「18」


理由―Why?―



現国の時間だったと記憶している。小難しい昭和の時代に書かれた小説を読んでいる。作者の名前は……忘れてしまった。いや、もちろん思い出すことはできる。作家の一人や二人、簡単に思い出そうと思えば思い出せるが、わざわざ思い出すほどのものでもない、ということだ。この瞬間、今においては、現国の時間に読んだ小説の作者の名前なんて思い出す必要なんてないからだ。そこは大切な部分ではない。大切なのは、この時、私は現国の授業を受けていた、ということだ。それも大切なことではないのかもしれないが。

 その日の担当の生徒が教科書の文章を読んでいる。どんな内容なのか、耳に入ってはくるが脳がその内容を分析し、吟味するまでには至らない。いわゆる右から左へ筒抜けしている状態だ。何というか、今日は授業を受ける気があまりない気分だった。こういう時はたまにある。なんというか、力が入らないのだ。5回に1回ぐらいの割合でこういうことがある。そのおかしな何かがある日の前日も、ちゃんといつもと同じ時間に寝て、いつも通りの目覚めを伴って起床する。覚醒もする。何もかもが同じなのに、ほぼ5回に1回という割合で力が入らない不思議なことが起きる。今に始まったことではない。中学校、いや、小学校の時代からこういったことがあった。こうしたことが起きた当初はどういう気持ちだったのか、どう思ったのか、なんて覚えてはいないが対策は取った。昔から対応能力は人並にあったんだな、と今にして思う。と言ってもその対応はあっさりしたものだ。

 どうせ授業が耳に入らない、集中できないんだったら、寝てしまえばいいじゃないか、と。

 1回そう決めてしまったらその後はなんとも楽だった。授業の後、同じクラスの子と別のクラスの子のノートを1日だけ貸してもらう。友達はそれなりにいた。平均よりちょっと多めの方だったかもしれない。人と話すのが嫌いではなかったので少しノートを貸して欲しい、と言ったらすぐに貸してくれた。テストの勉強も友達と一緒にすることが多かった。私がテストに出るところを予想し、友達に教えることもよくあったが、そのヤマハリのようなものは良く当たると友達から嬉しがられた。それが私にとっても嬉しかった。そういった友達は同じクラスにも、別のクラスにもいたので、ノートを借りるのには大して苦労しなかった。そして、3,4つほどのノートを調達し、しっかりと自分のノートに書き写した。寝てしまったところの部分をコピーして印刷し、ほぼすべての部分を網羅できるようにした。3、4つほどわざわざ調達する理由は言うまでもなく見落としをなくすためだ。大体眠くなった日の夜はいつも以上に目が冴えていて、集中できた。寝る時間が1、2時間ほど遅くなり、睡眠時間も通常の1、2時間ほど削られてしまったが、翌日にはまったくと言っていいほど響かなかった。そして私は、この生活が馴染んでいた。好きではなかったかもしれないが、馴染んでいたのだ。

 とまぁ、こんな生活がもう何年続いたのだろう。気付けば高校3年生になっていた。クラスが替わり、もう少しで1ヶ月が過ぎようかという今日この頃。そんな今日この頃は現国の授業。その現国の授業で5回に1回のソレを迎えていたのでうつら、うつらと船を漕ぎ出そうとしていた。今日の担当は私ではない。だから寝ていたとしても大して問題ではない。授業後にしっかり、いつものように友達のノートを貸してもらえば大丈夫だ。だから、この時間は寝ても大丈夫……。

「はい、じゃあそうだな、この文章は次に……鳳! 読んでみろ」

ヴぇ!?

何かの心理学用語であったような。東京、渋谷のものすごい喧騒の中で、他の人が何をしゃべっているのかわからない状況にあっても、自分の名前やら何やら、自分に関係するものはクリアに聞こえてしまうとか何とかという現象があるようだ。今の状況がまさにその状況だ。もう寝ようと思って、半分呆けていたこの状況で教師の言っていることなど何ひとつ聞こえていなかったはずなのに、自分の名前が呼ばれたときだけその声がクリアに聞こえた。

