「16」


●物語の果て、死に行く私の黒き魂


 都内の予約制料亭の個室にて。

「彼はあなたを許しました。それが、彼の遺志でした。だから、私があなたを今すぐ殺すということはしない。これは、約束いたしましょう。まぁ、あなたが私の約束を信じるかどうかは、あなたの自由ですがね。しかし、あなたが何か“おかしいこと”をした場合、私はあなたを躊躇無く殺すでしょう。それを覚えておいてください」

「…………」

「まぁ、いちいち言わなくてもわかるとは思いますが、警察に駆け込んでも無駄、だと思います。私は、あなたが悠宮梓を殺した決定的な証拠を持っている。これは、あなたの上履き、ですよね」

 と言って、鞄からクリアファイルを取り出し、その中にしまってある一枚の写真を取り出す。その写真には、上履きが映っている。

「…………」

 相手は感情の読めない能面を垂らしながらじっと、虚空を眺めていた。写真にはほんの一瞬だけ目を向けたがすぐに視線を虚空へと戻した。

「念のため、あなたがもし私を殺したら、あなたが悠宮梓殺しの犯人であることを示した証拠が上手い具合に警察に流れるように手を回させていただきました。だから、もしあなたが私を殺したくなったら、好きに殺して頂いて構わない。もう、哀しいことですが、私はあまりこの世に未練は無いし、生きる理由も無くなってしまいましたからね。それに、あなたが私を殺そうとしてきたら、もしかしたら私があなたを殺してしまうかもしれない」

「…………」

「もちろんわかっておいでではいると思いますが、悠宮梓殺しの事件については決着したわけではありません。多くの捜査員が別の事件の捜査員として回され、事実上の“捜査打ち切り”となったのは確かですが、それがそのままイコール事件が完全に終わったわけではありません。新しい事件の証拠を彼らが見つけたら、捜査は再開されるでしょう。それこそまさに、水を得た魚の如く、ね」

「…………」

「私は、彼との最期の約束を果たすため、ここに来ました。そして、あなたを呼んだ」

「…………」

「あなたはあの日、4月30日に悠宮梓を3-Gの教室で刺した。そうですね?」

「…………」

 相手は、――鳳茜は、――お冷を少しだけ飲み、グラスをテーブルにそっと戻した。長い、長い時間に感じられた。

「えぇ、私が彼を、刺しました」と茜。

「…………ッ」

 もちろん、わかりきったことではあった。何しろ、死に際に梓がそう告発したのだ。茜が梓を刺したのは知っている。しかし、やはり本人の口から聞くと驚いてしまう。どんなに深く神を信じている者であっても、実際に神の姿を見たら驚くだろう。それと同じだ。

「どうして!?一体、彼があなたに何をしたというのですか!?」

ついつい声を荒げてしまう。感情のコントロールの難しさに、声を発し終えてから困惑してしまう。

「…………」

 茜はぼんやりと虚空を見上げている。彼女には、普通の人には見えない何かが見えているのかもしれない。

「どうして殺してしまったのか、あまり覚えていないです……」

「お、覚えていない!?なんとなくという理由で彼を殺したのではないでしょうね!?」

 声が裏返った。完全個室とは言え、これ以上の音量で声を発したら店員に怒られるかもしれない。

「でも、その〝何か″が生まれた瞬間は、わかります」蚊が周りを飛んでいる時のような声で茜が言う。

「何か?」

「あなたが、梓君と話している時の、会話」

「…………?」 

 大川は眉を潜めてしまう。つまり、どういうことだ? 俺と、梓が話している時に〝何か〟が生まれた。その何かによって、コイツは梓を殺した、とでも言いたいのか? つまり、梓が死んだのは俺と梓が何かを話したから、とでも言いたいのかこいつは? 馬鹿な、そいつはただの責任転嫁だ。あまりにも身勝手なことを言うなれば、コイツを今日にでも殺す。そう心に決めた。

「申し訳ありませんが、少々わかりにくいです。私は梓と仲良くさせていただきました」最大限の皮肉を込めて言った。

「だから、彼とはたくさんの会話をした、と思っております。どの会話があなたの言う〝何か〟の親に当たるのか、今の私には理解できません」

「事件の4日前……教室で……」

事件の4日前? 教室? 4日前と言うと、月曜日か?

