「17」 幻の先:後日譚
●幻の先:後日譚― A fterwards
あれから、もう何年経っただろうか。月日が経つにつれて自分の年齢をあまり数えなくなった。今何歳ですか? と聞かれてしっかりと答えられたのはおそらく30歳半ばまでだったと思う。そこからはもう、あまり年齢を聞かれることもなくなってしまった。聞かれたとしても、概数で答えてしまう。40ちょっとですよ、とか。50ちょっとですよ、とか。だから今の自分の年齢を思い出すのに少しだけ脳を回転させなければいけない。ほんの少し。ほんの少しだけ。
世間は変わってしまった。自分が20前後の時は、おそらく世界はこれを機にあまり変わることはないんだろうな、と何度も思ったがやはり変わってしまうものなのだ。老人たちの気持ちが今、よやく理解できるようになっていた。いや、できるようになってしまったと言うべきか。滅びてしまった国もあった。30年ほど前にはミサイルやら独裁政治とやらで騒いでいたあの国のことだ。滅びて結局は民主主義の国になってしまった。やはり時代の流れには逆らえないのだろうか。そして新しい思想も生まれて来ている。社会主義、共産主義、資本主義に替わる、未知の領域、未知の思想。政治の形はさほど変わっていないが、それでも変化自体が終わっているわけではない。変化が終わった時に、人類は死を迎えるのだろうな、と考えたこともしばしばだった。
ホテル・オークラのとある階の高級会員制バーのカウンター席。そこに、森神悟の姿はあった。森神の現在の肩書きは東証一部上場企業の取締役社長。濃いグレーのスーツに、腕には派手すぎない、ほどよいシルバーの腕時計を付けている。
森神は時刻を確かめる。午後の9時まであと5分だ。腕時計を腕から外し、ビジネスバッグにしまう。今日は、時間を忘れて話をしなければならない相手だ。時間という現実世界の虚しい制約を忘れ、心ゆくまでじっくりと話をするべき相手……。カウンター席の小皿からピーナッツをひとつ掴み、口に入れる。落ち着くために、ゆっくりと噛みしめる。30年と少し経ったのだ。少し、長かったかもしれない。……長すぎたかもしれない。そう思った。
「隣、よろしいですか」
しわがれた低い、それでも力強い声が背後から。後ろを振り向いて顔を確認するなんて野暮な真似をしない。このバーには空き席がたくさんあるのだ。それなのに自分の隣を選んで、選択して座ったのだ。誰か来たかなんてすぐにわかる。
「どうぞ」
ゆったりとした声で森神が告げた。
「失礼」
やはりしわがれた声で返事をされた。そして、男が座る。
男は真っ黒なスーツに赤茶色のポロシャツ。そして真っ白なネクタイという奇妙な格好だった。なんというか、浮いていた。現実の重力という制約を感じさせない、自由な格好だった。
「奇妙な格好だな」
率直に感想を告げた。
「君はなんというか、人の上に立つ者としてふさわしい格好だ」
と返された。おそらく、半分は悪意がこもった皮肉だ。
「何年ぶりだろうね」
「30年と、ちょっとだろう。それ以上はあまり考えたくない」
「同感だよ」
と言って、2人で静かに笑いあった。30年と少しは、あまりにも長い歳月だった。
「回りくどい、意味もない世間話は嫌いだろうから、率直に。すべてを話そう」
「………………………………………………」
わかっていたことだが、やはりきてしまった。この時が。判決の時だ。
「変なことを聞いて申し訳ないが、僕が話す前に、君の最終的な推理をひとつ聞いてもいいだろうか?」と大川。
「おやおや、それはどうして?」微笑みながら森神が返す。
「たったひとつしかない、正真正銘の生きたミステリー作品だ。君は、少ないこの作品の読者であり、正式な出演者でもあった。悠宮梓が遺した作品だ。それに対する最終的(ファイナル)な(・)答え(アンサー)を、君から聞きたい」
内容は少し不謹慎でふざけていたが、口調は慎み深く、真面目そのものだった。
「君が休学した直後は本当に色々考えてたんだがね。もう忘れてしまったよ。しかも、もう答えは述べられない。君が今、言ってしまったじゃないか」
「おや、何か余計なことを喋ってしまったかな?」わざとらしい声で大川が返す。
「悠宮梓が遺した作品、と。そうか…………やはり、そうだったのか……」
と言うと、森神が遠くを見つめ始めた。ワインボトルが見える。しかし、森神はワインボトルを見てはいなかった。その目は遥か彼方の、30年前のM学園の光景を見ていた。
「実は、会う日をこの日にしたのはこのためだ」
そう言うと大川はバッグをファスナーを開け、中から2冊の本を取り出した。ハードカバーでそれなりの厚さの本だった。本のタイトルは銀色で装飾されていた。それ以外は真っ黒だった。真っ黒な表紙に、銀色のタイトル。
「『悠久の風、私の感じる白き肌』…………?」
森神が本のタイトルを読みあげる。作者名は『有野 宇焔』となっている。
「聞いたことのない作品名だな……。作者も聞いたことが無い」
「それはそうだ。その作者は、その作品がデビュー作だからな。あと、その本も発売日は明後日だ。まだ公式には世に出ていない」
「いや、でも……編集者は派手に煽っているね、これ?」
本の帯には、『話題作!!』『今年のミステリー大賞候補入りは確実か!?』などと大げさそうなキャッチコピーが並んでいた。
「らしいね。問題作だよ、それは」
楽しそうでもなく、哀しそうでもなく。淡々と大川が述べる。
そして、
「作者は約30年前、私立M学園で悠宮梓にナイフを突き刺した人物だ」
衝撃の事実を述べた。
「………………………………………………」
息が詰まりそうになった。一瞬だけ、息が詰まった。どういうことだ? つまりこの本の作者はお前なのか、と聞きたくなる衝動を必死に抑えた。この様子だと、この作者が大川だということの可能性が低そうだった。なんとなく、と言う名の雰囲気でそれはわかる。
「実は今日、待ち合わせ場所をここにしたのは他でもない」
この場所を待ち合わせの場所として指定してきたのは大川だった。
「ここは、朝の6時まで営業している。ここで君に、この本を読んでもらいたい」
「え? この本を?」
本を今、ここで?
「あー、別に構わないが……どうして急に?」
今日は金曜日で明日は土曜日だ。明日は出勤の予定はない。別にスケジュール上、特に問題はないのだが……。
「この本には……真相が書いてある。私も、俺もまだ全部読んだわけじゃないが、悠宮梓殺しについてのすべてが、ここに書いてある」
「…………」
今、この時の気持ちをどう説明していいのかわからない。
まるで、そう。世界を壊すことのできるスイッチを目の前にしたときのような、あの気持ち。
目の前に、真実がある。自分が欲した、真実が。いや、真実であろう、ものが。もう少し言うならば、犯人の自白、のようなものが。
「ノンフィクション小説、なのか?」
「もちろん、フィクションだ。表向きは、な」
心の底から浮かんだ笑顔で、大川はそう答えた。
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