「どうした? 鳳。次の文章だ。読みなさい」

「え、えっと、はい! た、ただいま……」

と心持ちゆっくり返事をして時間を稼ぐ。しかし、そんな時間稼ぎはただただ虚しいだけだ。さほど時間稼ぎにもなっていない。必死になって現国の教科書を端から端まで目を通す。そりゃあもう目まぐるしいほどに。視線が上から下、右から左にバタフライのような忙しさで泳ぐ泳ぐ。しかし、前の奴がどこを読んでいたのかさっぱりわからない。心当たりもない。引っかかることも無い。自分の名前は聞き逃さないのにさっきまで誰かが読んでいた文章の内容は思い出せない! なんと悲しいことか人間の頭脳! というかもっと大きな声で読んでおけよ、前の野郎。おのれ、どうしよう。どうすればいいんだろう。

「エ、エヘンエヘン」

もう1回だけ時間を稼ぐ。時間を稼ぐためのわざとらしい咳払い。教室の空気が冷えつつあることに気付く。……もう限界だ。ここでおとなしく、「先生、寝ていてわかりませんでした。どこを読んだらいいか教えてください」と白旗を揚げるかッ!?別に成績とかには響かない(はずだ)。少しばかり友達の話のタネになるだけだろう。しかし、できることならこの場を無傷で切り抜けたい……!


「せんせー!」

その時。現国の教師でも私の声でも無い、第三者の声がした。授業中で静まり返った教室。完全に冷え切った雰囲気。その中でまさか、誰がこんな?

「なんだ、悠宮か。どうした?」

その声の主は意外と近くにいた。近くに、どころじゃない。私の隣の席に座っている悠宮梓の声だ。

「いや、先生。実はですね……」

神妙そうな声を出す悠宮梓。少し前まで私に向かれていたと思われるクラス中の視線は今、悠宮梓に向いている。そして悠宮梓は立ちあがって、

「ちょっと、先生のオデコのテカリがひどくて、僕、先生の方を見ることができないんですよー!」


……面白くない。しかし、言っていることが面白かろうと面白くなかろうと、間は空く。一瞬の間が。


一瞬。間が空いて後。


プッ クスクス フフッ ハハッ


 最初に笑ったのは大川だった。この時の鳳茜は大川のことを知らないが。


「「ワハハハハハハハハハハハハハハハ!!」


クラス一同が爆笑した。

最初はクスクスッ、だったりプッ、といったような一過性の吹きだし笑いだった。しかし、あまりにも唐突な不意打ちだったので、その一過性の笑いがすぐさまクラス中に広がった。そしてその広がりがクラスの笑い上戸を担当する数名にも伝播し、爆笑になった。

その様子を見ていた私はまさに茫然自失としていた。何が起きたのか理解するのに少し時間がかかった。

 私は、助かったのか? いや、違う。助かってはいない。時間がほんの少し延びただけだ。しかし、今から教科書を探しても間に合うとは到底思えない。手がかりが何も無いのだ。

 その時、隣の席の悠宮梓の右手が私の席に伸びていたのに気付いた。表情は、笑っていた。しかし、こちらに顔は向いていない。その表情は『うっかり授業中に先生の悪口を言ってしまった悪童』そのものだった。そしてもう一度机の上に目を戻すと、彼の右手はもう無かった。その代わりに小さくまとめた、ノートの切れ端のようなものが置いてあった。

『34ページ 6行目「そして私は思った」の次の部分から』


それに気付いて私は急いで教科書を見た。今開いているページは34。6行目……6行目……。『そして私は思った』という文章に目が留まった。この次からだ。


それから3分ほど経っただろうか。授業中のちょっとしたイベントが終わり、真面目な授業の雰囲気に戻った。私は彼のカンニングペーパーを信じ、読み始めた。正解だった。彼は、本当のことを私に教えてくれていたのだった。読む直前に彼は私のことを嵌めようとしいているのではないか、と思った自分を恥じた。

 そして、私は授業が終わった後に、彼にお礼を言おうと思った。しかし、なぜか言葉が出ずに、お礼を言いそびれてしまった。彼も私にそのことについて何も触れてこなかった。だからいつの間にか、お礼を言えずに今までに至った。今までに、そしてこれからも、永遠に。

 自分はまったく得をしないのに。もしかしたら自分が先生に怒られてしまうかもしれないのに。その危険をあえて冒して彼は私を助けてくれた。彼のお陰で、私はその日の昼休みに友達に笑いのタネにされるのを免れた。クラスの連中の晒しモノになるのを免れた。彼は、まったくの無償で私を助けてくれたのだ。それに、その後も私にお礼を求めてこなかったりしなかった。その一連の出来事が私に何かを植え付けた。不思議な種が私の心に蒔かれたのだ。彼は本当に何事も無かったかのように、自分が別に何もしなかったかのように振る舞った。私にとってそれはぼちぼち大きい出来事だった。彼と私の間にあるその認識の違いも私が彼に心惹かれる理由のひとつになった。彼は一体どういう人なのか、興味を持ったのだ。

