第一章 姫君逃走(プリンセス・エスケイプ)
第一話 小人転写(ホビツト・トランスレイト)
「これより、第三千五百二十九回目の
彼の
遠目には黒一色にしか見えない彼の
「
堂の中央部を向き、横一線に並んで
筆頭大神官は、心裡に浮かぶ
「
「
四人の裡面傾向が、同時に緑から
それと呼応するように、堂の中心に透明な球体――転写空間が浮かび上がった。
筆頭大神官は指示を続ける。
「
「
これに応じたのは、四人の大神官の背後にいた三十人の
彼らは間隔を
声を上げると同時に、堂中心部の神官から順次、頭の後方に心裡を開いてゆく。
裡面傾向は、やはり全員緑だった。
*
その様子を、取り巻きに囲まれた一人の女が、
彼女は、他に重要な案件がない限り降臨儀式に同席している。
では儀式に熱心かというと、そうでもない。先刻から
その視線は冷ややかだった。
*
「
「
神官の裡面傾向が、今度は堂の端から橙に変わってゆく。
その変化が堂中心部の大神官にまで及んだ時、四人の大神官のうち、真ん中に結跏趺坐した二人の心裡が、四倍の面積に拡大された。
二つの心裡には無数の人間の顔が、次々と浮かんでは消えてゆく。
最初のうちは別々の人物が表示されていたが、次第に時間差で同じ人物を表示するようになり、最後には
「
「
三十人の神官たちは意識を集中させる。
裡面傾向が、橙から
目まぐるしく変化していた大神官の二つの心裡に、同一人物の顔が浮かんで固定される。
若い男性。
高校生ぐらいだろうか。
極度に肥満しており、身長が
彼は薄暗い道を、下を向いて歩いていた。
*
「暗いな」
階上の女が、無表情で呟く。
「御意」
横に直立不動していた、枯れ木のような老人が応じる。
*
「
「
神官の裡面傾向が、橙から赤へ堂の端から順次変わってゆく。
その変化が堂中心部の大神官まで及んだ時、堂中心部の球体内に変化が生じる。
球体の中心から染み出すように
そのまま
粒子が凝縮して霧となり、霧が凝縮して雲となり、雲が凝縮して実体となる。
先刻の心裡に浮かんでいた高校生の姿が、転写空間に浮かび上がって、とうとう――
*
「醜いな」
階上の女が、無表情で呟く。
「御意」
横に直立不動していた、枯れ木のような老人が応じる。
*
実体が転写空間内に
*
――歩いているうちに気を失ったのだろうか?
急に歩いている感じが消えた。
むしろ、自分の身体がふわふわと空中を漂っているような気がする。
それに服を着ていないような気までする。
――どういうことだろう。
目を開けたいのだが、まぶたが言うことを聞かない。
学校から帰る途中の、駅から自宅まで向かう途中にある商店街の、錆びついて最後にいつ開けたのか定かではないシャッターのようだった。
――というか、僕は学校から帰る途中だったはず。
身体も動かない。皮膚の感覚もなんだかあやふやだ。
まるで、自分という実体が、まだ固定されていないかのようだ。
次第に、わずかずつ上がってゆくまぶたの向こう側、少しずつ明るくなってゆく世界には――
無髪の男性が四人、横に並んで床に座っていた。
全員が同じく、ゆったりとした黒い布を身体に巻き付けて、目を閉じている。
頭の後方に液晶ディスプレイのような長方形の『画面』が浮かんでいた。
画面には赤地にパラメータらしき数値表示と、日本語らしき文字が並んでいる。
その後ろには、四人と背中合わせになった黒衣の男たちが二列に並んでおり、その頭の後ろにも画面が並んでいた。
その画面にも、一様に赤地、数値、日本語が表示されている。
部屋が暗いせいか端がどこまで伸びているのか分からないが、画面が途中で途切れているから、そこが末端だろうと推測する。
視線が上がるようになってきたので、上のほうを向いてみると、劇場の二階席のような張り出し部分があり、そこには十人ぐらいの人物がいた。
下の男たちと同様に黒衣の者もいたが、色とりどりの布を重ねて金色のベルトで留めた男や、薄衣の下の下着らしき布が透けて見えている女もいる。
おそらく中央に座っている女が、一番身分の高い階級なのだろう。
部屋は暗いし、僕にはその辺の知識がないので正確には分からなかったけれど、金糸や銀糸をふんだんに使った刺繍やレース飾りのようなものなど、桁違いに豪華な衣装を着ていることだけは理解できた。
顔を見ると、大きな瞳にバランスのよい鼻と口が、小さめの輪郭に収まっている。
金色の巻き毛がそれを飾っていた。
ただ、表情がないので、非常に冷たい印象を与える。
――いや、待てよ。表情がないというより、あれは。
*
「無様だな。なんで恥かし気もなく生きていられるのかな」
階上の女が、無表情で呟く。
「御意」
横に直立不動していた、枯れ木のような老人が応じる。
*
――人を見る目じゃない。興味のない物を見る目だ。
親や友達から向けられる色のない視線、自分が「何か特別なものではないことを思い知らされる」視線だ。
その残酷さに耐えられずに視線を落として、僕はやっと気がついた。
その下に、禿げて皺だらけの老人が立っているということは、僕は全裸で男性の頭の上に浮かんでいるということに――
*
「
「
筆頭大神官の指示に従い、四人の大神官は転写空間に別経路の
*
二階席の高貴な女性が、自分の裸を無表情に見つめていることへの羞恥と、どうやら空中に浮かんでいるらしいという疑念とがないまぜになって、僕は大混乱に陥る。
反射的に手で前を隠そうと考えるが、まだ身体が言うことを聞かない。
――えっ、えっ、どうしよう。
どうしようもないのだが、気持ちばかりが焦る。
と、そこに頭の上から冷たいものが落ちてきて、背中に当たった。
そのひやりとした感触で一挙に頭が醒める。
――ひっ!
