「15」


●2010年7月29日 ――伝道者―― 大川 優誠

 そのメールを受け取ったとき、大川優誠はファーストフード店、マクドナルドでアイスコーヒーを飲んでいた。安価でそれなりに美味しい。コストパフォーマンスも最高、とまでは言わないがなかなか良いものだった。最近の大川のマイブームだった。

メールのバイブレーションに気付き、携帯電話を見てみる。メールは悠宮梓からだった。命の恩人であり、親友の。

梓がメールを送るなんてかなり珍しいことだった。だから、大川は驚いた。




● AfterWords――伝道者の書


 彼は、最高のクリスチャンだったんだと思う。良くも悪くも、完全にキリスト教徒としての教えを、実践していた。右の頬をぶたれたら左の頬も差し出せ。もう、うろ覚えではあったが、聖書にはそんな教えがあった。それが、隣人を愛するための、〝愛〟の第一歩だからだ。では、彼は? 命の恩人、救世主である悠宮梓はどうだっただろう? 彼は死に際に何と言った? 『殺されたのは、多分、僕自身に殺される理由があったから……。だから、彼女を許してあげて……彼女が、逮捕されないように立ち回ってあげて……。そしていつか、彼女がもし教えてくれる、その機会がきたら……どうして僕を殺さなくちゃいけなくなったのか……その理由を聞いて……あげて……』だ。なんだこれは。なんだこれは!? 殺されたのは、僕自身に殺される理由があったからだと!?どこの国の理論だそれは!? 少なくともこの国にそんな理論はない! 殺されれば殺したソイツを死ぬまで恨むッ! それがこの国、この世界の鉄則だからだ! 殺された奴を死ぬ直前まで許すなど、そんなのは馬鹿げた平和主義者だけがのたまえる言葉だッ!


 しかし、その考えはあくまで大川優誠のものだった。この国、日本で大多数の意見でもあるかもしれないが、この状況においては大川優誠個人の価値観だった。だから、大川優誠個人が悠宮梓の価値観、世界に入り込むことは出来ない。否定することは出来ない。大多数、という名の集合体が個人の意見に割って入ること、干渉することは出来るかもしれないが、個人が個人の世界観に割って入ることはいくぶん難しい。それは、割って入る個人の、かなり高い資質が求められるものだからだ。そして何より、他人の価値観を否定することがどんなに愚かで罪深いことか。それを大川は嫌というほど知っていた。


 それに大川は、悠宮梓のある意見に深く惹きつけられていた。

 ある日、何の会話をしていたのかは忘れてしまったのだが、学校の帰り道で話した時のことだ。

「僕はね、例えば『死んだアイツがこんなことをして喜ぶと思うのか!?』みたいなことを我が物顔で語る主人公が大嫌いなんだよ。お前はそのことを直接死んだヤツから聞いたのか? って突っ込みたくなるんだよね」

「あぁ……そういえばそんなことを言う主人公を度々見かけるなぁ」

「うん。そしてその同じ主人公が、同じ人間は2人いないんだ! って涼しい顔で言うわけよ。矛盾してることこの上ないね」

「なるほどね…………」

 同じ人間は2人いない。つまりは、人間は個人個人それぞれの価値観、世界観を持ち、様々な考えを 持ち、生活をしている。神を信じるか、神を信じないか。人間は猿から進化した動物なのか、それとも神、もしくは神に準じる知能生命体によって創られたものなのか。世界は神が7日で創ったものなのか。宇宙の果てには何があるのか、神の国なのか、それとも何も無いのか。

文化、政治、宗教。人によって、考え方等違うものだ。好みだって違う。ミステリー小説が好きな奴もいれば、ファンタジー小説しか受け付けない奴だってもちろんいる。バトルもの漫画しか読めない奴もいれば、恋愛漫画しか読みたくない奴だっているだろう。ファーストフードのポテト、ハンバーガーで満足できる奴もいれば、高級料理店のフルコースでしか満足することのできないセレブだっているのだ。それが、この世界。今、我々が生きる宇宙。

『同じ人間は2人いない』

もちろん、どんなシーンでこの発言をするか、作者がどんな意図を込めてキャラクターにその台詞を言わしめたのかは、それもまた各々違うだろう。

しかし、この『同じ人間は2人いない』の台詞の解釈の1つに、『色んな人間がいるんだ』という解を導くことができる。

 『色んな人間がいる』のだから、『死んだアイツがこんなことをして喜ぶと思うのか!?』という意見は矛盾している。悠宮梓はそう言いたかったんだろうと思う。

 もしかしたら、死んだアイツは、こんなことをして喜んだかもしれない。死んだ奴の遺志を聞いた奴じゃなければ言ってはいけない言葉なんだ。人は死んでしまったら人ではなくなる。モノを主張できなくなり、Objectと同じ存在に成り下がってしまう。