 そしてそのちょっとした事件が起きて数日後、席替えがあった。私と梓君は離れ離れになってしまったが、幸いなことに私の席は窓際後方で、梓君は前方中央の位置だった。何が幸いなことか説明すると、私の位置から梓君の横顔が見えたのだ。後ろから見えるから、自然な形で見ることができた。黒板を見るフリをしながら、チラッと梓君の横顔を見ることが。観察、とまでは言わないものの、眺めることはできた。後ろから前を見るだけだから、誰も文句は言わないし、言えないだろう。それからは私のちょっとした楽しみになった。黒板に書かれた数学の答えがすぐにわかって暇になった時に梓君の横顔を見る。梓君も解けていたようで、退屈そうな顔をしていた。しかし、決してだらしない表情ではなかった。そういった色んな顔を見るのが楽しみだった。日替わりメニューのランチに何が出てくるのか楽しみなように。


 梓君に彼女は、いわゆる特別な想いを持つ女性はいるのだろうか。そんなことを考えたのはあの授業の出来事が起きてから、1ヶ月ほどが過ぎた頃だっただろうか。気付けば暇な時、手すきの時、何か見るものに困った時は梓君のいるところを見つめるようになっていた。彼は一体何をしているか、誰とどんなことを話すのだろうか。そんなことに興味を持つようになった気がする。 

 しかし、彼は特定の女性と話すはないように見えた。特定の男子生徒とよく話していた。名前は確か、大川優誠さん、だったかな。多分そうだ。大川優誠さんを除くと、他の人とは二言、三言しか彼は話していないように思えた。男、女に限らず。おそらく最低限の事務的連絡事項しか話していないのだろう。他の人とは。


 高校生活最後の夏休みが近づいていた。中間テストは学内で3位だった。目標は5位以内だったので、とりあえず目標が達成できて良かったと思う。そのことを長野にいる両親に話したらとても喜ばれた。それはかなり嬉しいことだった。自分が設定した目標を達成し、その目標を達成したことに関して褒められることというのは決して悪いものではなかった。昔の高校時代とはえらい違いだった。もう少しで期末テストだったが、私にとって期末テストはあってないようなものだった。自分の勉強方法にはもう絶対的な自信があるし、高校3年生の最初の中間テストも思った成績が残せた。このリズムを崩さずにやっていけば期末テストも難なくクリアできるだろう。だから私はその次のことについて考えていた。


夏休みだ。


高校1年、2年と夏休みは特に変わり映えも無く実家の長野で過ごした。友達にどこか遊びに行こうよ、とよく誘われたが、1、2回だけ一番よく話す友達とプールやら街やらへ行っただけで長い間ずっと遊び倒す、ということはしたことがなかった。

 だから今年は、高校最後の夏は、別のことをしたかった。私立M学園の夏休みは大学と同じように8月と9月も休みになる。と言ってもまぁ、8月、9月それぞれ2週間ずつの夏期講習が予定されているため、実質1ヶ月の夏休みなわけであるが。

 この1ヶ月の、せめて半分。2週間は実家の長野で過ごすとして、後の半分の2週間は何か別のことがしたかった。今までに1回もしたことがない、何かが。

 呆っと考えてみた。自分が一体何をしたいのか。それは言うまでもなく、今まで自分がしたことがないことだった。思えば、自分の人生はいつもそんな感じだった。いつも新しい刺激を求めていた。そういった刺激を求めて、刺激をもらい、自分の人生がもっと楽しいものへとしていた。そしてさらに新しい刺激を求めた。

 こうした一連の良質なサーキュレーションが出来上がっていた。自分の人生は今、とても楽しい。心地がよかった。初めてだった。自分が選んだ、自分が選択した道を間違いでなかったと思えた日々は。そしてこれからもこの気持ちは未来永劫、続くと信じていた。この先に、どんな災難があろうとも、どんな受難の日々を強いられたとしても、この選択だけは決して間違いないと、誰にでも胸を張って主張することができる、と。そう信じていた。信じて止まなかった。


 

