第九話 戦士回復(ウオリア・リカバリ)

 レイルガンの登場以降、「戦争のあり方」は一変した。

 ヘルムホルツ共和国が実地試験を経て実戦配備したものは、ミツドランド王国戦に用いられた初期型からさらに洗練されていた。

 機動性を増すために、金属棒が素材から見直されて軽量化が図られた。

 さらに「城壁が破壊可能な速度と威力を得るのであれば、金属棒がもう少し短くても十分間に合う」ことが分かって、全長が縮められた。

 それが、更なる軽量化と機動性の向上に大いに寄与していた。

 連射性能の向上、あるいは連射方式の検討も同時進行で行われていた。

 ミツドランド王国戦では金属棒の冷却に手間取って連射することができず、『神白狼ヂンパイロウ』の介入を許してしまったが、その点はレイルガンを三段重ねに配置することで解決したという。

 どうやらヘルムホルツには、日本史マニアか日本人技術者が転写トランスレイトされているらしい。改善のスピイドが恐ろしく速かった。

 そうして実戦配備に至ったレイルガンは、凄まじい破壊力を発揮して、一か月経過後には一つの国がヘルムホルツ共和国に併合されるほどだった。

 もちろん、各国もそれを傍観していた訳ではない。

 ミツドランド王国戦の様子を聞いた各国の技術者の中には、それがレイルガンであることを看破した者も少なからずいた。

 もちろん、大抵が技術顧問の立場にあった地球ガイアの人間である。

 彼らはすぐさまレイルガンの実用化に着手したが、流石に先行しているヘルムホルツを追走することすら難しく、現時点では実験段階に留まっていた。

 一方、実際に攻撃を受けたミツドランド王国は、防御系使役獣(デイフエンシヴ・エンプロイメント・ビイスト)の配備という手段を選んだ。

 本来であれば、戦場に放置されたヘルムホルツの初期型レイルガンを確保したミツドランド王国こそ、レイルガン開発競争において一日の長がある。

 ヘルムホルツ共和国も、それを想定してミツドランド王国侵攻にはかなり慎重になっていたほどである。

 ところが、ミツドランド王国内においては騎士階級を中心に『騎士道にもとる卑怯な振る舞いへの忌避感』という世論が構築されており、レイルガン開発を断念せざるを得ない状況に陥っていた。

 魔法攻撃は許せても、レイルガンのような物理攻撃は容認しがたいという。

 この点に関する教授プロフヱサアいきどおりは凄まじいものがあったが、彼女は所詮「人間」である。

 これまでの実績に基づいて尊重されていたが、発言力は限られていた。


 *


「まぁったぁく、ミツドランドの馬鹿どもの石頭ときたらぁ、中に何が詰まっているのかぁ、割って調べたくなるほどだぁ」

 教授プロフヱサアは自室で大声を上げた。

 彼女は酔っていた。

 目の前には背の高いコップが乱立している。

「そぉもそぉも、ヘルムホルツ共和国からのぉ王国首都決戦という宣戦布告を鵜呑みにしてぇ、途中拠点での防衛を全面放棄してぇ兵力を首都一極集中した時点でぇ、戦略というものがぁさっぱり分かっていないしぃ。お陰でぇ、少ないとはいえ王都外の国民からぁ『王都以外は王国に非ず、なのね』という目で見られるようになってしもうたぁ。その上、あのままレイルガンの連射を受け続けてみろぉ。その王都の城壁が破壊されつくしてぇ、丸裸だぁ。軽装型生体装甲で一気に王宮まで突入してぇ、制圧してしまえばお終いだよぉ。実際にベルツ王国の防衛線はその戦法で壊滅してしまったぁ。彼らは馬鹿ではないからぁ、地方の拠点で防衛線を構築しぃ、迎撃を試みたがなぁ。一時間で瓦礫の山と化したそうだぁ」

 そう言って、教授は目の前にある琥珀色の液体を飲み干す。「ウイスキイにしか見えないが、香りはビイルで、味は日本酒」という恐るべき液体が、するすると教授の喉に流れ込んでゆく。