 だから、死んだ奴の遺志を告げるのは、紡ぐことができるのは、死んだ奴の遺志を〝直接〟聞いた人間だけ。その意志を、聞いた人間だけが正当な後継者となり得るのであって、その他の人間に後継者を名乗る資格は少しもありはしない。それが悠宮梓の絶対的主張あり、同時に大川優誠の主張、価値観になった。いまこの瞬間、自分の役目は、彼の言葉を受け継ぎ、守ることだけだ。それも自分だけが許された役目だった。他の誰にも伝えるでなく、曲解することもなく。そのままの姿形で、受け継ぐことが、僕の役目なのだ、と。


 アイツは完全な、愛の実行者だった。死ぬ直前までアイツは鳳茜を護り抜くために行動し、最後は自らの指で傷口を広げ、さらに多くの血を流し、絶命に至った。そう、鳳茜は殺人者ではなかった。鳳茜は3‐Fの教室で悠宮梓を殺意を持って刺し、現場を離れた。しかし、悠宮梓は死ななかった。鳳茜を警察の追求から逃すために現場を離れた。現場に残った血を掃除して。担任の教師のコートを盗み、それを着ることによって、ナイフを傷を隠し、裏庭へ移動した。そして僕に、大川優誠に遺志を託した。大川優誠に、自らの最後の願いを、意志を託した。鳳茜を警察の追求から逃して欲しい、という悠宮梓本人の遺志を。最終的に、悠宮梓に手を下したのは、悠宮梓本人だったのだ。


「な、なんだよこれはっ!!だ、誰に!? 一体誰に刺されたんだ!? ちょっと待ってろ! 今救急車を呼ぶから、あんまり喋るな、そして動くな!」

「ま、待って! もう、遅い……」悟り開いてしまったかのような声だった。しわがれた、力の無い声。諦め、という名の聖域に達してしまった者だけが発することのできる、賢者の声だった。

「僕は……もうダメだ……。多分、救急車が来て、病院に運ばれる最中に僕は死ぬ……。ちょっと……血を流し過ぎちゃってね……」

「ば、馬鹿野郎! 何を言ってるんだ! それだけ喋れればまだ助かる可能性はあるだろう!?」と言いつつも、大川の手は携帯に触れていなかった。

「聞いてくれ。助かるつもりであれば、最初から携帯電話で救急車を呼んでたよ」

そこで大川は思い出す。そうだ。コイツは携帯電話のメールで僕を呼んだんだ。ということはつまり、梓は携帯電話を持っているんだ。しかも携帯電話を触れることのできる状況にある。どうして!? なぜ救急車をすぐに呼ばなかったんだ!?

「ぼ、僕が……助かっちゃったら……彼女に…………茜に……迷惑が……かかるから……」

「は…………?」

 茜……? 鳳茜のことを言っているのか!? 迷惑? 何だ、迷惑って!? 助かったら、迷惑がかかる? 死んだら、じゃなくてか!?

「お、おい。どういう意味だ? お前が助かったら、茜に迷惑がかかる?」

「い、いいか。これから親友じゃなくて、お前の〝命の恩人〟としてお前に頼む。最初で……最期の、“命の恩人”としてのお願いだ」

 〝お願い〟と言う名の、有無を言わさぬ命令口調だった。背筋が凍る。こんな冷たい、有無を言わさぬ命令口調を梓の口から聞かされるのは、初めてだった。初めて見る、親友、命の恩人の人格を、俺は目の当たりにしている……!

「ぼ、僕を刺したのは……茜なんだ……鳳、茜……。3‐Fの教室でいきなり刺された……」

梓が、悠宮梓が一体何を言っているのか、理解するのに相当な時間がかかったと思う。言葉の音自体は耳から入ってくる。しかし、その意味を理解するのに相当な手間がかかった。複雑な文法の英語を理解するときのような心境だった。おそらく、頭の中の日本語の意味を翻訳してくれる機械が故障してしまったのだろう。

「か、彼女を……許してやってほし、いんだ……。君は多分、彼女をことを少し恨んでると思う……。す、少し、じゃな、いかもしれない……。でも、ゆる、許して……やってほしい」