父の訃報を知ったのは、私が高校に入って生活を初めて2年と少しが経った頃。つまりは高校3年生の時だった。梓君に出会い、私自身でも驚いてしまうあの告白劇から僅か1週間後の出来事だった。東京の家には親戚の叔父さんが車で迎えに来てくれた。ここ数年会ったことのない叔父さんと東京という地で会うその非日常感が、私に何かおかしいことが起きたということを実感させてくれた。

 車の中で叔父さんに父が死んだ経緯を聞いた。父は、いわゆる普通の死に方をしなかった。一瞬、叔父さんが何を言っているのか、本当にわからなかった。

 父が、喧嘩した末に殴られて死んだ、なんて誰が信じられよう。

 父は、あまり屈強そうには見えなかった。私には喧嘩の強弱なんて判定しようが無いが、それでも屈強そうには見えなかった。アウトドア、インドア派かの二択を迫られたら持ち金すべてをインドアに賭ける。レバリッジを高めに設定してもいい。そんな感じの人物だった。それが、殴られて死んだ? なぜ? どうして? どういった経緯で父が殴り殺されるようなことになったのか、想像ができなかった。


 何時間が経っただろうか。あれほど興奮していたはずなのに、気付いたら車の中で眠ってしまっていた。叔父さんが起こしてくれたけど、何を思って私を起こしてくれたのだろう。父親が死んでしまったのに、くつろいで寝ているような私を見て。何か異常を感じたに違いない。叔父さんに起こしてもらったとき、つまり、夢から現実へ移動するその一瞬、その境界線で私は勘違いをしてしまった。父は死んでいない、今まで私が境界線の向こうで見たのは実は夢なのだと。境界線の、あちらとこちらを勘違いしてしまっていた。私がその境界線のあちらとこちらを間違えるのは、私が覚えている限り、初めての経験であった。今まで私は、境界線のあちらとこちらを間違えたことは無かったのに。

 そして、玄関を上がり、居間で騒然となている親戚の人達の輪の中に入り、母を見つけた。その母からとんでもない、父の死亡の経緯について知らされた。


 父は、その日このあたりの居酒屋で一人のんびりとお酒を嗜んでいたらしい。母は承知だったらしいが父は月に一度ほど、家に直接帰らず、懇意にしている居酒屋でゆっくりと夜遅くまでお酒を飲んでいることがしばしばあったらしい。別にそれ自体はどうでもよかった。問題はこの次だ。

 父がその居酒屋で一人のんびり酒を嗜んでしばらくした後、店に三人組の若者が店に来たらしい。ここもあまりおかしくはない。ただ、この店に人が来るのも、若者が来るのも珍しかったらしい。それだけが、おかしい点と言えばおかしい点と言えるのかもしれないが、そこまで目くじらを立てるほどのものでもない。本当の問題はこの次からだ。その若者が来店して30分ほどした後、若者が父に絡んできたという。

 理由はまだわからない。警察からは何も説明をされていないのだ。

 警察に説明を何度か求めたらしいが、「捜査中の案件ですので、被害者の親族の方といえど説明することはできません」の一点張りだった。丁重で、丁寧な物言いだったので、「私たちは父の関係者なんですよ!なぜ教えてくれないのです!?」と言うことはできなかった。少なくとも、みだりに第三者に情報を流さない姿勢を評価するしかない。警察は秘密主義であってしかるべきなのだ。それを鑑みなければならない。

 しかし、その当たり前の理性的判断を、肉親を失った家族にまで求めるのは難しい。


 結局、父を失くした理由はしばらくわからず、私たちの家族は、父の遺体無しで父の葬式を行わなければならなくなった。どうして一家の大黒柱を失うことになったのか、それがわからないまま。気持の整理もできないまま。私たちは、路頭に取り残されたスラムの孤児のごとく、この世の、この世界という砂漠に堕ちてしまった。ここはどこだろう。周りの景色は、とても奇麗だ。見たこともないような光景が広がっている。見たことの無い、一切の建物も、人工的な遮蔽物の一切もない幻想的な風景の中にも、私たちを狙っているハイエナ達が潜んでいることはわかる。いや、ライオンかもしれない。他の動物かもしれない。