そしてそれは、次から次へと止めどなく落下し始めた。
目の前にも落ちてきたので、手に取って見てみる。
ヒルやミミズに近い、見たこともない軟体動物が無数に絡み合っていた。
それが自分の周りにみるみるうちに積み重なっていく。
別種の焦り、生理的嫌悪感が僕を
僅かばかりの時間で、軟体動物は僕の身体の半分を埋め尽くすほどになっている。
足は
しかし足の指先、爪の間から何かが差し込まれるような鈍い痛みがして、そこにあることを主張していた。
爪先の痛みは拡大してゆく。
それどころか、足の皮膚のあちこちにも、細い針が無数に差し込まれているような気がする。
痛くない注射針というのがあるが、あれと同じように「痛みはさほどではないが、確実に何かが差し込まれている」存在感がある。
そして、口のところまで軟体動物に埋もれた時には――尻の穴から何かが内部に差し込まれる感触があった。
鈍い痛みに微かな快感が混じる。
尿道も侵入を許したらしい。
こちらは明確な快感がある。
視界まで軟体動物に埋もれながら、僕はそこから下にある穴という穴に何かが差し込まれる感触に、背中を逸らして硬直していた。
――気持ち…いい…
*
「
白い衣を
「
降臨堂とは別な部屋。
巫女たちは横四列、縦三行に並び、頭上後方に心裡を展開している。
教授と呼ばれたのは、巫女たちの後方、一段高くなったところに仁王立ちしている若い女性だった。
長く伸ばした癖のない黒髪を頭の後ろで無造作に纏めており、見事な富士額が露出していた。
青白く輝く大きな瞳。右目に掛けられた
雑な布の
背はさほど高くない。
それは、彼女が未だ成長途中にある『少女』だからだが、口を開くとその外見に似合わぬ尊大な言葉が
「――非常に面白い。この異常な数値上昇の速さはどうだ。個蟲どもが喜び勇んで穴という穴に神経結合している姿が、目に浮かぶようじゃないか。さぞかし
「
「ほう、まだ浸透していくか」
「
「何?」
教授が、普段の冷静な彼女には似合わぬ声を上げる。
浸透率が百を超す――つまり、体表面や、外部に開口部を持つ『穴』の
考えられる可能性は、喉や胃、肺などの呼吸・消化器官までの浸透だが、会話不能になるなどの弊害が生じるため、それは個蟲の育成段階で
ともかく前例がない。
《
「
《まさか、
「
教授の懸念は杞憂に終わったが、この三〇端線図の余分な数値が何を意味しているのか、現時点では見当もつかない。
《前例のない、なかなか面白い展開だな》
教授の口元がだらしなく
「
個蟲は生体融合者に浸透すると同時に、浸透した部位の機能を
この過程のことを機能分化と呼ぶ。
「
「どうした?」
「
「何だと!」
「
「どういうことだ?」
それらはすべて、
外部角質は、個蟲の中でも極めて微細な
粒蟲は、育成段階で初期設定を施されているから、それに従わないということは生体融合者からの
それにも前例はない。
教授は
情報解析では実際の状況は分からない。
向こうに
――どうした、グイネル。現場で何が起きているというのだ?