少しずつ、声が聞き取りづらくなってきた。これはまずい。命の灯が、細くなっている。

「で、でも…………このまま……〝理由〟がまったくわからずに死ぬのは……す、少し、哀しいんだよ……。だ、だ、だ、だから……僕が死んだら……り、理由を……聞いてほしい……か、彼女に……。僕を刺した、その理由を……。でも多分……悪いのは僕だから……彼女は、悪くないから……」

 本気で意味がわからなかった。南アフリカやら、アマゾンの奥地あたりの未開文化の地の言語を理解しようとしているのではないか、とも思ったほどだ。

本当に意味がわからない。今、死に行くコイツは一体何を言っているんだ?殺した奴を、許してほしい?理由を聞いてくれ? 何を言っているんだコイツは。

「た、多分、普通に茜が逮捕されたら、その理由が……わからないまま終わっちゃうかもしれない……。いや、わかるかもしれないけど、それを君が知る機会は永遠に無くなっちゃうかもしれない……。さ、最近知ったんだけどね、彼……女……座国民地方の出身みたいなんだ……」

「ざ、座国民!?」驚いた。心の底から。

「ま、まだわからないけど……、多分、そうだ……。ちょっと、心当たりが……あってね……だ、だから……」

 心当たり? と大川は眉を潜めた。その心当たりは、大川にはなかった。

「何かが……隠蔽されちゃうかもしれない……捏造もあるかも……しれない…………。警察は…………完……全に信用……できないから…………」

「…………」絶句してしまう。なんだこれは。俺は今、何を見ているんだ。この世界に、何が起きているのか。この世界は、俺が知っている世界なのか。

 もはや愛というレベルのものではない。狂気に犯された何かだった。しかし、その狂気に犯された何かでさえ、愛ではないとは言い切れない。愛には形がないからだ。誰もそれを見たこともないからだ。

 よくよく考えたら、これはキリスト教の教えとはまったく違う何かであることがわかった。本当に、キリスト教の教えを固く守る信者であるならば、ここで死のうとはしない。悠宮梓が行ったことは、半ば自殺に近いことだからだ。キリスト教では、自殺は固く、固く禁じられている。


 そして、何かが隠蔽されてしまうというのは、おそらく挟方(はさかた)事件のことだ。この国で昔、座国民出身の男が殺人容疑で逮捕され、座国民という理由だからか何かはわからないが、不思議な誘拐、及び殺人事件で、男は一審で死刑判決を下され、結局は高裁で無期懲役判決が下り、刑が確定した。裁判終結直後に、男の無罪を物語る様々な状況証拠が出てきたのにも関わらず結局再審は認められなかった、という事件だ。ここで詳細は語れないが、今も尚、真実は明かされていない。殺人容疑で逮捕された男は釈放され、今はどこで何をしているのかわからない。日本の憲政史上における禁忌(タブー)のひとつだ。所詮、この世に完璧なものなどありはしないのだ。絶対的な悪と正義が存在しえないのとまるで同じように。この世界は、そこまで単純には出来ていないし、完璧でも無ければ、優しい世界でも無い。とことん残酷で、冷たく、底は深い。それを悠宮梓は知っていた。何がどうして、どういった人生を歩めば自分を殺した者を許し、その起源を求めたくなるのか。悠宮梓という人間もまた、この世界という歪んだ環境が生んだ、歪な怪物(モンストル・シャルマン)に違いなかった。人とズレた思考回路、空気が読めない思考の回廊。それが、悠宮梓という化物の正体だった。いや、正体の一部だった。悠宮梓の心の底もまた深く、冷たく、どこか残酷めいた考えを持つ人間なのだ。その考えは、司法を信頼するという考えには至らなかった。彼の考えは、『この国の司法』は信頼できず、また、『殺人』の罪は、罪であり、罪ではないというものだった。


「だから……彼女が……捕まらないように……して…………。護って…………あげて…………」

「で、でも!」声を張り上げる。本来なら、ここで口を挟むのは決して良くないことだ。相手はもう、すぐにこの世からいなくなってしまう。相手の遺言を最期まで口を挟まずに聞くべきだ。客観的に判断するなれば、そうなる。しかし、そういった客観的な判断を下せないほど、大川は疑問を抱いていた。

「おかしいだろ? 自分が殺された理由を聞きたいなら、刺されたすぐ後に携帯電話で救急車を呼べばよかった! そしたらお前は生き残って、そして怪我が治った後でゆっくり茜に刺した理由を聞けばいい! それでいいだろ!? 何がダメなんだ!?」