 社会の魑魅魍魎、ありとあらゆる猛獣たちが私たちを狙っている。弱るのを待っているのだ。私たちの家庭は、一家の大黒柱を失い、家という強固な守りを失ってしまった。強固な家だった。社会と言う外界で、いかに雨が降ろうとも風が吹こうとも、雷が落ちようとも私たちはそ知らぬフリを通してこれた。他人事で対処することができたのだ。しかし、それができなくなってしまった。雨、風、雷、その他天災は私たちに容赦なく直接降りかかる。何も私たちを守ってくれない。守ってくれていたはずの家は壊れてしまった。しかも、私たちはその家が壊れてしまった理由を未だに知ることができないでいる。そう、私たちは。突然、何の前触れもなく、何も無い砂漠に追い出されてしまったのだ。昼は太陽に照り焼かれ、夜は寝る場所も無く夜行性の獰猛な野獣に狙われ続け、寝る暇もない。身を守るための手段すら知らない。その中でも寝ることはできるかもしれないが、それは果たして、本当に、睡眠と言えるものなのだろうか。


 そして、警察から情報はまったくないまま葬式の日を迎えた。葬式の日をどのように迎えればいいのかさっぱりわからなかった。心の準備もできず、これからの心構えもわからない。何がどうしてこのようにことになったのか、わからない。気持の整理もつかなかった。しかし、その日の葬式に見知らぬ男性が来た。父が懇意にしていたという居酒屋の店主だった。その店主は頭を深々と下げ、あの日店での凶行を止めることができずに申し訳なかったと、今となってもどうしようもないことを言った。そして、あの日、父が死んだ日にあの居酒屋で何が起きたのかを教えてくれた。


「わ、私は鳳家の皆さまにはお、お顔向けはできません……し、しかし、おそらく皆さま方はまだ、こちらのお父様が亡くなった件について、知らないことが多いかと存じます。なので、微力ながら、私の知っていることを申し上げたいと思います……。お、鳳君……鳳真人さんは、あの日、私のお店で一人でゆっくりと飲んでおられました。し、しばらくした後、若者達4人が店に来たのです……。み、見たことのない客でした。私も、こういった商売をしておりますので、他の人よりも記憶力、ことに私の店に来てくださった客についてはほとんど忘れない自信があります。なので、見たことの無い客であることは間違いないと思います。どこかの店で飲んでいたのかわかりませんが、店に入って来た時にはすでに酔っているように見えました。少しばかり気分が高揚しているように見えたので……。そして、いろいろと注文をして座席でほんの少し大きい声で話しを始められました。最初は真人さんもいつもの静かな時を邪魔されたので苦い顔をしていましたが、まぁ、そこは場末とはいえ居酒屋ですので、しょうがない、と思っていただきました。そ、そしてその後……」

思い出したくない幼少期の記憶を弄るように、間違えて見たくもないショッキング映像を見てしまったかのような表情を浮かべて、語り始めた――。



「おい、何こっちジロジロ見てんだオヤジよぉ!」

若者の一人が突然大声を上げる。長髪を後ろに束ねた、いわゆるポニーテールの髪型の若者だった。服装は……何とも形容しがたい。ファッションになんて生まれてこの方一度も興味を持ったことの無い鳳真人にとってはどう表現していいのかわからなかった。ただ、奇抜だな、としか言えなかった。黒と赤が混じったチェック柄のような服をだらしなく着込んでいた。チェック、という言葉が正解なのかどうかもわからない。ただ知っている単語を羅列させたにすぎない。

「いや、別に。何やら、特定の人達について、かなり過激な文句を言っているように思えたので、つい見てしまっただけですよ」

静かに、淡々と返す。

「あぁッ!?おめぇには関係ねえだろうが!」

それでもなお、若者はハリガネのような声で突っ撥ねる。

「チッ」

鳳は舌打ちをした。普段、まったく舌打ちはしない彼であったが、この若者の態度を見るとどうも腹が立って仕方がなかった。

「んだオラァッ!?おっさんよぉ、ナメてんのかァ!?」

舌打ちを耳ざとく聞いた若者は怒りをさらに爆発させた。

手に持ったビールのグラスをこれ見よがしに机に叩きつけ、自らの怒りをアピールして見せた。そのお釣りとしてグラスのビールが若者のビールが少しばかり、数滴が犠牲になった。

「おっと、失礼。で? 君は座国民に何か恨みでもあるのかな?」

一歩詰めよるように真人が尋ねた。齢50となる真人の精悍な顔つきがひとたび尋問人のソレになると、20年もまだこの世の不条理を体験していないお子様の喧嘩の売買など、いつも買うバナナの買い付けと何ら変わらない。刺身にタンポポを乗せるように、ひどく冷淡に、淡白に、静かに匙を投げる。