 見た目「未成年の飲酒行為」にしか見えないが、実際は見た目以外「未成年」とは言い難い。

 それに、液体のほうにはアルコオルは含まれていなかった。

 液体と一緒に口に運んでいる「豆腐にしか見えないが、香りはチイズで、味は角砂糖」という食べ物のほうに強烈な濃度のアルコオルが含まれている。

 さすがにそちらは教授も、端のほうから少しずつ齧っているだけだったが、もう三つ目に突入していた。

「なあぁ、わかるか雄一ぃ!」

 そう言いながら、教授は僕の肩を思い切り叩いた。

 乱雑に巻き付けただけの衣が、先程からめくれ上がったり大きくずれたりしているので、見ている僕は気が気ではない。

 それに、自分と同じ必要な最小限のものしか置いてない殺風景な部屋とはいえ、女性の部屋には違いない。

 あまりにも無防備な教授の姿に、僕はミザアルに救いを求める。

「ミザアル、何とかならないの?」

 彼女は先程から空中に正座して、静かにお茶のようなものを飲んでいた。

 継ぎ足している様子はなかったが、無くなることはないようだ。

「申し訳ございませんが、こうなりますと御主人様マスタアを制止することは、私にはできません」

 ミザアルはにこやかに、しかし疑問の余地なく断言した。

 僕は嘆息する。

 

 *

 

 ここで話を少しだけ戻す。

 僕が食堂で夕食をとろうと考えていたところに、会議を終えた教授が頭から湯気をたてて戻ってきた。

 彼女は、物凄い勢いで食堂の厨房に飲み物と食べ物の注文をすると、

「ちょうどいいところにいた。雄一、ちょっとこっちにこい!」

 と、僕を引きずるようにして自室に連れ込んだ。

 これがミツドランド時間で二時間前になる。

 すぐに厨房から大量の飲み物と食べ物が届き、教授の部屋でミザアルを交えた三人だけの宴会が始まった。

 いや、正しくは教授の独演会である。

 今日の会議でのミツドランド王国近衛軍幹部の発言をいちいちあげつらっては、

「まったく戦略が理解できていない」

「戦術すらなくて、なにが幹部だ」

 と、彼女はさんざん毒づきはじめる。

 そこには「レイルガンの有効性についてどれだけ説明しても、理解してもらえない」ことへの苛立ちと、「自分がそれを遂行できない」ことへの苛立ちが含まれていた。

 次第に呂律が回らなくなっていく教授を見つめながら、僕は嘆息したものの、この時間自体は苦痛ではない。

 黙って教授の話を聞きながら、僕は「ウイスキイにしか見えないが、香りはビイルで、味は日本酒」という琥珀色の液体を飲み続けていた。

 僕は、対人関係全般に「居心地の悪さ」を感じる一方で、このような「酔っての愚痴」には慣れていた。

 向こうの世界での僕の親は、普段は無視する一方で、酔った時の怒りの捌け口として僕を利用していたからだ。

 酔った父や母から受けた精神攻撃に比べれば、「直接的には関係のない、しかし間接的には大いに関係のある」教授の愚痴は、我慢するどころかむしろ役に立つ。

 それに、いつもは自信満々な教授が、こうやって愚痴を垂れ流しているのを見るのは新鮮だった。

 僕は正真正銘の未成年だったから、「豆腐にしか見えないが、香りはチイズで、味は角砂糖」という食物は遠慮した。

 この世界は日本の法律の範囲外だから、別に構わないと言えば構わないのだが、なんとなく遠慮した。

 液体のほうは「味が日本酒でも、アルコオルが含まれていないのだから飲んでも問題はない」と判断したが、さほどおいしいとは思わなかった。

 それともアルコオルがあると違うのだろうか。

 教授の苛立ちはなおも続く。

「そりゃあ、私だってぇ戦争の専門家じゃあないよぅ。ないけれどもぉ、レイルガンという新兵器の出現がぁ、いくさを根本から変えてしまったことぐらい分かる。むぉう後戻りもできない。城壁は逃げるための時間稼ぎの意味しか持たにゃいんだ。それを、未だに『一般市民に迷惑をかけないことが武士道』とか、『正々堂々対峙してこそ武士の本懐』とか言っている。精神論でわぁ、勝てないんだよ、むぉう」

 コップをあおる。

「これでは第二次世界大戦における旧日本軍の失敗と同じだよぉ。全体のルールが変わったことに気づかずにぃ、今まで通りこれまで通りのやり方を続けた挙句のぉ敗北だぁ。どうして分からん。大局見りゃ明らかだろうに。そこで方向展開できない猪突猛進がぁ、この国の寿命を縮めていることにぃ」