「…………」

 梓は一拍空けた後に、

「だってそれじゃ……茜は殺人未遂罪で……逮捕されちゃうから……!」

「は、はぁ!? で、でも、それだったらお前が自殺したということにしてやっぱり救急車を呼べば……」

「自殺を試みて、やっぱり怖くなって救急車に電話をする? ナイフについた指紋をすぐに完全に消し去る自信は無かったし、遺書もない。僕はこのナイフを見たことが無い。だから、警察がこのナイフの入手経路について、僕を尋問したとき、僕は完全な答えを用意することができない。そして極めつけはね、彼女さ、僕を刺した時に、足の部分にほんの少しだけ返り血を浴びたんだ」

「え……?」

梓の言葉に、口籠りや、つっかえが奇麗さっぱりなくなった。命の灯が、復活したのか? それとも、消える前のなんとやらとでもいうのか…………。

「僕が自殺未遂をしたとして、救急車を呼んだら、きっと様々なおかしい点に気付くだろう。自殺をしたってのに、僕の遺書の1文字すらないんだ。それに僕は……自分で言うのもなんだけど、それなりに満足な学校生活を送ってきた。僕が自殺するに値するであろう理由を、警察は見つけだすことは出来ない。そしてナイフの出所を僕が完全に説明できないとなれば……警察を違う考え方をするかもしれない」

――彼は、自殺をしたのではなく、刺した誰かを庇っているのではないか、と。

やはり、違うのだ。この男は、もはや我々と同じ側(サイド)に立っている人間ではない。

 見えている何かが、違う。


「悠宮梓が庇うとしたら誰?親友の君? いや、違う。君には、アリバイがある。今は僕が呼んだからこうして学校にいるけど、僕が呼ばなければ君は学校にいない。普通に帰途についてただろう。だとしたら? 2週間前、恋人同士になった鳳茜に目を向けると……思わないかい?」

「…………」

「そして、警察は今日、この日に何があったのか完全に調べ上げる。そして、殺害現場となった3-F教室の隣の3‐G教室では、鳳茜が会長を務める生徒会の会議があった」

実際に今、会議をしている。引き継ぎ作業中か。

「彼女は多少の返り血をおっている。その血の痕が生徒会室に残っているかもしれない。足の部分についたから、彼女が座っている椅子に微量についたかもしれない。彼女が膝をついて、その際血が、本当にわずかな血が生徒会室の床に付着してしまうかもしれない」

「…………」

言葉を失う。この男は、何を考えているんだ。

「この学校の床は、ジャラ・プライムフローリングという床だ。……赤茶色なんだよ……。床の色が……」

「そうか……! 万が一生徒会室に梓の血が付着してしまったら……」

「もし、3‐Fの教室が犯行現場だとバレちゃったら、警察は3‐Gで会議をしていた生徒会役員が犯人じゃないかと、何らかの形で必ず疑う。そして、今僕が言ったように、何か3‐Gに犯人に繋がる痕跡がないか、必ず鑑識を呼んで捜査をさせる。そこで僕の血が見つかってしまったら……アウトだ……。何しろ彼女、返り血対策、適当なんだもん。確かに足の部分にしか血がかからなかったけど、本当は足の部分にもかけちゃいけないんだよ……」

そう、彼女は返り血対策をしたと思いこんでいる。だから、自分が返り血を浴びているとは考えない。考えない可能性が極めて高い。生徒会室に、血痕を残す可能性もある。

「もし万が一、生徒会室に血痕が残っていたら……警察は必ず血痕を見つけだすよ……。警察は、馬鹿じゃない……」

これは梓の言う通りだった。もし万が一、生徒会室に血痕が残っているならば、それを警察は逃さない。では、もし万が一、生徒会室に血痕が残っているとして、警察の目を完全に欺く絶対的な方法とはなんだろう?

「だからお前……裏庭まで来たっていうのか!?」

警察の目を完全に欺く絶対的な方法、それは。

事件現場を完全に変えてしまえばいい。

「カメラで写真…………」

「は? 何?」

こちらが言っていることを完全に無視して梓が言った。いや、もしかしたらもう、耳が聞こえていないのかもしれない。

「僕の写真を……君の携帯電話で撮影して……」

「な、何を……?」

「早く」

有無を言わさぬ鋭い声だった。

意味もわからずポケットから携帯電話を取り出し、カメラを起動させる。

「僕が手を伸ばすから……」

と言うと、梓は右手を空にかざすようなポーズをとった。右手をできるだけ、天に伸ばす。まるで、空を掴みとろうとしているかのように。

「このポーズを、撮って…………」

 もう1回質問をしたかったがおそらく先ほどと同じやりとりになるだけだろう。質問をせず、難癖も着けずにただ黙って写真を撮る。

「撮ったぞ。で、これをどうする?」

「保存して」

「何……?」

 保存をする!? 梓の……死に際の画像を!? 一体なぜ!? 何のために!?