「今お聞きの通りだよジジィ。テメェには何ら関係ねーだろうがヨォ!?」

「それは悪かったね。私もいわゆる〝座国民〟でしてね」

一瞬、水が差されたかのように静かになった。何か揚げ物を作っているのだろうか、油が高温でパチパチ鳴っている音のみが聞こえる。静かに告げた真人の一言は、かなり衝撃的であったであろうことがその空気を感じれば誰にでもわかる。

「お、おい、マサちゃん……」

と言ったのは居酒屋のマスター。今までほとんど口を挟まなかった彼が、ここで初めて口を挟んだ。

一瞬、呆気に取られたような表情を見せた若者であったが、数瞬の内に何を真人が言ったのか理解できたのだろう。意地の悪そうな顔を浮かべ、

「へぇ……、ジジィ、てめぇ、座民(座国民)だったのかよ……」

言い争いをしている若者以外の若者は皆、まるで大道芸を見るかのような形で真人との口論を見ている。他の3人の若者にとって、この口論はちょっとしたお祭りなのだ。イベント、とも言える。何も無い平凡な大地を歩くだけ、歩かされているだけの彼らにとって、この喧嘩は見たことの無い山道のようなものだった。

「長野県柏田村の生まれで、今もそこに住んでいる。立派な座国民だよ」

座国民。正直言った話、なぜ自分がそう呼ばれているか、由来も理由もわからない。

「チッ、ったくよぉ、ホント、噂に聞いてた通り、座民っつーのは死体の匂いがするんだな」

「何? 死体?」

まったく意味のわからないことを言われてしまった。文脈も前後との繋がりもわからない。

「くせええええええええええんだよ、座民の癖に偉そうに酒垂れ飲んでるんじゃねえよボケがッ!」



―――一瞬。

ソレを意味のわからないことだとわかった自分を恥じた。死体臭い、いわゆる死臭がするという言葉の意味を理解するのに、一瞬の時間を要した自分がどうにも恥ずかしかった。

そうだ。自分は、差別されている身なのだ。差別。サベツ。

その言葉の意味の解釈は人によって異なるだろう。たった一つの言葉がここまで多様な意味を持ち、人々を混乱させることになろうとは。

 差別。辞書的にそのまま機械翻訳のように意味を解説するならば、

 しかし、真人は何かしらの理由があって差別されている連中のことを差別されている、とは思えなかった。思っていなかった。もし仮に。何かしらの理由があって、例えば、税金が憂慮、免除されているとか、何がしかの誰にでもわかる明確な“違い”があり、その違いによって分けられているのであればそれはもう差別ではない。区別だ。と真人は思っていた。しかし、自分が受けているのは紛れもない“差別”だ、ということも信じて疑わなかった。もし、何がしかの、誰にでもわかる明確な違いによって人を分けることを差別というのであれば、言い続ける、主張し続けるのであれば、自分が受けているのは差別ではない。迫害だ。そう思っていた。

 座国民。そういった言葉を覚えたのは何年前だっただろうか。昔から、死体処理、排他・非人による差別を行われてきた、という本当か嘘かもわからないような適当な話が由来、とされてきた。死刑執行人や、井戸掘り、死牛馬の処理(皮革加工、非人などの仕事)、未知の場所の開拓人などを当たり前のようにし、今まで過ごしてきた、と聞いてきた。その由来が本当か、嘘か、なんて真人にとっては実にどうでもいい話だった。その由来が本当であれ、嘘であれ、自分は今、現実的に差別を受け、周りからは好奇の目を向けられてきた。それだけが実際にあったことなのだ。それが真人にとってのすべての事実だった。なぜ差別を受けなくてはいけないのか、さっぱりわからなかった。言うなれば、まさに自分があの村の出身だから。それぐらいしか思いつかなかった。別に自分の父は死刑執行人でも井戸掘り職人でも、死牛馬の処理人でもなかった。ただ普通の、郵便局の職員だった。お堅い性格で幼い頃にあまり好きになれた記憶もないが、大嫌いでもあった記憶もない。そんな父の素晴らしさに気付いたのは自分が酒を飲める年齢になってからだ。今、自分が酒を飲んでいる場所。この、居酒屋。思い出の居酒屋だった――。


「そ、それが、すべてでした……」

すべての事実を目撃者である居酒屋のマスターから聞いた茜と母親は絶句した。確かに、自分達が差別されていたことは知っていた。タクシーの一件のことから何か自らの周りを、大きいモヤが覆っている。何か、とても大きい何かが。

