないけど僕は四時間近くここにいたから、すっかり落ち着いてしまったんだけど」
その雄一の言葉を聞き、亜里沙は急に冷静になる。
恐らく雄一が『
そこから『訶梨帝母』の喰人化宣言を受けての全軍退避があり、さらに
ということは、雄一の心裡内での時間経過が誤差の可能性を考慮しても、外部の十倍に間延びしている可能性があるということだ。
そして、彼は『訶梨帝母』が喰人化しつつあることを知らない。
急に考え込んだ亜里沙に向かって、雄一がさらに言う。
「この真白な空間に急に取り残された時には、自分の覚悟が足らないせいでまた仲間に迷惑をかけてしまったと落ち込んでいたんだけど。それから全く何も起こらないし、亜里沙が来てくれたからてっきり戦闘が終わったものと勘違いしちゃった」
「雄一、これまでも戦闘終了後はこんな感じだったの?」
「ううん、前の二回は意識を失っていたので分からないや。今回は急に時間の感覚が狂ったので自分でも驚いた」
「今回って――もしかして『訶梨帝母』への連続攻撃だけど、あの時にも時間感覚に変化があったの?」
「そうだよ。攻撃が続くにつれて、どんどん時間の進み方が遅くなったような感じがしたんだ」
「ふうん、そうなんだ――ところで」
教授は言った。
「雄一はどこにいるのかな」
「僕は目の前に――」
「それは分かっている。君も先程の子供と同じように雄一の中の一人であるのだろう。私を安心させようとしてくれたことには感謝する。でも、やはり違うのだ。雄一ならば、今この瞬間苦しんでいるはずだ、と私は思うのだ。それに今は彼をそっとしておく時間がない。最後の雄一に差し迫った状況を理解してもらう必要がある」
「分かった」
彼は悲しげな顔をした。
「それから――」
教授は視線を落とすと、尋ねた。
「この服は私に似合っているのかな」
「とても似合っているよ」
「そうか――有り難う。とても嬉しいよ」
教授は顔を赤らめながら礼を言った。
「それじゃあ、こっちにきてくれるかな」
雄一が教授の手を握り、先導する。彼の手は暖かかった。
*
彩は目の前の映像が信じられなかった。
(どうやったらレイルガンを受け止めることができるの?)
最初の砲撃の際、砲弾は射出の速度が速いだけでなく高速で回転していた。その勢いは防御にあたった
それをあの『
(
そう考えて、彩は物理的に無理があることに気付く。それならば無効化された運動エネルギイの影響で、『訶梨帝母』の立ち位置が大きく変わっているはずだ。
可能性があるのは、身を躱して砲弾が通過したところを横から押さえて、身体を回転させながら徐々に砲弾の勢いを殺した、というところだろう。真正面から受け止めるよりは理に適っているが、それでも荒唐無稽であることに変わりはない。
どこかのスタジオで撮影した特撮だと言われたら、そのまま信じてしまいそうだ。
中継画像から音声が漏れる。
「ああ、いけない。思わず手が動いちまったよ……」
『訶梨帝母』の声である。現時点で彼女はまだ意識を保っているらしい。
言葉と裏腹に、握った砲弾で後続の砲弾を弾き飛ばしながら、途切れ途切れに彼女の声が聞こえてくる。
何かを話しているのだ。
彩は彼女の声だけに集中しようと試みた。金属が弾かれる甲高い音で邪魔をされながらも、必死で聞き取ろうとした。誰かが彼女の言葉を聞いておかなければいけないと思ったのだ。
甲高い雑音が連続する向こう側で――
『訶梨帝母』は我が子に話しかけていた。
「まったく生まれる前から……お転婆な子だね。ママの子らしいや、ははは……
もう少しだけ噛むのは待ってくれないかな。……ああ、無理か、ははは……
元気そうで何よりだね……好き嫌いなさそうだし。本当にお前はいい子だよ……」
過酷な現実が穏やかな声で語られてゆく。
ところどころ声が掠れており、そのことに彩は戦慄を覚えた。
(まさか、食べられながら会話しているの? それもあんなに穏やかに?)
「いい子だよ。お前を……抱きしめたかったよ。
抱きしめて、頬擦り……したかったよ。
抱きしめて、頬擦りして……笑いたかったよ。
一緒に朝御飯食べて……今日は何をしようか考えたり……したかったよ。
お前が生まれてきた……ことを全力で楽しみたかったよ」
『訶梨帝母』は急激に
しかし、更に内側では何かが着実に失われていた。
『訶梨帝母』の声は相変わらず穏やかで、それが状況の悲惨さを際立たせていた。
「さぞかし可愛い子だなんだ……ろうね。会いたかったよ。
けれど、生まれた途端に……死んでもらわなくてはいけなく……なっちまった。
確かに大事なものを戦場まで……持って来てしまった私が悪い。
けど、どうしてこうなるのさ……許してくれとも言えない……けれど。
ああ、そうだ、名無しじゃ可哀想……だから、せめて名前だけでもつけさせて……おくれ。
アカネ――はどうだい……いい名前だろう。ママと一緒だよ。
もうすぐ本当に一緒になる……けどな。ははは――」
笑いながら『訶梨帝母』は天を仰いだ。
「畜生おおおお……おおおっ!!