「お昼休みに、あなたは悠宮梓と、話をしていた……」

 必死に脳の記憶を司る部分に鞭を入れ、記憶を呼び起こしていた。事件の4日前。月曜日。昼休みに、会話。何を? 何を?……。

 少しだけ、朧けながら、思い出す。月曜日。月曜日。……あ。

「あ……まさか……」

 思いだした。月曜日の昼休みにしていた時の会話を。

 そうだ。なんとなく興味を持った、部落問題についての調査報告、ただの世間話レベルだが、それを梓に勝手に話していたっけ。


「ま、部落ってあんまり良くないと思うんだわ。害悪というなんというか」

「ふーん、そうかもなー」


 まさか。

 あの運命の日、死に際の悠宮梓から聞いたことを思い出す。

『さ、最近知ったんだけどね、彼……女……、部落の出身みたいなんだ……」

「ぶ、部落!?」驚いた。心の底から。』


 部落。部落民。まさか、まさかまさか。まさかまさかまさかまさか。

「お前…………部落民だったのか…………!」

「…………」

 彼女は、その質問に、何も答えず、ただ黙っていた。

 俯いて、静かに首を、縦に振っただけだった。

 忘れかけていた歌のメロディをふと意味もなく思い出したような、そんな顔をしていた。


●Allegretto(アレグレット)――梓の黙示録

 裏庭に向かう途中の校舎内で、教師に出会った。身体中に残されているほんの僅かな力を、すべて顔の筋肉を動かすために使った。悟られないように。腹部を刺されたことを、悟られないように。少しでも気を抜いたら、そこで倒れてしまいそうだったから……。

「あら、梓君、どうしたのこんなところで? 梓君は生徒会役員じゃなかったでしょ?」


 ―――――――――ドクンッ


 心臓が、一拍すっ飛ぶ。

 落ち着け、大丈夫だ。

 何もおかしいことは、何も起こっていない。

 事件は、何も起きていない。

 むしろ、〝自分の存在〟そのものが事件なんだ。

 自分が死なない限り、〝事件〟は起きない。起きることは、ない。だから、落ち着け。

「あ、いえ。ちょっと今、忘れ物に気付きまして。さっきまで図書館で本を読んでいたんですが、その時に筆箱を教室に忘れちゃいまして」

 本当は、生徒会役員の子を待っている、と言おうとしたのだが、それでは自分が死んだ後、茜が疑われる恐れがある。

「あら、そうなのー? 勉強、頑張ってね」

 と、なんとかやり過ごすことができた。

 もう一人教師と出くわしてしまったが、似たようなやり取りをしてなんとかやり過ごした。

教師に出くわしてしまった時は、動揺した。焦った。もしかしたら、教師達が“何か”に気付いてしまうかもしれない。その危険性はあまりにも高かった。しかし、そのピンチを乗り切った。ピンチの後にチャンス有り。1回ピンチを乗り切ってしまえば、それはチャンスだ。教師達は今、〝自分〟に会った。〝生きている自分と〟だ。

 生きている自分と教師が出会った。つまり、これ以前に悠宮梓という人物が死んだことにはならない、ということだ。自分が刺された時間は、おそらく午後5時前後だ。実のところ、時間をはっきり覚えていない。時間を確認したのは、茜にメールを送った時だ。その時確認した時間から逆算しただけの話だ。まぁ自分が刺された絶対的な時間は実はどうでもいい。重要なのは、自分が刺された時間が今から約10~20分前あたりだろう、という相対的な事実だ。これでいい。これで、茜に絶対的なアリバイができる。茜の一撃が、詰めの甘いもので本当に助かった。そのお陰で、彼女を救うことができる。

 

 玄関に辿り着いた。ここまで来れば、裏庭まではあともう少し。

 なんとなく、本当になんとなく、突然大川優誠のことを考えた。彼はもう、裏庭に到着しただろうか? いや、まだだろうな。勝手にそう結論付ける。彼は、自分がこれから死ぬ、ということを知ったら何を思うだろうか。きっと、何が起きたのか、詳しく聞きたがるだろう。いや、そりゃそうだ。大川でなくてもそれは気になるだろう。そしてきっと、彼は怒る。犯人の名前を告げたら、彼はきっと怒る。彼は自分を命の恩人だと思っていた。だから、もしかしたら大川が茜を殺してしまうかもしれない。しかし、それは避けたかった。

 たまに血が零れる。ポタッ、ポタッと。それはあまり好ましいことではなかった。もちろん、ティッシュでその血を拭うが、ルミノール反応まではどうしようもない。ここを警察に捜査されない、ということを信じるしかない。裏庭で自分の死体が発見されれば校舎内が捜査される可能性はかなり低いはずだ。しかし、低いだけであって0ではない。何かしらの対策を打つ必要はあった。しかし、もう自分にはその対策を施す体力は残っていない。それは自分が一番よくわかっていた。もうダメだ。自分にできることは、もうこの身体を、学校の裏庭に移動させるだけ。それだけしかない。あまり、辛いものではなかった。これから死ぬ、この状況は、あまり怖くなかった。いや、まったく怖くないというと嘘になるかもしれないが、それよりも自分のせいで他の人が迷惑を被るのではないか、という心配が圧倒的に勝っていた。『人に迷惑をかけない死に方をしたい』こう思ったのはいつのことだっただろうか。どうやらこの願いは、永遠に叶うことなく終わってしまうようだ。一生に一度の願いは、叶えられそうにない。これから完璧に彼女を守るためには、彼、大川の力がどうしても必要だった。

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