自分達が差別されていたことは充分過ぎるほど知ってはいたが、まさかそれが原因で殺されることになるなんて思ってもみなかった。父が何を思っていたのか私には永遠にわからないことであるが、その差別の一言が、まさか殴り合いに発展し、居酒屋の店主が止める間もなく人が死ぬような事態に発展してしまうとは。



結局、3、4日ほど学校を休み、復学した。もっと休んでもいいのではないか、と言う母の提言を無視し、学校へ行った。これ以上休んでいても何もすることが無い。長野の実家にいたところで私にできることは何もないのだ。何もすることがないと、考えなくてもいいことを考えてしまう。それが嫌だった。それに、今は受験の時なのだ。受験勉強に徹すれば、少しでも父のことを忘れることができるだろうと思った。父と、“座国民”のことを。そう、私が通っているのは東京の高校なのだ。まだ満2年しか通っていないから断言はできないが、東京の学校に通う彼らにとって、こんな村八分のようなことは雲の上の出来事だと感じているだろう。東京と長野は、物理的な距離以上に遠く、厚い壁があった。東京、大阪、いわゆる都会と言われているそこでは、人々との関係が希薄になっているという。そんなことをテレビのニュースで言っているのを聞いた。初めて聞いたときはふうん、と軽く流したが、今思えば、それの何が悪いのか、と考える。

 人々との関係が希薄。充分ではないか。人々の関係が希薄になったところで、それでも喋るのが好きで好きでたまらない人は喋る人を自分で探すだろう。

 まったくの無関係で、ただ隣に住んでいるというだけで、近くに住んでいるというだけで、同じ村でいるというだけで、結びたくもない同盟関係を結ばなくてはいけない田舎よりは何百倍もいい。人をまとまりではなく、個人で見る。そういう今の状況が好きだった。東京に来ることができて良かった。今この時、心の底からそう思うことができた――。


「俺さ、思うんだけど。座国民ってよくねえって思うんだわ。なんというか、そういう組織っていうかまとまりって本当によくないと思うんだよ」

「ふーん、そうかもなー」


 そんな中、この会話を聞いた。

 父が死んで、学校から通い直して2日目のことだった。


昼ご飯は屋上で一人で食べ、教室に戻って来た。

そして梓君に話しかけようとしたときだった。そんな会話が聞こえてしまった。“座国民”。まさか東京で、この場所で、この学校で、このクラスで。そんな言葉を聞くことになろうとは、思ってもみなかった。あまりにも思ってみなかった角度からの攻撃でグラついてしまう。目の前の景色が、揺れる。

「あれ、茜。いたのか」

 後ろに私がいたのに気付かなかったのか、そう微笑みを伴い言ってきた。座国民についてナニガシカの会話をした、その口で。

「ア、アァ……」

揺れる景色を前に、歪な形の声が漏れ出た。丸い形の粘土を作ろうとしたら、六角形の粘土の塊が出来上がってしまったかのようだった。

「お、ォ、お久しぶりです、梓くん」

 そういう普通の声が出たのは奇跡といっても良かった。しかし、思えばこれは、奇跡でも何でもなかったのかもしれない。今にも割れそうな風船に少し空気を入れたら奇跡的に割れなかった、という意味での奇跡だったのかもしれない。


 一つのものにケチがつくと、他の九つのものも疑わしくなる。一つの蜜柑が完全に腐ってしまい、それを取り出せない彼女はもうダメだった。

あの会話のことを思い出してしまう。大川優誠と悠宮梓君の会話。あの昼休みの時の、正に運命の会話を思い出す。

確かに、彼は、梓君自身がその言葉を発したわけではなかった。座国民を否定する言葉を、彼が直接吐いたわけではない。それはわかる。しかし、彼は確かに同意した。気付けば考えてしまう。彼は果たして自分のことをどう思っているのかを。鳳茜をどう思っているか、ではない。座国民である自分を、どういう目で見るか。座国民であることを知った彼が、自分のことを果たしてどう思うか。