 そこで、教授は突然下を向いて黙り込んだ。

「どうしたの、気分でも悪いの」

 僕が心配になって顔を覗き込むと――


 教授は泣いていた。


 いつもの自信満々の彼女どころか、そこにいたのは途方にくれた女の子だった。

「――済まない。こうなったのは私の責任でもある」

 教授は沈んだ声で言った。

「この国本来の騎士道精神を、日本の武士道精神が概念汚染イデア・ポリウシオンとなって強化してしまった。そこまで見越せなかった私のミスだ」

「そんな、教授は一所懸命にやっているじゃないか」

「一所懸命? そんなものはいくさじゃ何の言い訳にもならない。みっともなくても卑怯でも、勝たなければ仲間が死ぬだけだ」

 一瞬、いつもの『自信に満ちた教授』に戻りかけたが、

「――いや、済まん。私が今の雄一に言ってよい言葉ではないな。君はよくやっている」

「そんなことは……僕は仲間を守れなかったし……」

「そんなことはない。私や他の者ならば、もっと悲惨なことになっていたはずだ。君は仲間を少なくとも信じた。だから今も生きている」

 そうだろうか?

 仲間を失ってから一か月の間、何度も同じことを考えてみた。

 そして「あの時、僕はどうすることもできなかった。エミを助けることは無理だった」という点は、事実として受け入れることができるようになった。

 しかし「あそこまでマリを蹂躙し、カネとジイを酷使する必要があったのか」という点は、どうしても納得できなかった。

 自分の覚悟が定まっていれば、他に何か可能性はあったように思う。

 いくさであるから勝たなければならない、だから勝つために使える手段はすべて使う。これは確かに「戦争の真実」だと思う。

 しかし、その手段が「仲間の蹂躙や酷使でも仕方ない」ことなのだろうか。

 僕の考え方が甘く、現実はもっと厳しく非情で、そんなことを悩む時点で戦士としての適性がないということなのだろうか。


「――教授、あの、教えてほしいことがあるんだけど」

「何かな」

 彼女はすっかり落ち着いたようだ。

 さきほどまでの「途方にくれた少女」ではなくなっていた。

「このタイミングで聞くのも何だけど、教授にはミザアル以外の従者ジウサはいるの?」

 教授とミザアルが顔を見合わせた。

 ミザアルが優しく微笑む。

 それを見た教授が苦笑する。

 それを見た僕は、事の本質がやっと理解できた。

「私にはミザアル以外の従者ジウサはいないよ。他は皆、戦闘で亡くなってしまったから」

 教授は急に、いつもと違う言葉遣いを始めた。

 そして、僕にはその言い方のほうが自然に思えた。

「――補充は、したことないんだね」

「そうね、まったくしなかった。次第に現場じゃなくて研究に移行したから、その必要はなかったわ。貴方は戦闘要員だから、しない訳にはいかないと思うけど」

 これは嘘だ、と珍しく僕は確信した。

 が、彼女を問い詰めることはしなかった。

「そうだね。自分でもそう思うんだけど、彼ら以外の従者ジウサを受け入れる気分になかなかなれなくて」

「早くしたほうがいいよ。部屋が汚いという苦情が出る前に」

 教授はそこでやっと笑った。

 その日、初めての笑顔だった。 