*
教授が『グイネル』と敬称抜きで呼んだ筆頭大神官は、転写空間の中で生じている事態に驚愕していた。
初期鎧形態への機能分化自体は生じているのだが、初期設定には従っていない。
兜から伸びて首を守る錏と吹返、肩から垂れ下がる大袖、腰から垂れ下がる草摺に加えて、頭部から伸びる
さらに、混入した個蟲の量に比べると、鎧が小さすぎた。
まるで、個蟲自体が
それによって縮んだ体表面に、通常よりも過剰に混入された粒蟲が密集していくわけだから、結合の密度や外部角質層の厚さが増加することになる。
要するに鎧の強度が増すのだ。
目の前で
初期鎧形態が完了したら、次の段階に速やかに移行しなければならない。
しかし、目の前の鎧は、どの形状になったところで完了と判断すべきなのか分からないのだ。
しかし、通常形態からすると八割程度まで萎んだ目の前の鎧は、なおも凝縮を続けている。
――一体、いつ終わるのだ?
外部の装飾を一切省いたような滑らかな形状の鎧が、凶悪な圧力で内部に押し込まれていくのを、グイネルはただ凝視するしかない。
七割方縮んだところで、凝縮が見た目に分からなくなる。
――鎧の形状は、極めて
と判断した筆頭大神官は、告げた。
「
「
四人の大神官の赤い心裡に、
「焼結!」
「
*
波のような快感の中、思考もままならぬ状態で揺られていた少年――
絶対的な闇に少年は絶叫したが、無論、周囲には聞こえない。
*
大神官による
外部角質を構成する粒蟲は金属粒子や粘土を体内に蓄積するため、そこに高熱を加えることにより
鎧の強度は、粒蟲の密集度合いと焼結の加熱度合いに左右されるものの、一概に長ければよいというものでもない。頃合いが重要なのだが――
折悪しく
王国は大半が城壁で囲われており、城壁自体は
国民は基本的に城壁内に居住させられていたので、防衛といっても国境線での守備ではならない。拠点防衛である。
従って、警報は「敵が城壁外の防衛線まで侵攻している」ことを示していた。
これは日常茶飯事のことで、特に珍しくはない。
神官も、事前に定められた手順に従って、国土防衛のために持ち場に着かねばならないのだが――
このまま焼結途中の鎧を転写空間に維持することもできなければ、高温のままで堂内に放置することもできない。
それでは自分の家に自分で放火するようなものだ。
――やむをえない。
筆頭大神官は即座に判断した。
「
「
四人の大神官と三十人の神官が応じた。
全員の心裡に、図案化された『
「放棄!」
「
*
闇の中で長い間絶叫していた雄一は、突然、身体を押さえつけるような力を感じる。と、同時に周囲の個蟲たちが一斉に液体を分泌し、それが間を満たすのを感じた。
しかし闇は去らない。
変化に気を取られていた少年は、再び絶叫する。
*
王都の城壁外、攻め手と守り手の中間地点となる牧草地の上空三○目取に、回廊が開く。
そこから排出された生焼けの生体装甲は、個蟲による姿勢制御により、牧草地に片膝を突いた姿勢で着地した。
と、同時に周囲一〇目取の草と樹木が一瞬にして焼き尽くされる。
黒煙と炎が上がり、それを見た攻め手の
幾万の
幾万の
幾万の
幾万の
それが極めて短時間のうちに数百回ほど繰り返されて、攻め手側の、
「
という合図により、静寂が戻る。
両軍の中間地点には巨大な穴が生じていた。
*
教授は、外で行なわれたことを一部始終、守備兵から送られてくる
――もったいないことをした。流石にあれでは生体装甲といえども無事には済むまい。念入りに加熱しておけば面白い結果が出ただろうに。
と、彼女は眉を上げて残念がる。
外部角質は最初の焼結がすべてを決める。やり直しは効かない。
破損した外部角質は、微弱魔法を帯びた個蟲により元の破片を参考にした再構成――装甲再生を受けるのだが、元々の強度を上回ることは決してないのだ。
――それに、あそこまで袋叩きにあったのでは、元も何もあったものではない。さぞかし細切れに破断されていることだろう。
「
「何!」
巨大な穴の中心部には、片膝をついたままの生体装甲の姿がある。
「
「何!」
「
教授は、力なく椅子に座りこむ。
*
「全員、対”
「
神官および大神官の心裡に、図案化された『楯』が裡面傾向表示される。
しかし、自らの防御結界を展開しながら、筆頭大神官グイネルは「このうちの何人が耐えきれるのか」疑問に思っていた。
*
「姫君」
「許す」
「御意」
枯れ木のような老人が階上の女の前に立つ。
彼の目の前に、
*
巨大な穴の中心部で、表面が炭化した生体装甲が身動きを始める。
足が伸びて上体が起こされると、表面の炭化した層は
その下から白く輝く装甲表面が覗くが、それをこれから一時間の間に
なぜなら、生体装甲の
「
という叫び声が響き渡ったからである。
同時に生体装甲を中心とした半球が、衝撃波のように拡大する。
無生物や植物には何も影響を及ぼさないその波が、攻め手の最前線に到達すると――
騎士や生体装甲は、その場に力なく倒れた。これは守り手である城の住民も同じである。
双方が”
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