この世界の神……いるなら出てこい!!
私と……タイマン……勝負しろよ!!
負け……たら……時間を……巻き……戻せ!!
時……が……足……な……」
慟哭が空を揺るがし、途中で不自然に途切れる。
そして彩は見た。
上空にいる索敵系使役獣に触手が向かってくるのを。
それは、前の獲物を食べきって、次の獲物に目をつけた獣の動きだった。
*
案内されて白い部屋を出て、そこから続く回廊を歩いていると、次第に世界が濁りを帯びていった。
食べ物の腐ってゆく饐えた臭いまで感じるようになってきた。
後ろに何かの気配を感じて振り向くと、嘲笑だけを残して何かが姿を消してゆく。
「――これが本来の雄一の世界なのか?」
案内役の雄一は悲しそうに頭を振る。
「これはまだ途中経過に過ぎません」
教授は
先刻、自分は「雄一が世界の悲惨を知らない」ことを危ぶんだが、それがとんだ思い上がりであったことを、雄一の心裡の最深部に近付くにつれて思い知らされてゆく。
(雄一は既に知っているのだ。世界がどれほど残酷であるかを――)
世界は濃度を増してゆく。
空気は粘性を帯び、臭気は圧力を帯びる。闇がますます深まり、視界が狭まる中、姿の見えない悪意が跳梁する。
時折、雄一の記憶の残滓が映像となって浮かび上がる。
腐敗し、干からびた食料の残骸の中で、幼児の痩せ細った腕が周囲を探る。
二段ベツドの下に広がる湿った寝具。上から聞こえる忍び笑い。
「そんなこともできないから親から捨てられるんだよ」と、女は目を血走らせながら怒鳴る。
にこやかな表情で彼を受け入れたはずの男と女が、次の場面では扉の隙間の向こうで下卑た笑いを浮かべながら「補助金が出るから来月から楽になるな」と語る。
小学生ぐらいの女の子が「あなたは私の下だから」と得意げに語る。
彼が
その理由が眼前に繰り広げられてゆく。
「ある時、僕は自分を分けることにした」
手を握って隣を歩いていたもう一人の雄一が言った。
「中にいる自分と外にいる自分、そう僕は呼んでいる。途中で子供の頃の自分が外にいる自分から分かれて、今は三人になった。日常生活の大半は外にいる僕が対応している。子供の頃の自分は、僕の傍らにいて常に周囲の人が敵か味方かを判定している」
淡々と話していた雄一は、そこで不自然に話を切った。教授は彼を問い詰める。
「――で、中にいる雄一は何をしているのだ?」
「見てもらったほうが早いと思う」
「どうして私にそれを見せようとする? 有り難いが、君にとってはもっとも触れられたくないところなのではないか」
「それはそうなんだけどね」
歩き出してから初めて雄一は笑った。困ったような笑みだった。
「子供の頃の自分がどうしても見せるんだと言ってきかない」
「そうか」
教授も笑った。
「それは光栄だ」
行きついたところは沼のようだった。
空気はべたべたと肌に纏わりつく。臭気はぐいぐいと鼻の奥まで入り込んでくる。視界は逆に開けたが、目の前にはいかにも濃度の高そうな水面が広がっている。
よく見るとそこには漣が生じており、奥から手前、右から左に、始終動いていた。
「僕だよ」
と、雄一は静かに言った。
人の姿すら留めていないことに教授は衝撃を受けたが、その動揺を内心に留める。
「そうか」
ことさら落ち着いた声を出そうとしたが、語尾が掠れてしまった。
雄一は苦笑する。
「大丈夫だよ、そんなに自分の心を隠さなくても。僕はもう、そういうことには慣れているから」
「そうか」
教授は改めて目の前に広がる水面を眺める。もっと荒々しい状況を想定していたので、その点は意外だった。
「抑圧されすぎると、人は無表情になる」
雄一がやはり落ち着いた声で語った。
「心に波が立たなくなる。現実に対処することもできず、ただそれを飲み込まなければいけなくなる。中に沈めて、底の方に抱え込んで、現実世界に向き合う僕には影響させないようにする。時折、我慢が出来なくなって漣が起こるけど、それ以上のことは起きなくなる。激しく波立つにはエネルギイが必要だし、それによって奥底から重い過去が湧き上がってくると、僕が耐えられないから」
「――話はできるのか」
「できる。たまに僕はここにやってきて話をするんだ。そうしないと溢れ出ることもあるからね」
「そうか」
そう言って、二人は水面を眺める。
「でも、このままではいけないんだよね。このままでは僕は目覚めることができないから」
「その通りだ。正確には分からないが、雄一が心の奥底に状況を押とどめようとする心の動きと、『
「まるで亀だよね」
「そうだな、亀だな。いっそのこと『神白亀』と名前を変えるか? なんだかお目出度い名前だがな」
教授は笑った。雄一はつられて、やっと微笑みを浮かべる。それから顔を引き締めると言った。