「分かった。じゃあ、そろそろお願いするよ」

「手続きをしておくわ。ミザアル、宜しくね」

「承知しました、御主人様――記録完了です」


 そこでまた間が少しだけ空く。

 しかし、今度は気詰まりではなかった。


「雄一、お願いがあるのだけれど」

「なんですか、教授プロフヱサア

「その、教授という言い方をしばらく控えて欲しいの。私の本名は劉さんから聞いているよね」

「はい。確か、有働亜里沙うどうありささんでしたね」

「亜里沙、でいいわ。私も雄一と呼んでいるのだから」

「うーん、実は女の子を下の名前で呼ぶのは、慣れてないんだよね」

「いいから、早く」

「えーと、じゃあ。亜里沙さん」

「さん、が余計だけど、まあいいわ。最初からハアドルが高いのも可哀想だから」

 と言って、彼女は琥珀色の液体を飲む。

 そこにはいつもの『教授』ではなく、確かに見た目と年齢に違いのない『亜里沙』がいた。

「そういえば、どうして亜里沙さんは教授プロフヱサアと呼ばれているの」

「う……早速そう来たか」

「あ、もしかして言いにくいこと? だったらいいけど。素朴な疑問だし」

「そうね。まあ、あまり話したいことではないけど、まあいいや。聞いてちょうだい」

 亜里沙は、思い切るようにコップを空にする。


 考えてみれば当然のことなのだが、亜里沙の実像は地球ガイアで高い業績を残した。

 ボルザにおける生体装甲バイオ・アアマ開発と似ていなくもない、オオダアメイド医療に関する研究で高い実績を残し、その成果は『アリサ・メソツド』の名称で呼ばれていた。

 そして、転写された英米系の研究者には、その分野に造詣の深い者が多かった。

 彼らが尊敬の念を込めて亜里沙を教授プロフヱサアと呼び始めたことから、その呼び名は定着して今に至っている。

 

「それだけのことなの」

「そう」

 最前の彼女の顔色を見た時、何か深遠な事情が隠されているのかなと考えたのだが、そうでもなかった。

 亜里沙は既にしれっとした顔で、琥珀色の液体を飲みながら砂糖味の食べ物を口にしている。

「ふうん、そうなんだ。僕が知らないということは、時代が違うのかな」

「女性の年齢を詮索するのはマナア違反」

「いや、だから、そういうのじゃなくて――」

 亜里沙は笑っていた。

 からかわれたことに気が付いて、顔が赤くなる。

「分かっているわよ。そうね、雄一が転写された時点での西暦を教えてもらえるかな」

「二〇一五年、高校一年の夏でした」

「おや、過去形。適応が速いわね」

「それほどでも」

「ということは生まれは一九九九年前後ということね。だったら、私より年上になるよ。私は二〇〇二年生まれだから。ふうん、私、昔からお兄ちゃんが欲しかったんだよね」

 そういって亜里沙は僕の左腕に右腕を絡ませて、寄り添った。

「えっ?」

 ちょっと待て。

 なんだか計算がおかしいぞ。

 地球ガイアにおける生年月日では、確かに僕のほうがお兄さんだ。

 しかし、ボルザにおける経験を加味すると、亜里沙のほうがはるかに年上になる。

 しかし、見た目の変化がほとんど生じないようだから、それを勘案すると僕のほうが肉体的には年上で。


 いや待て、亜里沙は何歳の時に転写されたんだ?