 普段の彼女であれば、こんなくだらない、と言ってもいいことを深く考えもしなかっただろう。普段の彼女であれば、もっと冷静な判断を下せていた。大川優誠が言っていた“座国民”は、実際の座国民そのものを指し示しているわけではなく、その座国民というカテゴライズを作り、新たな利権を作りだし、甘い汁だけ吸っている利権関係について言っているだけであって、決して実際に差別されている人達に対して追い討ちをかけているわけではないと理解できたはずだ。大川優誠はキチガイ地味たカルト宗教にハマった母親に育てられてきた。しかし、大川の恨みの直接の対象は決して母ではなかった。もちろん、まったく母を恨まなかったわけではない。あんな育てられ方をして恨まない方が人間として嘘だ。そんなことができるのはまさに、キリストのみだ。しかし、直接、何も間になく、直送便で母を恨んでいたわけではない。彼が恨んでいたのはその宗教のトップ連中だった。あまり賢いとは言えない母を騙し、そのような母のような人達を集め、洗脳まがいのことをしでかした。母も憎い。それこそ、殺してやりたいほどに。しかし、そんな母より恨むべき人間がいるということを大川は知っていた。恨みの天井は高く、恨みの念は三代続く。大川は成長していくにつれ、何を本当に恨むべきなのかを考えに考え続けた。そして、考えた。恨むべきは、そうした組織に。システムに。そんなシステムを大川は何よりも憎んでいた。詐欺をする人間と詐欺をされてしまう人間、どちらが悪いか。それは当然、詐欺をする人間だと、大川は純粋に、あまりにも純粋に信じていた。大川にとって、あの座国民についての批判発言はその延長線上にあるものだった。しかし、どんな思想や価値観があの発言の裏にあろうが、どんな路線の延長線上にあろうが、それを聞いた鳳茜はそう思わなかった。いや、〝この時〟の鳳茜はそう思わなかった、がより正確なところだろう。〝座国民〟の父親が殺された、直後の茜は座国民の自分について呪っていた。自分の生まれを、低い位置から俯瞰していた。あまりにも低すぎる位置から俯瞰してしまった。だからこそあの昼休みの大川の発言はあまりにも深く鳳茜に突き刺さってしまった。そして、ついに彼女はその深すぎるナイフを引き抜くことができなかった。引き抜く勇気を持てなかった。もし、このナイフを引き抜いてしまったら、自分はその引き抜く際のショックに打ち勝つことができずに、死んでしまうのではないかと思ってしまった。冷静に考えればそのナイフを引き抜くこと自体、簡単で、何ら問題がないことがわかるはずなのに。彼女ほどの頭脳の持ち主であるならば、そんなことはすぐ理解できたはずなのに。


 結局、彼女が辿り着いたのは、今までの人類の過ちとまったく変わらない、不毛地帯だった。父が殺された時に堕ちてしまった砂漠から結局逃れることができずに、鳳茜の心は、悲鳴をあげることすらできずに、惨めに死んでしまった。


 そのたった一つの出来事を元に彼女の想像が膨れ上がり、止まらなくなる。


 もし、彼が私のことを座国民だと知ったら。彼は一体どう思うだろう? 彼はとても優しい人間だ。そんなことは痛いほどわかっている。優しくない人間があの場で自分を救ってくれるわけがないからだ。それに、何回も話をして、色んなところに彼と出かけた。そんな経験、状況証拠が、彼が優しいことは疑いもない。あんなに細かい気配りができる人間が優しくないはずがないのだ。

 

 しかし、それはあくまで、私が〝普通〟の人間であることが前提だ。


 彼は一度も、座国民である私の前に姿を現したことが無い。黒いベールに包まれて彼がどういう顔をしているのかがわからない。彼が見えている私は、人間のような私の顔。まるで本物の人間のような顔をしているのが、彼が見ている〝私〟なのだ。黒いベールを脱いだ私、座国民の私は修羅の顔をしているのかもしれないし、仏のような笑顔をしているのかもしれない。それが、わからない。



 いや、違う。どんな顔をしていようとも、

 彼はおそらく笑顔だろう。いつもの笑顔。

 しかし、その笑顔の向こうで何を考えているのかはわからない。

 そうだ、彼は優しいのだ。優しいからきっと、もし私が座国民だと知ってもいつもの笑顔を向けてくれるだろう。何の邪気もない、素晴らしい笑顔を。それがもう、どうしてもダメだと思った。取り返しのつかない場所に今、自分は立っているんだということを知ってしまった。彼は、優しすぎた。優しすぎることが、どんなに残酷なことか。今、彼女はそれを嫌すぎるほどに思い知った。彼を優しいままに。優しすぎるままに。私が座国民であることはきっと、いつか彼も知ってしまうだろう。そうなれば長い道のりを今までの彼と一緒に歩くことができない。それがわかった。今までの道を彼と共に歩くことはもう決してできない。それで充分じゃないか。それ以上の何が必要だろう?


 人を殺すのに、大層な理由は要らないものだ。

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