「役に立つ時が……くるから…………」

 人の死に際の写真が役に立つ時とは、一体どういう時だ……!?

 しかしこの数時間後。大川は梓が言っていたこの意味を理解することになる。

 

 その後、梓は大川に対し、指示をした。アリバイを作ること。曖昧なアリバイと、確固たる絶対的なアリバイの2つを作ること。そしてこのことは、今回起きた一連の出来事を、他人には絶対に話さないこと。この2つを、悠宮梓は命令した。

 大川優誠は、従うと約束した。しかし、梓に言われたこと以外のことを1つ、大川はしていた。おそらく、悠宮梓にとっては想定外のことだったかもしれない。

 大川は、現場からナイフを持ち去っていた。なぜそのナイフを持ち去ったのか。その時は、自分でもよくわからなかった。しかし、今こうして考えると、自分がなぜナイフを持ち去ったのか、その理由がよくわかる気がする。

 このナイフは、証なのだ。これから先、どのようなことが起ころうとも、鳳茜が悠宮梓をナイフで刺し、“殺した”ことの。

 悠宮梓が如何に天才であるにせよ、このナイフの指紋を完全に消せたとは思えない。いや、指紋はおそらく残っていない可能性もあるだろう。しかし、このナイフ自体が武器なのだ。指紋が残っていようがいまいが、このナイフは悠宮梓の持ち物ではない。それだけでもあの女を問い詰めることができる唯一無二の武器になる。見たところ、これは普通のナイフではなかった。探そうと思えばあるが、普通のホームセンターではどうも売っていないようなナイフだった。鳳茜の周辺、行動範囲を調べて行動圏内の店を徹底的に調べる?それとも、鳳茜が使用しているパソコンにウイルスを仕掛け、インターネットの使用履歴を洗い出すか?もしかしたらインターネット通販でこのナイフを購入したかもしれない。別に決定的な殺人の証拠でなくても構わないのだ。アイツが悠宮梓を殺した証の取っ掛かりが一つあればそれで充分。このナイフがあれば事足りる。そう思った。しかし、そんな心配は杞憂だった。

 なぜなら、鳳茜の下駄箱で、血の付いた上履きを見つけてしまったから。


 一体、この差はなんなのだろう、と思う。キリスト教の教えでは、『殺したいと思ったら、それはもうすでに殺したことと同じである』というものがある。もうすでにキリスト教の教えは信じていないが、その教えにあてはめるならば、自分は立派な殺人者だった。自分は、もうどうしようもないぐらい、鳳茜のことを憎んでいる。殺してやりたいぐらいに。悠宮梓は確かに例の事件以降、大川優誠にとって、命の恩人だった。それ以上に、親友でもあった。互いに認め合えることのできる、素晴らしい友人だった。命の恩人である期間よりも親友である期間の方が大きい。だから、命の恩人を殺されたことによる怒り、というよりも大切な親友を殺されたことによる怒り、の割合の方が圧倒的に大きかった。しかし、それは宗教的には“罪”なのだそうだ。しかしそれは、この世においての、この世界においての罪ではない。“殺したい”と思うことが罪であるなんて規定はこの国には存在しない。“殺し”は罪ではあるが、同時に憲法で思想の自由がこの国には認められているからだ。では、今回自分がしてしまったことは?完全な捜査のかく乱だ。証拠品を故意に隠し、親友の一人に脅迫まがいのメールを送った。それはこの国の法律で“罪”と規定されているものだ。宗教的にも、この社会を支配するシステム的にも。自分はいたく、立派な罪人だ。


 殺された被害者は許してやってくれと言っているのに親友を殺した殺人犯を殺したいほど憎んでいる人間と、自分を殺した人間にも関わらず、許してほしい、あまつさえ、捕まらないように全力を尽くしてくれと死に際に懇願する人間。どちらが正しい人間なのだろう。どちらがあるべき人間の姿なんだろう。そして。


 どこで差がついてしまったのだろう。環境?慢心の違い?


 これが、人間性の差というものなのだろうか。

 絶対に、自分はいい死に方はしないし、天国にも行けない。本気でそう思った。

 そう考えて、苦笑してしまう。まだ自分は、天国なんてものを信じているのかと。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る