 それを聞こうとして思い留まる。

 危ない、それは明らかにマナア違反。

「ちぇっ、つまんないの」

 それを狙っていた亜里沙は、すねたような顔をしながらも僕に身を寄せてきた。

 殆ど僕に覆いかぶさるような状態になってから、彼女は耳元で呟く。

「――ごめん、しばらくこのままでいてくれるかな」

「――分かった」

 僕は何も聞かずに了解した。

 なぜなら彼女が、今度は本格的に肩を震わせて泣き始めたからだった。


 *


「眠ったかな」

「お眠りになりましたわ」

 僕はミザアルに確認してから、泣き疲れて眠ってしまった亜里沙を起こさないように注意しつつ、身体を起こした。

 その際に抱きかかえた彼女の身体は、柔らかくて、暖かくて、いい香りがした。

「私のことなら気になさらなくても結構ですよ」

 ミザアルが落ち着いた声でそう言った。

 決して茶化している訳ではない、本気の声だった。

「いや、僕はその――」

 口籠る。何と言えばよいのか分からない。

 情けないような、でも自制すべきことのような。

 ともかく亜里沙をベツドに運ぶ。

 彼女は思ったよりも軽かった。


 そのまま後片付けを手伝う。

「今日は有難うございました。それに申し訳ございません、最後までお手伝い頂きまして」

「いやいや、仕方ないです。重い物を片付けるのは無理があるでしょう?」

「そんなことはございません」

 ミザアルは軽く手を振る。

 氷の柱がコップを内部に取り込み、キツチンらしきところに運んだ。

「なるほど」

 それから、特に何を話すでもなく作業を進める。

 大体の片付けが終わったのは深夜に近かった。

「お泊りになりますか」

 と、やはり真面目に言うミザアル。

「いや、今日はやめておきます」

 と、僕。

 そして何だか急にお互いに黙ってしまう。

「――ごめんね。亜里沙が嫌いなわけではないんだけど。僕はこういう人との付き合いに慣れていなくて」

「雄一様は真面目でらっしゃいますからね」

「そういえば最初の頃、自己防衛がまだ設定できていなかった時のことだけど、僕の考えていることは彼女にそのまま伝わっていたのかな」

「はい、私にも伝わりましたので」

「あ、そうなんだ。しまったなあ。それで真面目だなんて言われても」

「雄一様は、そんな変なことはお考えになりませんでした」

「そうだっけ。そう、かな。全然覚えがないや」

「……」

「ミザアルさんには亜里沙の声が聞こえるの? 随分と以心伝心みたいだけど」

「いえ、武装妖精アアマド・ピクシイには契約した御主人様の心を読むことが出来ません」

「えっ、そうなの。それじゃ不便じゃない。むしろ逆なんだ」

「はい。いつも一緒ですからね。そのほうが問題が少ないということだそうですよ」

「ふうん、なるほどね」

 沈黙。

「――あの、私の方からもお伝えしたいことがございまして」

「ああ、そうなんだ。早く言ってくれればよかったのに」

「私の御主人様が聞いていらっしゃる時に、他の御主人様に私用をお伝えするなどという、はしたないことはできかねるものですから。雄一さんからすると『カネ』のことでございまして。今は別な名前ですけれど」

「……どうして君がそれを?」

「私たちは系統が一緒でございますし、それに彼女とはもともと同族でございますから」

「えっ、そうなの?」

「はい、黙っておりまして申し訳ございませんでした。それで、お話なんですが――」

「……どんなことでも覚悟はできていますから大丈夫です」

「彼女からこう伝えてほしいと言われました。まずは『有難う』」

「……」

「自分のようなはみ出し者を受け入れて、普通に接してくれた御主人様は久しぶりでした、と。それはジイもヨルも言っておりました、と」

「……」

「御主人様が嫌になった訳ではなく、やるべきことができてしまったためにお別れすることになりまして申し訳ございません、と」

「……」

「以上です」

「……そんな、むしろ僕がマリを押し付けた形になってしまったのに」

「彼女はとても正直ですから、形式的なことは申しません。本当に、心から感謝していると思います」

「……こちらこそ本当に有難う、と伝えて頂くことは?」

「機会があれば、としか申し上げることができません」

「それでも構いませんから、お願いします」

「承知しました」

 沈黙。

「――ところでこの部屋は必要な設備が揃っているね」

「そう、ですか?」

 亜里沙が起きている時にはあまり不躾に見ることができなかったので、改めて見回してみる。

 トイレおよびバスは当然。キツチンや収納もある。

 僕の部屋とは大違いだ。

 似ているのは物が少ないという点だけだろうか。

 そこで僕は、ちょっとした違和感を覚える。

「あの、ミザアルに亜里沙の個人的なことを尋ねるのは、マナア違反になるのかな」

「そうですね。あまり御主人様マスタアのプライベエトなことはお答えできませんけど、どのようなことでしょうか?」 

「前に劉さんから、亜里沙は転写されてから三十年近く経っていると聞いたんだ。でも、それにしては荷物が少なすぎるような気がして」

「んー、義理義理ぎりぎりでございますね。あまり詳しくはお答えできませんが、最近処分したとだけお答えしておきますわ」

「分かった、ごめん。ありがとう」

 慌てて僕は言った。

 すると、ミザアルが黙って僕を見つめる。

 しばらく間があいた後――


 彼女は思い切り溜息をついた。


「えっ、何それ。何か僕悪いことでもしたかな」

「いえいえ、構いません。大したことではございませんから」

「なんだかミザアル、怒ってない?」

「怒ってなんかいません、ちっとも」

 そう言いながら、ミザアルは明らかに怒っていた。

 なんだか分からないまま、僕は部屋を出る。


 *


 頭を捻りながら立ち去る雄一の後姿を、窓際にもたれて見送りながら、ミザアルは呟く。

「間に合うかな……」

 彼女の右腕には禁忌タブウを犯す寸前を綱渡りしたために、まだら模様が浮き上がっていた。

 今は全身が痙攣している。

 それが収まっても数日の不自由は甘受しなければならないだろう。

 なにしろ御主人様の了解を得ずに、御主人様の個人的な話をした罰なのだから。

(雄一さんに気付かれないように誤魔化すのが大変だったけど、どうやら大丈夫そうだわ。自分にはこんな程度のお手伝いしかできないけれど――)

 ミザアルの意識はそこで途絶える。

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