「面倒をかけてしまってごめん」
「何を言っておるのだ、お前が先に言ったことではないか」
そう言って教授は沼に足を踏み入れた。
刺すような冷たさが足から背中を通って脳に届く。ぶるりと身体を震わせると、教授は宣言した。
「雄一! お前が約束したことを今ここで果たしてもらう! ちょっと過激なおまけつきだから、後悔するなよ! ついでに同じことを私が約束しに来たから覚悟しろ!」
教授は沼の中に向かって歩き出す。
水色のワンピースに重油のような粘度の高い水が染み込み、身体が重くなってゆくが彼女は躊躇しない。
「私の荷物を全部持て! そのかわり、お前の重荷の半分を私によこせ! 私もそんなに弱くはないぞ!」
教授はそう言い放つと、
「この
汚泥の底で雄一は見る。
幼少期からその才覚を現した亜里沙に、母親は狂喜した。そして、それを伸ばすために、居住環境を変え、名高い教育者の元を訪れ、最高の教育環境を構築しようと躍起になった。
方針の異なる父親はその猛進ぶりを諌めようとしたが、逆にそれが「自分の子供が可愛くはないのか」という感情的な諍いに発展する。道義的な問題から父親は経済的な援助を続けていたが、その姿は見られなくなった。
亜里沙は自分が家族を壊したと考え、苦しむことになる。
その後、日本の教育制度の中では十分な才能を発揮できないと感じた母親により、亜里沙はアメリカへと渡った。親戚や友達と切り離されて、母親だけが彼女の世界に残る。
その母親は事あるごとに亜里沙に「私は貴方の能力に人生のすべてを賭けた」と語った。一方的な押し付けにすぎないその言葉が亜里沙を絡め取ってゆく。できて当然。できなければ「ここまでやってあげているのに」という感情的な叱責を浴びる。逃げ場のない日常が続いた。
周囲は大人しかいなかった。口々に亜里沙の才能を褒め、その進展に助力を惜しまなかったが、彼女が苦しんでいる事実を理解しようとはしなかった。
才能に従って莫大な資金が動くようになり、暮らしは楽になっただけではなく、華美になってゆく。
神からの恩寵を受けた、恵まれた娘。
そのアイコンだけが独り歩きし、彼女を晴れやかな舞台へと押し上げてゆく。母親が晴れやかな顔をして歩くその隣を、当の本人は仏頂面で歩いた。それがさらに「天才の気難しい性格」という評価を定着させ、人々を遠ざけてゆく。気が付けば自分の周囲には、才能を利用しようとする者か、傅く者しかいなくなった。
その過程が、虫食い痕のある記憶として雄一の中に再生されてゆく。
亜里沙の孤独と怯えが雄一に染み込んできた。
「しかし、それでも隙間から自然にいろいろなものが漏れ出してしまう。大半はミザアルが受け止めてくれたがな。それにも限度がある。劉は気がついていたのではないかな。私の記憶が不確かになっていることを。そう、私の中にはもう大したものは残っておらぬ。どうしても消したくない記憶を必死に守りぬいているだけに等しい。しかし、もうそれも残り少なくなってしまった。どのみち、数年後には私は抜け殻だけになっただろう」
ボルザに転送されて最初に見たものは、女性の顔だった。
ゲルトフヱン・ミツドランド――ミツドランド王国の王妃にして稀代の魔法使い。彼女はその偉大な業績に比べて、非常に穏やかで思慮深い女性だった。
他のボルザ人貴族と異なり、
亜里沙の感情や記憶、経験や知識が、ゲルトフヱン・ミツドランドに対して注ぎ込まれる。
王宮の一室に悲鳴が満ちた。
「私のすべてを雄一の中に
亜里沙は魔法によって認識の外に身を置きながら、意識を失っている少年の顔を見つめていた。
その後、彼が起き上がって部屋を探るところを眺めていた。そのありのままの思考を受け取っていた。
個蟲を必要以上に引き寄せ、”
自分のような怪物じみた存在ではないかと想定した亜里沙は、無理矢理グイネルに彼の指導役となることを了承させた。
しかし、少年はごく普通に見えた。
年齢相応に単純で、浅墓で、しかも亜里沙の姿を見て欲情して剣を出し、理由が完全にばれているにもかかわらず、ふざけた言い訳で誤魔化そうとする馬鹿げた存在だった。
自分のことを同世代の女の子としか思わずに、自然にふるまってくれる存在だった。
自分の中の子供――今まで一人で泣き続けてきた子供が、初めて友達を求める。この世界に来てから、ミザアル以外には見せたことがない亜里沙が、自分から表に出ていた。
絶望的な今後を想定して生活を畳む準備を始めていた亜里沙の、それは最後の明るい希望だった。
「そして最後に二つお願いがある」
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